ゴロー先生はアイアンチ   作:作者さん

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ルビーはアクアアンチ

 ルビーとアクアが三歳になり、同じ幼稚園の同じクラスに通い始めた頃の話だ。

 

 お絵描きやおもちゃで賑わう教室の中、周りの園児たちが「ママがねー」「パパがねー」と無邪気にはしゃぐ声が飛び交っている。そんな中、ルビーの視線は少し離れた席で、一人静かに過ごしている双子の兄――アクアに向いていた。

 

 最近のアクアは、五反田監督の紹介がきっかけなのか、小さなミニドラマや再現VTRの端役としてちょくちょく現場に呼ばれるようになっていた。

 世間一般から見れば「爆発的な人気子役」には到底程遠い。エキストラに毛が生えたような、セリフも数言の「小さく便利に使われるガキ」としての立ち位置だ。それでも、監督の指示に完璧に応える冷めた演技力だけはそれなりに重宝されているらしく、幼稚園に通う小さなカバンの中にも、大人から渡された次の撮影の台本が忍ばせられていた。

 

 家に帰れば相変わらず気だるげで、子供らしい愛想笑いも浮かべない。

 アイの隠し子であるという事実を隠すためのカモフラージュでもあるし、社長の壱護から「外ではミヤコを母親と呼べ」とキツく言い含められているため、送り迎えをしてくれるミヤコのことを「ミヤコ母さん」と呼ぶこと自体は、ルビーにも理解できる。

 だが、ミヤコには何の躊躇もなくそう呼んでみせるというのに、肝心の本当の母親であるアイのことは、いつまで経っても「ママ」とは言わず、あまつさえ「アイ」と呼び捨てにするのだ。

 その歪な距離感が、ルビーにはどうにも納得がいかなかった。

 

 カラフルな積み木や絵本が散らかる部屋の隅で、一人静かに小さな台本をめくっている兄の背中を見つめながら、ルビーは不満げに頬を膨らませ、ぽつりと呟くのだった。

 

「……いくらなんでも、産んでくれた母親を呼び捨てにするなんてどうかしてるよね」

 

 あんな冷めた目をして、まるでアイのアンチみたいだ。

 アイドルの子として生まれ変われるなんて、奇跡みたいな特等席を手に入れたというのに。なぜ素直にアイの眩しさを愛でることができないのか。

 

 不満げに鼻を鳴らしながらアクアの後ろ姿を眺めていると、ルビーの頭の中に、ふと前世の記憶が鮮やかによみがえってきた。

 

(……同じアンチでも、せんせーは全然違ったのに)

 

 かつて「天童寺さりな」だった頃。病院の無機質な病室で過ごしていた彼女の元に、初めて『B小町』のライブDVDが届いた日のことだ。

 

 擦り切れるほど再生して、画面の中で眩しく輝くセンターの女の子――アイに一瞬で心を奪われたさりなは、回診にやってきた担当医の雨宮吾郎を捕まえて、息も絶え絶えに熱弁を振るった。

 アイがいかに完璧で、どれほど可愛くて、世界で一番素晴らしい存在かを、ベッドの上で身を乗り出し、目を輝かせて語り尽くしたのだ。

 

 普段は大人びて静かなさりなが、見たこともない熱量で喋り倒す姿に、吾郎は最初は目を丸くして驚いていた。だが、話が一区切りつく頃になると、彼はあごに手を当てて、どこか意地悪そうな顔でぽつりと呟いたのだ。

 

『でもさ、アイってちょっとカメラ意識しすぎててさ。ダンスのキレ自体は、後ろで踊ってる他の子の方が上なんじゃないか?』

 

 ほんの軽口。大人の、少し斜に構えた現実的なツッコミ。

 だけど、大好きなアイドルを軽く否定されたさりなは黙っていられなかった。

 

『そんなことないっ! アイちゃんはね、魅せ方が完璧なの! 自分の角度を一番分かってるから、あえて力を抜いて可愛く見せてるんだよ!』

 

 顔を真っ赤にしてむきになり、身振り手振りを交えて全力で反論するさりな。

 すると吾郎は、眉を少し下げて降参するように手を上げると、ふっと目元を和らげて嬉しそうに笑ったのだ。

 

『はは、まぁ、そうかもな』

 

 その笑顔は暖かく、柔らかかった。

 幼いさりなにも、なんとなく分かっていたのだ。せんせーは本気でアイを嫌っていたわけでも、意悪で言っていたわけでもない。病室でしおれていた自分が、顔を赤くして元気いっぱいに喋っている――ただそれだけのことが、せんせーにとっては嬉しくてたまらなかったのだということを。

 

 あの日から、せんせーは私が熱心に語れるように、わざと「言い返す余地のある絶妙なアンチ」を演じてくれるようになったのだ。

 

 私がアイの素晴らしさを説くために、彼もまた熱心にアイの映像を観て、わざわざ粗探しをしてきてくれる。そうして互いにアイの良さや少しの欠点を言い合えるそのやり取りは、白くて無機質な病室の中で、私にとって何よりもあたたかく、心地よいコミュニケーションだった。

 

 それに比べて――今、部屋の隅で一人台本をめくっているアクアの態度はなんだろう。

 

 彼が時折見せるアイへの冷たい視線や皮肉には、誰かと熱を交わそうとする意思がすっぽりと欠け落ちている。

まるで、SNSの誰にも教えない裏アカウントに引きこもって、一人寂しく「アンチ活動の壁打ち」を続けているかのようだ、とルビーは思う。

 

 誰かに「違うよ」と言い返してほしいわけでも、アンチとしての共感を求めているわけでもない。ただ虚空に向かって、ぶつけるあてのない感情を淡々と投げ続けているような、奇妙な空虚さ。

 せんせーの不器用な優しさに比べて、アクアの態度はただ冷たくて、一人ぼっちだ。

 ルビーはふいっとアクアから目を逸らすと、「やっぱりむかつく」と小さく唇を尖らせた。

 

 

 それから数日後、幼稚園で大きなニュースが発表された。今度のお遊戯会で、クラス全員で音楽に合わせてダンスをすることになったのだ。

 

 教室中が園児たちの歓声に包まれる中、ルビーだけは、顔を青くしてその場に立ち尽くしていた。

 

(ダンス……?)

 

 その言葉を聞いた瞬間、彼女の精神は、今の健康な3歳児の身体を抜け出し、前世の――白い病室に閉じ込められていた「天童寺さりな」の頃へと引き戻された。

 

 リハビリで歩こうとして、何度も、何度も床に倒れ込み、這いつくばった。天井を見上げながら、汗と涙まみれになって、思い通りに動かない自分の身体に絶望した、あの記憶。硬くて冷たいリハビリ室の床の感触が、今も、足の裏に張り付いているかのように生々しく蘇る。

 

 心臓が早鐘を打つ。

 今の身体は健康だ。それは、頭では分かっている。だけど、心に深く刻まれた「私は動けない」という呪縛は、そう簡単に解けるものじゃなかった。

 

 私に運動なんてできる気がしない。ダンスなんて、絶対に無理だ。

 

 その日の夜。

 苺プロダクションの自宅リビングで、ルビーはソファの隅に蹲り、ぬいぐるみを強く抱きしめていた。

 

 アイも、壱護も、そしてミヤコも。今のルビーが、かつての「さりな」とは違う、五体満足で健康すぎるほどの幼児であることを、微塵も疑っていない。アイにいたっては「ルビーならセンター間違いなしだね!」と、無邪気な期待さえ寄せている。

 彼女たちが向ける純粋な信頼が、今のルビーには、何よりも重いプレッシャーだった。自分の恐怖を話したところで、理解してもらえるはずがないと思い込んでしまっていた。

 

「……ねぇ、アクア」

 

 ルビーは意を決して、隣で気だるげに台本をめくっていた双子の兄の袖を、小さく引いた。アクアは台本を閉じず、けれど視線だけを妹に向けた。

 

「なんだ」

 

「私……お遊戯会のダンス、絶対にできない」

 

 幼児の口から出るには、あまりにも暗く、切実な響きを含んだ告白だった。

 アクアは、台本をめくる手を止めた。彼は、ルビーが抱える前世のトラウマの正体までは知らない。けれど、彼女が単なる怠慢やわがままで言っているのではないことくらいは、その悲壮な表情を見れば分かった。

 

 アクアは台本を閉じ、ソファに深く背を預けた。そして、前世で医師として幾多の患者の身体と向き合ってきた時のような、ひどく冷徹で、客観的な眼差しをルビーに向けた。

 

「お前の今の身体は、身体機能的にも、発達段階的にも、何の問題もない健康体そのものだ。アイや社長の健康管理も行き届いている。お遊戯のダンスごときで身体が動かなくなる道理はない。だからルビーならできると思うぞ」

 

 それは、励ましの言葉ではなかった。

 ただのカルテに書かれたデータを読み上げるかのような、フラットで事実のみを並べた意見だった。

 

 正論をぶつけられたルビーの心に、ぐらりと黒い感情が湧き上がった。

 

 今の自分が健康だなんて、そんなこと自分が一番よく分かっている。分かっているのに、心がすくんで動かないから怖いのだ。データや理屈では割り切れない恐怖が足に絡みついているのに、まるで他人事のように事実だけを言い放つアクアの冷たさが、たまらなく悔しかった。

 

「簡単に言わないでよっ!」

 

 気づけば、ルビーは声を荒らげていた。両手で抱えていたぬいぐるみを強く握りしめ、ぽろぽろと涙をこぼしそうになるのを必死に堪えながら、双子の兄を睨みつける。

 

「アクアにはわかんないよ! 頭でわかってても、動けなくなるのが……転ぶのが、どれだけ怖いか!」

 

 それは三歳児のわがままの皮を被った、前世から抱え続けてきた悲痛な叫びだった。怒られるか、あるいは「めんどくさい奴だ」と呆れられるか。ルビーはきゅっと肩をすくめて身構えた。

 

 しかし――。

 

「……」

 

 アクアは怒りもせず、大きなため息をついて呆れることもなかった。

 荒ぶるルビーの感情の波を、ただ凪いだ海のように平坦に、静かに受け止めていた。まるで、理不尽な恐怖に泣き叫ぶ患者の姿を、決して否定せずに受け入れる医者のように。

 

 やがてアクアは、ゆっくりとソファから立ち上がった。

 

「だけど、やるしかないだろ」

 

 淡々とした声のまま、彼はルビーの目の前に歩み寄り、自身の小さな手をすっと差し出した。

 

「ほら、やってみようぜ」

 

 その顔に同情の色はない。ただ、「お前ならできる」という先ほどの客観的な評価だけをそのまま行動に移したかのような、有無を言わさぬ頼もしさがそこにはあった。差し出されたその手は、ルビーの恐怖を一緒に引き受けてくれるような、不思議な引力を持っていた。

 

 ルビーは戸惑いながらも、差し出されたその小さな手を恐る恐る握り返した。

 

――

 

 二人が向かったのは、物が少なく広々と使えるリビングの中央だ。アクアは手慣れた様子でスマートフォンを操作し、見慣れた楽曲のイントロをスピーカーから薄く流し始めた。

 

「曲はB小町の『サインはB』でいいよな。デュオ編成のフォーメーションでやるから、お前はアイのセンターポジションをやれ」

 

「え……アクアって、ママたちの曲踊れるの?」

 

 思わず目を丸くして尋ねるルビーに、アクアはスマホから目を離さないまま、事もなげに言った。

 

「一通りはできるぞ。ここ数年の新しいのは無理だけどな」

 

 まるで当然のことのようにさらりと告げられた言葉に、ルビーはますます絶句した。

 立ち位置からフォーメーションの動きまで、アクアの頭の中には初期のB小町のダンスのすべてが完全にインプットされているようだった。

 

「……ねえ」

 

 ルビーは訝しげに目を細め、ジト目で双子の兄を見つめた。

 

「ママのこと『アイ』って呼び捨てにするし、アンチのくせになんでママたちの曲のダンスを完璧に踊れるわけ……?」

 

「……色々あってな」

 

 言葉少なに誤魔化すアクアだったが、その内心では盛大に頭を抱えていた。

 

(前世でアイ論争――という名のアンチ活動――をするためだけに、夜な夜な映像をスロー再生して全曲の振り付けを完コピし、粗探しをしていたなんて、死んでも言えるわけがない……っ!)

 

 病室のベッドでむきになる少女を相手に、いかに論理的かつ的確にアイのダンスの隙を突くか。ただそれだけのために注ぎ込んだ、大の大人の異常なまでの情熱。少女が死んだ以降もある程度はできるようにしていたから習慣というのは恐ろしい。

 

(どうして俺はあんな無駄なことに全力になっていたんだ……)

 

 かつての己の奇行を思い出し、アクアは内心で深く自虐した。

 だが皮肉なことに、「身体の動かし方を極限まで分析し、自分の身体で正確に再現する」という当時の無駄な努力が、今の子役としての仕事――監督の指示通り身体を制御する演技――にモロに活きてしまっているのだから、世の中分からない。完全に棚からぼた餅である。

 

「ほら、ぼーっとするな。曲が始まるぞ」

 

 己の恥ずかしい過去を振り払うように、アクアはわざとぶっきらぼうな声を出して、ルビーに立ち位置へつくよう促した。

 

 ポップで明るいイントロがスピーカーから弾けるように流れ出した。

 ルビーは意を決して息を吸い込み、リズムに合わせて小さな足を踏み出した。

 

 しかし――次の振り付けへと移行しようと体重を移動させた瞬間、ルビーの脳内に、けたたましい警報が鳴り響いた。

 

(あ、転ぶ……!)

 

 今の健康な脚力なら、間違いなく踏みとどまれるはずの重心。それなのに、前世の病室で何度も何度も味わった「動かない身体」の記憶が、現在の健康な肉体の感覚をあっさりと凌駕してしまう。

 

 転倒への恐怖に支配されたルビーの身体は、次のステップを踏み出す代わりに、無意識のうちに床への激突に備えようとした。首を引き、肩をすくめ、自分から受け身を取るように身体を丸めてしまう。

 当然、そんな不自然な動きをすれば、保てていたはずのバランスは完全に崩れる。

 

「あっ……」

 

 景色が傾く。ルビーはギュッと目を瞑り、かつて何度も味わった、あの硬くて冷たいリハビリ室の床の痛みと絶望を覚悟した。

 

 ――だが。

 予想していた衝撃は、いつまで経っても訪れなかった。

 

「……っ」

 

 ぐいっ、と。小さな腕がルビーの胴体を下から力強くホールドし、その落下を空中でピタリと止めていた。

 

 恐る恐る目を開けると、すぐ目の前にアクアの顔があった。彼はルビーを抱き留めると彼女の身体を引き起こした。

 

「……もう一回だ」

 

 アクアは転んだ理由を問いただすこともなく、ただ一言そう言って、再び音楽の頭出しをした。

 

「……う、うん」

 

 ルビーは小さく頷き、再び所定の位置につく。しかし、二回目も、三回目も、結果は同じだった。

 

 右へステップを踏む。ターンをする。少しでも重心が揺れるたび、ルビーの心は一瞬にしてあの病室へと引き戻される。

 怖い。転ぶのが怖い。自分の身体が言うことを聞かなくなるのが、たまらなく怖い。

 

 動かなければならないと頭で分かっていても、反射的にビクッと身をすくませて自らバランスを崩してしまう。

 しかし、何度倒れ込んでも、その度にアクアの手が必ず伸びてきた。ルビーの身体が床に叩きつけられるよりも早く、背中を、腕を、腰を、小さな両手でしっかりと受け止める。

 

 底抜けに明るいアイドルソングが響くリビングの中、ルビーは恐怖に身体を強張らせ、アクアは無言で妹を庇い続ける。そのいびつな反復行動が、何度も繰り返されていた。

 

 五回、六回……いや、もう十回以上は倒れかけただろうか。

 

 またしてもステップの途中で足がすくみ、ルビーの身体が前へと不自然にのめり込む。そしてやはり、ドンッと床に叩きつけられるよりも早く、アクアの腕が彼女をしっかりと抱き留めた。

 

「……っ」

 

 引き起こされたルビーの視界が、ふいにぐにゃりと歪んだ。

 ぼろっ、と。大きな瞳から大粒の涙が溢れ落ち、ぽつぽつとリビングの床を濡らしていく。

 

 情けなかった。

 こんなにも健康で自由な身体。憧れのアイと同じように歌って踊れるはずの、奇跡みたいな特等席。それなのに、過去の幻影に縛られてまともに一歩も踏み出せない自分が、たまらなく惨めで、不甲斐なかった。

 

 しかも、そんな情けない自分を何度も何度も無言で助け起こしてくれているのは、アイのアンチで、いつも冷めた顔をしている憎たらしい双子の兄なのだ。

 彼は何も言わない。ただ淡々と、壊れ物を扱うように自分を受け止めては、無表情のまま立たせてくる。その優しさが、かえってルビーの惨めさを激しく浮き彫りにした。

 

(なんで……なんで私、こんなにダメダメなの……っ)

 

 アクアの顔をまともに見られず、ルビーは俯いたままギュッと唇を噛み締めた。

 彼の目には今、自分がどんなに滑稽で不格好な生き物に映っているだろう。きっと頭の中では「やっぱり口だけじゃないか」と、あの冷たい目で嘲笑っているに違いない。

 そう思い込んだ瞬間、ルビーの中で張り詰めていた感情の糸が、プツンと音を立てて千切れた。

 

「……っ、笑わないでよっ!!」

 

 ルビーの悲痛な叫び声がリビングに響いた。

 

 自分でも理不尽だと分かっている。アクアはただの一度も、ルビーを馬鹿にするような言葉など口にしていない。ため息一つすらついていないのだ。

 それでも、込み上げてくる自己嫌悪のやり場が見つからなくて、ルビーは顔をくしゃくしゃに濡らしながら、何も言わずに立っている兄に向かって泣き叫ぶことしかできなかった。

 

 泣きじゃくるルビーの悲痛な声が響き渡った後、リビングにふっと不自然な静寂が落ちた。

 

 怒鳴られるか、それとも鼻で笑われるか。ルビーはギュッと目を瞑り、どんな冷たい言葉が降ってくるかと身構えた。

 しかし、頭上から降ってきたのは、拍子抜けするほど平坦で、静かな声だった。

 

「……何も言ってないだろ」

 

 おずおずと顔を上げると、そこにはいつも通りの、気だるげな顔をしたアクアが立っていた。嘲笑うでも、呆れるでもない。ただ、目の前の事実をそのまま受け止めているような、凪いだ瞳。

 

「だけど……っ、アクア、絶対心のなかで馬鹿にして……」

「してない」

 

 食ってかかろうとするルビーの言葉を、アクアは短い言葉でピシャリと遮った。

 そして、涙でぐしゃぐしゃになった妹の顔をまっすぐに見つめ返し、ぽつりと告げた。

 

「……頑張ってるって分かってる奴を笑うほど、俺はクズにはなれない」

 

 抑揚のない、いつもの淡々とした声。だが、その響きの底には嘘偽りのない、どっしりとした誠実さが滲んでいた。

 

 前世で医者として、必死にリハビリに食らいつく患者たちを数え切れないほど見てきた彼だからこそ分かるのだ。彼女がただサボっているわけでも、甘えているわけでもないということが。

 己の身体に染み付いた得体の知れない恐怖と闘いながら、それでも歯を食いしばって前に出ようとしている目の前の小さな妹を、笑うことなど彼にできるはずがなかった。

 

 アクアのあまりにも真っ直ぐで誠実な言葉に、ルビーは不意に声を詰まらせた。

 

 ポロポロとこぼれていた涙が止まり、しゃくりあげる肩の震えだけが残る。彼の静かな眼差しの中に、微塵の嘘もないとわかってしまったからだ。

 けれど、だからこそ、どうしても引っかかっている一つの不満が口をついて出た。

 

「……ママのことは、いつもアンチするくせに」

 

 鼻をすすり、涙声のままジト目を向けるルビー。

 その真っ当すぎる指摘に、アクアは図星を突かれたようにビクッと肩を揺らし、露骨に気まずそうに視線を泳がせた。

 

「……それを言われると痛いが……」

 

 前世から引き継いだ己の特大の矛盾を突きつけられ、珍しく言葉に詰まるアクア。

 だが、彼はすぐに小さく息を吐いて気を取り直すと、再びルビーの赤く潤んだ瞳を真っ直ぐに見据えた。

 

「だけど」

 

 紡がれた声は、いつものように平坦だった。けれど、その響きの奥には、揺るぎない確信のような静かな熱がこもっていた。

 

「ルビーは、アイの娘だろ。だからきっとできるよ」

 

 アクアの言葉に、ルビーは目を丸くして瞬きを繰り返した。

 

 『あのアイの娘』。いつもママに冷たい態度をとっていたアクアの口から、そんなにも強い信頼と確信に満ちた言葉が出てくるとは思わなかった。けれど、飾らないその真っ直ぐな響きは、不思議なほどすんなりとルビーの心の奥底に染み込んでいった。

 

(……そうだ。今の私は、大好きなママの娘なんだ)

 

 あの真っ白な病室で、少し動くだけで痛みに耐えていた『さりな』ではない。アイドルとして輝くために生まれてきたような、無敵のアイの血を引いているのだ。

 

 それに――と、ルビーは目の前に立つ小さな兄を見上げた。

 今日、十回以上もバランスを崩して倒れかけた。けれど、一度だって痛い思いはしていない。アクアは絶対に私を床に落とさなかった。私がどれだけ不格好に転ぼうとしても、前世のトラウマに怯えて身をすくませても、彼は必ずその腕で抱き留めてくれた。

 

(なら、もう怖がる必要なんてないじゃない)

 

 転んだって、絶対にこの憎たらしくて優しい兄が受け止めてくれる。

 その絶対的な安心感が、ルビーの足元に絡みついていた恐怖の鎖を断ち切った。前世の冷たくて硬い床の記憶を、今世の不器用な兄の温もりが鮮やかに塗り替えていく。強張っていた筋肉から、ふっと余計な力が抜けた。

 

「……もう一回」

 

 ルビーは手の甲で乱暴に涙を拭うと、きゅっと口角を上げて笑った。その瞳にはもう、先ほどの怯えた色は欠片も残っていない。

 

「もう一回、曲かけて。アクア」

 

 イントロの軽快なメロディが再びリビングに響き渡る。

 

 はじめのうちは、まだどこか足元におぼつかなさが残っていた。重心移動のたびに「転ぶかもしれない」という前世の影が脳裏をよぎり、わずかに動きが硬くなる。

 

 けれど、今度は違った。

 一瞬バランスが崩れそうになっても、目の前にはいつでも手を伸ばせる距離にアクアがいる。もし倒れたとしても、彼は絶対に自分を床に叩きつけたりしないという揺るぎない事実が、ルビーの心をどっしりと支えていた。

 

(……大丈夫。アクアがいるから、転んだって怖くない!)

 

 頭ではなく、身体がその安心感を理解した瞬間、ルビーを長年縛り続けていたトラウマの鎖が、音を立てて弾け飛んだ。

 

 そこからの変化は、劇的だった。

 

 恐る恐るだったステップに力が宿り、軸がしっかりとブレなくなる。

 恐怖によって押し殺されていた、今世の「健康でしなやかな肉体」という圧倒的なポテンシャルが、一気に解き放たれていく。

 

 腕を伸ばす速度、脚を蹴り出す力強さ、首の振り方――その一つひとつの動作に、みるみるうちに鋭いキレが生まれ始めた。

 天性の華やかさと、アイから受け継いだ魅せるための天賦の才能。それらが爆発的なエネルギーとなって、小さな三歳児の身体からあふれ出していく。

 

 隣で同じ振り付けを踊っていたアクアの目が、驚きに大きく見開かれた。

 

(なんだ、このキレは……。)

 

 先ほどまで怯えて縮こまっていたのが嘘のように、ルビーのダンスは躍動していた。

 ただ振り付けをなぞるだけじゃない。リズムの隙間にビシッとハマる完璧な音取り、見る者を一瞬で引きつける天真爛漫な笑顔。前世で病床から穴が開くほどアイのダンスを観察し、頭の中で何千回、何万回とシミュレーションし続けてきたルビーの情熱が、今、最高の肉体を得て完璧に結実しようとしていた。

 

 サビへ向かって楽曲が高まりを見せる。

 回転とターン。以前のルビーなら、間違いなく恐怖で身をすくませて自爆していたであろう高難度のシークエンスだ。

 

 けれどルビーは、一切の躊躇なく床を強く蹴り上げた。

 くるりと軽やかに視界が回り、髪が空中で弾ける。

 

 ピタッと、完璧な軸で着地。グラつきすら一切ない。

 

 そのままクライマックスのフレーズを駆け抜け、二人は最後の決めポーズへと向かって躍動する。指先まで神経の通った、完璧なアイの決めポーズ。

 

――ジャーンッ!

 

 曲の最後の音が、リビングの空間に余韻を残して弾けた。

 

「…………っ!」

 

 静寂が訪れる。

 ルビーは決めポーズの姿勢のまま、ハァハァと肩で荒い息をついていた。

 

 転ばなかった。

 一度もバランスを崩さず、一度もアクアの手を借りることなく、一曲まるまるすべての振り付けを踊り切ったのだ。

 

 足の裏に伝わるのは、リハビリ室の冷たくて硬い感触ではない。

 自分自身の足でしっかりと立ち、自分の意思で踊り切ったという、あたたかく誇らしい踏みしめの感触だった。

 

「……見た!? アクアっ!」

 

 ルビーは弾けたような笑顔を咲かせ、勢いよく双子の兄へと振り返った。その瞳には、かつて病室のベッドの上で輝かせていた以上の、眩いばかりの光が宿っていた。

 

「できたっ!」

 

 弾けたような満面の笑みを浮かべ、ルビーは両手をごろんと高く突き上げた。

 そして次の瞬間、彼女は背後で静かに見守っていたアクアへ向かって、一切の躊躇なく、わざとコロンと後ろ向きに倒れ込んだ。

 

「おわっ!?」

 

 ダンス中のよろめきとは違う、完全に意図的なタイミングでの無防備な「落下」。

 それは、絶対にこの兄が受け止めてくれるという、ルビーからの絶対的な信頼の証明だった。

 不意を突かれたアクアは素頓狂な声を上げ、慌てて両手を伸ばす。ドンッとルビーの背中をしっかりとキャッチした――ところまでは良かったのだが。

 

「ちょっ、おま――っ!」

 

 勢いよく全体重を預けてきた妹の質量を支え切るには、今のアクアの『三歳児の腕力と体幹』はあまりにも非力すぎた。

 バランスを崩したアクアの足がもつれ、二人の身体がぐらりと傾く。

 

 どんっ! と、鈍い音がリビングに響いた。

 結局、アクアはルビーの重みに耐えきれず尻餅をつき、二人仲良くもつれ合うようにして床へ転がり込んでしまった。

 

「いっつ……」

 

 床に背中と腰をぶつけ、アクアが顔をしかめて呻き声を上げる。上に重なるように倒れたルビーも、少しだけ痛そうに目をすがめた。

 しかし、床の上で呆れたように自分を見下ろしている兄のしかめっ面を見た瞬間、ルビーの口から堪えきれないような笑い声が吹き出した。

 

「あははっ! アクア、どんくさーい!」

 

「……お前なぁ。突然倒れかかってくるバカがいるか。マジで危ないだろ」

 

 アクアは大きなため息をつきながら文句を言ったが、その声にいつものような突き放す冷たさはない。

 自分の身体を完全に預けきる――それほどの無茶な信頼を向けられたことが、内心ではそれほど嫌でもなかったのだろう。文句を言いながらもルビーの頭から手を離さないアクアの口元は、ほんのわずかだが柔らかく綻んでいた。

 

 少しだけ痛む身体と、呆れ顔の優しい兄。

 前世のトラウマがこびりついていた冷たい床は、今や二人で転がり合って笑い合える、最高にあたたかな場所へと変わっていた。

 

 床に背中を預けたまま、二人はしばらくの間、荒くなった呼吸を静かに整えていた。トラウマの象徴だったはずの硬いフローリングが、今は不思議と心地いい。

 

 その姿勢のまま、ルビーはふと天井を見つめて、ぽつりと隣に寝転がる双子の兄に問いかけた。

 

「ねえ、アクア」

 

「なんだ」

 

「アクアはさ……役者になるの?」

 

 唐突な問いに、アクアは隣で小さく瞬きをした。

 ルビーは首だけをコロンと転がして、アクアの顔を見つめた。

 

「だって、アクアから『子役の仕事したい』なんて言い出したの、すっごく珍しいなって思ってさ」

 

 いつだって一歩引いて、周囲を斜めから観察しているような彼が、自分から表舞台に立つ仕事を選ぶなんて。ルビーにとっては少しばかり意外な出来事だったのだ。

 

 アクアはすぐには答えなかった。

 じっと天井のライトを眺めるように少しの間沈黙し、やがて短く息を吐き出す。

 

「……さあな。分からない」

 

 それは誤魔化しでもない、嘘のない素直な声だった。

 役者になりたいという確固たる夢や情熱が、今の彼にあるわけではない。アクアは視線を天井に向けたまま、静かに言葉を紡ぎ始めた。

 

「最初は、ただの気晴らしのつもりだったんだ。毎日家に引きこもって、同じ景色ばかり見てるのも息が詰まるしな」

 

 前世の大人としての自我を抱えたまま、三歳児として過ごす鬱屈とした日々。そこから少しでも意識を逸らすための、単なる暇つぶし――その程度の認識だった。

 だが、と。アクアはわずかに目を細める。

 

「でも……演じてみるのは、案外悪くない」

 

「……楽しいの?」

 

「純粋に『楽しい』とは、少し違うかもしれないが」

 

 アクアは自分の内にある感覚を正確な言葉にするため、少しだけ考えるように間を置き、淡々とした口調のまま続けた。

 

「カメラの前に立った時、監督が今、どんな画を求めているのかを読み取るんだ。台本の行間や、現場の空気、監督の視線やちょっとした指示のニュアンス。それらを全部計算して、パズルのピースを嵌めるように自分の動きや表情を調整していく」

 

 それは、かつて医者として患者の些細なサインを読み取り、最適な処置を導き出していた時の感覚にもどこか似ていた。

 

「そうやって自分の中で弾き出した正解が、監督の意図と完璧に一致した瞬間――現場の空気が、カチッと音を立てるようにハマる感覚があるんだ。……それは、それなりに面白い」

 

 決して「お芝居が大好きだ」というような、真っ直ぐで無邪気な情熱ではない。

 ひどく理屈っぽくて、およそ三歳児らしからぬ可愛げのない理由。けれど、そう語るアクアの横顔には、普段の気だるげで冷めた表情とは違う、確かな熱のようなものが静かに宿っていた。

 

 静かに語り終えたアクアは、今度は隣に寝転がるルビーの方へと顔を向けた。

 

「お前は?」

 

 その短い問いかけに、ルビーはえへへと照れくさそうに笑い、天井に向かって小さな両手を伸ばした。

 

「私はね、ママみたいなアイドルになりたい」

 

 空中の見えない何かを掴むように、その指先をゆっくりと動かす。

 

「ママみたいに可愛い歌を歌って、カッコいい衣装を着てさ。大きなステージで、いーっぱいのお客さんに喜んでもらって……そういう、キラキラしたアイドルになりたいな」

 

 それは、前世で病室のテレビ越しにずっと夢見ていた、絶対に手が届かないと思っていた眩しい世界。けれど今の健康な身体と、あのダンスを踊り切れた今の自分なら、きっと思い切り飛び込んでいけるはずだ。

 

 ルビーは伸ばしていた手を下ろし、コロンと首を転がして再びアクアを見つめた。

 

「ねぇ、アクアは……私がアイドルになれるって思う?」

 

 期待と、ほんの少しの不安が入り混じった上目遣い。

 アクアはそんな妹の顔をじっと見つめ返し、先ほど自分の演技について語った時と同じような、ひどく客観的で冷静な評価を脳内で導き出した。

 

 顔の造形は申し分ない。なにせあの絶対的なアイドル・アイの遺伝子を色濃く受け継いでいるのだ。先ほどのダンスで見せた表現力や、パッと目を惹きつけるオーラも間違いなく本物だった。

 

「ルビーの容姿なら、アイドルとしての適性は十分すぎるほどある。さっきのダンスを見ても、身体の使い方も表情の作り方も文句なしだ。……ただ」

 

「ただ?」

 

 身を乗り出すように問い返してきたルビーに対し、アクアはふと視線を逸らし、気まずそうに言葉を濁した。

 

「歌は……歌は、まぁ……」

 

 アクアの脳裏にありありと蘇ってきたのは、つい数日前の幼稚園での出来事である。

 お歌の時間、元気いっぱいに口を開けて歌う園児たちの中で、一人だけ狂ったチューナーのように絶望的な音痴を轟かせていた妹の姿。引率の保育士がわずかに引きつった笑顔を浮かべていたのを、斜め後ろから見ていたアクアは決して見逃していなかった。

 

「……うん、まぁ。その辺は、これからの努力次第というか……」

 

 嘘がつけず、ひどく歯切れの悪いフォローを入れるアクアの態度に、ルビーはすべてを察した。

 

「あー、ひどーい!」

 

 ルビーは頬を膨らませて抗議の声を上げたが、そこに怒りの色はまったくなかった。むしろ、客観的な事実を突きつけられて露骨に目を泳がせている不器用な兄の姿がおかしくてたまらず、すぐに「くすくす」と楽しげな笑い声をこぼし始めた。

 

「他の曲も踊ってみよっと!」

 

 ルビーは弾んだ声で言うと、ひょいっと立ち上がってスマートフォンを操作し、別のB小町の楽曲を流し始めた。

 アップテンポなイントロがリビングに響き渡る。トラウマから完全に解放されたルビーは、まるで水を得た魚のように、満面の笑みで軽やかにステップを踏み始めた。もう、足元がもつれる気配は微塵もない。

 

 アクアは床に寝転がったまま、楽しげに舞い踊る妹の小さな背中を静かに眺めていた。

 天真爛漫なその姿を見つめながら、先ほどの自分の言葉が、ふと脳裏をよぎる。

 

『ルビーは、あのアイの娘だろ』

 

 それは紛れもない本音だった。ルビーの踊りには人を惹きつける華があり、確かにあの眩しいアイの血を引いているのだと実感させる煌めきがあった。

 けれど――無意識のうちに口をついて出たその言葉には、ある残酷な意味が内包されているような気がしてならなかった。

 

 『ルビーは』アイの娘だ。

 そこに、『俺』は入っていない。

 

 前世である雨宮吾郎の記憶と自我を色濃く残しているアクアは、どうしても普通の幼児として振る舞うことができなかった。アイからどれだけ底抜けの愛情を向けられても、どこかでかつてのファンとしての目線や、主治医としての庇護欲が混ざり込んでしまう。彼女をただ純粋に「母親」として慕い、子どものように無邪気に甘えることが、どうしてもできないのだ。

 

(純粋に彼女を母親だと思えない俺は……アイにとって、一体何者なんだろうな)

 

 ルビーのように、何もかもを委ねて信じ切ることができない自分。アイの愛情を、どこか一歩引いた場所から冷静に分析してしまう自分。そんな得体の知れない大人の自我を持った存在が、彼女のそばに「息子」として居座り続けていいのだろうか。

 

 リビングいっぱいに響く底抜けに明るい歌声と、アイの生き写しのように眩しく踊るルビーの姿。

 そのあたたかな光を床から見上げながら、アクアは己の輪郭だけがひどく曖昧にぼやけていくような孤立感を覚えつつ、答えの出ない問いを静かに胸の奥底へと沈めた。

 

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