ゴロー先生はアイアンチ 作:作者さん
こうなるだろう、と心のどこかで考えていた。それはアクアとして生まれた瞬間ではない。
雨宮吾郎として生きていて、彼女と接していたその最中で頭によぎり続けていたものだった。
――
リョースケの荒い足音が廊下に遠ざかり、玄関の扉が重く閉まる音が響いた。
その瞬間、糸が切れたようにアイの膝が折れる。
ドサリ、と鈍い音がして、彼女の華奢な体が床へと崩れ落ちた。白地に鮮やかな刺繍の入った部屋着が、あっという間に深い赤黒い血に染まっていく。床のフローリングを滑り落ちる赤黒いな血液が、粘り気のある音を立ててアクアの足元へと広がってきた。
(──な、んだ、これ)
視界が歪む。心臓が肋骨を突き破らんばかりに暴走し、喉の奥がカラカラに干からびた。
目の前で繰り広げられたあまりに唐突な暴力。腹部を深々と刺され、溢れ出る血の匂い。前世で医師として幾度となく死に立ち会ってきた雨宮吾郎の記憶があっても、いま目の前に倒れているのは誰でもない「星野アイ」だ。自分の母であり、憧憬であり、この歪んだ二度目の人生で大きな比率を占めていた彼女が、呆気なく肉の塊へと変わりつつある。
視界の端が明滅し、指先が激しく震えた。恐怖と焦燥が脳のキャパシティをあっさりと超え、意識が白濁しかけた──その、崩壊の直前。
脳裏の底から、冷ややかな声が落ちてきた。
『何に驚いている?』
それは心の最も深い場所に澱のように溜め込んでいた歪んだ諦念だった。
──星野アイという、嘘と虚構で塗り固められた絶世のアイドルの子供。
そんな自分たちが、平穏な温もりの中で最後まで幸せになれるはずがない。
この世界は、最初から自分たちにハッピーエンドなど用意していなかったのだ。いつか破綻する。いつか致命的な対価を支払わされる。いつか、すべてが奪われる。
その暗い呪いのような前提が、パニックを起こしかけていたアクアの脳内に急速なセーフティネットとして機能した。
(……そうだ。最初から、分かっていたことじゃないか)
ドクン、と胸の暴走が一段落する。激しかった動揺が、急速に凍りついていく。
過剰なショックから自己の精神を守るために作動した強烈な自己防衛──冷酷なまでの客観性が、アクアの感情を綺麗に切り離した。視界の明滅が収まり、周囲の色彩が一気に鮮明さを取り戻す。
アイの荒い呼吸の音。
血が床の隙間に吸い込まれていく微細な音。
空気中に充満する強い鉄の臭い。
狂おしいほどの焦燥の渦の中から、アクアの思考は狂気的なまでにクリアに、研ぎ澄まされていった。
小さな手でポケットからスマホを抜き出し、迷いなく119番をタップする。スピーカー通話に切り替え床に放り投げると同時に、アクアは血の海に這いつくばり、アイの傷口に両手を強く押し当てた。
「……っ!」
小さな指の隙間から、生温かい液体がドクドクと脈打つように溢れ出してくる。静脈からの持続的な出血ではない。心臓の拍動に合わせた、明らかな動脈性の出血だ。
刺された位置、刃の角度、そしてこの凄まじい血の勢い。
前世の記憶――雨宮吾郎としての医学的知識が、残酷なまでに正確な診断を即座に弾き出した。
(腹部大動脈をやられている)
アイの小柄で華奢な体格。その体重から推測される総血液量。それに対して、今この瞬間も猛スピードで床に広がり続けている血の海は、あまりにも致命的だった。
通報から救急車が到着するまで、都内であっても平均して数分はかかる。だが、大動脈を損傷したこの出血速度では、あと一分、いや数十秒で不可逆的な出血性ショックに陥る。
計算するまでもない。『絶対に、間に合わない』
医者としての冷徹な脳が、母親の死へのカウントダウンを無慈悲に宣告した。どれだけ強く圧迫しようと、三歳の子供の掌では、決壊した命を塞ぎ止めることなどできはしない。
「……あく、あ……?」
不意に、リビングと玄関を隔てるドアの向こうから、ひび割れた声が響いた。
「なにが、おきているの……?」
ルビーだ。尋常ではない物音と気配を察知したのだろう。ドアノブがガチャリと音を立てて回ろうとする。
「こっちへ来……っ!」
反射的に、アクアは叫ぼうとした。この血の海を、はらわたを引き裂かれるような惨劇の光景を、幼いルビーの目に焼き付けるわけにはいかない。それは兄としての、当然の防衛本能だった。
しかし、喉まで出かかったその制止の言葉を、極限まで冷却されたアクアの理性が無理やり呑み込ませた。
――アイは死ぬ。もう間もなく、確実に。
ならば、残されたこの数十秒という途方もなく短い時間は、誰のために使われるべきだ?
自分は、どこまでいってもアイの純粋な息子にはなりきれなかった。前世の記憶を持ったまま、都合よく彼女の子供というポジションを享受していただけの異物だ。
だが、ルビーは違う。
彼女は純粋にアイを母として愛し、アイの背中を追いかけようとしている『本当の娘』だ。
アイの命の残りが数滴しかないのなら、その最後の時間と、最後に紡がれる言葉は、自分のような紛い物ではなく、実の娘であるルビーに全額渡されるべきだ。
残酷な状況下で行われた、冷徹極まりない
アクアはドアノブを見つめ、血に濡れた手をアイの腹に押し当てたまま、低く、しかしはっきりと命じた。
「――開けるな。そこにいてくれ、ルビー」
掌の隙間から零れ落ちる命の熱を感じながら、アクアは血の気を失っていく母の顔を見下ろした。
もはや一刻の猶予もない。アクアは震える息を一度だけ深く吐き出し、感情を完全に削ぎ落とした『医師』のトーンで告げた。
「……腹部大動脈を切られている。もう間もなく、君は死ぬ」
三歳の幼児から発せられたとは思えない、残酷なほど冷徹な死の宣告。アクアは血塗れの指先でアイの服を強く押さえ、言葉を継ぐ。
「最期に、ルビーに言葉を残してあげてほしい」
命の灯火が今まさに消えようとしているというのに、アイは血に濡れた唇を微かに綻ばせた。小さく、ふふっと笑う。そして、目の前でひたむきに己の傷口を押さえ続ける『息子』の顔を見つめ、不思議そうな、けれどどこか愛おしむような声で問うた。
「……あなたは、だぁれ?」
その無垢な問いかけが、アクアの胸を刃のように抉った。
前世の記憶と知識を持ちながら、目の前で流血する母親の命を繋ぎ止める筋力も、機材も、何もかもが足りない。己の絶対的な無力さに対する凄まじい悔しさが、アクアの小さな身体をぶるりと震わせた。
「誰でもいい」
喉の奥から絞り出すような、血を吐くような声だった。
「ツクヨミでも、アマテラスでも……その辺の適当な神。人一人すら救えない、最強とは程遠い不甲斐ない神様とでも思っておけ」
ギリッと奥歯を噛み締め、己への呪詛のようにアクアは吐き捨てた。
その言葉が、静まり返った玄関に落ちた瞬間だった。虚ろになりかけていたアイの瞳が、微かに、けれど確かな驚きを伴って見開かれた。
星を宿した双眸が瞬き、眼前の幼いアクアの顔を真っ直ぐに射抜く。それは死の恐怖によるものではなく、まるで遠い記憶のパズルのピースが突然ピタリとはまったような――何かを見つけたような、静かで柔らかな驚愕だった。
アイの唇に、ゆっくりと柔らかな笑みが戻っていった。
彼女は震える手でアクアの手にそっと触れると、視線をゆっくりとドアの向こう――震える気配を漂わせているルビーへと向けた。
「ルビー……聞こえる……?」
かすれて消え入りそうな声。けれど、それは扉を一枚隔てたルビーの耳に届くには十分な、温かな響きを帯びていた。
「なに……? ママ、なにが……っ」
扉の向こうで、ルビーの声がパニックと恐怖に震えている。アクアは何も言わず、アイの命の熱が冷めていくのをただじっと耐えるように指先で感じ続けていた。
「ルビー……お遊戯会の踊りね、すごく良かったよ……」
アイの胸が浅く上下する。呼吸ひとつ吐き出すことすら困難なはずなのに、その声には不思議と母としての優しさが満ちていた。
「実はね……こっそり見ちゃったんだ。ルビーのダンス。すっごく上手で……すごく可愛かった」
「ママ……? なんで……開けてよ、ママ……!」
「ルビーがね……私みたいなアイドルになるって言ってくれたとき……お母さん、本当はすっごく、嬉しかったんだよ……」
アイの目から透明な一滴が零れ落ち、血に染まった頬を伝っていく。それは痛みのせいでも、死の恐怖のせいでもなく、ただ胸から溢れ出た愛おしさの痕跡だった。
「私ね……ちゃんとお母さんになれたかな……?」
その問いかけは、あまりにも小さく、けれど命の全てを振り絞った切実なものだった。
「ママっ……! ママぁ……っ!!」
扉の向こうで、ルビーが子供のように声を上げて泣きじゃくる。ドアを叩き、すがりつくような途切れ途切れの叫びが廊下に響き渡った。
アイの瞳から光がゆっくりと失われかけていく中で、彼女はふと、遠くを見るような眼差しで自嘲気味に小さく微笑んだ。
「ふたりとも……どんな大人になっていくんだろうね。それを見られなかったのは……ちょっとだけ、悔しいかな……」
血混じりの浅い吐息とともに零れ落ちた言葉。いつも完璧な笑顔で世間を魅了してきた稀代のアイドルが、一人の母親として漏らした、あまりにもささやかで切実な本音だった。
そしてアイは、ハッと思い出したかのように、薄れゆく意識を振り絞って言葉を続ける。
「……あ……そうだ。これは……ちゃんと言わないと……」
ドアの向こうで泣き叫び続けるルビーと、目の前で自分の手を押さえ続けているアクア。アイの双眸に宿る星が、消え入る直前のろうそくのように、一瞬だけ強く、愛おしげに輝いた。
「ルビー……アクア……」
掠れた声が、静まり返った空間に、澄み切った響きとなって落ちる。
「……愛してる」
それは、彼女がその生涯で初めて口にした、嘘と虚構で塗り固められたアイドル・星野アイの、絶対に嘘ではない言葉。
「やっと、言えた……」と、胸の奥で固く結ばれていた結び目が解けたかのように、アイの唇が幸福そうに綻んだ。
そして、焦点の定まらなくなりつつある視線をまっすぐにアクアへと向け、静かにほほ笑む。
「アクア……ルビーのこと、お願いね」
その言葉は、アクアにとっては自分に託された最期の絶対命令だった。
前世で天童寺さりなを救えず死なせてしまった雨宮吾郎の悔恨と、今世で星野アイという光を守れなかった星野アクアの無力感。
二つの人生の絶望がアクアの胸を激しく刺し穿つ。
アクアは血に染まったアイの指を力強く握り返し、込み上げる情動を極限の理性で押し殺しながら、低く、決して揺るぎない声で応えた。
「――ああ、約束する。今度こそ」
アクアの迷いのない誓いを聞いて、アイは心底安心したように、ふわりと綻ぶような微笑みを浮かべた。
「そっか……」
緊張で微かに強張っていた彼女の体が、深く温かい微睡みの中へ落ちていくように、ゆっくりと力を失っていく。
常に眩い輝きを放っていた双眸の星から、ふっと静かに、光が抜け落ちていく。
「ありがとう――――」
そして、最期の吐息とともに紡がれた言葉は、もはや音にはならなかった。
扉の向こうで泣き叫ぶルビーの耳にはもちろん、目の前で彼女の血に染まりながら寄り添うアクアの耳にすら届かない。ただ血の気の引いた唇が微かに形を作っただけの、空気の震え。
『――――せんせ』
誰にも聞こえることのなかったその小さな囁きを虚空に溶かし、星野アイは静かに息を引き取った。
繋ぎ止めようとしていた命の熱が永遠に失われ、血に濡れた華奢な手が、力なくアクアの小さな掌から滑り落ちた。
――
星野アイの凄惨な死は、瞬く間に世間を駆け巡った。
直前に迫っていた東京ドームでのライブは即刻中止。B小町の絶対的センターであり、事務所のすべてでもあったアイを失った衝撃は凄まじかった。社長の斎藤壱護は事態の処理に奔走し、騒動が落ち着いてからどこかへと失踪してしまった。
残されたアクアとルビーの双子は、元々籍自体は斎藤夫妻に移されていたため騒動から切り離され、社長夫人である斎藤ミヤコが実子同然として正式に引き取り、育てることとなった。
惨劇のあと、長いカウンセリングが終わり、大人が慌ただしく事後処理に追われる中、与えられた静かな部屋の片隅で、ルビーは小さな両手でスマートフォンを握りしめていた。
薄暗い部屋の中、液晶の冷たい光が、泣き腫らした彼女の瞳を無機質に照らしている。
画面にとめどなく流れてくるのは、アイの死を報じるニュース記事と、そこに群がるSNSの無責任な声の数々だった。
『隠し子がいたんじゃねぇの?』
『どうせ男がいたんだろ。アイドル失格じゃん』
『ファンを騙して裏切ってたんだから、刺されても自業自得っしょ』
安全な場所から無自覚に石を投げるような、悪意と嘲笑に満ちた言葉の羅列。
アイの本当の姿も、彼女がどれほどの不器用な愛情を自分たちに注いでくれていたのかも知らない赤の他人たちが、世界で一番大好きなママの死を「スキャンダル」という娯楽として消費し、泥足で踏みにじっている。
「……っ、あ……」
ルビーの喉から、ギリッと血が滲むような音が漏れた。
スマホを握りしめる小さな手がガタガタと激しく震え、見開かれた瞳から、大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちる。
「なんで……っ、何も、知らないくせに……!」
とめどない絶望と、それを黒く塗り潰していくどす黒い怒り。
幼い子供の口から発せられるべきではない、深く重い怨恨の呻き声が、薄暗い部屋の中に泥のように広がっていった。
その時、横からスッと伸びてきた手が、ルビーの小さな手からスマートフォンを無造作に奪い取った。
ハッとして顔を上げたルビーの視線の先には、完全に感情を削ぎ落とした、能面のように無表情なアクアが立っていた。
「……見るな」
極めて平坦な、温度のない一言。
しかし、極限状態にあったルビーの心に、その静かな言葉は激しい火をつけた。
「返して……っ!」
ルビーは立ち上がり、アクアに掴みかかった。小さな手で兄の服を強く引き、奪われたスマホを取り戻そうと必死にもがく。
「放してよ! こいつらに言わなきゃ……何も知らないくせに、勝手な事ばかり言うやつらに、私が言い返してやるのっ!」
しかしアクアはスマホを持つ手を高く上げて遠ざけたまま、逆に空いた腕でルビーの小さな体を力強く抱き寄せた。そして、彼女の顔を自分の胸元にぐっと強く押し付け、その視界から冷たい液晶の光を物理的に遮断した。
「やだ、離してっ……離してよぉ……っ!」
胸の中で激しく暴れるルビー。どうしても自分を解放してくれない兄の絶対的な力と、自分とは対照的に涙一つ流そうとしないその冷淡な態度が、パニック状態の彼女から残酷な言葉を引きずり出した。
「アクアはいいよね、ママのことをママだなんて思ってないんだから!」
それは、アイの死という最大の悲劇に直面してなお、取り乱すこともなく冷静に見える兄に対する、悲しみと苛立ちの暴発だった。
「ミヤコが、本当のママになって嬉しいんでしょ……っ!」
薄暗い部屋に響き渡ったその叫びは、アイを誰よりも狂信的に愛し、血にまみれたその最期を一人で抱え込んだアクアの心を最も深く、最も鋭く抉る、あまりにも残酷な凶刃だった。
その言葉は、確かにアクアの胸の奥底にある最も柔らかく、最も痛覚の集中した部分を容赦なく串刺しにした。
自分はアイの純粋な子供になりきれない紛い物だという、彼自身が誰よりも苛まれていた深い劣等感。血の海の中で、誰よりも愛したアイの命が指の隙間から零れ落ちていくのを、ただ見ていることしかできなかった絶対的な無力感と絶望。
ルビーの無自覚に放った刃は、その傷口をこれ以上ないほど残酷に抉り回した。アクアの内面は血を吐き、声なき悲鳴を上げ、心は無惨に千切れそうになっていた。
――だが。
アクアは、己の内に暴れ狂うその致命的な痛みを、鋼鉄のような強靭な理性で完全に封じ込めた。
ここで自分が少しでも傷ついた顔を見せれば、後で正気に戻った時、ルビーが罪悪感で潰れてしまう。
(何一つ漏らすな。絶対に動揺するな)
頭の奥で冷ややかに響く声で、アクアは自身を厳しく律した。
今、ルビーは極限のパニック状態に陥っている。悪意などないのだ。ただ、巨大すぎる悲しみと怒りのやり場を求めて、一番近くにいる自分に向かってめちゃくちゃに刃を振り回しているに過ぎない。
もし今、自分がその言葉に傷つき、顔を歪め、反論や拒絶の態度を示してしまえば――いつか我に返ったルビーは、「一番辛い時に、たった一人の家族にひどいことを言ってしまった」という耐え難い後悔に一生苛まれることになる。
それだけは、絶対にさせてはならない。
アイが最期に「お願いね」と託したルビー。彼女の心を守るためなら、自分はいかなる刃を通さない、そして絶対に傷を負ったことを見せない、完璧に無痛の『盾』にならなければならない。
だからアクアは、眉一つ動かさなかった。
鼓動の速さも、呼吸の乱れすらも一切悟らせず、自分の中に渦巻くすべての情動を殺し尽くす。ルビーの暴言を正面から受けながらも、ただ能面のように一切の動揺を消し去り、無表情を貫き通した。
「ああああぁぁっ! ママっ……ママぁっ……!」
やがてルビーから明確な言葉が消え、ただ張り裂けんばかりの絶望の悲鳴へと変わった。アクアの胸を小さな拳で何度も何度も叩き、堰を切ったように泣き叫ぶ。
アクアは、その悲痛な慟哭をすべて己の体で受け止めるように、彼女の震える背中に腕を回し、ぎゅっと強く抱きしめた。
ルビーの顔を完全に自分の胸に埋めさせ、残酷な言葉が並ぶ冷たい液晶の光から――そして、この理不尽で悪意に満ちた世界から、彼女の存在をすっぽりと覆い隠すように。
「今は、何も見るな」
声を枯らして泣きじゃくる妹の小さな頭を抱え込みながら、アクアはただそれだけを冷徹なほど静かに告げ、無痛の盾として彼女を守り続けた。
――
アイの葬儀が滞りなく終わり、世間の過熱した報道が少しずつ落ち着きを見せ始めた頃。時の経過とともに、傷跡が消えることはなくとも、日々の生活は嫌応なく戻ってきた。
静まり返った自室で、ルビーはアクアを見つめ呟く。
「私、アイドルになりたい」
それは、悲しみを乗り越えた先にあった願い。まだ形になっていない願望に過ぎないそれ。アクアは、「そうか」とだけ返す。
アイの背中を追いかけたいのであればそれを拒むつもりはない。アイとの約束通り、どんなことがあっても自分が彼女の道を開き、守り抜けばいい。ルビーの決断を尊重し、応援しようと心に決めた。
――だが。
ルビーが部屋を去り、再び訪れた静寂の中で、アクアの胸の奥底にひとつの酷く歪な「違和感」が持ち上がった。
まるで喉に刺さった小さな魚の骨のように、消えることのない不快な引っかかり。
アクアはベッドの縁に腰掛け、冷えた指先を顎に当てて思考の海へと潜っていく。
(……おかしい)
アイの死。リョースケという熱狂的なファンによる単独犯。世間も警察も、そう結論付けて捜査を終えようとしている。
だが、事実は本当にそれだけか?
アクアの頭の中で、解剖学的な精緻さをもって事件の構造が解体されていく。
アイが刺されたあのマンションは、引越してから間もない新居だった。引っ越し作業は極秘裏に行われ、近隣への配慮も徹底されていたはずだ。ストーカー気質の一般人が、ただの張り込みや追跡だけで特定できるような杜撰な管理ではなかった。
それだけではない。脳裏を過ったのは、四年前の出来事――前世である雨宮吾郎の殺害だった。
宮崎の山奥にある小さな病院。極秘出産のためにアイが身を寄せていたあの場所に、なぜリョースケが現れた?
当時、駆け出しのアイドルに過ぎなかったアイの妊娠を知っていたのは、苺プロダクションの社長夫婦とアイ本人、そして――生まれてくる子の「父親」だけだ。
田舎の病院の場所も、都内の隠れ家の住所も、ただのファンであるリョースケが自力で突き止められるはずがない。
(情報を流した奴がいる)
リョースケの手を引いてアイのもとへ送り込み、さらには前世の自分を殺すきっかけを作った男。アイの極めて個人的な領域に踏み込める位置にいて、芸能界の裏側に通じ、個人情報を自在に操れる人物。
(……父親だ)
二つの死の点と点が、一本の血塗られた線で繋がった。
星野アイを殺したのは、リョースケという一人の男だけではない。その陰で糸を引いていた、自分たちの実の父親――芸能関係者の男が確実に存在する。
アクアの瞳の奥で、静かな狂気と絶望の影が揺らめいた。
父親の存在。その確信に至った瞬間、アクアの思考は熱を帯びるどころか、どこまでも底知れず、氷のように冷え切っていった。
次なる疑問が、論理の必然として浮かび上がる。
なぜ、殺した?
(アイが殺されていい理由なんて、この世界のどこにも絶対にない)
彼女はただ、不器用なまでに純粋に、嘘の奥底にある「本当の愛」を見つけようとしていただけだ。ただの二十歳の女の子が、密かに子供たちを愛し、その成長を見守ろうとした。そのささやかで無害な願いが、命を奪われる理由になるはずがない。アイの側に、殺されるべき非など微塵も存在しなかった。
だが、現実にアイは殺された。
殺意を抱き、リョースケという狂気の刃を都合よく誘導し、己の手を汚すことなく確実な死を演出した黒幕。そこまで念入りに、前世の自分と、アイをという二度にわたって計画的な殺人劇を仕組むからには、父親の側にはアイを殺さなければならない何らかの明確な『理由』があったはずだ。
スキャンダルの隠蔽か、歪んだ愛憎か、それとも自分たち双子の存在そのものが邪魔になったのか。
理由は定かではない。しかし、男の中には確実に、アイを排除するための悪質で利己的な動機が存在していた。
その得体の知れない悪意、あるいは冷酷な打算が、アイの死とともに完全に消え去ったという保証はどこにもない。
そして今、ルビーはアイと同じ「アイドル」という光の当たる表舞台へ進むことを決意した。
(もし、アイを消し去るに至ったその『理由』が、アイの血を引き、同じ道を歩もうとする娘の存在をも脅かすものだとしたら?)
アクアの背筋に、氷を当てられたような悪寒が走る。
芸能界という巨大な森のどこかに潜む父親は、未だに正体も知られず、何の報いも受けず、安全な暗闇の中からこちらを観察しているのだ。
そんな得体の知れない男を生かしたままにしておけば、いつか必ず、その見えない毒牙は無防備なルビーへと向けられる日が来る。
そうなれば――あの血の海の中で、息を引き取る直前のアイと交わした「ルビーを護る」という最後の約束すら、果たせなくなってしまう。
それだけは、絶対に許されない。
二度の人生を賭けて、自分が為すべき唯一の絶対命令が、根底から覆されてしまう。
アクアの心に、極寒の決意が氷結していく。
それは決して、殺された母の無念を晴らしたいというような、激情に駆られた熱い復讐劇ではない。愛を遺して静かに微笑みながら逝ったアイは、自分たちが血生臭い復讐に囚われることなど決して望んではいないだろう。
だからこそ、アクアの目的は極めて理知的で、冷徹なものだった。
芸能界の深い森のどこかで、己の手を汚すことなく、今ものうのうと生き延びているであろう父親。まずはその男を見つけ出し、なぜアイを殺したのか、その真意を確かめなければならない。
そして、これからアイと同じ道を歩むルビーに対しても牙を剥くような、理不尽で明確な『害獣』であると判断したなら――その時は、確実に駆除する。
代理人に手を下させ、法の裁きを逃れて何食わぬ顔で日常を享受している黒幕の存在など、決して許されるべきではない。
男を引きずり出し、己の犯した罪に対する相応の「けじめ」をつけさせる。それは同時に、アイの死を防げず、血の海でただ絶望することしかできなかった無力なアクア自身が果たすべき、生涯を懸けた
これは復讐などという大層な感情に根ざしたものではない。
己の義務として遂行する、ただの徹底した害獣駆除だ。
その決断を下したアクアの瞳から、三歳の子供が持つべき光が完全に消え去った。代わりに宿ったのは、果てしなく昏く、鋭利な――見えない敵の喉元を的確に狙い澄ますような、底知れぬ暗い光だった。