ゴロー先生はアイアンチ 作:作者さん
それぞれのはじまり
あれから幾度かの季節が巡り、幼かった私たち兄妹は順調に成長し、もうすぐ中学校を卒業する年齢になっていた。
「絶対に、ママみたいなキラキラしたアイドルになる!」
それが私の揺るぎない目標だった。ミヤコさんが私の熱意に折れる形で苺プロに入れてくれたことで、私は晴れて念願のアイドル候補生となった。アイのように煌びやかなステージで歌って踊り、無数のペンライトの光に包まれる――そんな華やかな未来が、いよいよ始まるのだと胸を躍らせていた。
……はずだったのだが。
「はい、ルビーさんOKです! お疲れ様でしたー! じゃあ本番行きます、主演の方入ってー!」
「……お疲れ様でしたぁ」
スタジオの強い照明を浴びるのは、私ではなく後から現場に入ってくる他のタレントだ。私に与えられた仕事は「スタンドイン」。カメラの立ち位置や照明の当たり具合を本番前に確認するためだけの代役であり、完全に裏方の業務である。
(違う、私がやりたいのはこういうのじゃなくて。もっとこう、ママみたいに大勢のファンの前で――)
そう思い描いていたはずの現実は、ひどく地味なものだった。
「はい、というわけでね! 本日オープンしましたこちらのスーパー、なんとタイムセールで卵がワンコインでーす!」
休日の地方スーパーの駐車場。あるいは、人通りもまばらなシャッター商店街にポツンと組まれた手作り感あふれる小さなステージ。パラパラと立ち止まる買い物客のおばちゃんたちに向けて、笑顔でイベントの司会進行をこなす日々。
それどころか、この前なんてトルコアイス屋の開店イベントに駆り出され、陽気な店主さんにビヨンビヨン伸びるアイスを差し出されては「あ、ちょっと!」と手を伸ばすたびにひょいっと引っ込められ、散々もてあそばれて必死に食らいついた挙句に涙目になる始末。
そんな営業の数々が、アイドル候補生である私の主戦場だった。
「ルビー、いつまでソファでうだうだしてるんだ。さっさとレッスンに行ってこい」
事務所の長椅子で不貞腐れている私を見下ろすのは、無駄に顔が良い私の双子の兄――アクアだ。彼は今、私のマネージャー業務にとどまらず、苺プロの様々な裏方仕事を大人顔負けの手際でこなしている。
「おかしいでしょ!」
私はガバッと跳ね起き、冷たい目をした兄に向かって吠えた。
「なんでこの令和の時代にソロアイドル!? 今どきアイドルっていったら大人数のグループが主流じゃない! そもそも私、全然アイドルらしい仕事してないし!」
私の至極真っ当な抗議に対し、アクアは手元のタブレットから視線を逸らすことなく淡々と返す。
「グループは人間関係の問題が出る。メンバー間の嫉妬だの格差だの、お前が余計なストレスを抱えずに済んでいるのはソロだからだ。一人のびのびとやれてよかったじゃないか」
「のびのびしたのは、この前のトルコ風アイス屋の開店イベントだけで十分だよ! あの親父さんにアイスと一緒にビヨンビヨン遊ばれただけじゃない!」
息を切らして睨みつける私に対し、アクアはようやくタブレットから顔を上げ、事務的なマネージャーの顔で告げた。
「安心しろ。しばらくはお前のスケジュールは完全にフリーだ。その分、みっちりレッスンをいくらでも入れられる」
「またレッスン!? 嫌だぁああ! いつまで私にレッスンさせるの! 早くデビューさせてよ!」
頭を抱えて地団駄を踏む私を見て、アクアはやれやれと静かに肩をすくめた。
――
頭を抱えて地団駄を踏むルビーを尻目に、アクアは手元のタブレットの画面を数回タップして送信ボタンを押した。
『所属タレント各位。来月分の稼働可能スケジュールの提出および、交通費等の経費精算書類の提出期限は今週末です。期日厳守でお願いします』
そんな事務的なリマインドメールを苺プロの各タレントへ一斉送信し終え、アクアは小さく息を吐く。
現在、彼は社長であるミヤコから業務の一部を引き受け、事務所のデスクワークや雑務を手伝っていた。そして同時に、目の前で親の仇のように恨めしそうな目を向けてくる妹のマネージャー業務も請け負っている。
戸籍上はまだ中学生に過ぎないため、対外的な契約関係や地方営業には責任者として大人のスタッフが必ず同席する決まりにはなっていた。だが、名目上は「家業の手伝い」という体裁を取りつつも、現場でのタイムスケジュールの管理や関係者への挨拶回り、イベント進行の仕切りといった実務の大部分は、事実上アクアがこなしているのが現状だった。
「ねえ、ちょっと! 私の話ちゃんと聞いてる!?」
「聞いてる。だからしばらくはフリーだと言っただろ」
キャンキャンと吠え続けるルビーを見やりながら、アクアは内心で(まあ、無理もないか)と冷静に事態を受け止めていた。
ルビーが夢見ているのは、アイのように眩い照明を浴びて何万もの観客を熱狂させる圧倒的な光のステージだ。
だが、今のルビーに与えられる仕事といえば、スーパーの駐車場や寂れた商店街での営業ばかり。客層も、買い物ついでに足を止めるおばちゃんや子供たちがメインである。
華やかさや「キラキラしたアイドル」という理想像からは程遠い、あまりにも泥臭い地道な活動の連続。ミーハーで理想の高い彼女のことだ、この状況に耐えきれずそろそろ不満が爆発するだろうことは、アクアの計算の中ではとうに予想がついていることだった。
「あーあ、アクアのせいで私はレッスンに行きたくなくなりましたー。所属アイドルのやる気を出させるのも、マネージャーの立派なお仕事だと思いまーす」
ソファに寝転がったまま、ルビーはつんとした態度でそっぽを向いた。完全にへそを曲げている。
(たっく、往生際の悪い)
手のかかる妹の態度に、アクアは内心で深々とため息を吐いた。
今日はアクア自身も五反田監督の現場へ顔を出す用事があり、一日中ルビーのレッスンに付きっきりで監視できるわけではない。なんとか自発的に向かわせるために、いくつか妥協案を提示することにした。
「……レッスンが終わったら、冷蔵庫に入っているちょっと高いアイス、お前が食べてもいいぞ」
「ふーんだ」
ルビーは唇を尖らせ、見向きもしない。
「今週末が期限の、面倒な数学の課題プリントがあっただろう。アレ、後で俺が一緒にやってやる」
「ふ、ふーんだ……」
ルビーの肩がピクリと揺れた。アクアの頭脳を頼れば面倒な宿題が秒で終わることは分かっているため、少しばかり心が動いたらしい。だが、それでも『その程度じゃまだ動かないよ』と言わんばかりに、意地を張って背中を向けたままだ。
これ以上の駆け引きは時間の無駄だと判断し、アクアはわざとらしく大きな溜息を吐いてみせた。
「仕方ない。せっかく新しい仕事で、ミニドラマの出演の話を持ってきたんだがな」
ぼそりと呟くように落とされたその言葉に。
「ドラマ!?」
ルビーは弾かれたようにソファからガバッと跳ね起き、獲物を見つけた肉食獣のような勢いでアクアの目の前へと食いついた。
「伝手が色々回った結果、お前に仕事が回ってきた」
「何のドラマ!?」
先ほどの不機嫌さはどこへやら、ルビーは瞳をキラキラと輝かせ、待ちきれないといった様子で身を乗り出してきた。
「『今日は甘口で』という少女漫画だ。俺の部屋にあったやつを、お前も勝手に読んでただろ」
アクア自身は、五反田監督の元で映像表現や演出の勉強をする一環として購入し、目を通していた作品だった。アクアがカバンから台本を取り出し、「ほら」と表紙のタイトルを見せる。
それを見たルビーは、パァッと花が咲いたように表情を華やがせた。
「知ってる! あの漫画すっごく面白いもん! あれドラマ化するんだ!」
ようやく回ってきた本物の芸能の仕事、しかも知っている作品のドラマ化。高揚感に突き動かされるまま、内容を確認しようと勢いよく台本へ手を伸ばすルビー。しかし、その指先が紙の束に触れる直前で、アクアはひょいと腕を上げて台本を取り上げた。
「続きは、レッスンが終わってからだ」
「〜〜っ! 意地悪!!」
空を切った手を引っ込め、ルビーは地団駄を踏んでアクアを睨みつける。だが、その悔しそうな表情の裏には、念願の仕事をもらえた嬉しさが隠しきれずに滲み出ていた。鼻息を荒くしながら、彼女はビシッとアクアを指差す。
「言われなくたって、あっという間に終わらせてくるんだからね!」
捨て台詞を残すと、ルビーは嵐のような勢いで事務所の扉を叩きつけるように閉め、レッスン場へと飛び出していった。
静けさを取り戻した室内に、やれやれとアクアが小さく息を吐くと、「相変わらず賑やかね」と奥の社長室から声がかかった。現れたのは、苺プロダクションの社長である斉藤ミヤコだった。手には淹れたてのコーヒーが入ったマグカップを持っている。
「ミヤコさん。さっき所属タレント各位に、スケジュールと経費精算のリマインドメールを送信しておいた。送信内容の控えを後で確認しておいてくれ」
「はいはい、助かるわ」
アクアはそのまま慣れた手つきでタブレットを操作し、ルビーの直近の地方営業の経過や、現場での客の反応、改善点といった報告事項を淡々と上げていく。ミヤコは差し出された書類やデータに素早く目を通し、手際よく確認のサインを出していった。
一通りの報告が終わったところで、ミヤコはふとサインする手を止め、眼鏡の奥の鋭い目でアクアを見つめた。
「で? さっきルビーに言っていたミニドラマの話、私にはまだ何も入ってきていないんだけど」
「事後承諾になって悪い。ネットTV局の配信ドラマで、プロデューサーの鏑木さんから直接もらってきた仕事だ」
アクアは表情ひとつ変えず、淡々とした声で種明かしをした。
『鏑木』という名前に、ミヤコの眉がピクリと動く。業界でも顔が広く、一部企画のキャスティングにおいて権力を持つ敏腕プロデューサーだ。一介の中学生が、しかも弱小事務所の人間が簡単に太刀打ちできる相手ではない。
「……鏑木さんが、どうしてうちのルビーに? オーディションの話なんて受けてないわよ」
「元々は、鏑木さんが五反田監督に『誰か見栄えのいい若手はいないか』と打診したのが始まりだ。そこで監督が、俺とルビーの二人を推薦してくれてな」
アクアは表情ひとつ変えず、淡々とした声で説明を続ける。
「俺は裏方に回ると断って、代わりにルビーを全面的に推してこの仕事を引っ張ってきた」
「いくら監督の推薦だからって、実績のないうちのルビーの出演を鏑木さんが素直に決めるかしら?」
「ただのゴリ押しなら蹴られてただろうな。決め手になったのはこれだ」
怪しむようなミヤコの視線に対し、アクアは手元のタブレットを操作し画面をミヤコへと向けた。
画面に再生されたのは、SNSでアップロードされたショート動画だった。動画の上部には、面白がりなネットユーザーによってつけられた太字のタイトルが踊っている。
『トルコアイス屋に敗北するアイドルww』
動画の中では、先ほどルビーが不満を漏らしていた開店イベントの映像が流れていた。トルコアイス屋の陽気なトルコ人店主が伸びるアイスをビヨンビヨンと掲げ、差し出しては引っ込め、ルビーが「あ! もうっ!」と必死に手を伸ばしてはあしらわれ、最終的に半泣きの涙目になっている様子がバッチリと映し出されていた。
「先日の開店イベントの切り抜きだ。SNSや動画サイトで『かわいそうだけど可愛い』『リアクションが必死すぎて草』と、じわじわバズり始めていて、一部で急速に知名度が上がってきてる」
アクアは冷徹なまでの分析力で、データと世間の反応を提示する。
「数字に目ざとい鏑木さんだからな。ルビーのルックスの良さに加えて、この局地的な話題性ならドラマの客寄せとして悪くないと判断してオファーを出してきた。向こうも顔見せ程度の若手が欲しかっただけだから、利害は一致してる」
「だから色々回った結果、ね」
「そういうことだ」
「……ところで、このバズり具合はルビーは知ってるの?」
ミヤコの問いかけに、アクアはスッと目を背けた。
「あいつの使ってるSNSよりも、もっと俗なところが震源地だからな……まだ見てない、と思う」
「時間の問題ね……」
ミヤコは深い深いため息を吐いた。今頃レッスン場で汗を流しているであろう少女が、事実を知って「こういうアイドルじゃなくて!」と顔を真っ赤にして憤慨する姿が、ありありと目に浮かぶようだった。
「まぁ、あまりにもひどいおもちゃにされるようなら削除申請を出すさ。……あいつを利用して、マネジメントの練習をしているようで悪いがな」
自嘲気味に呟くアクアに、ミヤコは少し躊躇いながらも声をかけた。
「アクア。こっちの仕事の手伝いは無理しなくてもいいのよ」
ミヤコにとって、アクアが本当にこの裏方の仕事を望んで手伝ってくれているのなら、それは純粋に嬉しいことだった。だが、彼女の目にはそうは映っていなかった。アクアはまるで、芸能界という深い森に自ら足を踏み込むための準備として、意図的にその業務や仕組みを学ぼうとしているように見えて仕方なかったのだ。
「どちらかは継がないとならないだろう」
アクアはタブレットをカバンにしまいながら、平然と答えた。
「あいつは意識してないが、俺たちは一応、ここの社長令息でもあるんだからな」
その言葉はひどく大人びていて、達観した響きを持っていた。
実際、アクアは事務所のデスクワークやマネジメントといった裏方業務を学ぶ一方で、演技の勉強も続け、タレント――俳優として正式に苺プロへ登録されていた。会社全体のあらゆる業務を総合的に把握し、そつなくこなしていく彼の姿に、社内の人間たちの多くも「いずれ彼がこの会社を継ぐ次期社長なのだろう」とごく自然に予想している。
そして何より、アクアがこうしてプレイヤーとして表舞台と接点を持ち、業界関係者や制作者たちと良質なコネクションを作っておくことは、巡り巡って将来的に苺プロへ大きな仕事やチャンスをもたらす一手になる。彼が自力で強力な顔繋ぎをしてきてくれることは、経営者であるミヤコにとっても紛れもなくありがたいことだった。
だが――だからこそ、ミヤコには彼の行動のすべてが、純粋な野心や会社のためだけに向けられているようには思えなかった。
ミヤコは胸の奥がチクリと痛むのを感じながら、ずっと聞けずにいた問いを口にする。
「ねぇ、アクア。貴方たちにとって、母親は――」
「少なくとも、俺にとってはあの人じゃない」
ミヤコの言葉を遮るように、アクアは冷たく言い切った。その声には一切の感情がこもっておらず、絶対的な拒絶の意志だけがはっきりと示されていた。
ミヤコはそれ以上何も言えなくなり、ただ悲しそうな眼をして彼を見つめることしかできなかった。
「……監督と約束してたから、行く」
気まずい沈黙を振り切るように、アクアは踵を返すと、その場を逃げるような足早な歩みで事務所を後にした。
――
事務所を後にしたアクアが向かったのは、見慣れた五反田の実家――その自室兼編集スタジオだった。
暗い室内に、複数のPCモニターの光が青白く浮かび上がっている。アクアはヘッドフォンを首にかけ、タイムライン上に細かく刻まれたカットの繋ぎ目を真剣な眼差しで調整していた。
「監督。ここのカット、テンポを少し落とさないか? 被写体の表情の余韻を残した方が、次のシーンの緊張感が生きると思う」
「ん……いや、ここはあえて早めに切って、観客の感情をあおる。その代わり、次の引きの画で長めの間を取る。ちょっとそれで繋いでみてくれ」
「分かった」
キーボードを叩く音とマウスのクリック音が静かに響く。五反田の意図を正確に汲み取ったアクアの手際よい操作によって、タイムライン上の映像がスムーズに繋ぎ直されていく。五反田の監督としての意図と、アクアの客観的な視点が噛み合い、映画の編集作業は着々と進んでいった。
やがて全体の尺調整が一区切りついたところで、アクアはキーボードから手を離し、椅子の背もたれに深く体重を預けて「ふぅ……」と短く息を吐いた。
それを見計らったように、隣で冷めた缶コーヒーを口に含んでいた五反田が、作業の手を止めて声をかけてくる。
「なぁ、アクア。お前、俺の手伝い以外にも事務所の手伝いやら、ルビーの世話も色々やってんだろ。宿題とか学業とか、ちゃんと大丈夫なのか?」
多忙を極めるアクアの日常を案じる問いかけに、アクアは疲れた素振りも見せず、淡々とした声で答えた。
「授業中と休み時間を使った内職で、宿題はすべて終わらせてある。テストの成績も、目立ちすぎず浮きすぎない上から5番目あたりをキープできるように調整してる」
その完璧すぎる自己管理能力と抜け目のなさに、五反田は呆れ混じりに眉をひそめたが、アクアは言葉を続けた。
「流石に、俺から監督に頭を下げて勉強させてもらってる以上、こちらの作業をおろそかにするような真似はしない。……まあルビーには悪いが、万が一俺の処理容量を超えてパンクしそうになったら、向こうのマネジメント業務の方は一端止めるさ」
教え子からそこまで筋の通った言葉を聞かされて、五反田としても悪い気はしない。だが、どこか大人びすぎていて自分の限界や感情を削りながら動いているような少年の姿に、五反田はどこかやり切れない溜息を漏らした。
「……そう言われて悪い気はしないが、心配なもんは心配なんだよ。そいつは、ミヤコさんも同じなんじゃないのか?」
自分をどこか冷徹に割り切り、効率と目的のためだけに突き動かされているアクア。その危うい生き方を案じる五反田の言葉に、アクアは少しだけ呆れたような眼差しを向けた。
「自分の母親に滅茶苦茶心配かけてる子供部屋おじさんに言われてもな……」
「うっせ! それとお前が似たような立場になってるって言ってんだよ!」
図星を突かれて顔を赤くした五反田は、柄にもなく真面目な説教をした照れ隠しもあって、アクアの頭にガシッと手を伸ばすと、その金髪をぐりぐりと力任せに撫で回した。
「やめろって」
乱暴に頭を撫で回してくる五反田の手を、アクアは鬱陶しそうに振り払う。手ぐしで崩れた金髪をサッと整えながら、呆れ果てたような視線を監督に向ける。
五反田は頭の後ろで腕を組み、深く椅子に寄りかかりながら煙草に火をつけた。教え子の才能を誰よりも買っているからこそ、表舞台から身を引こうとするその姿勢を惜しむ気持ちは強い。だが、今の多忙を極める生活を見せつけられては、これ以上無理強いもできなかった。
「たっく……これじゃあお前に『また役者をやらないのか』って訊くのも聞けねぇわな。これ以上何か背負わせたら、流石のお前でも本当にパンクしちまう」
そんな五反田の懸念に対し、アクアは何でもないことのように平然と言い放つ。
「演技はもういい。ルビーに最低限教えられる程度にはなったからな」
一切の未練も感じさせないその解答に、五反田は呆れを通り越して呆然とし、紫煙を吐き出しながら吐き捨てるように言った。
「……このシスコンが」
「妹を大事にすることをシスコンと呼ぶ風潮は、どこか間違っているんじゃないかと思うんだが」
大真面目な顔で反論してくるアクアに対し、五反田は鼻で笑いながら煙草の灰を落とした。
「その過干渉っぷりがなければ、お前のその台詞にも頷いてやるよ」
「……納得いかないな」
どこまでも大真面目な顔でぽつりと呟いたアクアに、五反田はとうとう堪えきれずに声を立てて苦笑した。
「あのなぁ……お前のその異常な過保護っぷりも、そろそろ見直す時期に来てんだよ」
煙草の煙と一緒にふぅと息を吐き出すと、五反田は少しだけ真面目なトーンに声色を落とした。
「もうそろそろ、ルビーをソロアイドルって柵に囲わせておくのも限界なんじゃないのか」
その核心を突く指摘に、アクアは反論することなく無言を貫いた。カタカタと鳴っていたキーボードの音だけが、不自然にピタリと止まる。
令和のこの時代において、ソロアイドルとして一線を張り続けることには土台無理がある。グループアイドルが主流となった現代のエンタメ業界では、ソロという形態はどうしてもたった一人の魅力や才能、そしてコンディションにすべてを依存してしまう。もしその一人が立ち止まったり足踏みをしてしまえば、事務所として利益を得るための手段が減るどころか、完全に断たれてしまうからだ。
もちろん、アクアやミヤコもそのリスクは重々承知していた。それを踏まえた上で、ルビーのメンタルや体調に合わせて慎重に仕事を調整し、無理のない範囲で活動を続けさせているのが現状である。
言ってしまえば、現在の苺プロのアイドル部門は、ミヤコの道楽や「子供たちの習い事」の延長として扱われているに過ぎない。収支の面で見ても、表舞台に立つルビーや裏方として動くアクアへの賃金を限りなくカットし、どうにか帳簿上でギリギリのプラスに見せかけているだけで、実質的には赤字部門なのだ。
なぜそこまでして、採算の合わないソロ活動に固執しているのか。
それは偏に、ルビーをアクアやミヤコの手の届く安全な「箱庭」の中で活動させるためだった。得体の知れない人間関係のトラブルや悪意、グループ内での嫉妬といった芸能界の毒から彼女を遠ざけ、まずは彼女自身のペースでこの特殊な世界に慣れさせる――それが、過保護な兄と見守る母の共通の目的でもあった。
だが、いつまでもそのぬるま湯の中に留めておけるほど、ルビーが抱く熱意も、芸能界という場所も甘くはない。
「ルビーの奴が今みたいに、スーパーの駐車場や寂れたステージで満足してるうちはそれでもよかったさ。お前たちの目の届く範囲で守ってやれた」
紫煙をくゆらせながら、五反田は隣に座る少年の横顔を真っ直ぐに見据えた。
「だけどよ。あの子がこれから先、もっと高いところへ羽ばたくって言うんだったら……どっかのタイミングで、グループは作らないとならないだろうな」
その言葉は、痛いほどに正論だった。ルビーがアイのように、無数のペンライトの光に包まれるような本物のステージを目指すのであれば、いつかは必ず「箱庭」から出さなければならない。
アクアはモニターに向けた視線を動かさないまま、長い沈黙を落とした。
やがて、マウスを握る手に微かに力が込められ、ぽつりと、押し殺したような声が薄暗い室内に響いた。
「……分かってる」
その一言には、妹の夢を叶えてやりたいという純粋な願いと、彼女を危険な世界へ深く踏み込ませることへの強い葛藤が、ひどく複雑に絡み合っていた。
「……今回、鏑木さんに俺たちの名前を出したのもそれが理由か?」
ふと思いついたように、アクアはモニターから視線を外し、五反田へ鋭い眼差しを向けた。
今回のネットドラマの話。元々は雑談の延長程度だったのだろうが、五反田がプロデューサーの鏑木に二人を推薦したことから始まっている。ただの親心や気まぐれではなく、五反田の中でルビーの現状や今後の可能性を考慮した上でのアシストだったのではないかと勘づいたのだ。
五反田は煙草を灰皿に揉み消すと、どこか平気な口調で肩をすくめた。
「可愛い弟子とその妹に、少し早い中学卒業祝いのプレゼントだよ。まあ、あの人のことだから、どこかでそのツケはキッチリ回収されるだろうけどな」
業界の狸である鏑木勝也という男が、タダで恩を売るような真似をするはずがない。いずれ何かしらの形で「借り」を返させられるのは目に見えていた。
だが、アクアの瞳には恐れも躊躇もなく、静かな冷徹さだけが宿っていた。
「……回収し損ねるところまで利用させてもらうさ」
不敵ですらあるその返しに、五反田は苦笑いを浮かべながら、再び新しい煙草に火をつけた。