身喰らう断章 作:石鹸
朝食を終えると、リゼットはアルバ教授の部屋へ向かった。
「失礼します」
「どうぞ」
扉を開ける。
昨夜と同じ机の上に、数冊の資料が並べられていた。
ただ、昨日とは少し違う。
古い地図。
王国軍の報告書。
新聞の切り抜き。
そして、一冊の分厚い名簿。
「今日は何をするんですか?」
「昨日の続きです」
アルバは一枚の紙を手に取った。
「これらはエーヴェル村について、王国軍が残した初期報告書ですよ」
リゼットの視線が、その紙へ落ちる。
「……初期報告書?」
「正式な報告書がまとめられる前のものです。現場で確認された事実だけが、比較的そのまま記録されています。」
紙を受け取る。
古びた文字が並んでいる。
村内に住民の姿なし。
家屋に生活用品多数残存。
食料の一部も残されている。
火災なし。
大規模な戦闘痕跡なし。
魔獣の痕跡なし。
そして。
──村落入口付近に、軽微な武器によるものと思われる損傷を確認。
「……武器の跡」
「ええ」
「でも、戦闘があったわけじゃないんですよね?」
「あったとしても大規模なものではなかったようですね」
アルバは淡々と答えた。
「奇妙だと思いませんか?」
「……え?」
「人が一人もいなくなった村に、生活の痕跡だけが残っている。争った形跡もほとんどなければ魔獣に襲われた様子もなく、火事でもない」
「……」
「それなのに、人だけがいない」
リゼットは黙り込んだ。
「どうして……」
「なぜでしょうね」
アルバはあっさりと答えた。
「だから、調べる価値があるのでしょう」
その言葉に、リゼットはもう一度報告書を見た。
人が消えた。
けれど、暮らしていた痕跡は残っている。
食器も。家具も。家そのものも。
家庭によっては食事の支度の最中な場所もあったようだ。
まるでそれらが示しているのは、そこにいた人間だけが突然消え去ったとでも言うように。
──胸の奥がざわついた。
「ところで」
アルバが何気なく言った。
「あなたは、エーヴェル村にいたことを証明できるものを何か持っていますか?」
「……」
リゼットの指が止まった。
それは考えてもいなかったことだからだ。
「──ありません」
「ふむ。ご家族から聞いた話は?」
「何も……」
「では、記憶は?」
「……ほとんどありません」
アルバは頷いた。
「なるほど」
それだけだった。
責めるような響きはない。
だからこそ、リゼットは少し不安になった。
「どうして、それを……?」
「確認しておきたかっただけですよ」
教授は微笑んだ。
「あなたがエーヴェル村について知りたいと言った。しかし振り返ってみれば、現時点では『自分がそこにいた』ということさえ、確定していない」
「……はい」
「ならば、最初に調べるべきなのは事件そのものではありません」
アルバの声は穏やかだった。
「あなた自身が、本当にそこにいたのか」
「……私が?」
「ええ」
リゼットは息を呑んだ。
今まで当たり前にそう認識していたものが、それを前提として立っていた土台が急激に崩れ落ちていくかのような感覚。
教授は机の上にあった分厚い名簿を開いた。
「事件の数年前に作られた、エーヴェル村の住民名簿です」
受け取り、ページをめくる。
家族ごとに名前が並んでいる。
「探してみてください」
「……私の名前を?」
「ええ」
リゼットは名簿を受け取った。
一人。
二人。
三人。
知らない名前が続く。
続柄に父、母、子が続き、家族ごとの名前。
けれど、そこに自分の名前はない。
「……ありません」
「そうですか」
アルバは驚かなかった。
それが、リゼットには妙に引っかかった。
「教授は……最初から分かっていたんですか?」
「何をです?」
「私の名前がないこと」
「いいえ」
穏やかな返答だった。
「ただ、可能性として考えていただけですよ」
「……可能性?」
「村人全員が失踪した事件ですからね。もしあなたがその村の出身者なら、何らかの記録が残っていても不思議ではない」
「でも、ありません」
「ええ」
アルバは名簿へ目を落とす。
「不思議ですね」
その言葉だけだった。
リゼットは黙って名簿を見つめる。
胸の奥が、少しずつ冷えていく。
自分は本当にエーヴェル村にいたのか。
記憶に残っているのは村の名前だけ。
それ以外は曖昧で、自分の名前さえ残っていない。
それは、等号で自分が、リゼットという人間がエーヴェル村にいたということを意味するわけではない。
「……私は、エーヴェル村の人間じゃないのかもしれません」
ぽつりと呟いた。
「そうかもしれませんね」
アルバは否定しなかった。
「しかし、あるいは」
そこで一拍置く。
「記録に残らない立場だったのかもしれません」
「……え?」
リゼットが顔を上げる。
教授は名簿を閉じた。
「例えば、正式な住民登録をされていなかった子供」
「……」
「あるいは、誰かの家に一時的に預けられていた可能性」
「あるいは──」
そこで言葉を切った。
「あなたの言う通り、そもそも村の人間ではなかった可能性もあります」
「……」
リゼットは何も言えなかった。
「だから、名簿だけでは判断できません」
アルバはそう言って、別の地図を広げた。
「こちらを見てください」
そこには、現在のエーヴェル村と、古い集落跡が記されている。
「エーヴェル村には、以前別の場所に集落があった記録があります」
「……村が移ったんですか?」
「正確には、集落の中心が変わったようです。それに合わせて拓いた森の場所があり、即ちそれが、かつてのエーヴェル村のようですね」
「どうして?」
「記録には、理由が残っていません。単純に人口の増加に伴うものかもしれませんし、あるいは独自の宗教だとか、決まりごとの結果かもしれません」
まただ。
理由がない。
記録がない。
名前もない。
まるで、何か大切なことだけが綺麗に抜け落ちているかのような感覚。
「その場所……今はどうなっているんですか?」
「旧エーヴェル村跡地にいけばあるでしょうね」
「行けるんですか?」
「ええ」
アルバは即答した。
そして、少しだけ微笑む。
「行ってみたいですか?」
リゼットは地図を見つめた。
すぐには答えられなかった。
行きたい。
確かめたい。
そう思う。
けれど。
怖い。
そこへ行けば、何かを思い出すかもしれない。
あの夜のことを。
水の感触を、暗闇を、ぬるりと煌めく白いもの、即ち、泡を。
胸の奥に、あの嫌な感覚が蘇る。
無意識に、手を握りしめた。
「……怖いです」
「えぇ。詳しい内容こそわかりませんがかつてのことを思い出そうとするあなたを見ていれば、きっとそれは察しが着くでしょうね」
アルバは否定しなかった。
「ええ。ですから──無理に行く必要はありません」
その言葉に、リゼットは顔を上げた。
「教授は……行った方がいいと思いますか?」
「私の意見を聞きたいのですか?」
「……はい」
アルバは少し考えるように目を伏せた。
「知りたいのであれば、調べる価値はあるでしょう」
それだけだった。
「ですが、行くかどうかを決めるのはあなたです」
リゼットは黙った。
不思議だった。
アルバは何も強制していない。
行けとも言わない。
行くなとも言わない。
ただ、目の前に選択肢を置いている。
それだけだ。
その地図から目を逸らすことができなかった。
リゼットはゆっくりと息を吐いた。
「……行きたいです」
自分の声が、思っていたよりはっきり響いた。
アルバは黙っている。
「確かに、怖いです」
もう一度、言った。
「でも……怖いからって、ずっと分からないままにするのも嫌です」
指先が地図の上に触れる。
「私が本当にエーヴェル村にいたのか」
そして。
「かつて、あの日に何があったのか」
少しだけ震える声で続ける。
「……あの夜、私が何をしていたのか」
その言葉を口にした瞬間。
胸の奥が、きゅっと締めつけられた。
それでも、手は地図から離さなかった。
「調べたいです」
今度は迷わなかった。
「誰かに言われたからじゃなくて」
リゼットは顔を上げる。
「私自身が、知りたいんです」
アルバは、ほんの一瞬だけ目を細めた。
けれど、それ以上は何も言わなかった。
「……分かりました」
教授は地図を丁寧に畳む。
「では、資料をもう少し集めてみましょう」
「はい」
リゼットは頷いた。
それから部屋を出る。
扉が閉まる。
廊下を歩きながら、リゼットは自分の手を見た。
少し震えている。
怖かった。
本当は、今すぐ逃げたかった。
それでも。
──私が決めた。
その言葉だけは、はっきりしていた。
◇
部屋の中で、アルバは一人立っていた。
机の上には先ほどの住民名簿。
その隣には別の資料が一冊。
表紙には、古い年代が記されている。
いずれも先ほどまで少女が触っていたものだ。
アルバはそれを手に取った。
そして、静かにページをめくる。
その表情には、先ほどまでと変わらない穏やかな笑みが浮かんでいた。
「……なるほど」
小さく呟く。
「やはり、こちらから辿らせる方が『早い』か」
本を閉じる。
その声には、満足とも愉悦ともつかない響きがあった。
けれどリゼットが自分で選んだという事実だけは、決して変わらなかった。
──例え、それがそう誘導されているものだとしても。