身喰らう断章 作:石鹸
翌朝。
リゼットは、いつもより早く目を覚ました。
窓の外はまだ薄暗い。
ベッドから起き上がり、机へ向かう。
昨夜、自分で書いたメモが残っている。
――エーヴェル村。
――白い浮遊物。
――私は、事件の夜に何を見ていた?
――私は、何をした?
その下に、もう一つだけ言葉を書き加えた。
――私は、誰?
ペンを置く。
しばらく、その文字を見つめた。
昨日、エーヴェル村の住民名簿を調べた。
自分の名前はなかった。
それだけなら、まだ何も分からない。
名簿が完全なものだったとは限らない。
けれどアルバが見せてくれた資料には、村の家族構成までかなり細かく記録されていた。
どういう経緯か、伝手かはわからないが、少なくとも紙は少し古びていてインクの感じも最近書かれたようなものではないと感じた。
もし自分が正式な住民だったのなら何らかの形で名前が残っていても、おかしくないのに、そこにリセットの名はない。
「……じゃあ」
リゼットは呟いた。
続く言葉は躊躇うように喉で詰まり、決心したように吐き出す。
「私は、どうやって村から出たんだろう」
そこだった。
エーヴェル村の住民は全員失踪した。
その記録が正しいと仮定する。
事件後に村から生きて出た人間はいないとされている。
少なくとも公式記録とされている資料はそう書かれている。
では、自分が事件後にロレントで保護された少女だったとしたら。
その少女は、どこから来たのか。
なぜ、名前がなかったのか。
リゼットは椅子に座り直した。
机の端に置いていた、自分の古い教会記録の写しを取り出す。
養子縁組の際に必要だった書類だ。
そこには簡単な経緯だけが書かれている。
――身元不明の女児。
――教会にて保護。
――後日、アルヴェーン家へ。
これまで、気にしたこともなかった。
けれど、この記録も気にしなければならないと思い直す。
「……身元不明」
その言葉を見つめる。
なぜ、身元不明だったのか。
普通なら親がいて、家族がいる。そこにいた記憶がある。
少なくとも、本人が何か一つくらい手掛かりを持っている。
なのに自分には、それがない。
持っているものはエーヴェルの単語ひとつだけだ。
「……」
リゼットは立ち上がった。
エーヴェル村の記録を調べるなら、王国軍や遊撃士協会の資料が中心になる。
けれど。自分が誰だったのかを調べるなら、見るべき場所は違う。
必要なのは事件の記録ではなく、保護された人間の記録。
つまり身元不明者の記録や、養子縁組の記録。
そして、それを扱う場所。
「……教会、役所」
思いついた瞬間、リゼットは自分でも驚いた。
教会なら。
子供を保護した記録が残っているかもしれない。
少なくとも、アルヴェーン家に引き取られる前の自分について何か分かる可能性がある。
そこまで考えてもう一つ、問題があることに気づいた。
「でも……」
ボースの教会に記録があるとは限らない。
自分が保護されたのはロレント近郊だ。
ならばロレントの教会に問い合わせるべきなのか。
リゼットは眉を寄せた。
ここでアルバに聞けば早いだろう。
教授なら、教会の記録を調べる方法くらい知っているかもしれない。
けれど。
「……自分で、やろう」
昨日と同じ言葉が出た。
リゼットは上着を羽織った。
*
ボースの教会に着くと、リゼットは司祭に事情を説明した。
担当としてシスターを引き合わされて面談となる。
「身元不明の子供を保護した記録、ですか?」
「はい」
「どのくらい昔のものでしょう?」
「七耀暦1196年です」
シスターが少し考える。
「この教会だけでなく、周辺の教会の記録も確認した方がよいかもしれませんね」
「やっぱり……」
「これは確認ですが、何を探しているのでしょう?」
リゼットは少し迷った。
「私自身です」
「……」
「小さい頃、身元の分からない状態で保護されたんです」
シスターは驚いたように目を瞬かせた。
「そうでしたか」
「今は養父母と暮らしています。でも、それより前のことを何も覚えていなくて」
「分かりました。少しお待ちください」
しばらくして。
古い記録帳が何冊か運ばれてきた。
リゼットは一冊ずつページをめくった。
保護された子供。
事故かなにかで身寄りを失った子供。
親族に引き取られた子供。
そうやってゾーニングされたものだ。
そこには名前がある。
記録の形もまちまちだ。
日付を確認する。
七耀暦1196年。
さらに絞るとするなら、エーヴェル村の事件が起きたのは、8月13日夜半から翌朝。
ならば、それ以降にロレント近郊で保護された子供。
その条件で探す。
一件。
二件。
三件。
意外といる。多くはその後身元が確認されている。
親族が迎えに来た子供。
迷子になっていた子供。
事故で保護された子供。
リゼットは首を振った。
違う。
自分には家族が迎えに来た記憶がない。
次のページ。
その次。その次。次。次。
やがて。
「……あ」
指が止まった。
日付は、事件の数日後。
場所は、ロレント近郊。
――身元不明の女児一名を保護。
――年齢、およそ六歳。
――身分証明、所持品なし。
――保護時、意思疎通に困難あり。
リゼットは息を呑んだ。
六歳。
自分の記憶に残っている最も古い身体感覚と、ほぼ一致する。
「……これ」
声が震えた。
「この子は、その後どうなったんですか?」
司祭が記録の続きを確認する。
「少々お待ちください」
別の記録帳を開く。
そして。
「ああ、こちらですね」
そこには短い追記があった。
――後日、民間家庭にて引き取り。
――養子縁組について、教会立会い。
リゼットの指が震える。
そこに記された姓は、アルヴェーン。
自分が知っている過去と繋がった。
けれどまだ一つ、足りない。
この少女が自分だという証拠がない。
そもそも、リゼットという名前が一度も出てこない。
「……この子の名前は?」
「記録にはありません」
「最後まで?」
「少なくとも、正式な氏名は記録されていないようですね」
リゼットは目を伏せた。
やっぱり。
自分の名前は、ここにもない。
リゼットという名前はアルヴェーン家に引き取られてから与えられたものなのかもしれない。
伝え忘れただけなのかもしれない。
ではそれ以前の自分は。
「……」
ページを閉じようとした。
そのとき紙の端に、小さな追記があることに気づいた。
リゼットは目を凝らした。
――本人、発見時より「エーヴェル」と発言することあり。
「……」
息が止まった。
「エーヴェル……?」
司祭が顔を上げる。
「何かご存じなのですか?」
リゼットは答えられなかった。
エーヴェル。
その言葉を自分は知っている。
ずっと昔から。
理由もなくただただ、記憶の底に残っていた言葉。
引き取られる前に住んでいた村の名前。
それだけだと思っていた。
けれどもし、この記録にある少女が、自分だったのなら。
自分は事件の後に、誰かに保護された。
そして名前を失ったまま。
「エーヴェル」という言葉だけを口にしていた。
「……私」
リゼットは記録帳を見つめた。
手が震えている。
けれど、今度は目を逸らさなかった。
この記録だけでは、まだエーヴェル村との関係は証明できない。
村の住民だったとも書かれていない。
事件の生存者だとも書かれていない。
ただ同じ年で同じ地方で事件の直後に保護され、身元不明の少女。
そして――エーヴェルという言葉だけを吐いた。
それだけだ。
「……ありがとうございます」
リゼットは記録帳を閉じた。
「もう、いいんですか?」
「はい」
立ち上がる。
足は少し震えていた。
それでも歩けた。
教会を出る。
朝のボースの街へ戻る。
人の声。
馬車の音。
店を開ける音。
何も変わっていない。
なのにリゼットの中だけが、昨日までとは違っていた。
自分の過去について。
初めて、自分の手で一つの線を引くことができた。
エーヴェル村。
その事件。
名前のない少女。
アルヴェーン家。
そして今の自分。
「……まだ、分からない」
リゼットは呟く。
「でも……調べられる。前に進んでいる」
それは、昨日までとは違う感覚だ。
ただ過去を怖がっているのではない。
自分で手掛かりを見つけることが出来た。
なら次も、自分で探せる。
リゼットは歩き出した。
その途中で、一度だけ立ち止まる。
アルバに話すべきだろうか。
教会で見つけた記録。
名前のない少女。
そして、「エーヴェル」という言葉。
教授なら、きっと何か分かる。理由はないが、確信じみたものがあった。
けれどリゼットは首を横に振った。
「……もう少しだけ」
まだ自分で確かめたい。
その選択をしたこのときのリゼットは、まだ知らなかった。
自分が見つけたその記録をアルバがずっと前から知っていた可能性を。