身喰らう断章 作:石鹸
翌朝。
リゼットは、アルバの部屋を訪ねた。
「おはようございます、教授」
「おはようございます、リゼットさん」
アルバは机に向かい、何枚かの書類を整理していた。
「少し、お聞きしたいことがあります」
「ええ。何でしょう?」
リゼットは一瞬だけ言葉に詰まる。
昨日、教会で見つけた記録。
八月十四日。
身元不明の少女。
エーヴェルという言葉。
そして自分が、あの少女である可能性。
それを話すべきか、正直迷った。
けれど。
「昨日、教会で古い保護記録を見つけました」
「ほう」
「私がアルヴェーン家に引き取られる前の記録です」
アルバの手が止まる。
「ほう、それで?」
「私らしい子供の記録がありました」
リゼットは続けた。
これはそうであってほしいという願望なのだろうな、と思いつつも言葉を紡ぐ。
「でも……それだけでは、私が本当にその子だったのか分かりません」
「なるほど。そうですね」
「それで、もっと詳しい記録を調べたいんです」
アルバは少し考えた。
「であれば、教会の記録だけでは、限界がありますね」
「はい」
「君の望む結論に達するなら、保護した人物の証言、当時の街道の記録、あるいは軍の巡回記録なども照合した方がいいでしょう」
「……それは」
リゼットは顔を上げる。
膨大だ。しかも、許可が必要だったり事前に話を通さないとならないものもあるだろう。
「教授なら、調べられますか?」
「ええ」
あまりにもあっさりと答えられた。
「私には、いくつか伝手がありますから」
その言葉を聞いて。
リゼットは少しだけ黙った。
やはり、この人に頼らなければ調べられない。
教会に残された古い記録だけでは、ここから先へ進めないと思いを深める。
王国軍の資料。
当時の街道記録。
保護された場所。
誰が少女を見つけたのか。
それらを繋ぎ合わせるには、どう考えてもアルバの持つ人脈が必要だった。
――怖い。
昨日よりもこの人が真相を知っているのではないかという疑念は、確かに強くなっている。
それでも。
「……お願いします」
リゼットは言った。
「私も、調べたいです」
「えぇ、もちろん」
アルバは微笑む。
「ただ、資料を照合するには少し時間がかかります」
「はい」
「その間に、一つお願いしてもいいでしょうか」
「お願い?」
「知人に渡してほしい書類があるのです」
アルバが一枚の封書を取り出した。
「街の外にある巡回所へ届けていただけますか?」
リゼットは封書を見る。
「私が?」
「ええ。大した距離ではありません」
少し考える。
そして。
「……分かりました」
受け取った。
「助かります」
アルバは穏やかに笑った。
「ついでに、周辺の街道に異常がないか見てきてください。最近、魔獣の動きが少し気になるという話もありますから」
「分かりました」
リゼットは封書を鞄へ入れた。
部屋を出る。確かに一歩一歩、自分のかつてに近づいていく感覚を抱きながら。
◇
扉が閉じたあと、アルバは一人、机の上に残った資料へ目を落とした。
「君は私を頼らざるを得ない。そう誘導しているからね」
小さく呟く。
そして。
「フフ。君はどのように成長してくれるかな」
誰に聞かせるでもなく。
そう言った。
◇
ボースを出る。
街の喧騒が遠ざかるにつれて、周囲は静かになっていった。
街道脇には草原が広がっている。
風が吹き、草が揺れる。爽やかな風は穏やかで、心が晴れ渡るような気分だった。
リゼットは歩きながら、何度も鞄へ手をやった。
中には、アルバから預かった封書がある。
そして、自分が教会で書き写した記録も。
エーヴェル。
その文字を見るたびに妙に胸の奥がざわつく。
「……私は、何者だったんだろう」
答えはない。
アルヴェーン家で過ごした時間。
父と母、小さな家。果樹園。
あの窓から浴びる朝の光。
それらだけは確かなものだ。
だからこそ過去を知ることが怖い。
今の自分まで嘘になってしまうような気がする。
そう考えてしまった、そのときだった。
「――リゼット?」
聞き覚えのある声がした。
「……え?」
振り向く。
街道の先に、三人の姿があった。
「やっぱり!」
エステルが大きく手を振っている。
「リゼットじゃない!」
「エステル……?」
その隣にはヨシュア。
そして、もう一人。
長い髪の女性が立っていた。
リゼットは、その顔にも見覚えがあった。
確か、ロレントのギルド支部にたまにいたはずで、エステルとヨシュアと仲良さそうだった女性だ。
けれど、すぐには名前が出てこない。
「……えっと」
女性の方が、先に笑った。
「久しぶりね。……と言っても、あなたとはほとんど会っていないけれど」
「あ……」
そこで、ようやく思い出す。
「シェラザードさん……ですよね?」
「正解」
シェラザードが軽く笑った。
「エステルたちと一緒にいるところを、何度か見かけたことがあるでしょう?」
「はい。……あと居酒屋で」
リゼットは少し申し訳なさそうに頭を下げた。
「すみません。ちゃんとお話ししたことは、あまりなくて」
「気にしなくていいわ」
シェラザードは肩をすくめた。
「私も、あなたとは挨拶をしたくらいの記憶しかないもの」
「……よかった、知らないところでシェラ姉とリセットが仲良しだったらどうしようかと」
「そこ、安心するところ?」
エステルが笑う。
「だって、シェラ姉とはあたしの方がずっと長い付き合いだもん」
「まあ、そうね」
シェラザードがエステルの頭を軽く小突く。
その様子を見て。
リゼットも、少しだけ笑った。
「エステルたちは、どうしてここに?」
「それはこっちの台詞よ。こんな街道を一人で歩くなんて!」
「うっ」
でも、と続けてエステルが口を開く。
「私たちはボースの近くで魔獣が増えてるって話があって、調べに来てたの」
ヨシュアが続ける。
「最近、この辺りで何度か目撃されているんだ」
「そうなんですか?」
「うん。まだ原因は分かっていないけど」
そのとき草むらが、大きく揺れた。
ヨシュアの表情が変わる。
「……来る」
「え?」
次の瞬間。
草むらから魔獣が飛び出した。
猫のような魔獣だ。
「リゼット、下がって!」
エステルが叫ぶ。
反射的に、リゼットは後ろへ下がった。
シェラザードが前へ出る。
「エステル、右!」
「分かってる!」
エステルが走り、ヨシュアが反対側へ回り込む。
シェラザードが魔獣の動きを抑え、二人がその隙を突く。
三人は、ほとんど言葉を交わすことなく連携していた。
――すごい。
リゼットは思った。
三人とも動きに迷いがない。
一度魔獣が動けば、次に誰が何をするべきなのか分かっている。
自分とは違う。
自分はただ、怖がっているだけだ。
そのとき一体の魔獣が包囲を抜けた。
「――!」
こちらへ来る。
足が動かない。
魔獣が迫る。
恐怖に胸の奥が、冷たくなる。
恐怖を呼び水にしてか、脳裏に冷たい思い出が過っていく。
水。暗闇。白いもの。あの夜、あの門のーー
呼吸が浅くなる。
悲鳴が喉まで出かかった。
「〈泡になって――〉」
代わりに出たのは異能の言葉。
同時、指先に小さな泡が生まれる。
リゼットは目を見開いた。
そうだ、これを使えば止められる。
単純にそう思った。
けれどその瞬間、別の光景が脳裏に浮かぶ。
消えた。
葉も。木も布も。鉄も。
あの廃墟で泡に触れたものが、消えた。
もしこの泡が魔獣の向こうにいるエステルたちへ飛んだら。
「……っ」
そう予感した瞬間、金縛りのようになって動けなくなる。
使えない。
ーー使いたくない。
この続きを、口にできない。
「リゼット!」
エステルの声が響いた。
次の瞬間。
目の前へエステルが飛び込んできた。
棒が魔獣を弾き飛ばす。
「大丈夫!?」
「……エス、テル」
「ぼんやりしないの! 危ないじゃない!」
「ご、ごめんなさい……!」
「謝るのはあと!」
エステルは魔獣から目を離さない。
「今は下がってて!」
「……はい!」
リゼットは後ろへ下がった。
指先の泡が、小さく揺れる。
そしていつの間にか消えていた。足元の草を道連れに。
それからしばらくして最後の魔獣が倒れた。
街道に静寂が戻る。
「……終わったわね」
エステルが息を吐く。
ヨシュアが周囲を確認する。
「うん、もういないみたいだね」
シェラザードも武器を収めた。
「怪我は?」
「私は大丈夫」
エステルが答える。
「ヨシュアは?」
「問題ないよ」
シェラザードがリゼットを見る。
「あなたは?」
「……私も、大丈夫です」
「そう」
シェラザードは、それ以上何も聞かなかった。
リゼットは、自分の手を見つめていた。
震えている。
さっき自分はーーけれど。
できなかった。
――いや、違う。
できなかったんじゃない。
使わえなかった。怖かったからだ。
もし使えばエステルたちまで傷つけるかもしれなかった。
そう思った瞬間動けなくなった。
そのことに気づいて、リゼットは小さく息を吐いた。
「リゼット?」
エステルが声をかける。
「……はい」
「大丈夫?」
「大丈夫」
少しだけ間を置いて。
「助けてくれて、ありがとうございました」
「そんなの気にしなくていいって!」
エステルが笑う。
「困ったときはお互い様でしょ?」
「……うん」
その言葉が、胸に残った。
エステルたちは、何も知らない。
知らなくていいのだ。こんなことは。
あの夜のことも。
今は誰にも話すつもりはなかった。
「ところで、リゼットはこれからどうするの?」
エステルが尋ねる。
「私は……」
一瞬、言葉に詰まる。
アルバ教授から預かった封書。
街道を出る前に言われたことを思い出す。
「用事を済ませたらボースへ戻ろうかなって」
「用事?」
「……うん。教授から頼まれている用事があるんだ」
エステルが「ああ」と頷く。
「アルバ教授か」
ヨシュアも納得したように頷いた。
「それなら、仕方ないわね」
「はい。少し寄るところがあるので」
「そっか」
エステルは残念そうにしながらも、それ以上は聞かなかった。
「じゃあ、またボースで会えるかもね!」
「そうですね」
リゼットは笑う。
「また、会えたら」
「うん!」
ヨシュアが軽く手を上げる。
「気をつけて」
「ありがとうございます」
シェラザードも小さく頷いた。
「それじゃあ、またね」
「はい。シェラザードさんも」
三人が歩き出す。
リゼットも、別の方向へ向かう。
何度か振り返りそうになった。
けれど振り返らなかった。
代わりに思いを馳せるのは先程のことだ。
――使わなくても大丈夫だった。
それは、今まで知らなかったことだった。
自分の力を使わなくても。
誰かが守ってくれることがある。
そして自分自身で使わないと選ぶこともできる。
その小さな事実だけを誰にも話さずに胸の奥へしまった。
◇
巡回所へ到着すると、知り合いだという男にリゼットはアルバから預かった封書を渡した。
担当者は封書を見るなり頷いた。
「アルバ教授から、か」
「はい」
「分かった。預かっておこう。私からも彼に渡してほしいものがある。頼めるかな」
「大丈夫です」
差し出された封書を鞄にしまう。
そこでリゼットは少し迷った。
「……あの」
「どうした?」
「1196年の記録について、何か残っていませんか?」
ダメで元々、どうせなら、自分の成果もなにか欲しかった。
問い合わせた内容に担当者が首を傾げる。
「1196年?」
「はい。ロレント近郊で、身元不明の子供が保護された記録、とか」
「それなら……」
男は少し考える。
「軍の記録より、当時の巡回担当者の報告書の方が残っているかもしれないな」
「本当ですか?」
「ああ。ただ、俺たちだけじゃ閲覧できない」
そして男は封書を見た。
「教授なら、手配できるかもしれない」
リゼットは黙った。
やっぱりここでも自分一人では届かない。
けれどだからといってアルバに何もかも任せるつもりもなかった。
「……分かりました」
リゼットは言った。
「教授にお願いしてみます」
その言葉に今度は、自分から選んだという感覚があった。
頼る。
けれど任せるわけではない。
調べ、そして自分で確かめる。
足りないところをお願いする。
ある意味正しい形ではないだろうか。
街道へ戻る途中リゼットは一度だけ振り返った。
ボースの向こう。
遠くに、街が見える。
その先に自分の知らない過去がある。
そしてその過去へ続く道を。
今はまだアルバという人間の手を借りなければ、歩けない
それが少しだけ悔しかった。