身喰らう断章 作:石鹸
翌日の朝。
リゼットは、宿の部屋で戦術オーブメントと向き合っていた。
机の上には、昨日アルバ教授から渡された装置と、小さなクオーツがいくつか並んでいる。
「……ここ、ですか?」
「ええ。そのまま差し込んでみてください」
向かいに座ったアルバが指を示す。
リゼットは緑色のクオーツを手に取り、中央のスロットへ慎重に差し込んだ。
かちりと小さく小気味のいい音がした。
「入りました」
「では、少し導力を流してみましょう」
「どうやって……?」
「最初は難しく考えなくて大丈夫です。オーブメントを持って、クオーツに意識を向けるようなイメージです」
「意識を……」
リゼットは言われた通りに目を閉じた。
手の中の装置へ、少しだけ意識を集中させる。
中央の導力結晶が淡く光った。
「……光りました」
「ええ。それで十分です」
「これが導力なんですね」
「そうです。今は、オーブメントの中を導力が通っただけです」
リゼットは目を開ける。
「じゃあ、これだけではアーツは使えない?」
「ふむ……もう少しだけ必要ですね」
アルバはクオーツを指した。
「そのクオーツが、導力を術式に変えてくれます。ですから、何を使いたいかによって、入れるものも変わります」
「……なるほど」
「例えば、回復をしたいなら、それに向いたクオーツを使う。攻撃なら攻撃用のものを選ぶ、といった具合です」
「じゃあ、これを入れ替えれば……」
「使えるアーツも変わります」
「便利ですね」
「便利ですが、慣れないうちは少し面倒かもしれません」
教授が苦笑する。
「クオーツの組み合わせを考えるのも、オーブメントを扱う者の仕事ですから」
「組み合わせ……」
リゼットは装置を覗き込んだ。
「難しそうです」
「最初から全部覚える必要はありませんよ」
アルバは別のクオーツを一つ取り上げた。
「アーツについてはまずは一つ、使えるようになれば十分です」
「一つだけ?」
「一つ使えれば、次は二つ目です」
当たり前のことを言われただけなのに。
リゼットは少しだけ気が楽になった。
「……それなら、やってみます」
「ええ」
アルバは机の端に置いてあった木片を、リゼットの前へ置いた。
「では、これを狙ってみましょうか」
「木に?」
「練習ですから」
リゼットは頷いた。
オーブメントを握り直す。
「さっきと同じように、導力を……」
「そうです。そのまま」
淡い光が生まれる。
次の瞬間。
小さな風が机の上を走った。
木片がころりと転がる。
「……できました」
「はい」
「これが、アーツ……」
「そうです」
リゼットは自分の手を見る。
泡は出ていない。
何も消えていない。
胸の奥に、奇妙な安堵が広がった。
「……もう一度、やってもいいですか?」
「もちろんです」
今度はさっきより落ち着いて導力を流す。
風が起こり、今度は木片が少しだけ強く動いた。
「できました」
思わず、リゼットの口元が緩む。
アルバはそれを見て、静かに笑った。
「上出来ですよ」
「……本当ですか?」
「ええ。少なくとも、昨日よりは頼れるものが一つ増えましたね」
その言葉に、リゼットはオーブメントを見つめた。
「頼れるもの……」
「昨日のことを気にしているのでしょう?」
リゼットが顔を上げる。
その通りだったからだ。
「……」
「魔獣を前にして、何もできなかったことです」
「……はい」
「でしたら、次は何ができるかを覚えていけばいいのです」
「……そうですね」
「一つずつでいいのです」
その言葉に、リゼットは小さく頷いた。
そうだ、次、次がまだあるのだ。
「はい」
「勤勉でとてもよろしい。さて、そんなリゼットさんに一つ、朗報があります」
机の端に置かれていた封筒へ教授が目を向けた。
「昨日お願いされていた件ですが」
「……!」
リゼットの表情が変わる。
「エーヴェル村のことですか?」
「ええ。少しだけですが、進展がありました」
アルバは封筒を手に取った。
「連絡を取ったところ、当時のロレント方面の巡回記録から担当者の名前までは辿れました」
「もう、ですか?」
「ええ、幸運ですね。記録が残っていたようです」
「その人は……」
「事件後に補足報告を提出しているようです」
「補足報告?」
「正式な調査報告とは別のものです。現場で気になった点を、個人的にまとめて提出したのでしょう」
「……そこに、何か書いてあるんでしょうか」
「まだ中身までは確認できていませんが……」
教授は封筒を机へ戻した。
「ですが、保管されている場所は分かりました。照会してみます」
「お願いします」
「もちろんです」
リゼットは頷いた。
昨日までなら、一刻も早く中身を知りたいと思っただろう。
何があったのか。
自分は誰だったのか。
エーヴェルという言葉を、なぜ覚えているのか。
けれど今は机の上の戦術オーブメントを見る。
過去を知るために必要なのは、あの力だけではない。
当然ながら、記録を探すこともできる。
人に頼ることもできる。
自分で新しい力を覚えることもできる。
「……私も、できることを探してみます」
「それがよいでしょう」
アルバは穏やかに頷いた。
「焦らないことです」
「はい」
「過去を調べるのも、オーブメントを覚えるのも、急ぐ必要はありません」
「……分かりました」
リゼットはオーブメントを手に取った。
冷たい金属の感触。
中央の導力結晶が、淡く光っている。
昨日までなかった力。
自分で覚えて、自分で使う力。
「もう少し、練習してみてもいいですか?」
「もちろんです」
アルバは立ち上がった。
「ただし、夢中になりすぎないようにしてくださいね」
「はい」
教授が部屋を出ていく。
扉が閉じたあとリゼットはもう一度、オーブメントを握った。
今度はさっきよりも少しだけ自然に。
導力が、指先から装置へ流れていくような不思議な感覚。
淡い光が生まれ、その光を見ながら、リゼットは思った。
――頼ることと、信じることはやっぱり、同じではない。
けれど頼ることを選ぶのも、自分自身なのだ。
そう思いながら、リゼットはもう一度、アーツを発動させた。
「……よし」
今度は、さっきよりも上手く導力が流れた。
小さな風が生まれ、机の上に置いた紙をふわりと持ち上げる。
「……できた」
最初はほんの少し動かすだけだった。
それが今では、狙った方向へ風を送れるようになっている。
もちろん、まだ戦いで使えるほどではない。
けれど自分の意思で動かせる。
それだけで、少し嬉しかった。
「もう一回……」
そのとき。
外から、何かが倒れる音がした。
「……?」
リゼットは窓の方を見る。
続いて、人の声が聞こえた。
「誰か、手を貸してくれ!」
何かあったらしい。
リゼットは少し迷った。
昨日なら、外へ出ること自体を躊躇していただろう。
街道で魔獣に遭遇したばかりなのだから。
けれど窓の外を見ると、宿の近くの通りで人が集まっているのが見えた。
「……行ってみよう」
部屋を出る。
通りへ出ると、荷車が一台横倒しになっていた。
荷台から木箱がいくつか転がり、道を塞いでいる。
どうやら曲がり角で車輪が石に乗り上げたらしい。
急いで持ち主らしい男性に話しかける。
「大丈夫ですか?」
「ああ、怪我はない。ただ、このままだと通れなくてな」
荷車を起こそうとしている男の隣で、別の男性が車輪を確認している。
「車軸が外れちまってる」
「これでは動かせませんね……」
リゼットも荷物を拾うのを手伝う。
そのとき荷台の端に積まれていた木箱が、ぐらりと揺れた。
「危ない!」
誰かが叫ぶ。
箱が落ちる。
その先には、小さな子どもがいた。
実際に当たるかは微妙な距離だ。しかし、驚き、恐怖に染まった表情は動く理由としては十分だった。
「――!」
リゼットは反射的に走った。
けれど、間に合わない。
頭の中に、あの言葉が浮かぶ。
〈泡になって、消えて〉
口を開きかける。
しかし、止まった。
昨日とは違う、今なら頼れる力はこれだけではない。
「……風よ!」
オーブメントへ導力を流す。
小さな風が、箱の側面を押した。
落下の軌道がわずかにずれる。
箱は子どものすぐ横へ落ち、地面に転がった。
「大丈夫ですか!」
リゼットは子どものところへ駆け寄った。
「……うん」
「怪我は?」
「ない」
「よかった……」
胸を撫で下ろす。
周囲から安堵の声が上がった。
「今の、アーツか?」
「え?」
「お嬢ちゃんが使ったんだろ?」
「……はい」
「助かったよ」
リゼットは少し戸惑った。
「いえ……私は」
そこで言葉が止まる。
昨日なら自分の力を使っていたかもしれない。
けれど今日は違った。
泡は出なかった。
何も消えなかった。
誰かを傷つける心配もなかった。
ただ、風を起こしただけ。
それでも間に合った。
「……よかった」
もう一度、そう呟いた。
それを聞いた荷車の男が笑う。
「十分だよ。ありがとうな」
リゼットは小さく頭を下げた。
「どういたしまして」
宿へ戻る道すがら。
リゼットは何度も、自分の手を見た。
自分の力。
そう呼んでいたものとは違う。
けれどこれも、自分が使った力だった。
そして誰かを守るために使えた。
その事実が、思っていたよりも大きかった。
宿へ戻ると、受付の女性が声をかけてきた。
「リゼットさん」
「はい?」
「さっきアルバ先生が戻ってきていましたよ」
「教授が?」
「ええ。お部屋にいらっしゃると思います」
「ありがとうございます」
リゼットは階段を上がる。
扉を叩く。
「どうぞ」
「失礼します」
中へ入ると、アルバ教授が机に向かっていた。
「おかえりなさい、リゼットさん」
「ただいま戻りました」
「先ほど、街で騒ぎがあったようですね」
「……見ていたんですか?」
「いえ。宿へ戻る途中に聞いただけですよ」
アルバは微笑んだ。
「どうやら、リゼットさんが手を貸したそうですね」
「……はい」
「それはよかった」
教授は机の上に一枚の紙を置いた。
「そして、こちらも少し進展しました」
リゼットの視線が紙へ向く。
「エーヴェル村の記録ですか?」
「ええ」
「何か分かったんですか?」
「当時の巡回を担当した兵士について、少しだけ」
教授は紙を指で押さえた。
「名前と所属、それから事件後に提出した補足記録の存在まで確認できました」
「……それなら」
「ただし、記録そのものはまだ手元にはありません」
「そうですか」
「ですが、保管場所が分かりました。明日、照会をかけます」
「明日……」
リゼットは紙を見つめる。
昨日までなら、もっと焦っていたかもしれない。
今すぐ知りたい。
今すぐ確かめたい。
けれど今日は一つ、別のことを知った。
自分には、あの力だけしかないわけではない。
「分かりました」
「意外と落ち着いていますね」
「……少しだけ、待てる気がします」
アルバが目を細める。
「それはよい変化ですね」
「今日、オーブメントを使ってみました」
「そうですか」
「まだ簡単なアーツしか使えませんけど……」
リゼットは少し照れたように笑う。
「誰かを助けることができました」
「それは何よりです」
アルバは穏やかに答えた。
「力というものは、使い方次第で意味が変わりますから」
「……使い方次第」
「ええ」
その言葉を聞きながら、リゼットは考える。
自分の異能もそうなのだろうか。
あの力も使い方を覚えれば、制御できるようになれば何か別の意味を持つのだろうか。
しかしすぐに、その考えを打ち消した。
あの力は、使うたびに自分をあの夜へ連れ戻す。
使わずに済むなら、その方がいい。
「……教授」
「はい?」
「明日、記録を見に行くことになったら」
「ええ」
「私も一緒に行っていいですか?」
「もちろんです」
答えは穏やかだった。
けれど、その瞬間。
リゼットの中では、もう一つの選択が生まれていた。
過去を知る。
そのために、自分で動く。
誰かに連れて行かれるのではなく。
自分で決めて。
自分で確かめる。
その夜。
机の上には、戦術オーブメントが置かれていた。
その隣には、まだ開かれていない古い記録の写し。
リゼットは二つを交互に見つめる。
片方は、これから覚えていく力。
もう片方は、これから知る過去。
どちらもまだ、自分の手の中にある。
そしてそのどちらをどう使うのかを決めるのも。
――自分自身だった。