身喰らう断章 作:石鹸
翌朝。
ボースの空は、薄い雲に覆われていた。
「こちらです」
アルバ教授の後ろを歩きながら、リゼットは周囲を見回していた。
昨日までとは違う。
同じ街を歩いているはずなのに、今日は少しだけ緊張がある。それは向かっている場所に自分のかつてがあるからだろうか。
向かっているのは、ボースにある王国軍の記録保管所だ。
「本当に、見せてもらえるんでしょうか」
「話は通してありますから、大丈夫ですよ」
「……教授は、こういうことに慣れているんですね」
「ふふ、長く各地を歩いていますと、自然とこういう知り合いも増えるものです」
アルバはいつもの調子で答えた。
「ただし、閲覧できるのはあくまで公開に近い記録だけです。機密に指定されているものまでは無理ですよ」
「それは……そうですよね。分かっています」
やがて二人は、古い建物の前で足を止めた。
派手さのない石造りの建物。
中へ入ると、紙と古い木材の匂いがした。
「アルバ先生ですね」
「ええ。昨日お話しした件で伺いました」
受付にいた軍人が書類を確認する。
「エーヴェル村の一件でしたね」
「はい」
「……かなり古い記録ですが、よく見つけましたね。我々でも探して驚いたくらいです」
その言葉に、リゼットは少しだけ顔を上げた。
軍人は首を振ってさらに言葉を重ねる。
「当時の担当者が残した補足記録なんて、普通はわざわざ探しませんから」
「そうですか」
「えぇ。おっと、こちらです」
案内された部屋には、いくつもの棚が並んでいた。
アルバが記録番号を確認する。
「これですね」
古びた箱が一つ、棚から取り出された。
蓋を開ける。
中には、数冊の書類と写真が収められていた。
「これが……」
「ええ」
リゼットは息を呑んだ。
ただの紙の束、ただの写真
その中に、自分の知らない過去が眠っているのだ。
アルバが一冊を取り出した。
「担当者の補足報告は、この辺りでしょう」
表紙をめくる。
日付。
所属。
記録者の署名。
そして。
「……エーヴェル村」
確かな記載だ。
リゼットの声が小さくなる。
指先が震えた。
ようやくわかるのだろうか。失ったかつてを。
「ゆっくりで構いませんよ」
「……はい」
最初の数ページには、現場の状況が淡々と記されていた。
曰く。住民の姿は確認できなかった。
曰く、家屋に大きな損壊はなし。
曰く、生活用品の多くが残されている。
曰く、村の入口付近に争闘の痕跡。
そこまでは、既に知っている情報だ。
「……やっぱり、同じですね」
「ええ」
ページをめくる。
手が止まった。
「……これ」
そこには、短い一文があった。
――村内に、通常の水滴とは異なるなんらかの泡とおぼしき透明な球状物を複数確認。
――接触した箇所に、物質の欠損を認める。
「……泡」
リゼットの胸が締めつけられる。
アルバは黙っている。
リゼットは次の行へ目を走らせた。
――その現象は村内の複数箇所で確認され、発生地点について規則性は認められず。
――その特異性から不用意に接触することは危険と判断し、詳細な調査は中止。村の周辺に魔獣の痕跡があるため、襲撃やなんらかの術による村への干渉があったと思われる。
「……私の力と」
言葉が続かない。
けれど、似ている。
あまりにも。
「どう思いますか?」
アルバの問いに、リゼットはすぐには答えられなかった。
「あの泡だと、思います」
「そうですね」
肯定されたことが、かえって怖かった。
もう一枚、ページをめくる。
そこには、別の記述があった。
――なお、調査中にロレント近郊で身元不明の少女一名を保護。
リゼットの呼吸が止まった。
「……少女」
視線が文字に釘付けになる。
――年齢、およそ五、六歳。
――発見時より「エーヴェル」と発言あり。
「…………」
自分が教会の記録で見たものと同じだ。
思わず紙へ手を伸ばす。
まだ一枚ある。
何が書かれているのか。
少女の特徴。
保護。された場所。
何を覚えていたのか。
何か、自分へ繋がるものがあるかもしれない。
指先が次のページをめくる。
――少女については、
「……え?」
そこで終わっていた。
ページが、ない。
「教授」
リゼットは呆然とした。
「この次……」
アルバも紙を確認する。
前のページ。
次のページ。
確かに続きがあるはずなのに一枚だけ綺麗に抜き取られている。
「……抜かれていますね」
「はい」
リゼットの声が震えた。
「どうして……」
「古い紙です。かなり前に抜かれたものでしょう」
「でも、どうしてここだけ……」
「それは分かりません。人為的なものはもちろん、例えば資料の移動などが原因で抜けてしまった可能性も否定できません。」
アルバの声は穏やかだった。
結局、その場でこれ以上調べることはできなかった。
閲覧できる記録には、続きが残っていない。
係員に尋ねても、ここに移された後、別の保管場所へ移された記録も特に確認できないという。
二人は礼を告げ、建物を出た。
「……」
外へ出ても、リゼットは無言だった。
手の中にある情報は少ない。
その少なさが、かえって重かった。
自分らしき少女。
エーヴェルという言葉。
そして、そこから先だけが消えている。
「リゼットさん」
「はい」
「今日はここまでにしましょう」
「……はい」
そう答えた直後だった。
遠くから、騒がしい声が聞こえた。
「魔獣だ!」
「下がれ!」
ざわめき。
悲鳴。
駆けてくる足音。
リゼットが振り向く。
大通りの向こうから、人々がこちらへ逃げてくる。
「どうしてこんなところに……?」
次の瞬間。
先程までいた建物の陰から、一体の魔獣が飛び出してきた。
続いて、もう一体。狼のような姿をしている。
さらにその後ろから、何体もの小型魔獣が路地を抜けてくる。
まるでどこかから一斉に湧き出してきたかのようだった。
「多い……!」
「下がってください」
アルバの声が低くなる。
係員たちも建物から飛び出してきた。
「こちらへ!」
逃げ遅れた人を誘導しようとする。
その中に、さきほど記録を見せてくれた係員の姿があった。
魔獣が一体、そちらへ向きを変える。
「――危ない!」
リゼットはオーブメントを構えた。
「風よ!」
風が巻き起こる。
魔獣の進路がわずかに逸れた。
だが、止まらない。
「っ……!」
もう一度。
「風よ!」
今度は真正面からぶつける。
魔獣の足が止まった。
しかし、成果はほんの一瞬で、たったそれだけだった。
係員が逃げようとする。
だが、別の魔獣が横から飛び出した。
「っ、また!」
間に合わない。
アーツを撃つ。
けれど魔獣との距離が近すぎる。
そもそも威力も足りない。
魔獣が係員へ迫る。
その瞬間、リゼットの胸の奥が冷たくなった。
水。
夜。
暗闇。
白いもの。
伸ばされた手、遠くに響く、怒声。
「……っ」
呼吸が止まる。
ーー使いたくない。
怖いからだ。
あの力は触れたものを消してしまう。
ーーけれど目の前にいる人を助けるには。
リゼットは震える手を握り締めた。
「〈泡になって、消えて〉ーーッ!」
透明な泡が生まれる。
視界が歪む。
理由のわからない恐怖が呼び起こされて頭の奥が痛む。
それでもリゼットは泡を魔獣へ向かわせた。
触れた部分が、溶けるように静かに消える。
毛皮を溶かされ、肉と神経がむき出しにされた魔獣は苦痛の叫びをあげ、無理に振り向こうとした故に動きが崩れた。
「今だ!」
係員がその場から駆け出す。
魔獣を牽制し、軍人たちが一斉に距離を取らせる。
やがて駆けつけた兵士たちによって魔獣の群れは数をどんどんと減らしていく。
静かになった大通り。
人々の安堵した声が聞こえる。
リゼットはその場に立ち尽くしていた。
「……」
手が震える。
息が苦しい。
胸の奥には、まだあの夜の感覚が残っている。
「リゼットさん」
アルバの声に顔を上げる。
「大丈夫ですか? 顔色が悪いですよ」
「……はい」
少しだけ間を置く。
「怖かったです」
「ええ、そうでしょう」
「でも……」
リゼットは、先ほど助けた係員を見た。
その人は仲間に支えられながら、こちらを振り返っている。
「ありがとうございました!」
遠くから声がした。
リゼットは目を見開く。
自分の泡で人を助けられた。
「……私」
胸元へ手を当てる。
「助けられた」
言葉にすると、不思議だった。
今まで、泡はリスクのある恐怖の象徴のひとつで、ただ怖いものだった。
あの断片的な夜と、過去を忘れてしまってるゆえに理由のわからない恐怖を思い出させるものだった。
けれど今は違う。
もちろん完全にではない。
怖さは消えていない。
使った瞬間、少しだけ記憶は甦り、当時の恐怖がより鮮明に思い出されていく。
「……この力でも、人を助けられる」
ぽつりと呟く。
「そうですね」
アルバは静かに答えた。
「力は、使い方によって意味が変わりますから」
リゼットは自分の手を見た。
「……使い、方」
「ええ」
「私……少しだけ、分かったかもしれません」
「何がでしょう?」
「やっぱり、この力を怖いからって遠ざけるだけじゃ駄目なのかもしれない」
アルバは黙っている。
「知る必要があるんだと思います」
リゼットは続けた。
「どうしてこんな力があるのか。どうして、あの村で……」
そこで言葉を切った。その先は自分でもわからなかったからだ。
「それに、どうすれば使えるのか」
少しだけ視線を落とす。
「……どうすれば、使わずに済むのかも」
アルバの目が、ごく僅かに細くなる。
だが、それ以上は何も言わなかった。
「であれば、王国軍の記録だけでは、難しいかもしれませんね」
「……はい」
「でしたら」
アルバは穏やかに続けた。
「別のところまで探してみるという方法もあります」
「別のところ?」
「もう少し先で紹介する予定でしたがーー《結社》という組織をご存じですか?」
リゼットは首を横に振った。
「名前くらいなら……」
「表立って活動している組織ではありませんからね」
アルバは周囲を確認しながら話す。
「彼らは古代文明や導力技術だけではなく、通常の学問では扱いきれない現象についても調べています」
「……異能も?」
「ええ」
リゼットの表情が変わる。
「それなら……」
「王国に残っている記録より、深く調べられる可能性はあるでしょう」
「……」
「エーヴェル村で何が起きたのか」
アルバの言葉は穏やかだった。
「なぜ、あなたにこの異能が発現したのか」
そして。
「この力を制御する方法があるのか」
リゼットは息を呑む。
「……制御」
「それだけではありません」
アルバは少し間を置いた。
「もし、異能そのものを変える方法や、取り除く方法が存在するとしたら――それを探すことも、可能性としては考えられます」
「……取り除く」
その言葉だけが、強く残った。
「あくまで可能性の話ですよ」
アルバは念を押す。
「私自身、そのような方法が存在すると断言できるわけではありません」
リゼットは答えなかった。
ただ、胸の中で何度も言葉を繰り返していた。
この力をいつか、なくせるかもしれない。
そう思った瞬間。
ほんの少しだけ胸の奥が軽くなった気がした。
「……行ってみたいです」
口から言葉がこぼれる。
「本当に、そんな方法があるのか」
手を握る。
「確かめたいです」
「そうですか」
「《結社》なら……もっと深く調べられるんですよね」
「可能性はあるでしょう。ただ、彼らについては親にすら内緒にしてください。もちろん、エステル君たちにも。なにせ、表立っていない組織ですから」
アルバは頷いた。
「ですが、決めるのはリゼットさんです」
「……はい」
「誰を頼るのか。どこまで知ろうとするのか。そして、どの道を選ぶのか」
アルバは静かに告げた。
「それは、あなた自身が決めることです」
リゼットはしばらく黙っていた。
怖い。
まだ何も分からない。
《結社》というものが、本当はどんな組織なのかさえ知らない。
それでも今までにはなかった道が、目の前に現れた。
それは過去を知るための道で、異能を知るための道だ。
そしてもしかしたら、この力そのものから離れるための道でもある。
「わかりました……自分で、決めます」
「ええ」
アルバは微笑んだ。
その横顔には、いつもと変わらぬ穏やかさしか浮かんでいない。
けれど、その胸の内では別の判断が下されていた。
――制御できる可能性。
完全ではない。
精神的な負荷も残っている。
それでも、彼女は自ら発動を選び、対象を見極め、異能を行使できた。
ならば急ぐ必要はない。
彼女が自分で調べたいと思うなら。
自分で答えを求めたいと思うなら。
その先に《結社》という道を置いておけばいい。
必要なのは、命令ではない。
ただ、選択肢を見せることだ。
彼女自身の意思で、それを選ばせる。
アルバはーー《身喰らう蛇》第三柱たるゲオルグ・ワイスマンは目の前の実験成果兼実験動物を前に、喉の奥で嗤う。
ーー君は、かつてもこの先も、君自身で選んだというものはひとつもない。全ては、私の手のひらの上なのだから。