身喰らう断章 作:石鹸
それから数週間。教授の仕事を手伝いつつもリゼットは異能とアーツの扱いを練習していた。
途中教授が二日ほどフィールドワークに出るなどと言って帰ってこなくなったときはとても慌てたものだが、やがてけろっとした顔で戻ってきた。
そうして、ルーアンを発って定期便から見下ろした景色に町が現れ、巨大な導力施設が見えてきた。
白煙を上げる煙突。
複雑に組み上げられた配管。
街のあちこちから響く、機械の駆動音。
「……大きい」
リゼットは思わず足を止めた。
「ツァイスです」
アルバ教授が答える。
「王立中央工房がありますからね」
「ここに?」
「ええ」
リゼットは街を見回した。
ボースともルーアンとも違う。
街そのものが、一つの大きな研究施設のようだった。
「ここで、何を調べるんですか?」
「異能についてです」
その答えに、リゼットは教授を見る。
「昨日の方から受け取った手帳に、少し気になる記述がありましたからね」
「……あの、球状の現象について?」
「それもあります」
アルバは前を向いたまま続けた。
「以前、中央工房で特殊現象を研究していた方がいるそうです」
「特殊現象……」
「魔獣でもアーツでも説明できない現象を扱っていた人物です」
「異能も?」
「ええ」
その言葉を聞いてから。
リゼットは少しだけ歩く速度を上げた。
今まで自分の力について尋ねることは、どこか怖かった。
聞けば聞くほど、あの夜に近づくような気がしていた。
けれど今は知らないことの方が怖い。
やがて、中央工房から少し離れた小さな建物の前で、アルバが足を止めた。
「ここです」
「ここ……ですか?」
「ええ」
古びた扉を叩く。
中から、くぐもった声がした。
「開いてる」
アルバが扉を開ける。
部屋には、本と機械部品が所狭しと並んでいた。
壁には古い図面。
机の上には導力器の分解部品。
その奥で、白髪の男が眼鏡を押し上げた。
「……アルバか」
「ご無沙汰しています、ノアさん」
「お前がここを訪ねてくるなんて珍しいな」
男の視線がリゼットへ移る。
「そっちは?」
「私と一緒に調査をしている方です」
「ほう」
ノアは立ち上がった。
「それで?」
「少しお聞きしたいことがあります」
アルバは持ってきた手帳を机へ置いた。
「この現象についてです」
ノアは手帳を開く。
数頁読む。
眉間に皺が寄った。
「……これは」
「何か分かりますか?」
「確証はない」
ノアは眼鏡を外した。
「だが、似た報告を昔読んだことがある」
リゼットの心臓が跳ねた。
「本当ですか?」
「落ち着きなさい」
ノアは彼女を見る。
「似ているだけだ」
「……はい」
「ただし」
机の引き出しから、古い紙束を取り出す。
「これだ」
その中には、中央工房に残されていた古い研究記録の写しがあった。
ノアは一枚を指で叩く。
「これは十数年前、ある村で確認された特殊現象についての私的な報告だ」
リゼットが読む。
――透明な球状物。
――接触部位の消失。
「……」
息が止まった。
「これ……」
「お嬢さんの力に似ているか?」
「……はい」
ノアは黙った。
「実はな」
ゆっくりと言葉を続ける。
「昔から、極めて稀だが、通常のアーツでは説明できない能力を持つ人間がいる」
「それが……異能?」
「一般には、そう呼ばれている」
ノアは別の紙を取り出した。
「だが問題は、その能力がどうやって現れるのかだ」
「……どうやって?」
「生まれた時から使える者もいる。幼少期から兆候がある者もいる」
一枚めくる。
「一方で、突然発現する例もある」
リゼットの指が止まった。
「突然……」
「ああ」
「何か、きっかけがあるんですか?」
「そう考えた研究者は昔からいた」
ノアは苦い顔をする。
「強い恐怖。極度の緊張。喪失。生命の危機」
リゼットの呼吸が浅くなる。
「そうした極限状態を経験した直後に、突然能力が発現した例がある」
水。
夜。
暗闇。
白いもの。
「……」
「だが、証拠は少ない」
ノアは続ける。
「再現もできない。何より、人為的に確認しようとすれば非常に危険だ」
「危険……?」
「ああ」
男の顔が険しくなる。
「もし、それを意図的に起こそうとする者がいたなら、それは研究者とは呼べん」
部屋が静かになった。
「極端な心理状態を作り、その人間の能力を無理やり引き出す」
ノアは吐き捨てるように言う。
「そんなものは実験じゃない。虐待だ」
リゼットの指先が冷たくなる。
「……そんなことを」
「実際にやった者がいる、という証拠はない」
ノアはそう付け加えた。
「少なくとも、私の知る限りではな」
その言葉にリゼットは少しだけ息を吐いた。
けれど、胸の奥のざわめきは消えなかった。
「あの……」
「何だね?」
「その、突然発現する人って……」
言葉が詰まる。
「その人自身は、自分が何をしたのか覚えているんでしょうか」
「例による」
ノアは答えた。
「混乱して何も覚えていない者もいれば、発現した瞬間だけを鮮明に覚えている者もいる」
「……」
「記憶というものは厄介でね。極端な恐怖を経験した場合、出来事そのものより、断片的な感覚だけが残ることもある」
リゼットの胸が苦しくなる。
自分だ。
そう思った。
けれどまだ、そうだとは言えない。
自分の記憶には、あまりにも欠けているものが多い。
「それで」
アルバが口を挟んだ。
「発現後の制御については?」
「それこそ、個人差が大きい」
ノアは少し考える。
「能力の性質を理解し、自分が何をしているのかを把握することで安定する場合もある。逆に、発動条件そのものが過去の記憶と結びついている場合は――」
「……場合は?」
「使うたびに、その時の心理状態を再現してしまうことがある」
リゼットは目を伏せた。
「……私」
口から漏れた。
「心当たりがあります」
アルバがこちらを見る。
だが、何も言わない。
「力を使うと、あの夜のことを思い出します」
ノアの表情が変わった。
「……そうか」
「だから、使うのが怖いんです」
「それは当然だろう」
ノアは優しく言った。
「自分にとって最も恐ろしい記憶と、能力の発動が繋がっているならな」
「でも……」
昨日のことを思い出す。
魔獣。
逃げ遅れた人。
そして自分の泡。
「昨日は、使ってよかったと思いました」
自分でも不思議だった。
「怖かったけど……誰かを助けられた」
「それは大きい」
ノアが頷く。
「自分の能力を『恐怖の記憶』だけで定義しなくなったということだからな」
リゼットは顔を上げる。
「それで、制御できるようになるんでしょうか」
「分からん」
即答だった。
「だが、可能性はある」
その言葉に、リゼットの目が揺れた。
「能力を理解すること」
ノアは続ける。
「発動条件を理解すること」
そして。
「自分自身が、力をどう使うのかを決めること」
リゼットは、静かに頷いた。
それは昨日、アルバから言われた言葉とよく似ていた。
「……ありがとうございます」
「礼はいい」
ノアは手帳を閉じた。
「ただ、一つだけ言っておく」
「はい」
「その手帳に書かれている現象が、本当に君の能力と同じものなら」
ノアは少しだけ声を落とした。
「エーヴェル村で起きたことは、単なる失踪事件ではなかった可能性が高い」
リゼットは息を呑む。
「どういうことですか?」
「君の能力が、十数年前から存在していた可能性があるということだ」
「……」
「そして、それが自然発生だったのか。誰かが関わっていたのか」
ノアは首を振る。
「そこまでは分からん」
「……」
けれどその言葉だけで十分だった。
あの村。
自分の力。
消えた住民。
そして誰かが、自分を探していた。
全部が、少しずつ同じ場所へ向かい始めている。
建物を出た後も、リゼットはしばらく無言だった。
ツァイスの街は相変わらず騒がしい。
機械が動いている。
人々が行き交っている。
その日常の中で。
リゼットだけが、別の場所に立っているような気がした。
「教授」
「はい」
「私の力……」
「ええ」
「誰かが、わざと目覚めさせた可能性って」
アルバはすぐには答えなかった。
「学者の仮説としては、あり得るでしょう」
「……」
「ですが、今の時点では推測に過ぎません」
「そうですよね」
リゼットは歩きながら、空を見上げた。
「でも」
拳を握る。
「もし誰かが、私にこの力を使わせたのだとしたら」
その声は小さかった。
「その人を知りたいです」
「なぜでしょう?」
「……怖いから」
少しだけ間を置く。
「私が知らないことを、その人は知っているから」
アルバは何も答えなかった。
ただリゼットの隣を歩く。
しばらくして。
「それなら、一つだけ道があります」
「《結社》……ですか?」
「ええ」
リゼットは振り返らない。
「彼らなら、異能についても、今回のような過去の事件についても、王国とは違う記録を持っているかもしれません」
「……」
「少なくとも」
アルバは穏やかに言った。
「私たちが今知っている範囲より、深いところまで探ることはできるでしょう」
リゼットは足を止めた。
昨日までなら。
そこで迷っていたかもしれない。
けれど今は違う。
「……行きます」
アルバが振り返る。
「《結社》へ?」
「はい」
リゼットは、自分の言葉を確かめるように続けた。
「自分で、確かめます」
「分かりました」
アルバは微笑んだ。
「では、次の準備をしましょう」
ツァイスの夕暮れ。
長い影が二人の足元へ伸びていた。
その向こうには、まだ見えない道がある。
リゼットは知らない。
その道の先で待っているものが。
自分の過去を知る者なのか。
自分の力を求める者なのか。
それとも最初から、自分の人生そのものを見ていた者なのか。
ただ一つだけ今日、初めて知った。
異能は、突然現れることがある。
極限状態をきっかけに。
恐怖や喪失を引き金に。
あの夜が偶然ではなかったのだとしたら。
自分の過去には、まだ一人。
名前すら知らない誰かがいる。
そしてその人物を見つけることができるのは――。
王国の記録だけではない。
もっと深い場所。
もっと暗い場所。
リゼットは、その存在をまだ知らない。
けれどもう、足を止めるつもりはなかった。
ツァイスに着いた翌朝。
中央工房の巨大な建物を見上げながら、リゼットは小さく息を吐いた。
「……本当に大きいですね」
「王国でも最大規模の導力技術研究施設ですから」
アルバ教授が答える。
「昨日の話に関係する資料も、ここなら見つかるかもしれません」
「異能の?」
「それもあります。ただ、今日は別の目的もあるのですよ」
そのときだった。
「――あれ?」
聞き覚えのある声がした。
リゼットの足が止まる。
「リゼット?」
「……エステル」
振り返る。
そこには、エステルとヨシュアがいた。
エステルは驚いた顔をしたあと、すぐに笑う。
「やっぱりリゼットだ! こんなところで会うなんて!」
「私も驚いてる」
「どうしてツァイスに?」
「調べものがあって……」
答えながらアルバを見る。
「私は少し古い資料を調べています」
「へえ」
エステルが頷く。
「実は私たちも、ここに用事があるんだ」
「何の?」
リゼットが尋ねると、ヨシュアが答えた。
「これを調べてもらうんだ」
ヨシュアが、小さな包みを取り出した。
布の隙間から、黒いものが覗く。
リゼットは思わず息を止めた。
「……黒い」
「そう。ちょっと変わったオーブメントでね」
エステルが言う。
「ボースで手に入れたんだけど、父さんから『ラッセル博士に調べてもらえ』って」
「なるほど」
アルバが黒いオーブメントを見る。
その目が、一瞬だけ止まった。
「かなり珍しいものですね」
「やっぱりそう思います?」
「ええ。私も興味があります」
それだけ言って、アルバは視線を戻した。
やがて一行は中央工房の奥へ通された。
「エステル君、ヨシュア君か」
「ラッセル博士!」
「そのオーブメント、見せてくれ」
博士が黒いオーブメントを受け取る。
机の上に置く。
周囲の技師たちが集まってくる。
「どうですか?」
エステルが尋ねる。
「まだ何とも言えん」
博士は装置を接続する。
「だが、通常のものとは明らかに違う」
「どんなところが?」
「それを今から調べるんじゃよ」
リゼットは少し離れた場所から見ていた。
黒い。
ただ黒いだけではない。
光を反射しているはずなのに、目を向けるほど、何かが吸い込まれるような感じがする。
自分の泡とは違う。
けれど。
普通ではない。
そう思わせる何かがあった。
「……リゼットさん」
「はい?」
アルバが小声で呼ぶ。
「どうしました?」
「いえ」
リゼットは首を振った。
「少し、嫌な感じがします」
「そうですか」
アルバはそれ以上聞かなかった。
ラッセル博士が測定装置を作動させる。
導力が流れる。
黒いオーブメントが、僅かに震えた。
次の瞬間。
明かりが消えた。
「……え?」
工房の照明が、一斉に落ちた。
機械が止まる。
導力灯も、表示器も、何もかも。
「なんだ!?」
技師たちの声が飛び交う。
窓の外を見る。
街の導力灯まで消えていた。
「まさか……」
ヨシュアが呟く。
エステルも窓へ駆け寄る。
「街中が……?」
ラッセル博士は、黒いオーブメントを凝視していた。
「こいつが……周囲の導力に干渉したのか」
リゼットは黙っていた。
胸の奥が、妙にざわついている。
あの泡とは違う。
けれどこれは明らかに。
普通の導力現象ではない。
しばらくして、少しずつ導力が復旧していった。
工房には安堵の空気が流れる。
「今日はここまでだ」
ラッセル博士が言った。
「こいつの正体を調べるには、別の方法が必要だ」
その日の夕方。
リゼットは宿の窓から、ようやく明かりが戻り始めたツァイスを見ていた。
「……街全部が止まるなんて」
「かなり大きな現象でしたね」
アルバが答える。
「でも、あれで分かったこともあります」
「何がですか?」
「この世界には、まだ私たちが知らない仕組みがあるということです」
リゼットは黒いオーブメントを思い出した。
「……私の力も、そうなのかな」
「可能性はあるでしょう」
その答えだけを残して。
二人は静かに夜を迎えた。
翌日ラッセル博士は、黒いオーブメントの研究を続けるため、導力の影響を受けない設備を用意することになった。
エステルとヨシュアは、博士のために必要な機材を手配し、その合間にエルモ村の依頼へ向かうことになる。
「じゃあ、また後でね!」
エステルが手を振る。
「うん」
リゼットも手を振り返した。
その日、リゼットとアルバは別行動になった。
アルバは別の資料を調べるため、工房の文書庫へ。
リゼットは街の外で、異能についての古い記録を探す。
そして夕方二人が再び合流しようとした、そのときだった。
中央工房の方角から、黒い煙が上がっている。
「……教授」
「ええ」
アルバの声から、初めて僅かな緊張が消えなかった。
二人は工房へ急いだ。
入口には人だかりができていた。
「何があったんですか!?」
「工房が襲撃された!」
「ラッセル博士は!?」
「中にいたはずだ!」
リゼットの胸が冷たくなる。
黒い煙。
慌てて外へ出てくる技師。
壊れた扉。
そして人々の口から飛び交う言葉。
「博士がいない」
「黒いオーブメントもない」
「誰かに連れ去られたんだ!」
「……」
アルバは周囲を見回した。
「少し、確認してみます」
「教授……?」
「リゼットさんは、ここにいてください」
そう言って中へ入っていく。
リゼットも後を追った。
工房の中は、ひどい有様だった。
煙で視界が悪い。
機材が倒れている。
技師たちは避難していたが、何人か取り残されていた。
「こっちです!」
声がする。
リゼットが振り向く。
一人の技師が床に倒れていた。
「大丈夫ですか?」
「腰を……少し……」
そのすぐ横で、機材が大きく傾いていた。
リゼットはオーブメントを構える。
「――風よ!」
風が吹く。
機材が僅かに動いた。
だが。
重い。
「……動かない」
再び風を起こす。
それでも足りない。
技師を支えるには間に合わない。
その瞬間。
あの感覚が、胸の奥へ戻ってきた。
水。
夜。
暗闇。
白いもの。
リゼットは凍りつく。
「……」
使いたくない。
また思い出す。
あの夜を。
目の前の人は動けない。
リゼットは自分の手を見つめた。
昨日の黒いオーブメント。
自分の泡。
普通ではない力。
どれも、自分には怖いものだった。
けれど昨日、思った。
自分の力を知りたい。
使い方を知りたい。
だったら――
「……私が、選ぶ」
息を吸う。
「〈泡になって、消えて〉」
透明な泡が生まれる。
視界が歪む。
頭の奥が痛む。
あの夜の恐怖が鮮明になる。
それでも泡を機材の一部分へ近づける。
触れたところだけ静かに消えた。
重心が崩れる。
機材が倒れる方向を変えた。
「今!」
リゼットが技師の腕を取る。
その場から離れた直後。
大きな音を立てて機材が倒れた。
「……」
誰も声を出さなかった。
やがて。
「助かった……」
技師が呟く。
「あなたが、助けてくれたのか」
リゼットは答えられない。
手が震えている。
息が苦しい。
頭の中には、まだあの夜の残響がある。
それでも。
「……はい」
小さく頷いた。
「私が、助けました」
その言葉を口にした瞬間。
これまで自分の中にあった「泡」というものの意味が、ほんの少しだけ変わった気がした。
危険な力。
怖い力。
それは変わらない。
けれど。
「……人を助けることも、できる」
リゼットは、自分の掌を見た。
「そうですね」
背後からアルバの声がした。
「あなたは、それを自分で選びました」
リゼットは振り返る。
「……はい」
アルバはそれ以上何も言わなかった。
やがて外から、エステルとヨシュアの声が聞こえた。
「リゼット!」
「エステル……」
二人が駆け込んでくる。
「大丈夫!?」
「うん。私は」
言いかけて。
リゼットは口を閉じる。
泡のことは。
言えない。
「少し煙を吸っただけ」
「そっか……よかった」
エステルが胸を撫で下ろす。
「それより!」
ヨシュアが周囲を見回す。
「博士は?」
誰も答えない。
エステルの顔が険しくなる。
「……ラッセル博士が、いない」
リゼットも頷いた。
「黒いオーブメントも」
「やっぱり、そうなんだ」
ヨシュアが辺りを調べる。
そのとき。
「待ってください」
アルバが口を開いた。
三人が振り向く。
「どうしたんですか?」
「私は、少し前に工房の外で奇妙な人影を見ました」
「人影?」
「ええ」
アルバは淡々と答えた。
「軍人に似た服装でした」
エステルが目を見開く。
「軍人?」
「遠目でしたから、断定はできません」
アルバは慎重に続ける。
「ただ、少なくとも工房を襲った者たちは、あの黒いオーブメントのことを最初から知っていたように見えます」
「どうして?」
ヨシュアが尋ねる。
「一般の研究機材には、ほとんど手をつけていませんでした」
アルバは答えた。
「目的は明確です」
「……博士と黒いオーブメント」
「ええ」
エステルが拳を握る。
「じゃあ、追わなきゃ!」
「うん」
ヨシュアも頷く。
「その人たちが博士を連れて行った可能性が高い」
エステルがアルバを見る。
「教授、どっちへ行きました?」
「おそらく、街の南東です」
「ありがとう!」
エステルとヨシュアが駆け出す。
リゼットも一歩を踏み出した。
けれど。
「リゼットさん」
アルバが呼ぶ。
「はい?」
「あなたは、ここに残ってください」
「……」
「まだ煙が残っています。今は無理に追わない方がいいでしょう」
リゼットは一瞬迷った。
それから。
「……分かりました」
頷いた。
エステルたちの背中が遠ざかる。
リゼットは、その姿を見つめた。
昨日までただ過去を追っていただけだった。
今日エステルたちが追っているものと、自分が知りたいものが、初めて同じ場所に重なった。
黒いオーブメント。
特殊な導力現象。
そして自分の異能。
直接の関係があるとは、まだ言えない。
けれど少なくとも「普通ではない力」を求めて動いている人間が、この国のどこかにいる。
そして、その人間たちはラッセル博士と黒いオーブメントを奪っていった。
「……教授」
「はい?」
「私も、もっと調べたいです」
「何をでしょう?」
「黒いオーブメントのこと」
そして。
「異能のことも」
アルバは静かに頷いた。
「そうでしょうね」
「この二つが同じものだとは思いません」
「ええ」
「でも……普通ではないものを研究している人たちがいるなら」
リゼットは手を握った。
「その人たちなら、私のことも知っているかもしれない」
「可能性はあります」
「だったら」
リゼットは顔を上げた。
「会ってみたいです」
アルバは答えなかった。
ただ。
「その前に」
静かに言う。
「ラッセル博士が、どこへ連れて行かれたのかを確かめる必要があります」
「……はい」
「エステルさんたちも、もう動き始めています」
リゼットは工房の外を見る。
夕暮れのツァイス。
まだ人々のざわめきが残っている。
そして自分の掌には。
風を起こすオーブメントと。
自分だけの、透明な泡。
どちらもまだ自分の手の中にある。
その使い方を決めるのも。
どこへ進むのかを決めるのも自分自身だ。
その一方で。
アルバは静かに工房を見つめていた。
黒いオーブメントが奪われた。
ラッセル博士も連れ去られた。
事件は、予定されていた流れへ戻った。
だがリゼットの異能については。
今日、新しい情報が一つ増えた。
彼女は自分の意思で、能力を人助けに使った。
そしてそれを恐れながらも、「もっと知りたい」と言い始めた。
これは悪くない。
むしろ望んでいたより早い。
アルバは小さく笑った。
次に彼女が求めるものは。
答えだ。
ならその答えがどこにあるのかを少しずつ教えてやればいい。
そしてその先にある場所の名前を。
彼女自身の口から言わせる日も、そう遠くはない。
――《結社》。
その言葉が初めて「選択肢」から「目的地」へ変わり始めていた。