身喰らう断章 作:石鹸
朝のロレントは静かだ。
窓から差し込んだ朝の光が、床の上に細長く伸びている。
鳥の声。
遠くから聞こえる荷車の音。
そして、台所から漂ってくる焼いたパンの匂い。
「リゼット。起きてる?」
階下から声がした。
「……起きてる」
返事をしてから、リゼットはゆっくりと目を開けた。
しばらく天井を眺め、それから布団を押しのける。
肩にかかっていた淡い灰銀色の髪が、さらりと頬へ落ちた。
寝返りの跡が残っている。
「んん……寝癖」
寝ぼけた声で呟き、指先で髪を梳く。
窓際に置かれた小さな鏡を覗き込む。
鏡の中から灰青色の瞳がこちらを見返していた。
まだ眠そうな目。
少し乱れた髪。
頬には、うっすらと枕の跡まで残っている。
「……ひどい顔」
誰に言うでもなく呟いて、顔を洗った。
髪を整え、肩甲骨には届かない程度の長さを後ろでまとめる。
何度か手櫛を通しているうちに、ようやくいつもの形になった。
「リゼットー?」
「今行く」
呼んでる。あんまり待たせるとよくない。
急いで着替え、階下へ降りる。
「おはよう」
「おはよう。ほら、座りなさい」
食卓にはパンと卵、それから簡単なスープが並んでいた。
養母マルタが皿を置き、向かいでは養父のアルノーが新聞を読んでいる。
「お父さん、おはよう」
「ああ。おはよう」
アルノーは新聞から顔を上げ、短く笑った。
それだけだった。
けれど、それで十分だった。決して、この人たちは私に無関心なわけではない。
リゼットが椅子に座る。
するとマルタが、焼きたてのパンを一枚、彼女の皿に置いた。
「今日はこっち」
「……こっち?」
「端っこ。好きでしょう?」
リゼットはパンを見た。
きつね色に焼けた耳の部分。魅惑だ。
少しだけ考えてから、頷く。
「うん」
「また端から食べるんでしょう?」
「……そのほうが食べやすいから」
「真ん中から食べても同じでしょうに」
「違うよ、こっちのほうが美味しい」
即答するとマルタが吹き出した。
「そう?」
「そう」
アルノーが新聞の向こうで、小さく笑った。
なんだかとても子ども扱いされていることだけはわかる。
「リゼットは昔からそれだな」
「お父さんまで」
少しむっとしたように言いながらも、いつものようにパンの端を小さくちぎる。
一口。
もう一口。
食べるたびに、焼いた香ばしい匂いが口の中に広がる。
そんな何気ない癖まで、この家ではもう誰も気にしなくなっていた。
「今日は市場に行くんだっけ?」
「そう。昼前には戻るつもりよ」
「じゃあ、僕も手伝おう」
「あなたは畑のほうをお願い。昨日の続きがあるでしょう?」
「……そうだった」
アルノーが困ったように笑う。
そのとき、マルタがふと立ち上がった。
「そうそう。これも忘れないで」
「なに?」
小さな紙切れをリゼットに渡す。
市場で頼まれた買い物を書いた簡単なメモだった。
「卵と塩。それから、蜂蜜」
「蜂蜜?」
「昨日でなくなったでしょう?」
「ああ……」
リゼットは紙を折ろうとして、途中で止まった。
「でも、これ三つとも覚えてるよ」
「覚えてても持って行って。あなた、帰ってくる頃には一個くらい忘れてるから」
「……忘れないよ」
「昨日、砂糖を忘れたのは誰だったかしら?」
「……ぐぬ」
反論できなかった。
アルノーが新聞をたたむ。
「それじゃあ、今日は蜂蜜を忘れないようにな」
「お父さんも言うの?」
「家族だからな」
「もう……」
笑い声がこぼれる。
そんな朝だった。
特別なことなんて、何もない。
だからこそ、好きだった。
「そういえば」
マルタが思い出したように言った。
「エステルちゃんたち、もうすぐロレントを出るんでしょう?」
「エステル?」
その名前を聞いた瞬間、リゼットの手が止まった。
持ち上げかけていたスプーンが、ほんの少しだけ宙で揺れる。
「……うん」
「正遊撃士になるために、各地を回るんでしょう? 昨日、そんな話をしていたじゃない」
「そうだったね」
スプーンを口元へ運ぶ。
けれど、さっきまで感じていたスープの温かさが、少しだけ遠く感じられた。
エステル・ブライト。
昔から知っている少女。
友達、と呼ぶほど近くはない……と思う。
けれど、町で会えば話す。
顔を合わせれば、自然と笑ってしまう。
そんな相手だった。
「いつ頃なんだろう」
「本人に聞けばいいじゃない」
「……そうだね」
リゼットは小さく笑った。
「今日、会えるかな」
「たぶん協会にいるんじゃない? 寄ってきたら?」
「そっか」
それだけの会話だった。
それなのに、食事を終えるまで、なんとなくそのことが頭から離れなかった。
二人がロレントを出る。
その事実を、リゼットはまだ実感していなかった。
昼には市場へ行くし、夕方には家へ帰る。
明日も。明後日も。この日常は続いていく。
そう思っていた。
朝食を終えると、リゼットは庭へ出た。
薄手の作業着に着替え、まとめた髪をもう一度結び直す。
果樹園には朝露が残っていた。
「こっちは大丈夫そうだ」
アルノーが木の枝を確認している。
「本当?」
「ああ。ただ、奥のほうを見てくれ」
「わかった」
リゼットは籠を持って歩き出した。
木々の間を進む。
葉をめくり実を確かめる。
次に虫がついていないかを見る。
細身の身体を枝の間に滑り込ませる。
長い髪が枝に触れそうになるたび、片手で払いながら進んでいく。
何年もやってきたことだから、身体が自然に動いた。
ふと、指先に小さな水滴が乗った。
朝露だった。
リゼットはそれを眺める。
丸く、透明で、キラキラと朝の光を受けている。
その瞬間だった。
指先が、ぴくりと震えた。
呼吸が一度、浅くなる。
胸の奥が急に狭くなったような感覚。
「……っ」
反射的に、もう片方の手で手首を掴む。
水滴から目を逸らそうとする。
けれど、視線が動かない。
丸い透明なもの。
その形を見ているだけなのに、耳の奥で何かがざわめき始める。
──誰かが叫んでいる。
知らない声。
いや、知っている。はず。
そう思った瞬間、背中に冷たい汗が浮いた。
息を吸おうとして、うまく吸えない。
喉がひどく乾いていた。
「……違う」
小さく呟く。
何が違うのか、自分でも分からない。
視界の端が白くなる。
伸ばされた手。
怯えた誰かの顔。
地面。
そして──
泡。
「……!」
リゼットは手を振り払った。
水滴が地面へ落ちる。
小さく弾けて、土に消えた。
その音にさえ、肩が跳ねた。
「はっ……」
ようやく息を吐く。
胸元に手を当てる。
心臓が速い。
額に浮いた汗を手の甲で拭う。
頬から血の気が引いているのが、自分でも分かった。
一度。二度。何度かゆっくり息を吐いて、ようやく身体の強張りが抜けていった。
「……なんでもない。なんでも」
誰に言うでもなく呟く。
最近、ときどきこういうことがある。
何かを見たり。聞いたり。あるいは、匂いを嗅いだり。
そんな些細なきっかけで知らないはずの光景が一瞬だけ頭に浮かぶ。
そのたびに身体だけが先に怯える。
何が怖いのかは分からない。
何を思い出しそうになっているのかも分からない。
ただ、身体は知っているのだ。自分が忘れている何かを。
「リゼット?」
「……!」
振り返る。
アルノーが少し離れたところからこちらを見ていた。
「大丈夫か?」
「うん」
声が少し掠れた。
リゼットは咳払いをして、無理に笑う。
「ちょっと、朝露にびっくりしただけ」
その笑顔は、いつもの彼女より少しだけ硬かった。
アルノーは黙って彼女を見る。
けれど、それ以上は聞かなかった。
「……そうか」
「うん」
それがありがたかった。
リゼットはもう一度、地面を見る。
そこには何もない。
水滴も泡も。ただ湿った土があるだけだった。
昔のことを聞かれるのは、苦手だ。
正確には──
昔のことを聞かれても、何も答えられない。
自分がどこで生まれたのか。
ここへ来る前に何をしていたのか。
覚えていることは、あまりにも少なかった。
だから、思い出そうとしない。
思い出そうとすると、身体が先に拒む。
胸が苦しくなる。
指先が震える。
呼吸が乱れる。
そして最後には、決まって同じものが残る。
泡。
白く透明で。光を反射してどこまでも増えていく──
「……やめよう」
リゼットは小さく首を振った。
今は、これ以上考えない。
この家に来てからの記憶はある。
マルタの作る料理、アルノーと畑仕事をした日。
市場で交わした何気ない会話。
初めて自分の部屋を与えられた日のこと。
パンを食べるときの癖を把握されていること。
そういうものだけでいい。
それで十分だった。
少なくとも、今は。
★
昼前。
リゼットは籠を抱えてロレントへ向かった。
街道を歩いていると、向こうから見覚えのある二人が歩いてくる。
「リゼット!」
聞き慣れた声だった。
その声を聞いた瞬間、リゼットの足が止まった。
胸の奥に張りつめていたものが、ふっと緩む。
「エステル」
自然と口元が綻んだ。
「やっぱりリゼットだ!」
エステルが駆け寄ってくる。
「こんにちわ!」
「うん。こんにちわ」
いつもの距離まで近づいてくる。
その勢いに、リゼットは一歩だけ後ろへ下がりかけた。
けれど、すぐに足を止めた。
怖くない。
だって、エステルだ。
そう認識すると肩の力が抜けた。
「今日は買い物?」
「家の手伝い。市場に行くところ」
「そっか」
エステルが嬉しそうに笑う。
その笑顔を見ていると、こちらまで笑いたくなる。
「ねえ、聞いた?」
「何を?」
「私たち、もうすぐロレントを出るんだ」
「……うん」
やっぱり、その話だった。
リゼットは一瞬だけ視線を落とした。
「正遊撃士になるために、いろんなところを回るんだ」
「そうだったね」
「うん!」
エステルは嬉しそうだった。
太陽のようだ。
「楽しみ?」
「もちろん!」
即答だった。
リゼットは思わず笑った。
「エステルらしい」
「でしょ?」
ヨシュアが小さく笑う。
「エステルは朝からずっとこの調子なんだ」
「ヨシュア!」
「事実だろう?」
「もう!」
二人のやり取りを見ていると、胸の奥が温かくなる。
こうしていると、何も変わらないように思えた。
昔から変わらない。
エステルは騒がしくて、たしなめるようにヨシュアは静かで。
その二人が並んでいる。
それだけのことだった。
「リゼットは?」
エステルが尋ねる。
不意打ちだった。
「何が?」
「将来。何かしたいことある?」
「私が?」
思いもよらない質問だった。
リゼットは少し考えた。
果樹園を継ぐ。
家庭に入るのもいいだろう。
市場で何かしらの職を経験することもいいかもしれない。
あるいは、ロレントを出る。
それから──。
「……まだ、わからない」
「そっか」
エステルは、それ以上聞かなかった。
ただ、
「じゃあ、お互いこれからだね!」
そう言って笑う。
リゼットは一瞬、瞬きを忘れた。
その言葉が胸の奥にすっと入ってくる。
それから、ほんの少しだけ目を細めた。
「うん」
今度の返事には、さっきよりも力がある。
エステルの言葉には、前を向こうという気になる不思議な力がある。
「じゃあ、またね!」
「うん。またね」
二人が歩いていく。
リゼットはその背中をしばらく見送った。
まだ、数日はある。
今日ではない。
明日でもない。
だから、きっといなくなるまでに何度でも会える。
それなのに。
「……もうすぐなんだ」
小さく呟いた。
その言葉が、妙に胸へ残った。
その日の帰り道。
ロレントの町は、いつもと変わらなかった。
人々が行き交い。
店が開き、子供たちが走り回る。
石畳も見慣れた建物も、果樹園へ続く道も。
どこにでもある、大切で平穏な一日。
リゼットにとってもそれは同じだ。
ただエステルたちがロレントを出るまで、あと数日。
そう思うだけで、いつもの景色が少しだけ違って見えた。
リゼットは知らなかった。
自分自身もまた、この町を出ることになるなんて。
それが、あの二人より少し遅れて訪れることになるなんて。
まだ、何も知らなかったのだ。