身喰らう断章 作:石鹸
市場からの帰り道。
リゼットは、行きより少しだけ重くなった籠を抱えて歩いていた。
蜂蜜。
塩。
卵。
それから頼まれていた野菜をいくつか。
「……ちゃんと全部ある。ほら、忘れなかったもん」
歩きながら、籠の中を覗き込む。
今朝渡されたメモを思い出して、少しだけ胸を張った。
「今日は忘れなかった」
誰に聞かせるでもなく呟く。
それだけなのに、なんだか嬉しかった。
ロレントの街中は、昼を過ぎても人の往来が絶えない。
露店の呼び声。
荷物を運ぶ商人。
学校帰りらしい子供たち。
焼き菓子の甘い匂い。
道端では小さな花束を並べている店があり、その向かいでは野菜を山のように積んだ荷車が停まっている。
見慣れた光景だった。
リゼットは市場を出る前に、もう一度だけ籠の中を覗いた。
蜂蜜。塩。卵。
頼まれたものは全部揃っている。
悔しいが、今朝マルタに何度も念を押されたせいかもしれない。
「まあ……これなら大丈夫」
そう呟いてから、ふと足を止める。
店先に小さなガラス瓶が並んでいた。
色とりどりの飴が入っている。
光を受けるたび、瓶の中で小さくきらめいていた。
「……綺麗」
思わず見入る。
子供の頃から、こういう透明なものを見ると、少しだけ心が惹かれた。
ガラス。
水滴。
雨上がりの窓。
それから──泡。
そこまで考えて、リゼットはすぐに視線を逸らした。
「……っ……帰ろう」
足を進める。
今日は、何も思い出したくなかった。
その途中だった。
「──あ」
向こうから、また見覚えのある姿が歩いてくる。
エステルとヨシュアだった。
二人とも、今度は大きめの荷物を抱えている。
「リゼット!」
エステルが先に気づいた。
「また会ったね」
「うん」
今日はよく会う。
リゼットがそう思っていると、エステルは抱えていた袋を軽く持ち上げた。
「旅の準備を、ね!」
「そうだったんだ」
「ちょっとずつ必要なものを揃えてるの」
そういって袋を少し傾けて中身を見せてくれるが、雑多だ。食料品よりも雑貨、とりわけサバイバルの道具のようにも思える。
それらが山のように入っていた。
「ずいぶん多いね」
「うん。遊撃士って、町の外に出ることも多いし」
エステルが得意そうに言う。
ヨシュアが横から補足した。
「今のうちになるべく必要なものをまとめておこうと思ってね」
「ヨシュアはこういうところ、しっかりしてるから」
「エステルが考えずに増やすからだろう?」
「なによ、それ」
「昨日もそうだったじゃないか」
「昨日は必要だったの!」
また始まった。
リゼットは思わず笑う。
「二人とも、仲いいね」
「ええ? ここで!?」
エステルが首を傾げる。
「まあ、長い付き合いだから」
ヨシュアが言う。
その言葉を聞いて、リゼットは少しだけ二人を見る。
『長い付き合い』
自分も、二人とはそれなりに長い。
けれどこうして三人で立っていると、どこか不思議な気持ちになった。
自分だけが、この先もロレントに残る。
そう思っていたからだ。
「ねえ」
エステルが言った。
「出発する日、見送りに来てくれる?」
「……私?」
「うん」
思ってもいなかった。
リゼットは目を瞬かせる。
「いいの?」
「もちろん! 当たり前じゃん!」
エステルは笑った。
「朝に出ることになりそうだから、協会の前に来てよ」
「わかった」
思っていたより、返事はすぐに出た。
「見送らせて」
エステルが嬉しそうに笑う。
「約束ね!」
「うん。約束」
その言葉を口にしたとき。
リゼットは、ほんの一瞬だけ息を止めた。
何かが胸の奥を掠めた。
冷たい朝。
遠くで聞こえる足音。
誰かを呼ぶ声。
けれど、それはあまりにも曖昧だった。
記憶と呼ぶには短すぎて。
夢と呼ぶには、妙に現実感があった。
「……ちゃんと、来るから」
「うん?」
エステルが首を傾げる。
「今度は」
その言葉が、口からこぼれた。
リゼット自身が、一番驚いていた。
「……え?」
何のことを言っているのか分からない。
自分でも、どうしてそんな言葉が出たのか分からなかった。
エステルは気にした様子もなく、
「じゃあ、今度は寝坊しないでね!」
と笑った。
子供の時に遊びに行くときに寝坊したのを覚えていたのだろうか。
「私は寝坊しないよ」
「この前してたじゃん。マルタおばさんに怒られてるの見たわよ」
「うっ……し、してないもん」
「してたわよ。っていうか子供の時も──」
「だから! してないってば! もう!」
いつもの調子で言い返しながら、リゼットも笑う。
それでも胸の奥には、さっきの言葉だけが残っていた。
──今度は、ちゃんと。
何が「今度」なのだろう。
考えても、何も思い出せない。
ただ胸の奥のどこかで。
昔一度だけ誰かを待っていたような。
そんな感覚だけが、ほんの一瞬だけ浮かんだ。
心にあるのは、切なさだけだ。
「リゼット?」
「……ううん。なんでもない」
リゼットは笑った。
「その日、ちゃんと行くから」
「うん!」
エステルは満足そうに頷いた。
「じゃあ、またね!」
「またね」
二人と別れる。
今度は、リゼットもすぐには歩き出さなかった。
しばらく、その背中を見送る。
エステルが何か話している。
ヨシュアがそれに答える。
二人の姿が、人の流れの向こうへ少しずつ小さくなっていく。
リゼットは、その場に立ったまま呟いた。
「……見送り」
ただの約束。
それだけのことなのに、妙に胸へ引っかかった。
協会の前。
朝。
二人を見送る。
その光景を、頭の中に浮かべる。
エステルが笑って。
ヨシュアが隣にいて。
そして、自分はそこで手を振って、二人が振り返す。
エステルは笑顔でヨシュアはクールに。いつもの二人だ
そうして、朝日の中に、向こう側に消えていく。
それだけだ。
それだけなのに。
なぜか、胸の奥が少しだけ痛かった。
「……変なの」
そう言ってから、ようやく家へ向かって歩き出した。
街道を進む。
木々の間から午後の光が差し込んでいる。
風が吹くたび、葉が揺れる。
遠くで鳥が鳴いていた。
リゼットは歩きながら、さっきの「今度は」という言葉を何度も思い返していた。
──誰かを見送れなかった?
そんな記憶はない。
少なくとも、自分では覚えていない。
そもそも覚えている昔のこと自体が少ない。
それなのにどうして、あんな言葉が自然に出てきたのだろう。
「……分からない」
考えるのをやめる。
こういうことは、時々ある。
意味の分からない感覚。
理由の分からない不安。
身体だけが知っている何か。
けれど、考えすぎれば、また朝露のときのように胸が苦しくなる。
だから今はそれでいい。
「見送りに行けばいいんだから」
そう決めて、足を速めた。
夕方。
家に戻ると、玄関先でマルタが待っていた。
「おかえり」
「ただいま」
「忘れ物は?」
「全部あるよ」
リゼットが籠を見せる。
マルタが中身を確認して、満足そうに頷いた。
「よくできました」
頭を撫でられる。
「子供じゃないんだから」
とは言いつつも、振り払う気にはなれない。
「何歳になっても、買い忘れはするものよ」
「それはお母さんも?」
「私は昨日してないもの」
「……したんだ」
「してないわ」
玄関先で二人の声が重なる。
奥からアルノーの笑い声が聞こえた。
「二人とも、帰ってきて早々何をしてるんだ」
「お父さん、お母さんが──」
「リゼットが──」
また声が重なった。
アルノーは困ったように笑いながら、籠を受け取る。
「それじゃあ、今日は僕が判定しよう」
「何の判定?」
「買い忘れがあったかどうかだ」
一つずつ、中身を確認していく。
「蜂蜜」
「ある」
「塩」
「ある」
「卵」
「ある」
「野菜」
「ある」
アルノーが頷いた。
「今日は完璧だな」
「でしょう?」
「珍しい」
「ひどい」
笑いながらリゼットは籠を取り返した。さっさと台所に置いてしまおう。
そんな何気ないやり取りが、可笑しかった。
いつもの家だ。いつもの声だ。
玄関を閉めれば外の風が遠くなって、台所からは夕食の準備をする音が聞こえる。
それだけでなんだかどこか安心した。
「そういえば」
マルタが台所へ向かいながら言った。
「エステルちゃんたち、もうすぐ出発なんでしょう?」
「うん」
「寂しくなるわね」
「……そうだね」
「見送りには行くの?」
リゼットは少しだけ考えてから頷いた。
「行く。協会の前で待ってる約束した」
「そう」
マルタはそれ以上何も言わなかった。
ただ、振り返って笑った。
「ちゃんと早起きしなさいよ」
「大丈夫だよ」
「寝坊したら、お母さんが起こすから」
「子供じゃないってば」
また笑う。
けれど、その言葉を聞いた瞬間。
リゼットはほんの少しだけ目を伏せた。
「……起こしてくれる?」
「もちろん」
「そっか」
それだけ言って、リゼットも笑った。
夕食の時間になる。
温かいスープと焼いたパン。
今日のパンも、リゼットは端から小さくちぎって食べる。
「また端から?」
「……食べやすいから」
「そう」
アルノーが笑う。
「それ、昔から変わらないな」
その言葉に、リゼットは一瞬だけ手を止めた。
昔から。
その言葉はいつもの会話だった。
けれど今日はなぜか引っかかった。
「……昔って、いつから?」
思わず聞く。
アルノーが少し考える。
「ん~……いつからだったかな」
「覚えてない?」
「正確にはな」
「そっか」
それ以上は聞かなかった。
マルタも何も言わない。
それでも食卓はすぐにいつもの空気へ戻っていった。
話題は天気のことになり。
明日の畑のことになり。
市場で見かけた新しい店の話になった。
リゼットは笑えた。
ちゃんと笑えた。
さっきの違和感だけがどこか遠くに残っていることには目をそらした。
その夜。自分の部屋へ戻る前リゼットは廊下の窓から外を見た。
空はもう薄暗い。
遠くの街明かりが、小さく滲んでいる。
明日も朝が来る。
次の日も。
そのまた次の日も。
けれどその先には。
今までとは少し違う朝が待っているのだろうか。
リゼットは窓へ手を触れた。
冷たいガラス。
指先に伝わる感触を確かめる。
「……見送り、か」
小さく呟く。
それから、さっきの言葉を思い出した。
──今度は、ちゃんと。
けれど、やっぱり何のことなのか分からなかった。
一度だけ、目を閉じる。
暗闇の向こうに何かが浮かぶ。
知らない道。
知らない家。
誰かの背中。
なにか大騒ぎの中、その光景ごと遠ざかっていく。
声が、喉まで出かかった。
「……っ」
何を言おうとしたのか、わからない。
目を開けた。
そこには、自分の部屋しかない。
窓。机。ベッド。
見慣れた風景だ。
額に手を当てる。
心臓が少しだけ速くなっていた。
「……まただ」
最近ときどきこうなる。エステルたちがいなくなるからナーバスになっているのだろうか。
折に触れて何かを思い出しそうになって、けれど最後のところだけがどうしても掴めない。
それ以上、考えないことにした。
きっと、気のせいだ。
そう言い聞かせて。
窓から手を離した。
「エステルたちを、ちゃんと見送ろう」
灯りを消す。
部屋が暗くなる。
やがて、夜の静けさが家全体を包んでいった。