身喰らう断章 作:石鹸
翌朝。
リゼットが目を覚ましたとき、窓の外はまだ薄暗かった。
いつもより早い。
けれど、不思議と眠気はなかった。
空気はいつも目覚める朝より静かで、冷たく凪いでいる。
「……今日か」
呟く。
その言葉だけで、昨日から胸の奥に残っていたものが、はっきりと形になった。
今日。
エステルとヨシュアが、ロレントを出る。
リゼットは布団から起き上がった。
髪を整える。
今日はいつもより少しだけ時間をかけた。
灰銀色の髪を丁寧に梳き、後ろでまとめる。
鏡を見る。
灰青色の瞳。
いつもと同じ顔。
けれど、少しだけ緊張しているように見えた。
「……大丈夫」
自分に言い聞かせる。
階下へ降りる。
「おはよう」
「あら。おはよう。今日は早いわね」
マルタが振り返る。
「うん」
「眠れなかった?」
「ちゃんと寝たよ」
「そう?」
マルタは少しだけ笑った。
食卓には、いつもより少し多めに朝食が並んでいた。
パン。
卵。
スープ。
それから、昨日の果樹園で採れた果物まである。
「今日はごちそうだね」
「そう?」
「いつもより多い」
「たまたまよ」
マルタはそう言ったが、リゼットには分かっていた。
今日だからだ。
今日、エステルたちはロレントを出る。
そのせいで、なんとなく家の中まで少しだけ特別な朝になっている。
リゼットは椅子に座った。
パンを手に取る。
いつものように、端から小さくちぎった。
「やっぱりそこからなのね」
マルタが笑う。
「……落ち着くから」
「変な子」
「いいでしょう」
アルノーが新聞を広げながら言った。
「いいさ。——変わらないほうが、いいこともある」
少し実感のある言葉に、リゼットは少しだけ目を細めた。
「……そうだね」
パンを食べる。
香ばしい匂いと、小麦の甘さがした。
スープは温かい。
卵もふわふわと柔らかい。
どれも、いつもの朝と同じだった。
それなのに今日だけはひとつひとつが妙に印象に残る。
「見送り、何時だったっけ?」
マルタが尋ねる。
「朝。協会の前」
「気をつけてね」
「分かってる」
「終わったら、そのまま帰ってくるの?」
「うん。そのつもり」
少し考えてから、リゼットは笑った。
「いつも通り」
マルタはその言葉を聞いて、何も言わなかった。
ただ、少しだけ安心したように頷いた。
朝食を終える。
家を出る前、リゼットは玄関で靴紐を結び直した。
いつもの靴。
いつもの鞄。
何も変わっていない。
何も変わっていないまま、何かが変わる現場に向かうのだ。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
マルタが返す。
アルノーも短く、
「気をつけてな」
と声をかけた。
その瞬間。
なぜか、リゼットは振り返った。
二人を見る。
いつもの家。
いつもの朝。
きっとこれからも変わらない。
「……うん」
それだけ言って、外へ出た。
朝のロレントは、まだ静かだった。
冷たい空気。
白んだ空。
石畳に落ちる長い影。
リゼットは少し早足で協会へ向かった。
途中、見慣れた店の前を通る。
パン屋。雑貨店。小さな花屋。
全部、いつもと同じ。
けれど今日は。
これを見ながら歩けるのも、当たり前ではないのだと。
そんなことを考えてしまう。
自分が出ていくわけでもなければ、一生の別れでもないのに。
それでも誰かがこの町を出るというだけで、町の景色が少し違って見えた。
遊撃士協会が見えてくる。
その前には、すでに人が集まり始めていた。
そして。
「リゼット!」
聞き慣れた声。
エステルが大きく手を振っている。
「ちゃんと来たわね!」
「約束したから」
リゼットが笑う。
エステルは服装は動きやすい遊撃士としてのもので、私服ではない。
少し多いが荷物もある。
その姿を見た瞬間。
胸の奥が、きゅっと縮んだ。
昨日までは
「もうすぐ出る」
そう聞いていただけだった。
でも今は違う。
本当に出発する格好をしている。
ああ、本当に。急激にこれからの不在を自覚する。案外自分という生き物は、エステルやヨシュアを日常の象徴のように思っていたのだろう。
隣にはヨシュアがいる。
「おはよう、リゼット」
「おはよう」
「来てくれてありがとう」
「ううん」
リゼットは首を振る。
「こっちこそ、呼んでくれてありがとう」
エステルが笑った。
「なんか、変な感じだね」
「うん」
「昨日まで普通に会ってたのに」
「今日からは、そうじゃないんだね」
その言葉に、エステルが一瞬だけ黙った。
「……そうなんだよね」
エステルは、自分の荷物を見る。
「これ持って、ここから出ていくんだ」
「正遊撃士になったら、どうするの?」
「まだ分からない!」
いつもの即答だった。
けれど、少しだけ寂しそうでもあった。
「ふうん……じゃあ次は?」
「王都に行くかもしれないし、他の地方かもしれないし」
「じゃあ……次に会うのも、分からない?」
「うん」
エステルは正直に頷いた。
「すぐ帰ってこれるかもしれないし、しばらく帰れないかもしれない」
リゼットは黙った。
『すぐ』
『しばらく』
その違いが、今までよりずっと大きく感じられる。
「でも」
エステルが笑う。
「帰ってきたら、また会おうよ」
「……うん」
「リゼットは、ずっとここにいるんでしょ?」
「たぶん」
「じゃあ、帰ってきたら見つけやすいね!」
「それはそうかも」
二人で笑う。
ヨシュアが静かに言った。
「でも、旅をしていたら、手紙くらいは送れると思う」
「手紙?」
「うん。時間はかかるかもしれないけど」
リゼットの表情が少し明るくなる。
「……それなら、いいね」
「じゃあ、最初の手紙は私が書こうかな」
「えー」
エステルが不満そうな声を上げる。
「私も書くわよ!」
「最初にどんな字を書くか、今から心配だけど」
「ヨシュア!」
リゼットが笑う。
笑えている。
なのに胸の奥は少しだけ痛かった。
別れというものは。
こういうものなのかもしれない。
泣くほどでも叫ぶほどでもない、胸を締め付けるような思い。
ただいつもそこにあると思っていたものが少しだけ遠くなるような切なさと、寂しさ。
「リゼット」
エステルが呼ぶ。
「うん?」
「……ありがとね。こうして来てくれて」
「当然だよ」
「うん」
エステルは少しだけ照れたように笑った。
「じゃあ、行ってくる」
その言葉を聞いた瞬間。
リゼットの中で、昨日までとは違うものが動いた。
ああ、本当に今、別れるんだ。
「……うん」
それでも、ちゃんと言う。
言うと決めたんだ。
「いってらっしゃい」
エステルが一瞬だけ目を丸くした。
それから。
「うん!」
大きく笑った。
「行ってきます!」
ヨシュアも微笑む。
「行ってきます、リゼット」
「気をつけてね」
「うん」
二人が歩き出す。
一歩。
また一歩。
少しずつ離れていく。
エステルが何度か振り返る。
そのたびに、リゼットは手を振った。
小さく。
けれど、見えるように。
やがて二人の姿が、街の向こうへ消えていく。
リゼットは、しばらくその場を動けなかった。
静かだった。
さっきまで聞こえていた声も、もうない。
「……行っちゃった」
小さく呟く。
返事はない。
当たり前なのに。
その当たり前が、今は妙に寂しかった。
人の話し声も。
靴音も馬車の音も。
いつものロレントにはちゃんとある。
それなのに、自分の周りだけが少し遠くなったように感じる。
まるでついさっきまで何かがあった場所から、それだけが取り残されたみたいだった。
リゼットは、もう一度だけ振り返る。
二人の姿は、もう見えない。
「……今度は、ちゃんと」
昨日、口からこぼれた言葉を思い出す。
そうだった。
今日は、ちゃんと見送れた。
誰を見送ったのか。
なぜ、あの言葉が出たのか。
そこまでは分からない。
一つだけ、確かなことがあった。
「……また会えるよね」
誰もいない場所で、そう呟く。
自分に言い聞かせるように。
そのときだった。
「もちろん、そうでしょう」
声がした。
「──っ」
心臓が跳ねた。
リゼットは反射的に振り返る。
そこには、誰もいなかった。
「……?」
風が吹いている。
街路樹の葉が揺れている。
人の流れも、先ほどと変わっていない。
聞き間違い。
そう思いかけた、その直後。
「失礼」
今度は、すぐ後ろからだった。
リゼットの肩が強張る。
振り返る。
そこに、一人の男が立っていた。
髪は濃い青みを帯びた色で、きちんと後ろへ撫でつけられている。
小さな丸眼鏡の奥には、穏やかな目。
ややくたびれた緑褐色の外套を羽織っている。
例えば服装には学者らしい実用性があり、肩からは古びた鞄を提げていた。
身なりは決して華やかではなく、旅を続けてきたらしい少しばかり雑然とした印象がある。
それでも眼鏡の奥の目には知性があり。
浮かべている微笑みには、人を安心させるような柔らかさがあった。
「驚かせてしまいましたか?」
男はそう言って、小さく頭を下げた。
「……いえ」
答えたものの、リゼットはまだ警戒を解けない。
目の前の男には、少しも敵意が感じられない。
むしろ、ひどく無害に見える。
それなのにさっきから、妙に胸がざわついていた。
「申し訳ありません。急に声をかけてしまって」
男は申し訳なさそうに笑う。
その仕草まで穏やかだった。
「ですが──」
そこで、男は一度だけリゼットの顔を見る。
眼鏡の奥の瞳が、ほんのわずかに細くなる。
「あなたに、少しお尋ねしたいことがありまして」
「……私に?」
「ええ」
リゼットは眉を寄せた。
「どうして、私のことを?」
男はすぐには答えなかった。
ほんの一拍。
それだけだった。
けれどその沈黙が、なぜか長く感じられた。
やがて男は、穏やかに口を開いた。
「リゼット・アルヴェーンさんですね」
その瞬間。
リゼットの背中に、薄い寒気が走った。
姓まで。
どうして知っているのか。
男は、そんな彼女の反応を見て。
「ああ、失礼。順番が逆でしたね」
と、少し困ったように笑った。
「私はアルバと言います。考古学者をしておりまして」
「……アルバ」
その名を聞いた瞬間、記憶の片隅に引っかかるものがあった。
エステルたちと話したとき確か聞いた。町のどこかで、耳にした名前。
確か、翡翠の塔に行ったときに知り合った、とか。そうだ。
その後の盗難騒ぎで印象が薄れてしまったが、確かに聞いた。
「もしかして……アルバ教授?」
男の表情が、ぱっと明るくなった。
「おや。ご存じでしたか」
その笑顔は、あまりにも自然だった。
さっきまでの不穏な空気など、自分の勘違いだったのではないかと思ってしまうほどに。
ただの少し変わった、気のいい研究者。
そう見えた。
けれどリゼットには分からなかった。
なぜこの男が自分の名前を知っているのか。
なぜ、自分に声をかけたのか。
そして。
なぜ──さっきの別れが終わった直後を狙うように、ここに現れたのか。
「少し、お話をしたいのですがね」
アルバ教授は、穏やかな声でそう言った。
リゼットは答えなかった。
知らないはずのその男を見つめていた。
この日。
ロレントで、二つの道が分かれた。
そしてそのすぐ隣でもう一つの道が、静かに開き始めていた。