身喰らう断章 作:石鹸
「少し、お話をしたいのですがね」
アルバ教授は、そう言って微笑んだ。
リゼットは、すぐには答えなかった。
さっきまでエステルたちがいた。
二人の姿が見えなくなって。
その直後に、知らない男が現れて。
しかも、自分の名前を知っている。
偶然にしては、出来すぎている。
「……私に?」
「ええ」
アルバ教授は頷いた。
「あなたについて、少しお尋ねしたいことがありまして」
「どうして、私?」
まず、それを聞く。
アルバ教授は眼鏡に軽く触れた。
「エーヴェル村について調べていたからです」
その名前を聞いた瞬間。
リゼットの呼吸が止まった。
その名は、残っている過去の記憶、唯一覚えている名詞だからだ。
「……エーヴェル」
その単語だけで、頭の奥が薄く痛む。
水。
夜。
誰かの声。
泡。
「……どうして、その村を?」
「事件として、少々興味深い点がありましてね」
アルバ教授は、落ち着いた声で続けた。
「住民が一夜のうちに全員いなくなったにもかかわらず、建物はほとんど無傷だった。外部から大人数が侵入した形跡も薄い」
リゼットは黙って聞いていた。
「普通に考えれば、何かしらの事故か事件の痕跡が残るはずです」
アルバ教授は、そこで言葉を切った。
「ですが、エーヴェル村には、それがない」
「……はい」
「それが、私には気になったのです」
淡々とした説明だった。
研究者が不可解な事件に興味を持った。
それだけなら、不自然ではない。
「そして、記録を追っているうちに、あなたの名前を見つけました」
「……私も、行方不明者として?」
「ええ」
アルバ教授は頷いた。
「当時の記録では、あなたも村の住民と一緒に行方不明になっています」
リゼットは目を伏せた。
知っていることだった。
けれど他人の口から改めて聞くと妙に重く感じる。
「その後の記録をさらに追うと、ロレント近郊のアルヴェーン家に引き取られたことが分かりました」
「……そこまで」
「ええ。もちろんあなたと村とを直接結び付けるものはありません。が、記録の限り事件とほぼ同時期に近辺で協会に保護された子供はあなただけ。そして、その子供は施設ではなく、引き取られた」
つまりは、断定に近い形の、推測。
その答えは、あまりにも事務的だった。
だからこそ、リゼットは少しだけ戸惑った。
「では……私に何か分かるんですか?」
アルバ教授は、すぐには答えなかった。
「何かを断言できるほどではありません」
「……え?」
「エーヴェル村については、分からないことのほうが多いですからね」
その言葉に、少しだけ安堵する。
全部を知っている人ではない。
少なくとも、そう聞こえた。
「ただ」
アルバ教授は続けた。
「分からないものには、いくつかの見方があります」
「見方……?」
「ええ」
アルバ教授は通りの向こうへ視線を向けた。
「たとえば、住民を外へ連れ出した何者かがいたと考える」
「はい」
「あるいは、村の内部で何かが起きたと考える」
リゼットは黙っている。
「そして、もう一つ」
アルバ教授は一拍置いた。
「人ではなく、何か『現象』そのものが原因だったと考えることもできます」
「……現象」
「ええ」
それ以上の説明はなかった。
ただ、その単語だけを残すような口調。もし強調したいのだとしたなら大成功と言えるだろう。
リゼットは知らず知らずのうちに、自分の指先を見ていた。
「あなたなら、どれを信じますか?」
突然の問いだった。
「……分かりません」
「そうでしょうね」
アルバ教授は笑った。
そして、
「私にとっても、まだ材料が足りません」
その言葉が、不思議と引っかかった。
材料が足りないと言った。
ならば。
材料があれば。それさえあれば、
「……私自身についても?」
「ええ。もちろん、その謎を追えば、あなたのこともわかっていくでしょう」
アルバ教授は頷いた。
「フフ。エーヴェル村の事件を理解するには、そこで何が起きたのかだけでなく──」
そこで、彼は目を開いて正面からリゼットを見る。
初めて顔を見た気がした。
「なぜ、あなたが今ここにいるのかも考える必要があります」
胸の奥がざわめいた。
「……私が」
「はい」
「どうして生きているのか」
「実に言いづらいですが、そうです」
その問いはずっとあった。
けれど、考えないようにしていた問いでもある。
アルバ教授は、追い打ちをかけなかった。
ただ、黙って待っていた。
その沈黙のほうが、妙に重かった。
「……考えたことはあります」
ようやく、リゼットが口を開いた。
「でも、答えはありません」
「分からないまま、ここまで来たのですね」
「……はい」
「なるほど」
短い相槌。
それだけだった。
なのになぜか、自分のこれまでを静かに見透かされたような気がした。
「もう一つ」
アルバ教授が言った。
「最近、妙な夢を見ることはありませんか?」
背中が冷たくなる。
「……どうして、それを」
「推測です」
「推測……?」
「強い衝撃を受けた出来事のあとには、当時の記憶が断片的に夢として現れることがあります。そういう事例もあります」
アルバ教授は淡々と説明した。
「エーヴェル村の件を考えると、あなたに起きている今の可能性としてはそれほど不自然ではありません」
「……」
「ただ、」
そこで、アルバ教授はリゼットを見た。
「あなたの場合、少し気になることがあります」
「何がですか?」
「例えば、夢の中にいつも同じもの──あるいは、同じモチーフが出てくるのではありませんか?」
今度こそ息が止まった気がした。
水。泡。
それを、どうして。
「……あり、ます」
小さく答える。
思っているよりも声が小さい。きちんと聞こえただろうか。
「水の夢を見ます」
より深く、言う。
「他には?」
「……泡」
「なるほど」
その返事が、妙に静かだった。
「ふむ……それだけですか?」
リゼットは少し迷った。
だけど、自分の悪夢を追うとしたなら、その解決を望むならば、アルバ教授しか今は縋るものがない。
「……誰かの声がします」
アルバ教授の眉が、ほんのわずかに動いた。
けれど、それ以上は尋ねなかった。
「興味深いですね」
「……何が?」
「夢の内容そのものより」
アルバ教授は、穏やかに言った。
「あなたが、その夢を見たときだけ、過去について考えたくなくなることです」
図星だ。
何も言えなかった。
そんなことは、言っていないのに。
なぜ。学者という生き物がその知識をすべて一個人に使ったならそうなっていくのか?
「それがただの記憶の問題なのか」
アルバ教授は続ける。
「あるいは、エーヴェル村で起きた何かが、あなたの中に別の形で残っているのか」
「別の形……」
「ええ」
「それは……」
「分かりません」
また、その言葉だった。
「私にも、まだ」
アルバ教授は微笑む。
「ですから、これは仮説です。もし実証するならいろいろ試さなくては」
少しだけ息を吐いた。
この人は『かつて』について何かを知っている。
当然、全部を知っているわけではないだろう。
そういう語りだ。
「……じゃあ」
リゼットは、ゆっくりと顔を上げた。
「私の身に、何が起きたのかも分からない?」
「今の段階では、なんとも」
アルバ教授は頷いた。
「しかし、可能性なら考えられます」
「どんな?」
「例えば、エーヴェル村の事件が単純な失踪事件ではなかった可能性」
「……」
「——そして」
アルバ教授は静かに続けた。
「あなたが、その事件の中で何らかの形で重要な位置にいた可能性です」
リゼットの胸が、強く鳴った。
「私が……?」
「ええ」
「どうして?」
「それを知るためには、あなた自身の記憶と、残されている記録。その両方を見比べる必要があります」
そう言って、アルバ教授は懐から一枚の紙を取り出した。
そこには、簡単な地図と住所が書かれている。
「ここへ来てください」
「……どこですか?」
「ロレントから少し離れた、古い礼拝堂です」
リゼットが地図を見る。
「そこには、私が調べた資料があります」
「エーヴェル村の?」
「ええ」
「でも、それなら……」
リゼットは顔を上げる。
「今ここで教えてくれても」
「ええ、当然の思いです。答えを言うなら──できますとも」
アルバ教授はあっさり答えた。
「ただし、私の言葉だけを聞いても、それが本当かどうかは分からないでしょう?」
リゼットは黙った。
「ですから、ご自分で確かめてみるのがいい」
そう言いながら、紙を差し出す。
「私の仮説が間違っていることだってあります。その場合はどうぞ笑って帰ってください」
穏やかな冗談。
しかし、同時に本当にそう思っていると確信できる声。
「逆に」
アルバ教授の声が、ほんの少しだけ低くなる。
「もし、そこにあなた自身の知らない記録があったら」
リゼットの指が止まる。
「……」
「そのときは」
教授は続けた。
「あなた自身で、続きを知りたいと思うでしょう」
──自分の知らない記録。
──自分の知らない過去。
考えてしまう。
もし、本当にあるのなら。
見てみたい。
怖くても。
失ったものを、取り戻したいと素直に思う。
だってそれは、未来に歩くための足だ。
「……どうして、そこまでしてくれるんですか?」
アルバ教授は、ほんの少し肩をすくめた。
「研究者ですからね」
穏やかな笑顔。
「知らないものを、そのままにしておくのが苦手なんですよ」
視線を落とす。
手の中には一枚の紙。
それは地図でしかない。
来るかどうかを決めるのも、自分で、行くのも自分。
だからこそ、その選択が自分自身の意思によるものだと、リゼットは思った。
アルバ教授が去っていく。
リゼットは、その背中を見送った。
手元の紙をもう一度見る。
古い礼拝堂。
エーヴェル村。
自分の知らない過去。
「……知りたい」
小さく呟く。
それは、誰かに言わされた言葉ではなかった。
少なくともこのときのリゼットはそう思っていた。
──考古学を修めるこの教授が、どうして関係のない分野の調べ物を、リゼットを調べているか。
そんな簡単な疑問を思い浮かべることができない異常に気づけずに。