身喰らう断章 作:石鹸
翌朝。
エステルとヨシュアが旅立って、まだ一日しか経っていない。
けれど、ロレントはもう少しだけ広くなったように感じた。
二人がいない。
それだけのことが、思っていた以上に大きかった。
朝食を終えたリゼットは、自分の部屋へ戻る。
机の上には、昨日アルバ教授から渡された地図。
その横には、古い記録の写しが置かれていた。
エーヴェル村。
住民、全員行方不明。
原因、不明。
それだけ。
そして、自分について残されている記録にも。
ロレント近郊で、身元の分からない少女が保護された。
そこから先は、アルヴェーン家へ引き取られたという記録があるだけ。
自分がエーヴェル村の住民だったのか。
それすら、確かなことではない。
「……これじゃ、何も分からない」
紙を閉じる。
昨日。
アルバ教授は言っていた。
事件について考えるなら、自分自身のことも調べる必要がある。
そして自分の力についても。
リゼットは、昨日もらった地図を手に取った。
古い礼拝堂。
「……行こう」
今回は、迷わなかった。
◇
礼拝堂の扉を開ける。
「おや」
奥から声がした。
アルバ教授は、昨日と同じ場所にいた。
「早いですね」
「……知りたいことがあるんです」
「ええ」
教授は穏やかに笑う。
「でしょうね」
「今日は、記録だけじゃなくて」
リゼットは、少しだけ息を吸う。
「私の力を、ちゃんと確かめたいです」
アルバ教授は目を細めた。
「なるほど」
「昨日、夢のことを話したでしょう?」
「ええ」
「でも、夢だけじゃ何も分からない」
リゼットは手を握った。
「私自身に何ができるのか。少しでも知りたいです」
「分かりました」
アルバ教授は机の上に小さな木箱を置いた。
中には、乾いた葉。
細い木片。
布。
小さな鉄片。
「まずは、何に作用するのかを見てみましょう」
葉を一枚、机の中央へ置く。
「ただし」
教授は続けた。
「無理に発動させようとはしないでください」
「……はい」
「あなたの記憶を刺激することで、何か起きる可能性があります」
リゼットは頷く。
葉を見る。
何もない。
そう思った。
けれど。
水。夜。暗闇。白いもの。
胸の奥に、嫌な感覚が広がる。
「……」
呼吸が浅くなる。
「リゼットさん?」
答えようとして。
そのとき。
「……〈泡になって、消えて〉」
自分でも意味の分からない言葉が、口からこぼれた。
瞬間。
目の前に、小さな透明な泡が生まれた。
「……!」
リゼットが息を呑む。
泡は何の抵抗もなく、空中へ浮かんでいく。
アルバ教授の視線が、それを追った。
「触らないでください」
「……はい」
泡はゆっくりと葉へ近づいた。
リゼットは慌てて後ろへ下がる。
「待って……」
けれど。
泡が葉に触れた。
葉の一部が音もなく失われた。
言葉を失った。消失、文字通りに。泡になって、消えた。
「……今の」
アルバ教授は葉を観察する。
「接触した部分だけが、崩れていますね」
次に。
教授は木片を葉の隣へ置いた。
「もう一度、同じことが起こるか見てみましょう」
リゼットは残っている泡を見る。
消えない。
浮いている。
「この泡……」
「ええ」
「私には、止められない?」
「試してみる価値はありますが」
アルバ教授は少し考える。
「先ほど、あなたは何か言葉を口にしましたね」
リゼットは思い出す。
「……泡になって消えて、でしたね」
「ええ。それを、もう一度」
リゼットは迷った。
なぜかその言葉を口にすること自体が、胸の奥をざらつかせる。
けれど知りたい。自分が何者なのか、あの夜に何が起きたのか。
あの夢は、この言葉は何か。
「……〈泡になって、消えて〉」
二度目の言葉が落ちる。
小さな泡が、また一つ生まれた。
「……!」
リゼットは目を見開く。
アルバ教授が泡を見る。
「興味深い」
教授は木片を指差した。
「では、こちらへ意識を向けてみてください」
リゼットが泡を見る。
浮かんだ泡が、木片へ近づく。
触れたところから。
木が静かに崩れた。
「……木も」
「ええ」
リゼットは息を呑む。
アルバ教授は布を置いた。
「次はこちら」
泡が触れる。
布に小さな穴が空く。
「……」
最後に鉄片。
泡が触れた部分だけが欠け落ちた。
「鉄まで……」
リゼットの声が震えた。
アルバ教授は、その鉄片を手に取った。
「同じ現象ですね」
「……人にも?」
その問いに。
教授は少しだけ間を置いた。
「試す必要はありません」
「……」
「今の結果だけで十分です」
リゼットは、自分の手を見る。
「私が……これを出した」
「その可能性が高いでしょう。少なくとも、私にはそう見えますね」
その言い方が。
かえって怖かった。
「……泡は」
リゼットは浮かび続ける泡を見る。
「消えないんですか?」
アルバ教授は、それを見つめた。
「少なくとも、あなたの意思では」
その答えに。
リゼットの顔が強張った。
「じゃあ」
自分の力は。
一度出したら。
「……戻せない?」
「正確には、まだ分かりません」
教授は答える。
「ただ、あなたの様子を見る限り、『消したい』と思うだけでは消えないようですね」
リゼットは、小さく頷いた。
二つの泡は。
まだ、空中を漂っている。
「……怖い」
「でしょうね」
アルバ教授は否定しなかった。
「では、次は一つ確認しましょう」
「何を?」
「その言葉を口にしなければ、発動しないのか」
「……」
それは。
さっきまで考えていなかったことだった。
リゼットは、残っている泡を見る。
やがて
「……やってみます」
三度目。
「〈泡になって、消えて〉」
泡が生まれる。
一つ。
二つ。
三つ。
その瞬間。
リゼットの顔が歪んだ。
「……っ」
頭の奥が痛い。
視界が一瞬だけ揺れる。
胸の奥に、冷たいものが流れ込むような感覚。
水。
暗闇。
誰かの声。
そして。
泡。
「……大丈夫ですか?」
「……はい」
返事はした。
けれど。
明らかに、さっきまでと違う。
呼吸が浅い。
指先が震えている。
顔色も悪い。
それでも。
浮かぶ泡から目を離せない。
「使うたびに」
リゼットが呟く。
「……何かが、削れてる」
アルバ教授は黙っていた。
「疲れた、だけじゃない」
リゼットは胸元へ手を当てる。
「さっきの夜が……近くなる」
その言葉に。
アルバ教授の視線が、少しだけ鋭くなる。
「記憶を呼び起こしている」
「……はい」
「そして、それが発動条件なのかもしれませんね」
「……」
「ならば」
教授は言う。
「使い続けるべきではない」
リゼットは、ゆっくり頷いた。
けれど。
その目には。
ほんの少し、別の感情が浮かんでいた。
怖い。怖い、が。
これまで何も分からなかったものが今、自分の手の中にある。
「……もう一度」
リゼットが呟いた。
アルバ教授が顔を上げる。
「今日は、ここまでです」
「でも」
「十分でしょう」
「まだ……」
リゼットは自分の手を見る。
「もう一回だけ」
そして。
その言葉と同時に。
「〈泡になって──」
アルバ教授が立ち上がった。
「やめなさい」
「でも……」
「リゼットさん」
声が強くなる。
「あなたの異能は精神を摩耗させるようだ。今日、あるいは明日もその先を言ってはいけません」
リゼットが止まる。
口元が震える。
頭の奥で。
誰かの声が重なった。
──泡になって、
「……」
目の前が白くなる。
アルバ教授が、静かに彼女を見ている。
「今日は、もう十分です」
リゼットは何も言えなかった。
やがてゆっくりと頷く。
口を閉じる。
それだけで。
新しい泡が生まれることはなかった。
だがすでに浮かんでいる泡は。
消えない。
リゼットは、それを見つめた。
「……私」
小さく呟く。
「使えば使うほど、あの夜に近づいているような気がしています」
アルバ教授は答えなかった。
ただ。
「だからこそ、使い方を覚えなければなりません」
その言葉が優しさなのか、研究者としての判断なのか。
まだ分からなかった。
礼拝堂を出る。
外は明るい。
けれどリゼットは、自分の手を握った。
自分の中には自分でも知らない力がある。
そしてその力を使うには。
自分が忘れていたはずの過去へ、毎回手を伸ばさなければならない。
「……エーヴェル」
小さく呟く。
あの名前の先に。
何があるかまだ何も分からない。
ただもう一度、ここへ来る理由だけははっきりしていた。
★
誰もいなくなった廃墟で、アルバ教授——ゲオルグ・ワイスマンは笑みを浮かべた。
手のひらで弄ぶのはえぐれ、一部が消えてしまった木材だ
「おそらく当時のトラウマを脳内で再現し、そこから力を引き出しているのだろうね」
そろそろ、ロレントからは出て次の『下見』をしなくてはならないが、趣味と実益を兼ねた実験で思わぬ拾いものをした、と独白する。
「しかし、村での異能発現当初はあのような引き金となる言葉は存在しなかったはず。——ああ、だから村がああなったのか。さしずめ、制御のための無意識の防護柵、といったところだろうか」
ここで大暴走されずに済んでよかった、と笑う。そうなればロレントも『福音計画』も文字通りに水泡に帰すことになっただろう。
「フフ。安心したまえよ、リゼット君。私は記憶と認識を操作する異能者だ、どうやら適任な人間を師として仰ぐことになりそうだよ」
──本当によかったね、君が欲しかったものは、もう直にその掌の上だ。