身喰らう断章 作:石鹸
アルバ教授から話を聞いた翌日。
朝食を終えたところで、リゼットは家族に言った。
「……お父さん、お母さん。話したいことがあるの」
食器を片づけていたマルタが振り返る。
アルノーも、椅子に座ったままリゼットへ視線を向けた。
「どうした?」
「私……しばらく、ボースへ行こうと思う」
一瞬、食卓に静かな間が落ちた。
「ボース?」
「うん」
リゼットは膝の上で手を組んだ。
「アルバ教授が、私の過去について調べてくれているの。昨日、少しだけ話を聞いたんだけど……私自身も、ちゃんと知りたいと思った」
「過去を……」
マルタの表情がわずかに曇る。
それを見て、リゼットは慌てるように続けた。
「危険なことをするつもりじゃないよ。教授も、無理に調べろと言ったわけじゃない。ただ……知らないままなのが、少し怖くなって」
言葉にしてみると、自分でも不思議なくらい自然だった。
怖い。
けれど、それ以上に知りたい。
あの村のことを。
自分が何者なのかを。
あの夜、自分に何が起こったのかを。
「だから、教授と一緒にボースへ行って、調べてみたい」
アルノーはしばらく黙っていた。
やがて、小さく息を吐く。
「……お前が自分で決めたことなら、俺は止めない」
「お父さん……」
「ただし、帰ってこい」
短い言葉だった。
「うん」
「それから、便りくらいは寄越せ。旅先で何かあったら、黙って抱え込むな」
「……うん」
隣でマルタが微笑んだ。
「私も、行くなとは言わないわ」
「お母さん」
「リゼットが、本当に自分で行きたいと思っているなら」
そう言って、マルタは少しだけ寂しそうに目を細めた。
「だって、あなたには知る権利があるもの」
胸の奥が、わずかに痛んだ。
「……ありがとう」
「——でもね」
マルタは指を一本立てた。
「ちゃんと帰ってきてね」
「うん。帰ってくる」
★
その日の午後。
リゼットは自分の部屋で荷物をまとめていた。
旅行鞄に着替えを入れる。
筆記具。
財布。
小さな地図。
簡単な身の回りの道具。
必要なものを一つずつ確認する。
けれど何を入れて、何を置いていくべきなのかが、どうにも決めきれない。
「……これ、持っていったほうがいいかな」
手にしたのは、古いハンカチだった。
ずっと前、マルタが縫ってくれたものだ。
別に高価なものではない。
けれど、端の縫い目が少しだけ歪んでいる。
リゼットがまだ幼かった頃、庭で転んで泣いたときにマルタがこれで涙を拭いてくれた。
そんなことを思い出す。
「持っていきなさい」
いつの間にか、扉のところにマルタが立っていた。
「……いいの?」
「いいのもなにも、あなたのものよ。それに、旅先で何があるかわからないでしょう?」
「うん」
「それに、忘れ物を取りに帰ってきてもいいんだから」
「ああ、うん……そうだね」
リゼットは小さく笑った。
ハンカチを鞄へ入れる。
そのとき、ふと気づいた。
自分が鞄へ入れているのは、どれも特別なものではない。
けれど、そのどれもが、この家で過ごした時間と繋がっていた。
自分が思っている以上に、自分は愛されているらしい。こんな時に実感するとは思わなかった。
まとめた荷物を隅に寄せて、今日は眠ることにした。
翌朝。
いつもより少し早く目が覚めた。
窓の外は、まだ薄い青色だった。
鳥の声がする。
風に揺れる木々の音がする。
いつも通りの朝。
リゼットは身支度を整えて、一階へ降りた。
台所にはマルタがいる。
「おはよう」
「おはよう、リゼット」
その声も、いつもと変わらない。
朝食の席につく。
パンが置かれる。
いつものように端をちぎる。
「また端から食べてる」
マルタが笑った。
「……だって、このほうが食べやすいから」
「はいはい」
アルノーも新聞から顔を上げる。
「旅行に行っても、その食べ方は変わらんのか?」
「たぶん」
「なら、安心だな」
そんな些細な会話。
笑ってしまう。
それだけのことなのに、妙に胸へ残った。
食事を終えて立ち上がる。
いつもの朝なら、そのまま仕事へ向かう。
今日は違う。
リゼットは外へ出た。
最後になるかもしれない。
そう思った途端、見慣れた景色が少しだけ違って見えた。
畑。果樹園。納屋。古い木の柵。何度も歩いた道。何度も触れた木の幹。
──働く、養父の姿。
まだ時間はあるし、少しだけ仕事を手伝うことにした。
「ぼんやりしてないで、そこ持ってくれ」
「う、うん」
アルノーに声をかけられる。
「今日はいつもの半分でいいぞ」
「でも、出発までまだ時間あるし……」
「だからだ」
アルノーは笑った。
「旅に出る日にまで仕事を詰め込むことはない」
「……そっか」
リゼットは笑い、いつもの作業を手伝った。
果実を確認する。
傷んでいるものを外す。
籠を運ぶ。
脚立を支える。
どれも、これまで何度もやってきたことだった。
けれど、その一つ一つが妙に鮮明だった。
木の葉の隙間から、鳥が一羽飛び立った。
「……あ」
リゼットが顔を上げる。
「どうした?」
「ううん。なんでもない」
鳥は遠くへ飛んでいく。
その姿を見送りながら、リゼットは思った。
旅に出るということは、こんなふうに今まで見ていたものを置いていくことなのだろうか。
そう考えたら、少しだけ寂しくなった。
昼前。
作業を終えて家へ戻った。
汗を拭いていると、マルタが冷たい水を差し出した。
「はい」
「ありがとう」
コップを受け取る。
一口飲む。
冷たい水が喉を通る。
その感覚だけで、胸の奥にごく小さな違和感が走った。
──水。
──暗闇。
──白いもの。
けれど、今はそこまで踏み込まない。
すこしだけ、いつもより気持ちは楽だ。教授との時間は無駄ではなかったのではないか、とこれだけでも思う。
リゼットは静かに息を吐いた。
午後。
残った荷物をまとめ終える。
旅行鞄を玄関の脇へ置いた。
本当に出発するのだと実感がわいてきた。
「ちゃんと入った?」
「うん」
「薬は?」
「入れた」
「替えの靴下」
「入れた」
「雨具」
「……あ」
「ほら」
マルタが笑う。
リゼットも笑った。
「お母さん、こういうところ全然変わらないね」
「あなたが昔から忘れっぽいだけよ」
「そんなことないよ」
「そう?」
「そう」
二人で笑う。
しばらくして、マルタがふと静かになった。
「……寂しくなるわね」
その言葉に、リゼットも黙った。
「うん」
「毎日、顔を合わせていたものね」
「うん」
「それが急になくなるんだもの」
リゼットは鞄へ手を置いた。
「でも、ずっとじゃないよ」
「ええ」
「調べ終わったら帰ってくる」
マルタは頷いた。
「そうね」
その笑顔は、いつもと同じだった。
けれど、少しだけ寂しそうだった。
夕食のあと、アルノーがリゼットに言った。
「手紙、忘れるなよ」
「うん」
「一週間に一度くらいでいい」
「そんなに?」
「旅に出る娘から何も知らせがないと、心配するのが親だ」
「……わかった」
「それから」
アルノーは少し考える。
「無理だと思ったら、帰ってこい」
リゼットは顔を上げた。
「え?」
「調べることより、お前のほうが大事だ」
それだけ言うと、アルノーはそれ以上何も言わなかった。
リゼットは胸の奥が熱くなるのを感じた。
「……うん」
それしか言えなかった。
出発の朝。
まだ空気が冷たい。
玄関には、まとめた荷物が置かれている。
アルバ教授から聞いていた便の時間まで、そう長くはない。
外へ出る。
そこへ、アルバ教授がやってきた。
「おはようございます。お初にお目にかかります。アルバと言います」
教授は穏やかな笑顔を浮かべ、家族へ丁寧に頭を下げた。
「おはようございます、アルバ教授」
マルタも礼を返す。
アルノーは一歩前へ出た。
「今日は娘をよろしくお願いします」
「こちらこそ」
アルバは眼鏡の位置を直し、改めて丁寧に一礼した。
「大切なお嬢さんをお預かりすることになります。私も可能な限り気を配りますので、どうかご安心ください」
その言葉には、奇妙なほど誠実な響きがあった。
「……ありがとうございます」
マルタが微笑む。
「こちらこそ、リゼットのことを気にかけてくださって」
「いえ。私としても、彼女が自身の過去を知ることは意味のあることだと思っています」
アルバの視線が、一瞬だけリゼットへ向いた。
穏やかな目だった。
少なくとも、この場では。
「ご家族からお預かりする以上、無責任なことはいたしません」
「そう言っていただけると安心します」
アルノーが頷いた。
「旅先で何かあれば、娘からも伝えるように言ってあります」
「はい。こちらからも連絡を差し上げるようにいたします」
アルバはそう答え、それからリゼットへ向き直った。
「では、そろそろ参りましょうか」
「……うん」
その直前だった。
「ちょっと待って」
マルタが近づいてくる。
「じっとして」
「え?」
母の指が、リゼットの髪に触れた。
前髪を整え、乱れた毛先を軽く直す。
昔から何度も繰り返してきた仕草だった。
「……これでよし」
「ありがとう、お母さん」
「旅先では、鏡を見るたびに思い出しなさい」
冗談めかした声音だった。
けれど、その目は少し赤かった。
リゼットは笑った。
「うん」
それから両親を見る。
何か言おうとして言葉が見つからない。
だから、ただ頭を下げた。
「行ってきます」
マルタが頷く。
「いってらっしゃい」
アルノーも静かに手を上げた。
「気をつけてな」
「うん」
リゼットは、もう一度笑った。
「帰ってくるから」
その言葉を残して、歩き出した。
門を出たところで、一度だけ振り返る。
マルタが手を振っている。
アルノーも、その隣に立っている。
その姿が小さく見えるまで、リゼットは何度も振り返った。
最後に見たのは、いつもの家だった。
見慣れた窓。
見慣れた屋根。
見慣れた庭。
昨日までなら、何も考えずに通り過ぎていた景色。
今は、それがひどく大切なものに見える。
「……行こう」
隣でアルバが言う。
「ええ」
二人は空港へ向かって歩き始めた。
空港へ続く道を歩きながら、リゼットは何度か後ろを振り返った。
もう、家は見えない。
代わりに前を見る。
そこには、これから乗る飛行艇が待っている。
見上げた空は、どこまでも青かった。
やがて、空の軌道車が離陸する。
ロレントの街が少しずつ小さくなっていく。
果樹園も。
家も。
見慣れた道も。
すべてが遠ざかっていく。
リゼットは窓の外を眺めながら、膝の上に置いた手を握った。
不思議だった。
故郷を離れたはずなのに、不安だけではない。
どこかに──戻る場所がある。
そう思えるからだ。
鞄の中には、母から渡されたハンカチがある。
荷物の底には、いつもの小さな道具がある。
そして、自分が帰ると言った家がある。
帰って来いと、父に言われた場所がある。
「……ボース」
小さく呟く。
知らない街。知らない土地。
──知らない、過去。
そこに、自分の答えがあるのだろうか。
あるいは、もっと分からないことが増えるのだろうか。
今はまだ何も分からない。
★
ボース市。
ロレントとは違う空気だった。
人の数が多ければ、街も広く、当然行き交う声も多い。
リゼットは少しだけ目を丸くしながら、アルバの後ろを歩いていた。
「大きい……」
「そうですね」
アルバが小さく笑う。
「ロレントとはかなり雰囲気が違いますから」
「うん」
キョロキョロと周囲を見ながら歩く。
新しい街を見る。
それだけなら、ただの旅行だったのかもしれない。
けれど、自分はここへ過去を探しに来た。
そう思うと、胸の奥が少しだけ重くなる。
しばらく歩いたところで──。
「リゼット!?」
聞き覚えのある声がした。
リゼットは足を止める。
振り返る。
「……エステル?」
そこには、驚いた顔をした少女が立っていた。
その隣にはヨシュアもいる。
「なんでここにいるの!?」
エステルが駆け寄ってくる。
「私も驚いた」
リゼットは少しだけ笑った。
「私、アルバ教授のお手伝いをすることになって」
「えっ、アルバ教授の!?」
エステルが教授を見る。
「そうなんですよ」
アルバは穏やかな笑顔で答えた。
「リゼットさんには、調査の補助をお願いしていまして」
「へえー!」
エステルは目を輝かせる。
「すごいじゃない、リゼット!」
「そんな大したことじゃないよ」
「でも、ちゃんとやりたいことを見つけたのね」
「うん」
その言葉に、リゼットはわずかに視線を落とした。
「私も……少し、見てみたいと思って」
「そっか」
エステルは、それ以上深く聞かなかった。
代わりに、にっこり笑う。
「じゃあ、ボースでも一緒だね!」
リゼットは一瞬だけ目を見開いた。
「……うん」
「また会えるなんて思わなかったよ!」
「私も」
ヨシュアが微笑む。
「旅先で知っている人に会えるのは、悪くないね」
「うん」
リゼットも笑った。
その笑顔は、ロレントで見せていたものと何も変わらない。
優しくて少し控えめで、それでも嬉しそうな笑顔。
けれど、エステルたちがこれから見ていくものと。
リゼットがこれから知っていくものは。
きっと同じではない。
エステルたちは未来へ進んでいく。
世界を知るために。
新しいものを見るために。なりたいものになるために。
リゼットは過去へ向かう。
自分が何者なのか。
あの夜、何があったのか。
その答えを知るために。