身喰らう断章   作:石鹸

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第二章 3 ボースへ

 アルバ教授から話を聞いた翌日。

 朝食を終えたところで、リゼットは家族に言った。

 

「……お父さん、お母さん。話したいことがあるの」

 

 食器を片づけていたマルタが振り返る。

 アルノーも、椅子に座ったままリゼットへ視線を向けた。

 

「どうした?」

「私……しばらく、ボースへ行こうと思う」

 

 一瞬、食卓に静かな間が落ちた。

 

「ボース?」

「うん」

 

 リゼットは膝の上で手を組んだ。

 

「アルバ教授が、私の過去について調べてくれているの。昨日、少しだけ話を聞いたんだけど……私自身も、ちゃんと知りたいと思った」

「過去を……」

 

 マルタの表情がわずかに曇る。

 それを見て、リゼットは慌てるように続けた。

 

「危険なことをするつもりじゃないよ。教授も、無理に調べろと言ったわけじゃない。ただ……知らないままなのが、少し怖くなって」

 

 言葉にしてみると、自分でも不思議なくらい自然だった。

 怖い。

 けれど、それ以上に知りたい。

 あの村のことを。

 自分が何者なのかを。

 あの夜、自分に何が起こったのかを。

 

「だから、教授と一緒にボースへ行って、調べてみたい」

 

 アルノーはしばらく黙っていた。

 やがて、小さく息を吐く。

 

「……お前が自分で決めたことなら、俺は止めない」

「お父さん……」

「ただし、帰ってこい」

 

 短い言葉だった。

 

「うん」

「それから、便りくらいは寄越せ。旅先で何かあったら、黙って抱え込むな」

「……うん」

 

 隣でマルタが微笑んだ。

 

「私も、行くなとは言わないわ」

「お母さん」

「リゼットが、本当に自分で行きたいと思っているなら」

 

 そう言って、マルタは少しだけ寂しそうに目を細めた。

 

「だって、あなたには知る権利があるもの」

 

 胸の奥が、わずかに痛んだ。

 

「……ありがとう」

「——でもね」

 

 マルタは指を一本立てた。

 

「ちゃんと帰ってきてね」

「うん。帰ってくる」

 

 ★

 

 その日の午後。

 リゼットは自分の部屋で荷物をまとめていた。

 旅行鞄に着替えを入れる。

 筆記具。

 財布。

 小さな地図。

 簡単な身の回りの道具。

 必要なものを一つずつ確認する。

 けれど何を入れて、何を置いていくべきなのかが、どうにも決めきれない。

 

「……これ、持っていったほうがいいかな」

 

 手にしたのは、古いハンカチだった。

 ずっと前、マルタが縫ってくれたものだ。

 別に高価なものではない。

 けれど、端の縫い目が少しだけ歪んでいる。

 リゼットがまだ幼かった頃、庭で転んで泣いたときにマルタがこれで涙を拭いてくれた。

 そんなことを思い出す。

 

「持っていきなさい」

 

 いつの間にか、扉のところにマルタが立っていた。

 

「……いいの?」

「いいのもなにも、あなたのものよ。それに、旅先で何があるかわからないでしょう?」

「うん」

「それに、忘れ物を取りに帰ってきてもいいんだから」

「ああ、うん……そうだね」

 

 リゼットは小さく笑った。

 ハンカチを鞄へ入れる。

 そのとき、ふと気づいた。

 自分が鞄へ入れているのは、どれも特別なものではない。

 けれど、そのどれもが、この家で過ごした時間と繋がっていた。

 自分が思っている以上に、自分は愛されているらしい。こんな時に実感するとは思わなかった。

 まとめた荷物を隅に寄せて、今日は眠ることにした。

 

 翌朝。

 いつもより少し早く目が覚めた。

 窓の外は、まだ薄い青色だった。

 鳥の声がする。

 風に揺れる木々の音がする。

 いつも通りの朝。

 リゼットは身支度を整えて、一階へ降りた。

 台所にはマルタがいる。

 

「おはよう」

「おはよう、リゼット」

 

 その声も、いつもと変わらない。

 朝食の席につく。

 パンが置かれる。

 いつものように端をちぎる。

 

「また端から食べてる」

 

 マルタが笑った。

 

「……だって、このほうが食べやすいから」

「はいはい」

 

 アルノーも新聞から顔を上げる。

 

「旅行に行っても、その食べ方は変わらんのか?」

「たぶん」

「なら、安心だな」

 

 そんな些細な会話。

 笑ってしまう。

 それだけのことなのに、妙に胸へ残った。

 食事を終えて立ち上がる。

 いつもの朝なら、そのまま仕事へ向かう。

 今日は違う。

 リゼットは外へ出た。

 最後になるかもしれない。

 そう思った途端、見慣れた景色が少しだけ違って見えた。

 畑。果樹園。納屋。古い木の柵。何度も歩いた道。何度も触れた木の幹。

 ──働く、養父の姿。

 まだ時間はあるし、少しだけ仕事を手伝うことにした。

 

「ぼんやりしてないで、そこ持ってくれ」

「う、うん」

 

 アルノーに声をかけられる。

 

「今日はいつもの半分でいいぞ」

「でも、出発までまだ時間あるし……」

「だからだ」

 

 アルノーは笑った。

 

「旅に出る日にまで仕事を詰め込むことはない」

「……そっか」

 

 リゼットは笑い、いつもの作業を手伝った。

 果実を確認する。

 傷んでいるものを外す。

 籠を運ぶ。

 脚立を支える。

 どれも、これまで何度もやってきたことだった。

 けれど、その一つ一つが妙に鮮明だった。

 木の葉の隙間から、鳥が一羽飛び立った。

 

「……あ」

 

 リゼットが顔を上げる。

 

「どうした?」

「ううん。なんでもない」

 

 鳥は遠くへ飛んでいく。

 その姿を見送りながら、リゼットは思った。

 旅に出るということは、こんなふうに今まで見ていたものを置いていくことなのだろうか。

 そう考えたら、少しだけ寂しくなった。

 昼前。

 作業を終えて家へ戻った。

 汗を拭いていると、マルタが冷たい水を差し出した。

 

「はい」

「ありがとう」

 

 コップを受け取る。

 一口飲む。

 冷たい水が喉を通る。

 その感覚だけで、胸の奥にごく小さな違和感が走った。

 

 ──水。

 ──暗闇。

 ──白いもの。

 

 けれど、今はそこまで踏み込まない。

 すこしだけ、いつもより気持ちは楽だ。教授との時間は無駄ではなかったのではないか、とこれだけでも思う。

 リゼットは静かに息を吐いた。

 午後。

 残った荷物をまとめ終える。

 旅行鞄を玄関の脇へ置いた。

 本当に出発するのだと実感がわいてきた。

 

「ちゃんと入った?」

「うん」

「薬は?」

「入れた」

「替えの靴下」

「入れた」

「雨具」

「……あ」

「ほら」

 

 マルタが笑う。

 リゼットも笑った。

 

「お母さん、こういうところ全然変わらないね」

「あなたが昔から忘れっぽいだけよ」

「そんなことないよ」

「そう?」

「そう」

 

 二人で笑う。

 しばらくして、マルタがふと静かになった。

 

「……寂しくなるわね」

 

 その言葉に、リゼットも黙った。

 

「うん」

「毎日、顔を合わせていたものね」

「うん」

「それが急になくなるんだもの」

 

 リゼットは鞄へ手を置いた。

 

「でも、ずっとじゃないよ」

「ええ」

「調べ終わったら帰ってくる」

 

 マルタは頷いた。

 

「そうね」

 

 その笑顔は、いつもと同じだった。

 けれど、少しだけ寂しそうだった。

 夕食のあと、アルノーがリゼットに言った。

 

「手紙、忘れるなよ」

「うん」

「一週間に一度くらいでいい」

「そんなに?」

「旅に出る娘から何も知らせがないと、心配するのが親だ」

「……わかった」

「それから」

 

 アルノーは少し考える。

 

「無理だと思ったら、帰ってこい」

 

 リゼットは顔を上げた。

 

「え?」

「調べることより、お前のほうが大事だ」

 

 それだけ言うと、アルノーはそれ以上何も言わなかった。

 リゼットは胸の奥が熱くなるのを感じた。

 

「……うん」

 

 それしか言えなかった。

 出発の朝。

 まだ空気が冷たい。

 玄関には、まとめた荷物が置かれている。

 アルバ教授から聞いていた便の時間まで、そう長くはない。

 外へ出る。

 そこへ、アルバ教授がやってきた。

 

「おはようございます。お初にお目にかかります。アルバと言います」

 

 教授は穏やかな笑顔を浮かべ、家族へ丁寧に頭を下げた。

 

「おはようございます、アルバ教授」

 

 マルタも礼を返す。

 アルノーは一歩前へ出た。

 

「今日は娘をよろしくお願いします」

「こちらこそ」

 

 アルバは眼鏡の位置を直し、改めて丁寧に一礼した。

 

「大切なお嬢さんをお預かりすることになります。私も可能な限り気を配りますので、どうかご安心ください」

 

 その言葉には、奇妙なほど誠実な響きがあった。

 

「……ありがとうございます」

 

 マルタが微笑む。

 

「こちらこそ、リゼットのことを気にかけてくださって」

「いえ。私としても、彼女が自身の過去を知ることは意味のあることだと思っています」

 

 アルバの視線が、一瞬だけリゼットへ向いた。

 穏やかな目だった。

 少なくとも、この場では。

 

「ご家族からお預かりする以上、無責任なことはいたしません」

「そう言っていただけると安心します」

 

 アルノーが頷いた。

 

「旅先で何かあれば、娘からも伝えるように言ってあります」

「はい。こちらからも連絡を差し上げるようにいたします」

 

 アルバはそう答え、それからリゼットへ向き直った。

 

「では、そろそろ参りましょうか」

「……うん」

 

 その直前だった。

 

「ちょっと待って」

 

 マルタが近づいてくる。

 

「じっとして」

「え?」

 

 母の指が、リゼットの髪に触れた。

 前髪を整え、乱れた毛先を軽く直す。

 昔から何度も繰り返してきた仕草だった。

 

「……これでよし」

「ありがとう、お母さん」

「旅先では、鏡を見るたびに思い出しなさい」

 

 冗談めかした声音だった。

 けれど、その目は少し赤かった。

 リゼットは笑った。

 

「うん」

 

 それから両親を見る。

 何か言おうとして言葉が見つからない。

 だから、ただ頭を下げた。

 

「行ってきます」

 

 マルタが頷く。

 

「いってらっしゃい」

 

 アルノーも静かに手を上げた。

 

「気をつけてな」

「うん」

 

 リゼットは、もう一度笑った。

 

「帰ってくるから」

 

 その言葉を残して、歩き出した。

 門を出たところで、一度だけ振り返る。

 マルタが手を振っている。

 アルノーも、その隣に立っている。

 その姿が小さく見えるまで、リゼットは何度も振り返った。

 最後に見たのは、いつもの家だった。

 見慣れた窓。

 見慣れた屋根。

 見慣れた庭。

 昨日までなら、何も考えずに通り過ぎていた景色。

 今は、それがひどく大切なものに見える。

 

「……行こう」

 

 隣でアルバが言う。

 

「ええ」

 

 二人は空港へ向かって歩き始めた。

 空港へ続く道を歩きながら、リゼットは何度か後ろを振り返った。

 もう、家は見えない。

 代わりに前を見る。

 そこには、これから乗る飛行艇が待っている。

 見上げた空は、どこまでも青かった。

 やがて、空の軌道車が離陸する。

 ロレントの街が少しずつ小さくなっていく。

 果樹園も。

 家も。

 見慣れた道も。

 すべてが遠ざかっていく。

 リゼットは窓の外を眺めながら、膝の上に置いた手を握った。

 不思議だった。

 故郷を離れたはずなのに、不安だけではない。

 どこかに──戻る場所がある。

 そう思えるからだ。

 鞄の中には、母から渡されたハンカチがある。

 荷物の底には、いつもの小さな道具がある。

 そして、自分が帰ると言った家がある。

 帰って来いと、父に言われた場所がある。

 

「……ボース」

 

 小さく呟く。

 知らない街。知らない土地。

 ──知らない、過去。

 そこに、自分の答えがあるのだろうか。

 あるいは、もっと分からないことが増えるのだろうか。

 今はまだ何も分からない。

 

 ★

 

 ボース市。

 ロレントとは違う空気だった。

 人の数が多ければ、街も広く、当然行き交う声も多い。

 リゼットは少しだけ目を丸くしながら、アルバの後ろを歩いていた。

 

「大きい……」

「そうですね」

 

 アルバが小さく笑う。

 

「ロレントとはかなり雰囲気が違いますから」

「うん」

 

 キョロキョロと周囲を見ながら歩く。

 新しい街を見る。

 それだけなら、ただの旅行だったのかもしれない。

 けれど、自分はここへ過去を探しに来た。

 そう思うと、胸の奥が少しだけ重くなる。

 しばらく歩いたところで──。

 

「リゼット!?」

 

 聞き覚えのある声がした。

 リゼットは足を止める。

 振り返る。

 

「……エステル?」

 

 そこには、驚いた顔をした少女が立っていた。

 その隣にはヨシュアもいる。

 

「なんでここにいるの!?」

 

 エステルが駆け寄ってくる。

 

「私も驚いた」

 

 リゼットは少しだけ笑った。

 

「私、アルバ教授のお手伝いをすることになって」

「えっ、アルバ教授の!?」

 

 エステルが教授を見る。

 

「そうなんですよ」

 

 アルバは穏やかな笑顔で答えた。

 

「リゼットさんには、調査の補助をお願いしていまして」

「へえー!」

 

 エステルは目を輝かせる。

 

「すごいじゃない、リゼット!」

「そんな大したことじゃないよ」

「でも、ちゃんとやりたいことを見つけたのね」

「うん」

 

 その言葉に、リゼットはわずかに視線を落とした。

 

「私も……少し、見てみたいと思って」

「そっか」

 

 エステルは、それ以上深く聞かなかった。

 代わりに、にっこり笑う。

 

「じゃあ、ボースでも一緒だね!」

 

 リゼットは一瞬だけ目を見開いた。

 

「……うん」

「また会えるなんて思わなかったよ!」

「私も」

 

 ヨシュアが微笑む。

 

「旅先で知っている人に会えるのは、悪くないね」

「うん」

 

 リゼットも笑った。

 その笑顔は、ロレントで見せていたものと何も変わらない。

 優しくて少し控えめで、それでも嬉しそうな笑顔。

 けれど、エステルたちがこれから見ていくものと。

 リゼットがこれから知っていくものは。

 きっと同じではない。

 エステルたちは未来へ進んでいく。

 世界を知るために。

 新しいものを見るために。なりたいものになるために。

 リゼットは過去へ向かう。

 自分が何者なのか。

 あの夜、何があったのか。

 その答えを知るために。

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