身喰らう断章   作:石鹸

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第二章 4 泡のような日常を

 ボース市は、ロレントとはまるで違っていた。

 人が多い。

 行き交う人々の声が重なり、通りには荷車の音が響いている。露店には見たことのない品物が並び、商人たちは忙しそうに客を呼び込んでいた。

 リゼットは歩きながら、何度も周囲を見回していた。

 

「すごいね……」

「でしょう?」

 

隣を歩くエステルが、どこか得意げに胸を張る。

 

「ボースはロレントよりずっと大きいし、いろんな人がいるんだよ」

「エステルが案内してくれるの?」

「もちろん!」

「……迷子にならない?」

「ならないわよ!」

 

 少しむきになった声に、リゼットは思わず笑った。

 後ろから歩いていたヨシュアも、静かに笑う。

 

「エステルは一人だったらともかく、今は僕がいるから大丈夫だよ」

「それ、私が信用できないみたいじゃない!」

「そうは言ってないよ」

 

 二人のやり取りを眺めていると、不思議だった。

 ほんの少し前まで、ロレントにいた。

 自分たちの住んでいる街を離れること。

 知らない場所へ行くこと。

 それを話していたはずなのに。

 今、自分はこうして二人と並んで歩いている。

 まるで、何も変わっていないようだった。

 

「ところで、リゼット」

 

 エステルが振り返る。

 

「ご両親にはちゃんと話したの?」

「うん」

「怒られなかった?」

「心配はされたけど……反対はされなかったよ。アルバ教授もいるし」

「そっか」

 

 エステルはほっとしたように笑った。

 

「よかった」

「お母さんは、かなり心配してたけど」

「そうよね」

「お父さんには、ちゃんと帰ってこいって言われた」

「うん」

 

 エステルが笑う。

 

「リゼットの家らしいわね」

「……そう?」

「うん。なんとなくだけど」

 

 エステルはそう言って前を向いた。

 

「ちゃんと帰れるところがあるって、いいことだと思う」

 

 リゼットは返事をしなかった。

 ただ、少しだけ笑った。

 しばらく歩いたところで、アルバ教授が足を止めた。

 

「私は少し調べ物をしてきます」

「え?」

「昨日お話しした件で、いくつか確認しておきたい資料がありまして」

 

 アルバは古びた鞄を持ち直す。

 

「夕方には宿へ戻る予定です。それまでは、街を見てきても構いませんよ」

「いいんですか?」

「ボースに来たばかりでしょう」

 

 教授は穏やかに笑った。

 

「せっかくご友人とも再会できたのですから、少し散策してみるのも悪くありません」

 

 そう言ってから、エステルを見る。

 

「お二人も、よろしければ付き合ってあげてください」

「任せてください!」

 

 エステルが即答した。

 

「それでは、また後ほど」

「はい」

 

 アルバは軽く頭を下げ、そのまま人波の向こうへ消えていった。

 

「じゃあ、行こう!」

 

 エステルがリゼットの腕を引く。

 

「ちょっと、エステル……」

「せっかく来たんだから、見て回らなきゃ損だよ!」

「待って、鞄が……」

 

 リゼットは慌てて追いかけた。

 その少し後ろを苦笑しながらヨシュアが歩く。

 道を歩いて、色々なところを回った。中でもボースマーケットは目が回るほど物があって圧巻だ。

 そこで見たことのない菓子をエステルが買う。

 

「これおいしいのよ」

「でも、それ、さっきも何か食べてなかった?」

「それはそれ、これはこれ!」

「……ふふ」

 

 ロレントにいる頃には見慣れていたエステルの姿が、今日は少しだけ新鮮だった。

 旅立った人。

 それでも変わらない人。

 リゼットはそのことを、妙に嬉しく思った。

 

「そういえばさ」

 

 エステルが歩きながら言う。

 

「教授のお手伝いって、どんなことやるの?」

「えっと……飛行挺で言われたのは……資料の整理とか、記録の確認とか、雑用が主みたい」

「なるほど」

「まだ始めたばかりだから、私もよく分かってないけど」

「でも、教授の助手ってなんかかっこいいわね!」

「そうかな……」

「あぁ。きっと色々なことを学べるだろうね」

 

 リゼットは少し困ったように笑った。

 

「私なんて、ただ文字を書いたり荷物を持ったりするくらいだよ」

「最初はそれでいいんじゃない?」

 

 ヨシュアが口を挟む。

 

「専門的な調査なら、まずは仕事を覚えるところからだし」

「……そっか」

 

 その言葉を聞いて、リゼットは少しだけ安心した。

 夕方。

 三人は街の広場で立ち止まった。

 西へ傾いた陽が建物を照らしている。

 

「今日は楽しかったなぁ」

 

 エステルが背伸びをする。

 

「リゼット、明日も時間ある?」

「うん。たぶん」

「じゃあまた一緒に見て回ろうよ!」

 

 リゼットは一瞬だけ答えに迷った。

 自分はここへ遊びに来たわけではない。

 過去を調べるために来た。

 あの村のことを、延いては自分のことを知るために。

 だ、けれど。

 

「……うん。いいよ」

 

 気づけば勝手に口が開いていた。

 エステルが嬉しそうに笑う。

 

「決まりね!」

 

 その横で、ヨシュアも微笑んだ。

 

「じゃあ、また明日」

「うん。また明日」

 

 宿へ戻ると、アルバ教授はすでに部屋にいた。

 

「おかえりなさい」

「ただいま戻りました」

「ボースはどうでしたか?」

「すごく人が多くて……それに、いろんなものがあって」

 

 リゼットが話す。

 今日はどこへ行ったか。

 何を見たか。

 エステルが何を言ったか。

 ヨシュアがどんな顔をしていたか。

 教授は相槌を打ちながら聞いていた。

 

「それはよかったですね」

 

 やがて、アルバは机の上に数冊の資料を並べた。

 

「こちらが今日確認してきたものです」

 

 古い地図。

 王国各地の小さな集落について記された記録。

 古い礼拝堂や街道の変遷をまとめた資料。

 リゼットは椅子へ座った。

 

「これを読むんですか?」

「ええ。ただし、今日は無理をしなくて構いません」

 

 その言葉に、リゼットは顔を上げた。

 

「昨日のこともありますから」

「……はい」

「過去を知ることは大切です。しかし、急ぐ必要はありません」

 

 アルバはそう言って、一冊の資料を閉じた。

 

「知りたいと思ったときに、知ればいい」

 

 優しい言葉だった。

 押しつけるような響きはない。

 リゼットは頷いた。

 その夜。

 部屋へ戻ったリゼットは、机の前に座った。

 窓の外には、ボースの夜景が広がっている。

 ロレントとは違う光。

 見知らぬ街の光。

 鞄から紙を一枚取り出す。

 便箋だった。

 しばらく考えてから、ペンを走らせる。

 

『お父さん、お母さんへ』

 

 そこから先は、案外すぐに言葉が出てきた。

 無事に到着したこと。

 ボースが思っていたよりずっと賑やかなこと。

 エステルとヨシュアに偶然会ったこと。

 明日も一緒に街を見て回る約束をしたこと。

 そして――。

 

『こっちは大丈夫です』

 

 そう書いたところで、ペンが止まる。

 少しだけ考えてから、続ける。

 

『ちゃんと帰ってくるから、心配しないでください』

 

 書き終えて、リゼットは手紙を見つめた。

 

「……帰ってくる、か」

 

 声にすると、やはり不思議だった。

 その言葉は自分を落ち着かせる。

 どれだけ遠くへ行っても。

 どれだけ知らない場所へ行っても。

 帰る場所がある。

 そう思えるから。

 リゼットは便箋を折った。

 机の隅へ置く。

 そのときだった。

 紙の上に、何かが落ちた。

 水滴かと思った。

 けれど、丸い。

 ――透明な、泡。

 

「……え」

 

 小さな泡だった。

 どこから来たのか分からない。

 窓は閉まっている。

 風もない。

 リゼットは首を傾げた。

 指先で触れようとして――やめた。

 なぜか。

 触れてはいけないような気がした。

 泡は便箋の上で、ゆっくりと揺れている。

 その向こう側に書かれた文字が、歪んで見えた。

 

 ――帰ってくる。

 

 その文字だけが、水面越しに揺れている。

 リゼットは、無意識に息を止めた。

 どこかで見たことがある。

 そんな気がした。

 けれど、思い出せない。

 

「……なんだろう」

 

 しばらく待っても、泡は消えなかった。

 ただ、ゆっくりと転がるように便箋の端へ移動する。

 そして、紙からはみ出した瞬間。

 机の木目に触れた。

 音はしなかった。

 煙も出ない。

 ただ――。

 泡が触れた箇所だけ、木が欠けていた。

 ほんの一滴分。

 まるで、そこだけ最初から存在しなかったように。

 リゼットは目を見開いた。

 

「……え?」

 

 泡は机の端から離れた。

 ゆっくりと浮かび上がる。

 そのまましばらく宙に留まり――。

 窓際へ向かった。

 リゼットは追わなかった。

 追えなかった。

 ただ、立ち尽くして見ている。

 窓の向こうには、夜のボースがある。

 たくさんの灯り。

 人の営み。

 遠くで聞こえる笑い声。

 その明るさとは関係なく。

 透明な泡は、静かに夜の中へ溶けていった。

 しばらくしてから。

 リゼットは机へ近づいた。

 指で、泡が触れた場所をなぞる。

 指先に何もつかない。

 傷跡すらない。

 ただ、そこだけが薄く欠けている。

 

「……どうして……だって、わたしはなにも……」

 

 問いかけても、答えるものはいない。

 その夜。

 リゼットは眠る前に、何度も机を見た。

 けれど、もう泡は現れなかった。

 だからきっと。

 疲れていたのだろう。

 昨日のことがあったから。

 知らない街へ来たばかりだから。

 そういうことにして、リゼットは目を閉じた。

 ただ。

 枕元に置いた便箋の一番下。

 まだ乾ききっていなかったインクの上に――ごく小さな、丸い染みが一つだけ残っていた。

 

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