身喰らう断章 作:石鹸
ボース市は、ロレントとはまるで違っていた。
人が多い。
行き交う人々の声が重なり、通りには荷車の音が響いている。露店には見たことのない品物が並び、商人たちは忙しそうに客を呼び込んでいた。
リゼットは歩きながら、何度も周囲を見回していた。
「すごいね……」
「でしょう?」
隣を歩くエステルが、どこか得意げに胸を張る。
「ボースはロレントよりずっと大きいし、いろんな人がいるんだよ」
「エステルが案内してくれるの?」
「もちろん!」
「……迷子にならない?」
「ならないわよ!」
少しむきになった声に、リゼットは思わず笑った。
後ろから歩いていたヨシュアも、静かに笑う。
「エステルは一人だったらともかく、今は僕がいるから大丈夫だよ」
「それ、私が信用できないみたいじゃない!」
「そうは言ってないよ」
二人のやり取りを眺めていると、不思議だった。
ほんの少し前まで、ロレントにいた。
自分たちの住んでいる街を離れること。
知らない場所へ行くこと。
それを話していたはずなのに。
今、自分はこうして二人と並んで歩いている。
まるで、何も変わっていないようだった。
「ところで、リゼット」
エステルが振り返る。
「ご両親にはちゃんと話したの?」
「うん」
「怒られなかった?」
「心配はされたけど……反対はされなかったよ。アルバ教授もいるし」
「そっか」
エステルはほっとしたように笑った。
「よかった」
「お母さんは、かなり心配してたけど」
「そうよね」
「お父さんには、ちゃんと帰ってこいって言われた」
「うん」
エステルが笑う。
「リゼットの家らしいわね」
「……そう?」
「うん。なんとなくだけど」
エステルはそう言って前を向いた。
「ちゃんと帰れるところがあるって、いいことだと思う」
リゼットは返事をしなかった。
ただ、少しだけ笑った。
しばらく歩いたところで、アルバ教授が足を止めた。
「私は少し調べ物をしてきます」
「え?」
「昨日お話しした件で、いくつか確認しておきたい資料がありまして」
アルバは古びた鞄を持ち直す。
「夕方には宿へ戻る予定です。それまでは、街を見てきても構いませんよ」
「いいんですか?」
「ボースに来たばかりでしょう」
教授は穏やかに笑った。
「せっかくご友人とも再会できたのですから、少し散策してみるのも悪くありません」
そう言ってから、エステルを見る。
「お二人も、よろしければ付き合ってあげてください」
「任せてください!」
エステルが即答した。
「それでは、また後ほど」
「はい」
アルバは軽く頭を下げ、そのまま人波の向こうへ消えていった。
「じゃあ、行こう!」
エステルがリゼットの腕を引く。
「ちょっと、エステル……」
「せっかく来たんだから、見て回らなきゃ損だよ!」
「待って、鞄が……」
リゼットは慌てて追いかけた。
その少し後ろを苦笑しながらヨシュアが歩く。
道を歩いて、色々なところを回った。中でもボースマーケットは目が回るほど物があって圧巻だ。
そこで見たことのない菓子をエステルが買う。
「これおいしいのよ」
「でも、それ、さっきも何か食べてなかった?」
「それはそれ、これはこれ!」
「……ふふ」
ロレントにいる頃には見慣れていたエステルの姿が、今日は少しだけ新鮮だった。
旅立った人。
それでも変わらない人。
リゼットはそのことを、妙に嬉しく思った。
「そういえばさ」
エステルが歩きながら言う。
「教授のお手伝いって、どんなことやるの?」
「えっと……飛行挺で言われたのは……資料の整理とか、記録の確認とか、雑用が主みたい」
「なるほど」
「まだ始めたばかりだから、私もよく分かってないけど」
「でも、教授の助手ってなんかかっこいいわね!」
「そうかな……」
「あぁ。きっと色々なことを学べるだろうね」
リゼットは少し困ったように笑った。
「私なんて、ただ文字を書いたり荷物を持ったりするくらいだよ」
「最初はそれでいいんじゃない?」
ヨシュアが口を挟む。
「専門的な調査なら、まずは仕事を覚えるところからだし」
「……そっか」
その言葉を聞いて、リゼットは少しだけ安心した。
夕方。
三人は街の広場で立ち止まった。
西へ傾いた陽が建物を照らしている。
「今日は楽しかったなぁ」
エステルが背伸びをする。
「リゼット、明日も時間ある?」
「うん。たぶん」
「じゃあまた一緒に見て回ろうよ!」
リゼットは一瞬だけ答えに迷った。
自分はここへ遊びに来たわけではない。
過去を調べるために来た。
あの村のことを、延いては自分のことを知るために。
だ、けれど。
「……うん。いいよ」
気づけば勝手に口が開いていた。
エステルが嬉しそうに笑う。
「決まりね!」
その横で、ヨシュアも微笑んだ。
「じゃあ、また明日」
「うん。また明日」
宿へ戻ると、アルバ教授はすでに部屋にいた。
「おかえりなさい」
「ただいま戻りました」
「ボースはどうでしたか?」
「すごく人が多くて……それに、いろんなものがあって」
リゼットが話す。
今日はどこへ行ったか。
何を見たか。
エステルが何を言ったか。
ヨシュアがどんな顔をしていたか。
教授は相槌を打ちながら聞いていた。
「それはよかったですね」
やがて、アルバは机の上に数冊の資料を並べた。
「こちらが今日確認してきたものです」
古い地図。
王国各地の小さな集落について記された記録。
古い礼拝堂や街道の変遷をまとめた資料。
リゼットは椅子へ座った。
「これを読むんですか?」
「ええ。ただし、今日は無理をしなくて構いません」
その言葉に、リゼットは顔を上げた。
「昨日のこともありますから」
「……はい」
「過去を知ることは大切です。しかし、急ぐ必要はありません」
アルバはそう言って、一冊の資料を閉じた。
「知りたいと思ったときに、知ればいい」
優しい言葉だった。
押しつけるような響きはない。
リゼットは頷いた。
その夜。
部屋へ戻ったリゼットは、机の前に座った。
窓の外には、ボースの夜景が広がっている。
ロレントとは違う光。
見知らぬ街の光。
鞄から紙を一枚取り出す。
便箋だった。
しばらく考えてから、ペンを走らせる。
『お父さん、お母さんへ』
そこから先は、案外すぐに言葉が出てきた。
無事に到着したこと。
ボースが思っていたよりずっと賑やかなこと。
エステルとヨシュアに偶然会ったこと。
明日も一緒に街を見て回る約束をしたこと。
そして――。
『こっちは大丈夫です』
そう書いたところで、ペンが止まる。
少しだけ考えてから、続ける。
『ちゃんと帰ってくるから、心配しないでください』
書き終えて、リゼットは手紙を見つめた。
「……帰ってくる、か」
声にすると、やはり不思議だった。
その言葉は自分を落ち着かせる。
どれだけ遠くへ行っても。
どれだけ知らない場所へ行っても。
帰る場所がある。
そう思えるから。
リゼットは便箋を折った。
机の隅へ置く。
そのときだった。
紙の上に、何かが落ちた。
水滴かと思った。
けれど、丸い。
――透明な、泡。
「……え」
小さな泡だった。
どこから来たのか分からない。
窓は閉まっている。
風もない。
リゼットは首を傾げた。
指先で触れようとして――やめた。
なぜか。
触れてはいけないような気がした。
泡は便箋の上で、ゆっくりと揺れている。
その向こう側に書かれた文字が、歪んで見えた。
――帰ってくる。
その文字だけが、水面越しに揺れている。
リゼットは、無意識に息を止めた。
どこかで見たことがある。
そんな気がした。
けれど、思い出せない。
「……なんだろう」
しばらく待っても、泡は消えなかった。
ただ、ゆっくりと転がるように便箋の端へ移動する。
そして、紙からはみ出した瞬間。
机の木目に触れた。
音はしなかった。
煙も出ない。
ただ――。
泡が触れた箇所だけ、木が欠けていた。
ほんの一滴分。
まるで、そこだけ最初から存在しなかったように。
リゼットは目を見開いた。
「……え?」
泡は机の端から離れた。
ゆっくりと浮かび上がる。
そのまましばらく宙に留まり――。
窓際へ向かった。
リゼットは追わなかった。
追えなかった。
ただ、立ち尽くして見ている。
窓の向こうには、夜のボースがある。
たくさんの灯り。
人の営み。
遠くで聞こえる笑い声。
その明るさとは関係なく。
透明な泡は、静かに夜の中へ溶けていった。
しばらくしてから。
リゼットは机へ近づいた。
指で、泡が触れた場所をなぞる。
指先に何もつかない。
傷跡すらない。
ただ、そこだけが薄く欠けている。
「……どうして……だって、わたしはなにも……」
問いかけても、答えるものはいない。
その夜。
リゼットは眠る前に、何度も机を見た。
けれど、もう泡は現れなかった。
だからきっと。
疲れていたのだろう。
昨日のことがあったから。
知らない街へ来たばかりだから。
そういうことにして、リゼットは目を閉じた。
ただ。
枕元に置いた便箋の一番下。
まだ乾ききっていなかったインクの上に――ごく小さな、丸い染みが一つだけ残っていた。