身喰らう断章 作:石鹸
翌朝。
リゼットは、いつもより少し早く目を覚ました。
見慣れない天井を眺めながら、ぼんやりと昨夜のことを思い出す。
机。
便箋。
そして――泡。
「……」
身体を起こす。
机の上には、昨夜と同じように便箋が置かれていた。
リゼットはしばらく眺めてから、そっと近づいた。
泡は、ない。
机にも、もう何も起きていない。
ただ、昨夜確かに泡が触れた場所だけが、ほんの少し欠けている。
指先で触れてみる。
「……やっぱり、夢じゃない」
それ以上は考えないことにした。
今はまだ。
支度を済ませて部屋を出る。
廊下へ出ると、すでに宿の中は人の気配で満ちていた。
階下へ降りる途中、新聞を抱えた宿の主人が、別の客と話している声が聞こえる。
「今朝もまだ見つかっていないそうですよ」
「本当に? もう捜索は始まってるんでしょう?」
「ええ。遊撃士協会も動いているそうです」
リゼットの足が止まった。
「……?」
何の話だろう。
そう思いながら階下へ降りる。
食堂の一角には、今日の新聞が何部か置かれていた。
その一面に、大きく見出しが載っている。
――飛行船、消息を絶つ。
リゼットは足を止めた。
「……飛行船」
昨日、街を歩いていたときには聞かなかった話だった。
新聞を手に取る。
ボース発の定期便の連絡が途絶えたらしい。
乗客と乗員。
その行方は、まだ分かっていない。
記事を読み進める。
すでに遊撃士協会による調査も始まっている。
王国軍も情報収集を行っている。
原因は不明。
現在も捜索中。
「……」
リゼットは新聞から目を離せなかった。
最近よく目にする言葉。自分が背負う、四文字。
けれど、文字になっていると妙に重く感じる。
――行方不明。
エーヴェル村。
――住民、行方不明。
胸の奥が、わずかにざわついた。
「リゼット?」
声をかけられて振り向く。
エステルだった。
「おはよう!」
「……おはよう、エステル」
ヨシュアも、その後ろからやって来る。
「おはよう、リゼット」
「うん」
エステルが、リゼットの手元を覗き込んだ。
「新聞? 何かあったの?」
「飛行船が……行方不明になったみたい」
「ああ、それね」
エステルは少しだけ表情を引き締めた。
「昨日、宿でも話してたわ。やっぱり結構大きな騒ぎになってるみたい」
「そうなんだ……」
「うん。遊撃士協会でも調べてるの」
エステルは新聞を受け取ると、ざっと目を通した。
「こういうの、放っておけないわよね」
「エステルは、関わるの?」
「もちろん!」
即答だった。
「だって遊撃士なんだから。困ってる人がいるなら、できることをしなきゃ」
その言葉を聞いて、リゼットは少しだけ笑った。
「エステルらしいね」
「そう?」
「うん」
昔から、変わらない。
困っている人を見つけたら、自分から近づいていく。
ロレントにいた頃から、ずっとそうだった。
「ヨシュアも行くんでしょう?」
「僕も遊撃士だからね」
ヨシュアは苦笑する。
「それに、エステル一人に任せておくのは少し心配だし」
「もう! またそれ言うの!?」
「事実だよ」
「むぅ……」
二人のやり取りに、リゼットは小さく笑った。
けれど笑いながらも、手元の新聞が気になっていた。
飛行船が消えた。
乗っていた人たちごと消えた。
そして今、この街では消えた人たちを探している人がいる。
「……ねえ、エステル」
「ん?」
「この事件……ちゃんと見つかると思う?」
エステルは少しだけ目を丸くした。
それから、当然のように答えた。
「見つけるのよ」
「……」
「だって、探してるんでしょ?」
あまりにも迷いのない言葉だった。
「だったら、きっと見つかるわよ」
「……そっか」
リゼットは新聞へ視線を落とした。
その言葉が、胸の奥に残った。
――探しているなら、きっと見つかる。
そうエステルは言い切った。
ではエーヴェル村は?
あの村の人たちは、誰かが探したのだろうか。
今も、探している人はいるのだろうか。
自分を――探してくれる人はいるのだろうか。
「リゼット?」
「……ううん。なんでもない」
新聞を畳む。
「二人とも、今日は事件の調査なんだよね」
「うん」
「じゃあ、頑張って」
「リゼットは?」
「私は……」
言葉が止まる。
今はアルバ教授の助手だ。少なくとも、その名目でついてきている。
資料整理。
もちろんエーヴェル村についての調査も。
自分には自分の目的がある。
「私は、教授のお手伝いをするよ」
「そっか」
エステルは笑った。
いつも通りの快活な笑みだ。
けれど、どこか焦りのようなものを感じる気がする。
「じゃあ、また後でね!」
「うん」
「夕方には戻ると思うから!」
「気をつけてね」
「リゼットもね!」
エステルとヨシュアは、宿を出ていった。
扉が閉まる。
その向こうから、二人の声が遠ざかっていく。
リゼットは、しばらくその場に立っていた。
やがて、もう一度新聞を見る。
飛行船の失踪。
遊撃士による捜索。
行方不明者。
「……調べれば、分かるのかな」
小さく呟く。
昨日までなら、ただの事件だった。
けれど今は違う。
自分と同じように、「消えた人」を探している人たちがいる。
それが、どうしても気になった。
リゼットは新聞を折り畳んだ。
そして、そのまま自分の部屋へ戻る。
机の上には、昨夜書いた手紙がある。
――ちゃんと帰ってくるから。
その言葉を見て、リゼットは少しだけ目を伏せた。
「……そうだよね」
自分は帰る。
そのためにここへ来たのだから。
だからまずは、自分の過去を知ろう。
エーヴェル村で何が起きたのか。
自分は、そこで何をしていたのか。
なぜ、自分だけが残ったのか知らなければならない。
あるいは、同じ思いをしている人がいないかを、調べなければならない。
鞄からノートを取り出した。
昨日まで書かれていた記録の下に、新しい項目を加える。
――エーヴェル村集団失踪事件。
――七耀暦1196年8月13日夜半から翌朝。
――住民の消息、不明。
ペン先が止まる。
その下に、もう一行。
――現在も、真相不明。
「……」
ノートを閉じる。
そのとき廊下からアルバ教授の声が聞こえた。
「リゼット君。起きていますか?」
「はい」
「朝食の後、少し時間をいただけますか。昨日の資料について、確認したいことがあります」
「分かりました」
リゼットは立ち上がった。
新聞を持っていくべきか、一瞬だけ迷う。
けれど、結局そのまま置いていった。
自分から事件へ関わる理由はない。
飛行船を探すのは、遊撃士の仕事だ。
自分には、自分の調べるべきことがある。
とはいえど心のどこかであの事件がどうなるのか、少しだけ気になる。
もし本当に消えた人たちが見つかるのなら。
そのとき、自分もまた――過去に消えてしまったものを見つけられるのかもしれない。
そんな考えが胸の奥に小さく残っていた。
それが希望であるのか、絶望であるのは、今はまだわからなかった。