シガンシナ区の午後は、いつもと変わらなかった。
石造りの家々の隙間を抜けてきた風が、路地に積もった埃をわずかに巻き上げている。遠くでは荷馬車の車輪が石畳を叩き、パン屋から漂う焼けた小麦の匂いに家畜小屋の臭いが混じっていた。百年近く巨人の侵入を許していない巨大な壁の内側では、そうした何でもない日常こそが「平和」と呼ばれていた。
「だから、外の世界には海があるんだって! 本に書いてあったんだ!」
アルミン・アルレルトは興奮すると、少しだけ声が大きくなる。
細い腕で本を胸元に抱えながら、アルミンは目を輝かせていた。エレン・イェーガーはその話を何度も聞いているはずなのに飽きた様子もなく、いつものように前のめりになっている。その隣ではミカサ・アッカーマンが二人を見守りながら、ときおり周囲へ警戒するように視線を走らせていた。
「海だけじゃないんだろ? 炎の水とか、氷の大地とか……」
「うん。壁の外には、僕たちが見たこともないものがたくさんある。だから僕は――」
「おい、アルミン」
背後から聞こえた声に、アルミンの肩がびくりと揺れた。
振り返ると、路地の入口に三人の少年が立っていた。どの顔にも見覚えがある。アルミンが壁の外について話しているところを見つけるたびに「異端者」と呼んでからかい、ときには殴ることさえある連中だった。
「また変な本読んでんのか?」
「壁の外に行きたいんだってよ。巨人に食われたいらしいぜ」
三人の間から笑い声が上がり、アルミンは本を抱く腕へ力を込めた。しかし何も言い返さない彼を見た途端、エレンの眉が吊り上がった。
「お前ら、いい加減にしろよ!」
エレンは迷わず前へ出た。
結果だけを言えば、三対一で殴り合うというのはあまり賢いやり方ではなかった。エレンは一人の腹へ勢いよく体当たりを食らわせ、そのまま取っ組み合いへ持ち込んだものの、横から別の少年に頭を叩かれてすぐ泥まみれになった。それでも退く気はないらしく、歯を食いしばりながら相手へ掴みかかっていく。
「エレン!」
アルミンが慌てて叫んだ直後、三人の少年の動きが急に止まった。
エレンの背後から、ミカサが静かに歩いてきたのである。
ミカサは何も言わなかった。怒鳴りもせず、拳を握ることさえしない。ただ無表情に三人を見ただけなのだが、その視線を受けた少年たちは目に見えて顔を強張らせた。
「……帰ろうぜ」
「あ、ああ」
「今日はこれくらいにしといてやる!」
三人は分かりやすい捨て台詞を残し、そのまま路地の向こうへ走っていった。
「待て! 逃げんな!」
「エレン、もういい」
追いかけようとするエレンの襟首を、ミカサが後ろから掴んだ。エレンはなおも何か言いたげだったが、どう考えてもミカサの腕力には勝てない。しばらく宙でもがいた末、ようやく諦めて地面へ足を下ろした。
「まったく……なんで俺が止められるんだよ」
「エレンが追いかけたら、また喧嘩になるから」
「向こうから来たんだぞ!」
「それでも」
いつものやり取りだった。
アルミンは二人を見つめ、それから少し申し訳なさそうに息を吐いた。
「ありがとう、エレン。それにミカサも。いつも助けてもらってばかりで……なんだか悪いな」
「気にすんなよ。あいつらが勝手に絡んでくるだけだろ」
エレンは鼻の下を擦りながら、服についた泥を払った。
アルミンは少し笑ってから、何か思い出したように続ける。
「でも最近は、前より少し減ったんだ。ディエゴが僕のところに来てる時なんか、絶対に近づいてこないし」
「ディエゴ?」
エレンの手が止まり、ミカサも僅かに眉を動かした。
「ディエゴ・ブランドーが、お前のところに来るのか?」
「うん。たまにだけどね。本を見せてくれって言われたり、壁の外について聞かれたりする」
「へえ……」
エレンは意外そうな顔をしたが、同時に、先ほどの少年たちがディエゴを避けているという話には妙な納得もあった。
ディエゴ・ブランドー。
シガンシナ区で暮らしている者なら、子供であってもその名前を知っている。
特別に裕福な家の生まれではない。父親が大商人というわけでもなければ、兵団に強い伝手を持っているわけでもなく、ごく普通の家庭に生まれた少年にすぎない。それでも彼の名前だけは、同年代の子供どころかシガンシナ区の大人たちにまで広く知られていた。
理由は単純だった。
何をやらせても、異様なほど上手いのである。
読み書きを覚えるのも早く、計算を教えれば教えた大人より先に答えへ辿り着くことさえあった。そして何より有名なのが乗馬であり、初めて馬へ乗った時から、まるで何年も鞍の上で暮らしてきたかのように乗りこなしたという。
気性が荒く、大人ですら近づくことを嫌がる馬でさえ、ディエゴが手綱を握れば不思議なほど従順になる。
「将来は調査兵団だろうな」
酒場の大人たちは、よくそんな話をしていた。
「あの坊主なら壁外調査でも死なんだろ」
「いやいや、馬術だけで巨人が倒せるかよ」
「でもよ、あいつは妙なんだ。なんつーか……運まで味方してやがる」
そして、ディエゴにはもう一つ奇妙な噂があった。
彼の家では鼠やゴキブリといった害獣や害虫がほとんど出ない。それだけなら掃除の行き届いた家だと笑って済ませられたのだが、ディエゴが頻繁に訪れる場所でも同じことが起きた。
宿屋の厩舎や商人の倉庫、知り合いの家など、それまで鼠が走り回っていた場所でさえ、彼が何度か出入りするようになるとなぜか姿を消してしまう。
「神童ってやつは虫にも分かるんじゃねえか?」
駐屯兵団のハンネスなどは、酒を飲みながら腹を抱えて笑っていた。
「俺がゴキブリなら、あんな目をしたガキの家には入りたくねえな!」
誰も本気では気にしていなかった。
少々おかしなことではある。それでも壁の中で生活している限り、もっと重要な問題はいくらでもあった。食料の値段、兵団への税、明日の仕事。それらに比べれば、一人の少年の周囲から虫が消えるなど、酒の席で話す奇妙な噂の一つでしかなかった。
エレンもミカサもアルミンも、ディエゴのことは知っている。話したことだってあり、決して仲が悪いわけでもない。
それでも三人とも、無意識のうちに彼とは少し距離を取っていた。
理由を説明しろと言われても困る。
ディエゴは必要なら笑うし、冗談を言うこともある。大人に対する礼儀も心得ており、同年代の子供を理由もなく殴りつけるような少年でもない。
それなのに、ときどき目が合った瞬間だけ、エレンは奇妙な感覚を覚えることがあった。
ディエゴが、自分たちと同じものを見ていないように思えるのだ。
同じ道を歩き、同じパンを食べ、同じ壁を見上げている。それでも彼だけは、もっと遥か遠くからこの町を眺めているような気がしてならない。
「ディエゴは、何が知りたいんだ?」
エレンが尋ねると、アルミンは少し考えてから答えた。
「巨人のことが多いかな。あとは調査兵団とか、壁の外の地形とか」
「やっぱり調査兵団に入るつもりなのか」
「たぶん」
アルミンは頷いたものの、すぐに少し首を傾げた。
「ただ……なんていうんだろう。ディエゴは壁の外に憧れてるって感じじゃないんだ」
「じゃあ何なんだ?」
「分からない。でも、僕が海の話をしてもほとんど興味を示さないのに、巨人の話になるとすごく細かく聞いてくるんだ。どれくらい大きいのかとか、どうやったら死ぬのかとか、何を食べるのかとか……」
エレンは不思議そうに首を捻った。
ミカサだけは黙ったまま、路地の向こうへ視線を向けていた。しかし、そこに話題の少年の姿はない。
もちろん三人は知らなかった。
その頃、ディエゴ・ブランドーがどこにいたのかも、彼が壁の外についてすでに何を知っていたのかも。
◆
ディエゴ・ブランドーが、自分の身に何が起きたのかを理解するまでには、それなりの時間が必要だった。
最初は何も分からなかった。
目を開けば知らない女がいて、その腕に抱き上げられている。自分では立つことすらできず、言葉を発しようとしても意味のない声しか出てこない。
何より、身体が小さかった。
小さいという程度ではない。
赤ん坊だった。
しかし、記憶は残っていた。
名前も覚えている。
自分が何を欲し、どこまで登ろうとし、何を憎んでいたのかも忘れていなかった。ジョッキーとして頂点を目指したことも、奪われる側から奪う側へ回ろうとしたことも、自分を見下してきた連中を踏み台にしてきたことも覚えている。
そして、自分が死んだことも。
それを認めることだけは、ディエゴにとって屈辱だった。
このディエゴ・ブランドーが敗れ、そのまま死んだ。しかも目を覚ましてみれば、天国でも地獄でもなく、わけの分からない世界で赤ん坊として人生をやり直している。
最初に抱いた感想は、馬鹿馬鹿しいというものだった。
しかし事実というものは、気に入らないからといって消えてくれるわけではない。
ならば利用すればいい。
それがディエゴの出した結論だった。
「人生をもう一度……か」
まともに言葉を話せる年齢になった頃、ディエゴは誰もいない部屋でそう呟いた。
もっとも、「やり直す」という考え方は好きではなかった。どこか、前の人生に失敗した人間が口にする言葉のように聞こえる。
だからディエゴは、自分の置かれた状況を別のように考えることにした。
二度目ではない。
これは延長戦だ。
一度目の人生で手に入れ損ねたものを、今度こそすべて奪うための時間が追加された。それだけのことだと考えればいい。
しかも幸運は残されていた。
スケアリー・モンスターズ。
その力は、この世界へ来ても消えていなかった。
幼い肉体では、生前と同じように扱うことはできない。出力は低く、変身を維持できる時間も短かった。それでも能力そのものが残っていると知った時、ディエゴは生まれ変わって初めて心の底から笑った。
同時に、この世界にもスタンド使いがいる可能性を長い間警戒していた。
しかし何年調べても、それらしい話は一つも聞かなかった。
幽波紋やスタンドといった概念そのものが、この世界には存在しないらしい。
その代わりにあったのが「巨人」だった。
人間を食う巨大な化け物が壁の外を徘徊し、そのために人類は三重の巨大な壁へ閉じ込められている。大人たちは巨人という言葉を口にするだけで顔を曇らせ、兵士でさえ壁の外へ出ることを恐れていた。
ディエゴには、その感覚が理解できなかった。
正確に言えば、理解する気がなかった。
「百年も、これか」
巨大な壁を見上げるたび、彼は内心で嗤った。
百年という時間がありながら、人間は巨人を駆逐できていない。
調査兵団という連中は定期的に壁の外へ出ていくが、そのたびに大勢が死んで帰ってくる。華々しく出発した兵士たちが、数日後にはボロボロになり、死体すら回収できなかった仲間を置き去りにしたまま帰還する。
成果は乏しく、犠牲ばかりが積み上がっていく。
ディエゴから見れば、あまりにも滑稽だった。
「毎回毎回、飽きもせずよく死ねるものだ」
調査兵団の帰還を見物したある日、ディエゴは人混みの中から小さく呟いた。
周囲の人間たちは悲痛な顔をしていた。泣いている者もいれば、家族を探して兵士へ駆け寄り、答えを聞いた途端にその場へ崩れ落ちる女もいる。
ディエゴはそれらを眺めながら、別のことを考えていた。
弱いから死ぬ。
それだけではないのか。
すでに十歳にもならない頃から、自分の身体能力が普通の兵士を上回りつつあることには気づいていた。スケアリー・モンスターズを部分的に使えば、筋力も反射神経も人間の範囲を簡単に超えられる。
それならば、自分より弱い連中が何十人、何百人と雁首を揃えて挑み、それでも死体の山を築いている相手とはいったい何なのか。
ディエゴは興味を持った。
最初は、それだけだった。
どれほど強いのか。
どれほど速いのか。
どれほど恐ろしいのか。
そして、自分ならどこまでやれるのか。
好奇心というものは、ディエゴ・ブランドーにとって危険な感情だった。
なぜなら彼は、疑問を疑問のまま放置できる性格ではなかったからである。
◆
最初に壁を越えたのは、それから間もなくのことだった。
もちろん、何の準備もせず飛び出したわけではない。
夜を選び、監視が甘くなる時間帯を調べた。壁上を巡回する兵士がどれほどの間隔で歩き、どこで立ち止まり、どの時間になると酒へ手を伸ばすのかまで数日かけて確認した。
問題があるとすれば、壁そのものの高さだった。
普通の人間なら、という条件がつけばの話だが。
ディエゴは人目のない場所で壁へ近づくと、スケアリー・モンスターズを身体の一部だけに発現させた。指先から爪が伸び、皮膚が硬く変化し、脚部の筋肉が膨張する。
そのまま壁面へ爪を突き立て、石材のわずかな隙間へ指を掛けた。
足場を蹴って身体を持ち上げ、上へ伸ばした腕でもう一度壁を掴む。脚力と爪を交互に使いながら、何十メートルもの高さを蜘蛛か蜥蜴のように登っていった。
途中で足を滑らせても、爪を石へ食い込ませれば落下することはない。
「これで人類を守っているつもりか?」
壁上へ顔を出したディエゴは、近くの監視塔を見て鼻で笑った。
兵士は一人だけだった。
眠っているわけではない。
ただし、起きているというだけだった。
壁の内側をぼんやり眺め、ときどき欠伸をしている。百年間も壁が破られていないという事実は、人間から危機感を奪うには十分すぎたのだろう。
ディエゴは兵士の死角を通り、そのまま壁の外側へ向かった。
ここから先が巨人の世界。
人類を百年もの間閉じ込め続けている怪物の領域である。
初めてその姿を見た時、ディエゴは少しだけ期待した。
十五メートルほどある巨人だった。
巨大な体躯で暗闇の中を意味もなく歩いている。動きは鈍く、衣服も身につけておらず、その表情には知性らしきものがほとんど見えない。
「……あれか?」
率直に言えば、拍子抜けだった。
もっとも、見た目だけで決めつけるほどディエゴも愚かではない。
その日は戦わなかった。
巨人の歩き方や反応、周囲の環境だけを観察して戻った。
そして数日後、次の実験を始めた。
用意したのは一頭の馬だった。
ディエゴが幼い頃から世話をしており、彼の命令には極めて忠実な馬である。人目につかない場所まで連れ出した後、スケアリー・モンスターズの力を与えた。
馬の骨格が変わり、蹄が鋭い爪へ変形していく。筋肉も大きく盛り上がり、やがて馬だった生物は低い唸り声を発しながら異形の恐竜へ変わった。
「行け」
ディエゴが命令すると、恐竜は従順に巨人へ向かって走り出した。
もし恐竜化した動物まで襲うのであれば、それだけで巨人の性質を一つ確認できる。食われそうになれば途中で逃がせばいい。
ところが巨人は動かなかった。
恐竜が目の前を走っても、首を少し動かしただけで追いかけようとはしない。捕まえようともせず、当然ながら食おうともしなかった。
「なるほど」
ディエゴは目を細めた。
巨人が狙うのは人間。
少なくとも、教本で習った通りらしい。
「なら、次だ」
恐竜へ新たな指示を出し、巨人の背後へ回らせた。
巨人はほとんど反応しない。
恐竜が地面を蹴った。
人間だった頃の馬とは比較にならない跳躍力で背中へ飛びつき、そのまま肩へ駆け上がっていく。
そこでようやく巨人が腕を振った。
しかし、遅い。
恐竜は頭を低くして腕をかわし、そのまま首筋へ牙を突き立てた。
狙った場所はうなじである。
教本によれば、巨人を殺すにはその部分を大きく削ぎ落とさなければならない。
ディエゴの命令を受け、恐竜の爪が一気に走った。
肉が裂け、巨大な身体が傾く。
次の瞬間には地面へ倒れ、周囲に地響きが広がっていた。
それだけだった。
ディエゴはしばらく黙ったまま、蒸気を上げ始めた巨人の死体を見つめた。
人類が百年ものあいだ恐れ続けている化け物。
調査兵団が何人もの兵士を犠牲にし、命がけで戦っている存在。
それが今、自分の目の前で地面へ転がっている。
しかも、ディエゴ自身は指一本触れていない。
「ハトを捕る方が難しいじゃあないか」
口元がゆっくりと歪んだ。
もちろん、一体倒しただけで巨人という存在をすべて理解したつもりはない。さらに巨大な個体もいると聞いているし、奇行種と呼ばれる予測不能な動きをする巨人も存在する。
何十体もの群れに囲まれれば、事情は変わるかもしれない。
それでも、怖くはなかった。
少なくとも、人類全体が絶望するほどの相手には思えなかった。
ディエゴは蒸発していく巨人を眺めながら、そこで別の疑問を抱いた。
それまでの好奇心とは比較にならないほど、危険な疑問だった。
スケアリー・モンスターズは、生物を恐竜化させる。
人間にも作用する。
動物にも作用する。
それならば、目の前にいるこいつらにはどうなのか。
◆
次の実験を行ったのは、新月の夜だった。
月明かりはなく、壁の外は深い闇に沈んでいる。
ディエゴは再び壁の上へ立っていた。
前回と違い、今日は観察だけで終わらせるつもりはない。そのため逃げ道も用意してあり、壁の近くでも特に巨人の数が少ない場所を選んでいる。さらに少し離れた地点には、恐竜化させた馬を待機させていた。
何か想定外のことが起きれば、即座に撤退する。
ディエゴは大胆ではあっても、無意味な賭けを好む人間ではない。
勝てる条件を積み上げる。
勝負というものは、それから始めるべきなのだ。
「さて……行くか」
壁の縁に立ち、眼下に広がる暗闇を見下ろす。
普通の人間なら、それだけで足が竦むほどの高さだったが、ディエゴは笑ったまま壁の外側へ身体を出した。
もちろん、そのまま落ちたわけではない。
爪を壁面へ突き立てながら一気に下降し、ときおり数メートルほど自由落下しては再び壁を掴み、速度を殺していく。
そして最後の十数メートルへ差しかかったところで、身体を完全に変化させた。
人間の輪郭が崩れ、背骨が伸び、顎が前へせり出す。脚部の形状が変わり、口の中には鋭い牙が並んでいった。
地面へ着地した時、そこに少年の姿は残っていなかった。
スケアリー・モンスターズによって、完全に恐竜へ変化したディエゴがそこにいた。
低く姿勢を落とし、周囲を確認する。
約百メートルほど先に、一体の巨人がいた。
十メートル級。
意味もなく歩いていた巨人はディエゴの存在に気づいたらしく、ゆっくりとこちらへ顔を向ける。
巨人と恐竜の視線がぶつかった。
しばらく互いに動かなかったが、巨人が襲ってくる様子はない。
「やはりな」
恐竜の口から、人間の言葉に近い声が漏れた。
完全に恐竜化すれば、人間として認識されないらしい。
巨人の視線自体はこちらを捉えている。それでも、人間という獲物を見つけた時の反応とは明らかに違っていた。
「なら――試させてもらうぞ」
ディエゴが地面を蹴ると、土が爆ぜた。
巨人が反応するより早く脚へ飛びつき、爪を肉へ食い込ませたまま一気に駆け上がる。
太腿から腰へ移り、そのまま背中へ到達した。
巨人が腕を後ろへ回そうとする。
しかし、あまりにも遅い。
「おそいッ!」
肩まで到達したところで巨人の手が迫ったが、ディエゴはその腕をかわしながら首筋へ飛び移った。
目の前にあるのはうなじだった。
ここを破壊すれば巨人が死ぬことは、すでに知っている。
だが、今日は殺すために来たのではない。
「確かめたいのは――そこじゃあない!」
ディエゴの右腕がさらに変形し、指先から長く鋭い爪が伸びる。
そのまま巨人のうなじへ貫手を叩き込んだ。
肉を裂く感触が腕へ伝わる。
浅くではない。
さらに奥へ。
十分な深さまで腕を押し込み、スケアリー・モンスターズの力を流し込む。
「さあ……どうなる?」
ディエゴはすぐに腕を抜き、その場から飛び退いた。
地面へ着地した後も、巨人は立ったままだった。
目立った変化はない。
「失敗か?」
そう考えかけた時、巨人の肩が小さく痙攣した。
次いで、骨が鳴る。
最初は一度だけだった音が、やがて全身から連続して響き始めた。
夜の静寂には似つかわしくない異様な音とともに、巨人の背骨が曲がっていく。両腕は縮みながら形を変え、手指も融合し、鋭い前脚のような形状へ変化し始めた。
顎が大きく前へ伸び、その口内には、それまで存在しなかった牙が次々と形成されていく。
皮膚の形も変わる。
筋肉の配置まで組み替わり、頭部の輪郭が崩れながら、まったく別の生物へ作り替えられていった。
ディエゴは動かなかった。
逃げることさえ忘れ、目の前で進んでいる変化だけを見つめていた。
「まさか……」
思わず声が震える。
恐怖ではなかった。
期待だった。
「まさか……ッ!」
巨人の変形が終わった。
二本の脚で大地を踏みしめる巨大な肉体には太い尾が伸び、異様に発達した顎には無数の牙が並んでいる。
先ほどまで人間に似た姿をしていた化け物は、もはやどこから見ても巨人ではなかった。
巨大なティラノサウルスが、壁の外の大地へ立っている。
次の瞬間、その巨大な顎が大きく開いた。
「GYAAAAAAAAAAAAAAAAAAッ!!」
咆哮が夜を引き裂いた。
空気が震え、草原全体が揺れる。
離れた場所を徘徊していた巨人たちまで、一斉に音のした方向へ顔を向けた。
その振動を全身で受けながら、ディエゴは笑っていた。
最初は小さく、やがて抑えきれなくなったように肩を震わせる。
「ク……クク……ハハ……」
成功した。
巨人にも通用する。
スケアリー・モンスターズは、この世界の巨人さえ変化させることができる。
ディエゴは自分の手を見た。
まだ子供の、小さな手である。
しかし、その手の向こうには自分が作り変えた巨大な恐竜が立っている。
「ハハハハハハハハハッ!」
笑い声が一層大きくなった。
壁の中では、まだ誰も知らない。
駐屯兵団も知らず、調査兵団も知らない。
百年かけても人類がろくに理解できなかった巨人という存在を、一人の少年がまるで別の生物へ作り替えてしまった。
「調査兵団のカスどもがッ! 毎回毎回、何十人も死なせて! それで何の成果も得られず帰ってくるこの場所でッ!」
巨大恐竜が頭を下げ、ディエゴを見る。
襲ってこない。
それどころか、その姿勢には明確な従属が感じられた。
命令を待っている。
その事実を理解した瞬間、ディエゴの中で巨人に対する認識が変わった。
好奇心の対象ではなくなった。
調査すべき未知の生物でもない。
どれほど強いのか確かめてみたいという子供じみた興味は、すでに次の段階へ進んでいた。
「こいつらを……使える」
もし一体だけではないのなら、二体、十体、さらに百体と増やしていけるかもしれない。
壁の外には、数え切れないほどの巨人が存在する。
人類にとっては絶望そのものだろう。
だが、ディエゴにとっては違う。
資源になる。
軍隊になる。
まだ誰も手をつけていない、巨大な財産になる。
調査兵団は巨人を見れば殺す。
壁の中の人間は巨人を恐れ、遠ざけることしか考えない。
誰も考えなかった。
殺せないなら逃げるでもなく、恐ろしいなら壁の中に隠れるでもなく、支配して使えばいいのだと。
「そうか……そういうことか」
ディエゴは巨大な壁を見上げた。
あの向こうでは、人間たちが今も眠っている。
明日のパンを心配し、仕事へ行き、巨大な壁が自分たちを守ってくれていると信じている。
何も知らないまま。
壁の外で、世界の形がたった今変わったことさえ知らない。
「この世界……」
ディエゴの口元がゆっくりと吊り上がった。
恐竜化した巨人が、再び夜空へ向かって咆哮する。
その声を聞きながら、ディエゴ・ブランドーは笑った。
「俺が支配できるじゃあないかッ!」
今の自分は子供で、兵士ですらない。
財産も地位も権力も持っていない。
しかし、そんなものは後から奪えばいい。
一度目の人生で学んだことがある。
生まれ持った身分など、最後に上へ立った者にとっては何の意味もない。
「支配してやるぞッ!」
ディエゴは両腕を広げた。
巨大な壁があり、その向こうには無数の人間がいる。
こちら側には、数え切れないほどの巨人が徘徊している。
さらにその先には、まだ自分の知らない世界が広がっているのだろう。
今のディエゴには、そのすべてがまだ手の届かない場所にある。
だからこそ価値がある。
奪うものがあるから登る意味がある。
「今度こそ、このDioが! 何もかも手に入れてやるッ!」
巨大恐竜の咆哮が、再び暗闇を震わせた。
その夜、人類はまだ知らなかった。
壁の外に存在する怪物が、もはや巨人だけではなくなったことを。
そして、その巨人たちさえ自分の足元へ置こうとする一人の少年が、誰にも気づかれないまま怪物たちの頂点へ最初の一歩を踏み出したことを。
更新頻度はそれなりです。たぶん。