847年。第104期訓練兵団への入団初日、まだ兵士というより少年少女と呼ぶ方が自然な年齢の新兵たちは、教官たちの怒声を真正面から浴びながら整列していた。
大半の者は緊張を隠せていない。目を泳がせる者もいれば、背筋だけは懸命に伸ばしているものの顔色の悪い者もおり、名前と出身地を聞かれただけで声を裏返す者までいた。家を出て間もない子供たちを集めて軍隊へ放り込み、いきなり大人の兵士として振る舞えと要求しているのだから、無理もない反応ではある。
その中で、明らかに面構えの違う者が何人かいた。数年前の地獄を見たものたちだ。
そしてディエゴ・ブランドーに至っては、さらに露骨だった。姿勢こそ周囲と同じように整えているものの、その表情には緊張どころか大した興味すら浮かんでいない。
教官が新兵一人一人へ怒鳴りつけ、名前、出身地、目的を吐かせていく。過去の自分を一度壊し、軍人として作り直すための通過儀礼らしいが、ディエゴにはひどく回りくどいものに見えた。
怒鳴られた程度で人間が強くなるわけではないし、大声で名乗ったところで巨人のうなじが勝手に裂けるわけでもない。
もっとも、完全に無意味だとも思わなかった。
ここにいる大半は、前の人生を丸ごと一つ終えた人間ではない。飢えた幼少期を生き延び、母親を失い、騎手として成り上がり、大陸横断レースの最中に異能を持つ人間たちと殺し合った経験など当然持っていない。自分が何者なのかすら固まっていない甘ちゃんを、一度大きな声で揺さぶって軍隊という枠へ押し込むには、こういう儀式も多少は役に立つのだろう。
ディエゴ自身に必要がないというだけの話だった。
そんな入団初日から、早速別の意味で目立った者もいる。
サシャ・ブラウスという少女は整列中に堂々と蒸かした芋を食べ、しかも教官に問い詰められても悪びれるどころか、半分を差し出して事態を収めようとした。その結果として夕方から走り続けることになり、他の訓練兵たちが食堂へ向かう時間になっても、彼女だけは一人で訓練場を走らされていた。
◆
その日の夜、食堂では同期たちの間で自然と出身地の話が始まっていた。
コニーやマルコたちに囲まれたエレンは、アルミン、ミカサ、そしてディエゴと同じくシガンシナ区から来たことを話している。五年前に壁が破られた地区から来た者が四人もいると知れば、周囲が興味を持つのも当然だった。
「じゃあ、お前ら本当にあの日、超大型巨人を見たのか?」
コニーが身を乗り出す。
「ああ。壁よりでかかった」
エレンが答えると、周囲から小さなどよめきが起こった。
「本当に五十メートル級なんていたんだな……」
「鎧みたいな巨人も見たって話は?」
「それも本当だ。そいつが内門を壊した」
エレンの声が少し低くなり、アルミンの表情にも影が差した。ミカサも何も言わなくなったことで、食卓には一瞬だけ重い空気が流れる。
しかし、そこにいるのはまだ十二歳前後の少年少女だった。恐ろしい話を聞けば怖がる一方で、実際に見た者がいるとなれば、それ以上に知りたくもなる。
やがてコニーが何かを思い出したように声を上げた。
「そういや、シガンシナってもう一つ噂があるだろ!」
「何だよ?」
「子供が立体機動装置も使わず、巨人を一体ぶっ殺したってやつだよ!」
何人かが同時に反応した。
「俺も聞いたぞ!」
「いや、それはさすがに作り話だろ」
「兵士だって普通に食われるんだぞ?」
エレンとアルミンは顔を見合わせた。
噂だけを聞いた人間なら、そう思うのも当然だった。
「本当だよ」
アルミンが言う。
「というか、僕たちは実際に見た」
「は?」
間の抜けた声が重なる。
エレンも頷いた。
「やった奴も知ってる」
その瞬間、食卓の空気が一変した。
「うおおおおおおお!?」
「誰だよ!」
「ここにいるのか!?」
ジャンだけは少し離れた場所から呆れたような顔をしていたが、それ以外の何人かは一斉に身を乗り出した。
「誰なんだ!?」
コニーに急かされ、エレンが食堂の隅を指差す。
「あそこにいるディエゴだよ」
集まっていた視線が一斉に動いた。
その先では、ディエゴが一人でコーヒーを飲んでいた。別に隠れているわけではない。ただ、子供同士の思い出話へ入る気が最初からなく、我関せずといった様子でカップを傾けていただけだった。
「お前かよ!?」
コニーの叫びをきっかけに、何人もの訓練兵がディエゴの周囲へ集まった。
「本当に巨人を倒したのか!?」
「立体機動装置なしで!?」
「どうやったんだよ!」
「あの噂、マジだったのか!?」
矢継ぎ早に質問を浴びせられ、ディエゴはようやくカップを置いた。
「事実だ」
それだけ答えると、今度は別の質問が次々に飛んできた。
「どんな感じだった!?」
「やっぱり巨人ってめちゃくちゃ強いのか?」
「怖くなかったのかよ?」
ディエゴは少しだけ記憶を探るように目を細めた。
「初めて巨人をやった時の感想か……思ったより大したことない、ってのが素直なところだな」
「……は?」
コニーの口が開いたまま止まり、周囲も似たような顔になる。
だが、ディエゴにとっては強がりでも何でもなかった。
前の人生で戦ってきた相手は、比較にならないくらい手強かった。
鉄球の回転を利用して人体へ異常を引き起こす男がいた。自分の爪そのものを弾丸のように飛ばしてくる男もいた。時間さえ合えば攻撃をほとんど受け付けなくなるような能力を持つ者までいたし、最後には異なる世界を渡り歩く不死身のような敵まで現れた。
何より厄介だったのは、そいつら全員に人間の頭がついていたことだ。
こちらの動きを読む。
嘘をつく。
弱点を隠す。
罠へ誘い込む。
目的を達成するためなら協力するふりまでして、隙が生まれれば殺しに来る。
それも、馬で大陸を横断するレースを続けながらである。
そういう連中を相手にした後では、巨体と怪力を持っていても、人間を見つければ正面から近づいて掴み、口へ運ぼうとするだけの巨人など、なぜ恐れる必要がある?
弱点まで最初から分かっている。
うなじを斬れば死ぬ。
特殊な能力の正体を探る必要もなく、相手の嘘を見抜く必要もない。
いくら体が巨大でも恐れを知らず突っ込むだけではノミと同類である。巨大なでくのぼうという評価は、ディエゴの中ではかなり正確だった。
もちろん、そんな前世の事情まで話せるはずもない。
代わりにエレンが勢いよく口を挟んだ。
「俺もそう思う」
今度は全員がエレンを見る。
「立体機動装置さえ使えるようになれば、あんな奴らは敵じゃない。現に俺たちと同じくらいの歳だったディエゴが、立体機動装置もなしで一体倒したんだ」
エレンは拳を握りしめた。
「だったら俺たちが立体機動を使えるようになれば、あいつらなんか全部駆逐できる」
「おいおい、正気か?」
そこでジャンが口を挟んだ。
エレンがすぐに振り向く。
「何だよ」
「本当は怖くて仕方ないのに勇敢なふりしてる奴より、怖いなら怖いって認める奴の方がよっぽど爽やかだと思うけどな」
「何だと?」
エレンの眉が吊り上がり、ジャンも引く気はないらしく椅子から身体を起こす。
また別の意味で空気が悪くなりかけた。
ディエゴはそのやり取りを一度だけ見たものの、口を挟む気にはならなかった。
どう見ても子供同士の意地の張り合いである。
前世では一つの判断を間違えれば首から上を吹き飛ばされるような相手と駆け引きをし、その直後にも馬を走らせ続けていた。そんな記憶を持つ人間からすれば、「怖い」「怖くない」で睨み合っている十二歳の少年二人へ真剣に付き合う理由などなかった。
結局、エレンとジャンも本格的な喧嘩になる前に周囲から止められ、互いに不満を残しながらもその場では引いた。
ディエゴにとっては、それより別のことの方が気になっていた。
食事を終えると残っていたパンをいくつか皿へ乗せ、水を入れたボトルも持って立ち上がった。
◆
外へ出ると、夜気の中で一人の少女が地面へ倒れていた。
サシャだった。
五時間近く走り続けた身体はすでに限界を超えており、起き上がろうとしても腕にまともな力が入らない。
その前ではクリスタ・レンズがしゃがみ込み、隠して持ってきたらしいパンを差し出していた。
「食べて」
サシャの目が見開かれる。
「神……」
次の瞬間にはパンへ食らいついていた。
味わう余裕などないらしく、ほとんど飲み込む勢いで口へ詰め込んでいく。
少し離れた場所では、ユミルが腕を組んで二人を眺めていた。
「それ、何か意味あんの?」
クリスタが振り向く。
「え?」
「そいつを助けて、何になるんだって聞いてるんだよ。いいことしてやったって、自分で気持ちよくなりたいだけじゃないのか?」
「そんなつもりじゃ……」
クリスタが困った顔をしたところで、横からもう一枚の皿が地面へ置かれた。
そこには追加のパンが載っている。
さらに水の入ったボトルまで差し出された。
サシャが丸い目で顔を上げると、ディエゴが立っていた。
「……神様?」
「違う」
即答されたにもかかわらず、サシャはすでにパンへ手を伸ばしていた。
両手で掴み、今度こそ本格的にがつがつと食べ始める。
途中で一度だけディエゴの顔を見上げた。
入団初日から妙に目立つ男だとは思っていたが、近くで見ると思っていた以上に顔が整っている。
疲労と空腹でまともに頭が回っていないサシャの中では、「食べ物をくれる」「水まで持ってきた」「しかも顔がいい」という三つの情報がほぼ同時に処理され、先ほどの判断がさらに補強された。
やはり神様にかなり近い。
「意外だな」
ユミルがディエゴを見る。
「あんた、そういうことするタイプには見えなかったけど」
ディエゴはすぐには答えず、パンを必死に食べているサシャを見下ろした。
その姿に、とうに終わったはずの人生の記憶が重なった。
食べるものがない。
金もない。
生まれが貧しいというだけで、上にいる人間から最初から価値の低い存在として扱われる。
腹が減っていても、誰かが気にかけてくれるとは限らない。
何かが欲しいなら、自分で奪うか、自分の価値を示して手に入れるしかなかった。
母親と暮らしていたあの貧しさを、ディエゴは忘れていない。
むしろ忘れられないからこそ、二度と下に戻りたくないという欲望がある。
誰にも見下されず、自分が見下ろす側へ立つ。
それは騎手になった頃から変わらず、人生を一度終えてこの世界へ来てもなお、彼の根に残っていた。
だからといって、目の前で飢えて倒れている人間を見て何も思わないわけでもない。
「人間ってのは、外へ見せてる面が全部じゃあない」
ディエゴは淡々と言った。
「お前だってそうなんじゃあないか?」
視線をユミルへ移す。
ほんの一瞬だけ、ユミルの表情が変わった。
「……何の話だよ」
「さあな」
ディエゴはそれ以上踏み込まなかった。
少なくとも今は、ユミルの中身を暴くことに何の利益もない。
ユミルは気に入らなそうに舌打ちすると、誤魔化すようにクリスタへ声をかけた。
「チッ。ほら、クリスタ。どうせなら最後までやるぞ。こいつを助けて恩でも売っときゃ、あとで芋の一個くらい返ってくるかもしれない」
「そんな理由なの?」
「理由なんて何でもいいだろ。ほら、水飲ませろ」
結局ユミルもサシャの反対側へしゃがみ込んだ。
それを横目に見て、ディエゴはほんの少しだけ口元を上げた。
◆
訓練の日々は、それから延々と続いた。
立体機動装置の適性訓練では、エレンが何度挑戦しても姿勢を維持できず苦戦した。本人は必死であり、落ちるたびに立ち上がって再挑戦したものの、それでも結果は変わらない。
後になって装置そのものの不具合が判明し、正常なものへ交換した途端に姿勢を保った時には、エレン本人以上に周囲が呆気に取られていた。
ディエゴからすれば、そういう出来事も含めて全部が訓練兵団の日常だった。
朝から走り、馬を操り、立体機動装置の扱いを覚え、座学では巨人や壁について学び、模型のうなじを斬る。体力、判断力、技術のすべてを点数に変え、同期たちは少しでも上へ行こうと競争する。
その環境を、ディエゴは案外嫌っていなかった。
平等だからではない。
むしろ逆だった。
結果を出せば数字として順位がつき、優れている者が上へ行く。
誰が強く、誰が速く、誰が馬を上手く操り、誰が立体機動に優れているのかが可視化される。
前世のレースと比べれば随分小さな競争ではあるが、順位を奪い合うという構造そのものは理解しやすい。
何より、上にいるという事実を他人にも認識させられる。
主導権は持っている側が有利だ。
ディエゴは前の人生で、それを嫌というほど知っていた。
そうして訓練を積み重ねるうちに二年が過ぎ、849年になる頃には、入団初日に細かった同期たちの身体も兵士らしく作り変えられていた。
技能の差も、以前よりはっきり見えるようになっていた。
特に対人格闘訓練では、それが顕著だった。
◆
「うおっ!」
ライナーの身体が宙を舞い、そのまま背中から地面へ落ちた。
「ぐっ……!」
エレンは投げ終えた姿勢から身体を起こし、軽く息を整える。
「悪いな。昔から俺よりでかいガキ大将と取っ組み合いばっかりしてたから、こういうのは慣れてるんだ」
ライナーは倒れたまま苦笑した。
「いや、普通に上手いぞ。体格差がある相手に真正面から力比べせず、崩してから投げてる。大したもんだ」
素直に褒めた後、ライナーは少し離れた場所へ視線を向けた。
アニがいる。
見るからにやる気がない。
相手の攻撃を最低限の動きで捌き、必要以上には手を出さず、教官から怒られない程度に時間を潰している。
さらに別の場所では、ディエゴも似たような態度で訓練を流していた。
ただし、こちらの場合は少し意味が違う。
勝てないから力を抜いているのではなく、周囲の訓練兵を相手に本気になる必要を感じていない。
ライナーにはそう見えた。
「そういえばさ」
起き上がりながらライナーが言う。
「この対人格闘訓練で成績いいのって、エレン、ミカサ、アニ、それからディエゴだよな」
「だから何だよ?」
「奇妙だと思わないか?」
ライナーがにやついた。
「その四人、ほとんど互いに本気で戦ってないだろ」
「おいおい、何企んでんだよ」
エレンが嫌そうな顔をする。
「別に何も」
そう答えながら、明らかに何か企んでいる顔だった。
「アニ!」
名前を呼ばれたアニが、面倒そうに振り向いた。
「何?」
「少しくらい真面目にやれよ」
数分後には、エレンもライナーもアニを相手に綺麗に宙を舞っていた。
「いってえ……」
地面へ転がったエレンが呻く。
「だから嫌だったんだよ」
アニは冷めた目で二人を見下ろした。
ちょうどその時、ディエゴとミカサが近くを通りかかる。
地面へ転がされたままのライナーが二人を見つけると、悪戯を思いついた子供のように口元を上げた。
「なあ、ディエゴ」
「何だ」
「お前とアニって、どっちが強いんだ?」
アニが露骨に嫌そうな顔でライナーを見る。
「余計なこと言わないで」
「いいや、アニ。戦士には、逃げちゃいけない時がある」
ライナーが妙にもっともらしい顔を作る。
アニは「戦士」という言葉にほんの一瞬だけ反応したが、すぐに元の無表情へ戻った。
ディエゴはそんなアニを眺めた。
「悪くはない」
ライナーがさらににやつく。
「だろ?」
「勘違いするなライナー。対人訓練そのものに興味はない」
ディエゴは訓練用の木製短刀を一本拾い、アニへ投げながら、言った。
「そのスカした面を上から踏んづけてやると面白そうだなって意味だぜ。負けた時にどんな顔になるか…楽しみだ」
アニは飛んできた短刀を片手で受け取った後、何も言わなかった。ただ、目つきだけが人を殺せるほどに鋭くなった。
ディエゴ自身、アニと殴り合うことに強い興味があったわけではない。
だが、序列を決めることは嫌いではなかった。
むしろ、かなり好きな部類に入る。
前の人生では何千人もの参加者と大陸を横断し、一位になるため馬を走らせ続けた。途中からは単なるレースでは済まず、金、名誉、遺体、そして命そのものまで奪い合う競争になった。
それでもディエゴは勝ちたかった。
誰かの後ろを走るのが嫌だった。
下から見上げる側へ戻ることが嫌だった。
一番前へ出て、自分より後ろを走る連中を見下ろしたかった。
その欲望は、今もほとんど変わっていない。
この訓練兵団など、前世で挑んだ大陸横断レースに比べれば小さな世界でしかない。
それでも集団の中で誰が上かを示しておけば、後々の主導権は取りやすい。
ましてアニは、ミカサと並んで同期の中では目につく存在だった。
その二人より自分が上だと周囲へ理解させることには、それなりの価値がある。
アニは短刀を持ったまま構えた。
「ライナーの挑発に乗るのも気に入らないけど」
視線だけはディエゴから外さない。
「あんたのその顔は、もっと気に入らない」
「どんな顔だ?」
「最初から自分が上だって決めつけてる顔」
ディエゴは口元を少し上げた。
「よく見てるじゃあないか」
木剣を持った腕をだらりと下げたまま、普通に歩くような足取りでアニとの距離を詰めていく。
エレンが思わず眉を寄せた。
「おい、構えなくていいのか?」
「黙って見てろ」
先に動いたのはアニだった。
低いローキックがディエゴの膝裏を狙う。
エレンもライナーも、この蹴りで簡単に重心を崩された。蹴りそのものが速いだけではなく、予備動作が少なく、相手の意識が上半身へ向いた瞬間を正確に狙ってくるからだ。
アニの脛がディエゴの脚を捉えた。
少なくとも、エレンとライナーにはそう見えた。
「……え?」
しかし、ディエゴは立ったままだった。
蹴られたはずの脚も動いていない。
それどころか一瞬だけ、アニの脚がディエゴの身体をそのまま通り抜けたように見えた。
ライナーも理解できず、当のアニ自身まで僅かに目を見開く。
ミカサだけが、二人の足元へ鋭い視線を向けていた。
おそらく本当に通り抜けたわけではない。
蹴りが触れる直前、ディエゴは膝から下をほんの僅かに引いた。アニの脚がその空間を通過した直後には、まったく同じ位置へ戻している。
回避した幅が小さすぎる。
しかも動く時も戻る時も速すぎる。
だから、最初からそこへ立ち続けていたように見える。
「御大層な技術だが――」
ディエゴが口を開く。
アニは最後まで言わせなかった。
すぐに軸足を入れ替え、今度は脇腹へ高めの蹴りを放つ。
先ほどより速い。
しかし、また手応えがない。
ディエゴは上半身を僅かに引いただけで蹴りを通し、脚が過ぎた瞬間には元の位置へ戻っていた。
再び、アニの蹴りが身体をすり抜けたように見える。
「オレには無駄だな」
その声を聞いた瞬間、アニはディエゴを視界から見失った。
「っ!?」
横へ避けたわけではない。
後退もしていない。
直後、両肩へ急に重さが加わった。
視線だけを上げる。
ディエゴがそこにいた。
アニの蹴りをかわす際に身体を低く沈め、その姿勢から地面を蹴る。正面から跳び越えるのではなく、アニの視線が自分の脚へ向いた一瞬に頭上へ抜け、そのまま両足を左右の肩へ乗せていた。
「は?」
エレンが呆然とする。
アニは即座に重心を戻そうとしたものの、肩の上から上体をずらされる方が早かった。
首を支点にされた形で身体が傾き、そのまま体ごと崩れる形で地面へ倒れる。
ディエゴは倒れる彼女へ巻き込まれる前に肩から跳び降り、軽く地面へ着地した。
「勝負ありだな」
何でもないことのように言われ、アニはしばらく黙った。
やがて立ち上がると、服についた土を払いながら不機嫌そうに呟く。
「立体機動の方が成績に大きく影響するのに、こんな対人格闘を真面目にやる意味ってあんまりないと思うけど」
悔しさを誤魔化していることくらい、ディエゴにも分かった。
「オレたちが巨人だけを相手にするんなら、まあそうかもな」
アニの手が一瞬止まった。
その言葉に何か引っかかったようにディエゴを見る。
しかし、彼はそれ以上何も言わず、すでに別の方へ顔を向けていた。
「……あいつ、猿か?」
ライナーが半ば呆れたように呟く。
「猿っていうか、曲芸じゃないか?」
エレンも首を傾げた。
二人の横を通り過ぎたミカサが、無表情のまま訂正する。
「曲芸というより、大道芸」
「全部聞こえてるぞ」
ディエゴが振り返った時には、ミカサがすでに彼の前まで来ていた。
「次は私」
その目は完全に戦う者のものへ変わっている。
アニとの勝負を見て、自分ならどう攻めるかを考えていたのだろう。
ディエゴはその顔を見た途端、先ほどより明確に笑った。
こちらはアニよりさらに面白い。
同期の中で純粋な身体能力だけを見るなら、ミカサは明らかに頭一つ抜けている。
自分より上の相手がいるとは思っていないだろうし、実際ほとんどの場合はその認識で正しい。
だからこそ、下に置く価値がある。
「願ってもない」
言葉が終わるより早く、ミカサが木剣を振り抜いた。
速い。
先ほどのアニより明確に踏み込みが速く、しかも腕力まで乗っている。
今度はディエゴも回避ではなく木剣を上げ、真正面から受け止めた。
木と木が激突し、訓練用とは思えないほど硬い音が響く。
そのまま鍔迫り合いになった。
ミカサが一歩押し込む。
ディエゴも同じだけ押し返す。
互いの足が地面へ食い込み、靴底の下で土が僅かに抉れた。
「ちょっと待てよ」
エレンが顔を引きつらせる。
「これ、本当に訓練だよな?」
誰も答える前に、二本の木剣から嫌な音がした。
双方の力に耐えられず、ほぼ同時に中央へひびが入り、そのまま折れる。
だが、ミカサは止まらなかった。
折れた木剣を即座に捨て、踏み込んだ勢いのまま右拳をディエゴの顔面へ叩き込む。
横へ逃げれば追撃される。
後ろへ退けば距離を詰められる。
普通、追い詰められれば人は回避しようとする。もしくは逃げる。反撃する。どれかである。ディエゴはどれも選ばなかった。
逆に、その場で思いっきりのけぞった!
ミカサの拳が鼻先すれすれを通過した。
そこで止まらず、さらに背中を地面へ近づける。
腰から上だけが異常な角度まで反り、人間がそのまま倒れず姿勢を維持していること自体がおかしい。
「……何、その姿勢」
アニが思わず呟いた。
ミカサも一瞬だけ目を見開く。
常識的な回避方向を予測して追撃へ移ろうとしていた分、その異常な姿勢への対応が一拍遅れた。
結果として、身体の正面が空く。
「貧弱!貧弱ゥ!」
ディエゴは背中が地面へ着く前に片手をついた。
倒れるためではない。
腕一本を軸にして全身を支え、そのまま片手逆立ちに近い姿勢へ移行する。
腰を捻り、空いた脚を地面から跳ね上げた。
蹴りがミカサの腹部へモロに入る。
「ぐっ!」
防御を取るより先に身体が浮いた。
ミカサは数メートル先へ飛ばされ、背中から地面へ落ちる。
すぐに起き上がろうとしたものの、腹部へ残った衝撃のため、起き上がれない。
周囲の訓練兵たちは黙り込んでいた。
ライナーも、エレンも、先ほど戦ったアニも、どう評価すればいいのか分からない顔でディエゴを見る。
「……大道芸というより」
最初に口を開いたのはアニだった。
「オリジナルの武術?」
「それ、ちょっと分かる」
エレンが頷く。
「俺もだ」
ライナーまで同意した。
ディエゴは地面についていた片手を離し、何事もなかったように立ち上がった。
実際のところ、彼が使っているものに体系だった流派などない。
騎手として鍛えた身体の使い方。
前世で何度も殺されかけながら覚えた回避。
スケアリー・モンスターズによって得た人間離れした感覚。
そして今世で積み上げ直した訓練。
必要なものだけを残して混ぜた結果、周囲には正体不明の武術に見えているだけだった。
その直後、訓練場全体を震わせるような怒声が飛んできた。
「ブランドー!! アッカーマン!!」
二人が同時に振り向く。
そこには額へ青筋を浮かべた教官が立っていた。
足元には真っ二つになった木剣が二本。
地面には鍔迫り合いで抉れた跡が残り、数メートル先ではミカサがまだ腹部を押さえて膝をついている。
どう見ても、通常の対人格闘訓練の範囲を越えていた。
「貴様らは訓練用の備品を何だと思っている!! 壊れるまで力比べをしろと誰が言った!!」
結局その日、ディエゴとミカサは二人揃ってしこたま怒られることになった。
少し離れた場所ではエレンとライナーが必死に笑いを堪え、先ほどまで不機嫌だったアニまで僅かに口元を緩めていた。
そんな日々が続いた。
走り、馬に乗り、立体機動装置を操り、巨人を殺すための技術を覚える。食事を奪い合い、くだらないことで口論し、訓練で競い、時には誰かが誰かを笑う。
ディエゴにとって同期たちは、基本的にはまだ子供だった。
それでも、ただの背景ではなくなりつつあった。
エレンには無鉄砲な執念がある。
ミカサは強い。
アニは何かを隠している。
ライナーにも妙な部分がある。
サシャは食い意地が張っていて、見ていて退屈しない。
この世界で自分がいずれ何を手に入れ、どこまで上へ行くことになるのかは、まだディエゴ自身にも分からなかった。
ただ、この頃だけは、巨大な壁の向こうで何が動いているのかも知らず、誰が人間で誰が巨人なのかを疑う必要もなく、同期たちの序列を争う程度で済んでいた。
後になって振り返れば、壁は再び破られ、仲間は死に、人間と巨人の境界そのものが崩れていく。
その未来を知った後だからこそ、まだ全員が同じ制服を着て、くだらないことで競い合っていられたこの時代には、一つの名前がよく似合った。
この頃は、確かに黄金時代だった。