トロスト区奪還から数日後、エレン・イェーガーの処遇を決めるため、兵法会議所では異例の審議が開かれていた。
中央の柱へ拘束されたエレンを囲むように、憲兵団、駐屯兵団、調査兵団、そして壁教の関係者までが並んでいる。少し離れた傍聴席にはミカサとアルミンの姿もあったが、二人とも落ち着いているとは言い難かった。議題は単純でありながら、答えを出すにはあまりにも重い。人間でありながら巨人になるエレンを、誰が、どのように扱うのかという問題である。
憲兵団はエレンを処分し、その身体を調査した上で情報だけを残すべきだと主張する。一方、調査兵団はエレンを壁外調査へ投入し、巨人の力を利用してウォール・マリア奪還へつなげるべきだと訴えていた。
議論が進むにつれて、エレンを見る周囲の目には露骨な恐怖が混じっていった。それでも本人は、自分を化け物と呼ぶ声にも、解剖すべきだという意見にも、歯を食いしばって黙って耐えていた。
ところが、調査兵団の計画そのものまで疑問視され始めたところで、ついに堪えきれなくなった。
「だから……!」
エレンは拘束されたまま顔を上げた。
「俺が巨人を全部駆逐するって言ってるだろ! 黙って俺に投資しろ!!」
その叫びによって審議所が一瞬静まり返った直後、エレンの視界から一つの人影が消えた。
「え――」
何が起こったのか理解するより早く、リヴァイの足がエレンの顔面へ叩き込まれていた。椅子ごと身体が傾き、口元から血が飛ぶ。
「エレン!」
ミカサが反射的に立ち上がろうとしたため、隣にいたアルミンが慌てて腕を掴んだ。
「待って、ミカサ!」
リヴァイは二人の反応など意に介さず、エレンの髪を掴んでもう一度顔を蹴った。
「ぐっ……!」
「随分と口が達者だな」
エレンが顔を上げるより先に、今度は横から踵が入る。肉と骨を打つ鈍い音が審議所に響き、それを聞いた者の何人かが思わず表情を強張らせた。
少し離れた調査兵団側の席では、ディエゴが頬杖をつきながらその様子を眺めていた。
「ありゃ結構痛そうだな。あとで絆創膏でもくれてやるか」
独り言のつもりだったが、ミカサには聞こえたらしく、すぐさま殺気のこもった視線が飛んできた。ディエゴはそれを受けても気にした様子を見せず、そちらを見て肩を竦める。
「オレが蹴ってるわけじゃあないだろ」
その間にもリヴァイの躾は続いていた。巨人化という未知の力を持つ以上、エレンが本当に人類側へ従う保証はなく、だからこそ調査兵団ならば制御できることを、今この場で示す必要があった。
やがてリヴァイが攻撃を止めると、総統ダリス・ザックレーが静かに問いかけた。
「リヴァイ兵士長。仮にイェーガーが巨人化し、制御不能となった場合、お前には止められるか?」
リヴァイは血のついた靴先を見下ろしながら、何でもないことのように平然と答えた。
「殺すだけなら問題ありません。ただ、殺す以外の方法まで求められると保証はできませんが」
ザックレーはその返答に頷き、今度は別の人物へ目を向ける。
「ブランドー訓練兵、お前はどうだ」
ディエゴは椅子へ座ったまま、僅かに顎を上げた。
「同じく。殺すだけなら問題ありません」
訓練兵が口にするにはあまりにも不遜な言葉であり、審議所の一部から小さなどよめきが起こった。しかし、ザックレーはそれを咎めようとはしなかった。
審議が始まる前に渡された報告書には、トロスト区でディエゴ・ブランドーが挙げた戦果が詳細に記されていた。後衛区域では複数の巨人を単独で撃破し、補給本部への突破路を確保している。補給作戦では自身の担当を倒した直後、危機に陥った同期を救出し、さらに二体目まで処理した。トロスト区奪還作戦でも門から侵入する巨人への第一迎撃を担当し、エレンが岩を運ぶまで進路を維持していた。
しかも報告書に並ぶ戦果は本人による自己申告ではなく、複数の兵士がほぼ同じ内容を証言している。中でもイアン・ディートリッヒは、作戦後の報告で――ブランドーがいなければ、自分は間違いなく死んでいた――と断言していた。
訓練兵一人の働きについて、現役の駐屯兵団精鋭がそこまで明言する例は珍しい。ザックレー自身も長く軍へ身を置いてきたが、正式配属前の訓練兵が一日でこれほど多数の巨人を討伐した記録など見た覚えがなかった。
「なるほど」
ザックレーはリヴァイとディエゴを交互に見る。
「少なくとも、イェーガーが暴走した際の即応戦力という点では不足はないということか」
ナイル・ドークが不満そうに眉を寄せたものの、少なくとも戦闘能力そのものについて異議を挟めるだけの材料は持っていなかった。
その後も審議は続き、最終的にエレン・イェーガーの身柄は調査兵団預かりとなった。監視役としてリヴァイ兵士長が置かれ、それを補助する戦力としてディエゴ・ブランドーも同じ部隊へ組み込まれることが決定した。
結果だけを聞けば、ディエゴにとって悪い話ではなかった。壁外へ出られる。エレンの観察も続けられる。さらに、先日目にした人類最強の兵士と同じ部隊へ入ることになる。利用できるものは多い。ただ一つ気に入らない点があるとすれば、当然ながら自分がリヴァイの指揮下へ入ることだった。
◆
調査兵団への正式な引き渡しが済んだ後、エレンとディエゴはリヴァイ班とともに旧調査兵団本部へ向かうことになった。目的地は長く使われていなかった古城を利用した施設で、建物そのものは広かったが、内部のあちこちには長年放置された埃が積もっていた。
「しかし、本当にこいつもリヴァイ班へ入れるんですね」
建物へ向かう途中、ペトラ・ラルがディエゴを見ながら言った。
「トロスト区の報告を読む限り、普通の新兵として扱う方がおかしい気もしますけど」
その隣を歩いていたオルオ・ボザドが、気に入らないとでも言いたげに鼻を鳴らす。
「だからって、いきなり班長でも任せる気かよ。実戦経験だって俺たちよりずっと少な――」
言いながら顔を横へ向けた瞬間、自分の舌を噛んだ。
「いっ……!」
「また噛んだ」
ペトラが呆れた顔を向ける。
「噛んでねえ!」
「血出てるけど」
「これは違う!」
そんな二人のやり取りを無視していたリヴァイが、しばらくして口を開いた。
「実績そのものへ文句をつける気はねえ」
そう言いながら、ディエゴへ視線を向ける。
「だが、巨人を何体殺せるかと班を率いられるかは別の話だ」
ペトラの表情が引き締まる。
「班長に必要なのは、自分が生き残る能力だけじゃない。仲間の位置を把握して、そいつらを生かしたまま目的を達成できるかだ。背中を預けられるか、無駄に人を死なせないか、それは討伐数だけじゃ分からねえ」
エレンは少し考えてから、自分なりに知っているディエゴについて補足しようと口を挟んだ。
「でも、ディエゴには人を動かす力もあると思います。トロスト区でも――」
「お前の意見は聞いてねえぞ、新入り」
オルオがすぐに遮る。
「いや、でも事実として――」
「だから聞いてねえって言ってるだろ」
リヴァイが横目で二人を見ると、そのまま壁外戦闘とトロスト区での戦闘の違いを説明した。
「そもそもトロスト区と壁外は条件が違う。市街地なら建物の配置も分かるし、戦う範囲も限られてる。壁外じゃ視界も地形も巨人の数も毎回違ううえ、個人技だけで動けば陣形そのものが壊れる」
ディエゴは反論することなく、その説明を黙って聞いていた。
「いくら一人で強かろうが、それだけで班長に向いてるとは限らねえ。こいつが他人の動きに合わせられるかどうかは、これから見る」
「なるほど」
ディエゴがあっさり頷いたため、リヴァイが少しだけ目を細めた。
「随分素直だな」
「筋は通ってます。実際、オレに壁外調査の経験がないのは事実です」
この言葉は嘘である。幼少時から壁外に出て実験を繰り返していた男だが、さしものリヴァイも、それには気づけない。
「だったら話が早い」
表面上はそれで話が終わったものの、リヴァイはこの時点ですでに、ディエゴについて一つ確認する必要があると考えていた。
実力は十分すぎる。判断力も報告書を見る限り悪くない。問題は、命令へ従うべき時に従える人間なのかどうかだった。
トロスト区のような乱戦では、個人判断が結果につながる場面も多い。しかし壁外調査では、一人が勝手に動くだけで周囲の兵士まで危険に晒すことがある。どれほど強くても、必要な命令まで無視する人間なら使いにくく、リヴァイにとってそこは戦闘能力とは別に確かめなければならない部分だった。
◆
旧調査兵団本部へ到着すると、最初に始まったのは作戦会議でも巨人研究でもなく、長く放置されていた古城の掃除だった。それも簡単に埃を払って終わるようなものではなく、リヴァイが指揮する以上、かなり徹底した掃除である。
廊下にも各部屋にも埃が溜まり、蜘蛛の巣や泥汚れまで残っている。リヴァイは到着して間もないというのに布を頭へ巻き、窓枠へ指を滑らせながら僅かな汚れまで確認していた。
エレンが少し離れた場所からその様子を何とも言えない表情で眺めていると、隣で雑巾を絞っていたペトラが笑いながら声をかけた。
「失望した?」
「え?」
「リヴァイ兵長。噂じゃもっと格好いい感じだったでしょ。実際は粗暴だし、無愛想だし、近寄りがたいし、掃除にはやたら細かいし」
「いや……そこは別に」
エレンはリヴァイの背中を見ながら、自分が意外に感じた部分を口にした。
「むしろ、思ったよりちゃんと上の決定に従う人なんだなって驚きました」
「どういう意味?」
「兵長って、もっと全部自分で決める人だと思ってたんです。でも審議でも団長の方針に合わせてたし、調査兵団の命令にはちゃんと従ってるじゃないですか」
「まあ、好き勝手やってるように見えて、必要な命令はちゃんと守る人だからね」
その説明を聞いたエレンは少し考え、それから別の人物を思い出して苦笑した。
「そういう意味なら、あいつの方がよっぽど異端かもしれません」
ペトラが首を傾げる。
「あいつ?」
「ディエゴです」
「ブランドー?」
「はい。あいつ、表面上は指示に従ってるように見せるの、結構うまいんですよ」
「それ褒めてる?」
「全然」
エレンは即答すると、訓練兵時代から見てきたディエゴの性格を思い返しながら続けた。
「たぶん本当に気に入らない命令なら、最終的には誰の言うことも聞かないと思います。訓練兵の頃からそうでしたし、先輩とか上官にも普通に嫌味言いますから」
「……リヴァイ兵長とは相性悪そうね」
「オレもそう思います」
まさにその瞬間、地下から聞き覚えのある低い声が飛んできた。
「おい」
二人の顔が同時に引きつる。
「なんだ、これは」
エレンとペトラは顔を見合わせると、ほとんど同時に溜息をついた。
「言わんこっちゃない」
「行こう」
二人はすぐに作業を止め、何が起こったのか確かめるため地下へ急いだ。
問題の発端そのものは、ささやかなものだった。エレンが使う予定の地下室を掃除していたディエゴが、壁際と棚の下に僅かな埃を残していたのである。普通なら見過ごされてもおかしくない程度だったが、リヴァイにとっては十分に指摘する対象だった。
「ここだ」
リヴァイが棚の下を指差す。
「残ってる。やり直せ」
ディエゴは指された場所を一度見てから、手にしていた布へ視線を落とした。
「はあ、そうですか」
言葉の形だけを見れば従っているが、その返事には隠す気もないほどやる気のなさが混じっており、リヴァイはすぐにそれを察した。
「何だ、その返事は」
「別に…やり直せと兵長が仰るので」
「随分不満そうじゃねえか」
「不満…ではなく疑問が。ああ、つまらないことなので」
「言ってみろ」
促されたディエゴは、持っていた布を棚の上へ置いた。
「オレはエレンが暴走した時の抑えとして調査兵団へ入れられたはずです。壁外へ出れば戦力として使うつもりでもある。そのオレが、エレンの部屋に残った埃を探している時間が、本当に調査兵団にとって有効なのか考えていただけですよ」
ちょうど階段を降りてきたエレンとペトラは、その言葉を聞いて揃って足を止めた。ただの掃除嫌いであればまだ話は簡単だったが、ディエゴが問うているのは掃除そのものではなく、命令の意味と優先順位だった。
リヴァイはしばらく黙って彼を見つめた後、問いを返した。
「つまり、お前は自分が無駄だと思った命令なら従う必要はねえと思ってるのか?」
「そこまでは言ってませんよ。合理的な理由があるなら従います」
「お前が合理的だと判断したら、か?」
「最終的にはそうなりますね」
エレンが思わず額を押さえたのは、リヴァイの目つきが明らかに変わったからだった。ただし、その表情に浮かんでいるのは単純な苛立ちだけではない。旧本部へ来る途中からリヴァイが確認したいと思っていた部分へ、ディエゴ自身が答えを出してしまったのである。
強い。頭も回る。だが、自分の判断を組織の命令より上へ置く。壁外では、それが致命的な問題になる可能性がある。
「じゃあ聞くが」
リヴァイが一歩近づいた。
「壁外で俺が『右へ行け』と言った時、お前が左の方が正しいと思ったらどうする?」
ディエゴはその問いにだけは即答せず、僅かに間を置いた。
「状況によります」
「俺が説明してる時間がなかったら?」
「状況によります」
「お前の判断が外れて、横にいる奴が死んだら?」
ディエゴの目が僅かに細くなる。
「そりゃあ、お気の毒って感じだ。
だが、その判断が正しいかどうかは、その時点では誰にもわからない」
「…それで、死んだ奴にはどう詫びる?」
「別に…調査兵団なのだから、そうするためにここに来たと考えてもらいましょう」
ペトラが息を呑んだ。言葉だけを聞けば明らかに反抗的だったが、ディエゴ自身には相手を挑発しているつもりはそれほどない。
前世から一貫して、自分の命は自分で判断して守ってきた。相手が大統領だろうが軍の上官だろうが、肩書き一つで判断を預けるという感覚が根本的に薄いのである。リヴァイも、少なくともディエゴがただ反抗したくて言っているわけではないことだけは見抜いた。
「なるほどな」
声は平坦だった。
「報告書を見るに、お前が強いのは十分分かった。
だが、今のままじゃ班員としては最悪だな」
その評価に、ディエゴの眉が僅かに動く。
「ほぉ?」
「さっき言っただろうが、壁外じゃ一人で完結しねえ。どれだけ速くても強くても、仲間と噛み合わねえ奴は周りを巻き込む」
「オレはトロストで誰かを無意味に死なせましたか?」
「今まで死なせなかったから、これからも死なせねえ保証にはならねえ」
リヴァイは一歩も引かず、むしろ班へ入れるからこそ譲れない部分を言葉にした。
「命令へ従うべき時と、自分で判断すべき時。その区別がつかねえなら、壁外へ出す前に覚えさせる」
その一言を聞いた瞬間、ディエゴの表情から少しずつ笑みが消えた。
「覚えさせる?」
「ああ」
「あなたが、オレに?」
「必要ならな」
そこでディエゴは、ようやく薄く笑った。
「なるほど。上官だってのは理解してますよ。経験でも、壁外に関してはあなたの方が遥かに上でしょう」
そこまでは素直だった。
「ただし、自分が上にいるからオレを好きに矯正できると思われるのは気に入らない。実力的にって意味です」
エレンはその返答を聞いたところで完全に諦めた。三年間付き合ってきたからこそ、これ以上は言葉だけで収まらないことが分かる。
ディエゴは合理的な指示には従うし、必要なら頭も下げる。しかし、自分そのものを上から押さえつけられることだけは異常なほど嫌う。貧しさの中で生まれ、見下される側から這い上がった記憶を持つ彼にとって、それは単なる反抗心ではなく、ほとんど本能に近い拒絶だった。
そしてリヴァイもまた、ここで引ける立場ではなかった。ディエゴ個人が不愉快だからではなく、これから自分の班へ入れ、命を預け合う可能性がある以上、必要な場面で命令系統そのものを拒絶する兵士を放置するわけにはいかない。
「好きにする気はねえよ」
リヴァイが言う。
「だが、お前が自分の強さを理由に命令を選り好みするなら、一度その前提から直す必要はある」
「前提?」
「自分が一番正しいと思ってるところだ」
ディエゴの笑みが深くなった。
「随分面白いことを言うじゃあないですか」
「面白くねえよ。面倒なガキが増えたと思ってるだけだ」
リヴァイはそう吐き捨てると、地下室の出口へ顎を向けた。
「表に出ろ」
ペトラが目を見開く。
「兵長!?」
「別に殺しゃしねえ。こいつがどこまで自分を過大評価してるのか確かめるだけだ」
ディエゴもすぐには動かなかった。本来なら、こんな挑発へ乗る必要はないし、上官へ逆らって得をすることもない。
しかし、相手がリヴァイだった。
トロスト区で一瞬だけ見た動き。二体の巨人をほとんど無駄なく仕留めた、人類最強と呼ばれる男。ディエゴ自身、あの時から一度は確かめてみたいと思っていた。その男が今、自分の実力を試そうと真正面から立っている。
「……いいでしょう」
ディエゴは布を棚へ置いた。
「せっかくだ。人類最強とやらが、どの程度なのか見せてもらいますよ」
「そういうところだ」
リヴァイは短く吐き捨て、そのまま先に階段へ向かった。エレンは二人の背中を見送りながら深いため息をつく。
「これ、掃除の話から始まったはずだよな……?」
ペトラも同じように頭を抱えた。
「途中から完全に別の話になってる……」
◆
旧本部の前にある開けた場所へ出る頃には、リヴァイ班の面々も何事かと集まっていた。
「今からでも謝った方がいいぞ」
オルオがディエゴへ忠告する。
「兵長を本気で怒らせたら、さっき審議所でイェーガーが食らってた程度じゃ済まねえぞ」
「オレオさん」
「オルオだ!」
「オラオラさん」
「オルオだ!!オレオレでもオラオラでもない!!二度と間違えるんじゃあないぞッ」
「わかりました、オリオンさん」
「わかってね…ブッ!」
オルオの抗議には取り合わず、ディエゴはすでにリヴァイだけを見ていた。腕を組みながら薄く笑い、その呼び名をあえて口にする。
「人類最強」
リヴァイは無表情のまま見返した。
「噂がどこまで本当なのか、前から興味があったんですよ。本当にオレよりも強いのかどうか…」
「そんな難しく考える必要はねえ」
リヴァイは首を左右へ僅かに傾け、指を鳴らした。
「お前が考えんのは、今から地面さんに強烈なキスをするかどうかってだけだ」
そう言いながら一歩距離を詰める。
「どうせだったら舌入れてもいいぞ」
ディエゴの笑みがさらに深くなる。
「そいつはまた今度にしておく」
少し離れた位置から二人を見ていたエレンにも、開始の合図が必要ないことだけは分かった。互いに構えらしい構えも取っていないにもかかわらず、両者の間に張り詰めた空気は、次の瞬間にはどちらかが動くことをはっきりと告げていた。
先に動いたのはリヴァイだった。
ディエゴの目には、その踏み込み自体は見えていた。重心が僅かに沈み、左足が地面を蹴り、腰が回る。そこから蹴りが来るところまでは読めていたが、問題は予測した以上にその動作が速かったことだ。
ディエゴは即座に両腕を上げて防御する。直後、重い衝撃が腕を通して全身へ伝わった。
「……ッ!」
地面を踏ん張れば腕か肩を痛める。そう判断した瞬間、ディエゴはその場で耐えようとせず、自分から後方へ跳んだ。
結果として身体は数メートル飛ばされたものの、衝撃の大部分を移動へ逃がすことには成功した。両足で着地すると、靴底で土を削りながら勢いを殺して止まる。その様子を見たリヴァイも、ほとんど同時に小さく舌打ちした。
「チッ」
「チッ」
二人の舌打ちが重なった。
「今、何が起きた?」
オルオが目を見開き、ペトラもすぐには答えられなかった。
エレンだけは訓練兵時代にディエゴとミカサの模擬戦を何度も見ていたため、辛うじて何が起きたのか理解できた。リヴァイの蹴りをディエゴは防御したが、真正面から受け止めたわけではない。当たった瞬間に自分から後ろへ飛ぶことで、まともに身体へ残るはずだった衝撃を逃がしたのである。簡単に見えるが、蹴りが接触した瞬間を正確に判断できなければ成立しない動きだった。
一方、ディエゴ自身は腕に残った痺れを確かめていた。
――とんでもないパワーだ。
予想以上だった。あの小柄な身体から放たれたとは思えない。単純な一撃の重さだけなら、今の自分より明確に上だろう。真正面から何発も受け続ければ、部分恐竜化を使わない状態では耐えきれない。
だからといってそれが負けを意味するわけではない。
「クク……」
ディエゴの口元が吊り上がる。
スケアリー・モンスターズを完全に解放すれば、話はずっと簡単になる。全身を恐竜化させれば、筋力も速度も耐久力も一気に跳ね上がる。人間などぶっちぎりで超越した太古の支配者の力を前面に押し出して圧倒できるだろう。
ただし、それでは尻尾や皮膚の変化まで現れてしまう。ここでそんな姿を晒すわけにはいかない。
ならば、見えない場所だけ使えばいい。服に隠れている脚。腕。そして眼球の一部。周囲から異変に気づかれない範囲で、スケアリー・モンスターズの力を少しだけ引き出す。
能力の一部を解放した瞬間、ディエゴの視界が変わった。リヴァイの肩の動き。呼吸。脚へ力が入る瞬間。それらが先ほどより細かく見える。
――逆に言えば。
そこまでしなければ、こいつには勝てない。
その事実が、ディエゴにはむしろ愉快だった。この世界へ来てから、人間を相手に本気を出したいと思ったことなどほとんどない。巨人ですら、基本的には知能の低い巨大な獣に過ぎなかった。
ところが目の前の男は違う。強い。間違いなく、本物だ。
「人間が恐竜に勝てると思うなよ」
小さく呟いた声は、離れたリヴァイには聞こえなかった。
一方で、そのリヴァイも内心ではディエゴに対する想定を修正していた。
――面倒なのが入ってきやがった。
今の蹴りは、一発で地面へ転がすつもりだった。審議所でエレンへやったような見せしめではなく、多少強くはした。通常の兵士なら十分に終わる威力だ。
それを防がれた。しかも単に腕を上げただけではなく、接触と同時に自分から飛ぶことで衝撃を逃がしている。反応が異常に速く、体捌きも妙に実戦的だった。
リヴァイ自身、自分の身体能力が普通ではないことは理解している。その自分から見ても、こと瞬間的な反応速度と身体の切り返し、スピードなら、ディエゴは明らかに常識から外れている。
だが、それでも負ける気はしなかった。力はこちらが上。耐久力にも自信がある。何より、どれほど身体が速くても、実戦では読み合いがある。そして死線を潜った数なら負けるつもりはない。
リヴァイが再び踏み込む。今度は正面から行かず、一度右へ身体を振ることで意識を誘い、そのまま左から拳を打ち込んだ。
ディエゴはその拳へ反応し、紙一重で避ける。しかし、それを待っていたかのようにリヴァイの膝が上がった。
「ッ!」
避けた先を読まれている。
ディエゴは咄嗟に片腕を差し込み、迫ってきた膝を外へ流す。そのまま空いた脇腹へ肘を入れようとしたが、リヴァイも動きを読んで上体を捻り、紙一重でかわした。
互いの身体がすれ違うと、二人はほぼ同時に振り向き、次の攻防へ移る。その間に一秒もない。
「速っ……」
ペトラが思わず声を漏らす。
今度はディエゴから踏み込んだ。低い姿勢から一気に距離を詰め、そのまま右拳を顔へ伸ばすと、リヴァイが手首を払って軌道を外す。
しかし、ディエゴはそれを予測していた。払われた力へ逆らわず身体を回転させ、その勢いを利用して踵をリヴァイの側頭部へ持っていく。
リヴァイは避けずに腕一本で受けた。鈍い音が響き、衝撃を受けた身体が僅かに横へ流れる。
そこを好機と見たディエゴが追撃へ踏み込んだものの、次の瞬間にはそのままリヴァイの足がこちらに向かってきている。腕に衝撃。
「なかなかだ」
蹴られた。
自分が追うことを読まれていた。しかも受けた姿勢そのままで蹴りを放った。タフさもさることながら体幹とパワーがとんでもない。
ディエゴは身体を折らず、蹴りが進む方向へ半歩下がることで力を逃がし、そのままリヴァイの脚を掴もうとした。しかし、捕らえようとした時には足はすでに引かれている。
攻撃が当たっても止まらない。防がれても止まらない。どちらかが一手を取った直後には、相手が次の一手でそれを取り返していた。
エレンの目から見る限り、戦いはほとんど互角だった。リヴァイが身体能力の強さでディエゴを押し込む場面もあり、特に近距離でまともに力がぶつかれば、ディエゴの方が僅かに下がる。その一方で、ディエゴは異常な反応速度で攻撃の起点を潰し、リヴァイが動き切る前にカウンターを返していた。
互いに一発まともに食らえば危険なことを理解しているからこそ、決定打だけが入らない。
ディエゴはそんな攻防を続けながら、徐々に笑いを抑えられなくなっていた。
――こいつ、本当に人間か?
一部だけとはいえ、こちらは恐竜の身体能力を使っている。それについてくる人間がいるなど想像していなかった。
しかもリヴァイの強さは、筋力や速度だけではない。とにかく無駄がない。こちらが視線を一瞬動かしただけでも、その先を読む。攻撃を途中で止める。わざと隙を見せて誘う。不利な位置へ入ったと判断すれば、勝ち気に攻めるのではなく即座に距離を取る。
殺し合いを知っている人間の動きだった。
――なるほど。
ディエゴには分かる。自分も前世では同じだった。大陸横断レースの途中、何度も異能者と殺し合った。一度の判断ミスが死へ直結する状況を、何度も生き延びてきた。
目の前の男も、おそらく同じ種類の経験を積んでいる。それも、この世界で。巨人を相手に。人間を相手に。何度も仲間を失いながら、それでも生き残った。
――見事じゃあないか。
単純な殴り合いだけなら、あのD4Cとも真っ向から殴り合えるだろう。少なくともマジェント・マジェントあたりには、この男のしたたかさを少し見習わせたい。
そんな場違いなことまで思える程度には、ディエゴは楽しんでいた。
リヴァイも同じ頃、別の意味で驚いていた。
――こいつ、何歳だ。
反応速度だけなら、今まで見た人間の中で間違いなく最速。おそらく自分以上だ。
不意打ちや読みでこちらが勝ったとしても、明らかに動体視力だけで反応している瞬間がある。そのうえ、圧倒的な身体能力だけで戦っていない。
不利なら逃げる。有利なら詰める。罠と判断すれば途中で攻撃を捨てる。年若い兵士にありがちな「自分の技を最後まで通したい」という意地がない。必要なら一秒前の判断を平気で捨てる。
それは訓練では身につかない。何度も失敗し、その失敗が死につながる場所を潜らなければ、普通はこうならない。
――どこで覚えた。
リヴァイの疑問はそこだった。報告書には、五年前のシガンシナ区で子供だったディエゴが巨人を一体倒したという記録まである。今の動きを見れば、その話も誇張ではないと分かる。
むしろ問題は、どうすればこの年齢でここまで実戦慣れできるのかという点だった。
だが、理由が何であれ使える。壁外へ出しても簡単には死なない。それどころか、おそらく相当な戦果を積み上げる。
リヴァイはその一点だけなら、すでに確信に近いものを持ち始めていた。
再び両者が間合いへ入る。リヴァイの拳をディエゴが外へ流し、ディエゴの蹴りをリヴァイが前腕で止める。さらに互いにもう片方の腕を動かしかけたところで、ほぼ同時にその動きを止めた。
数秒間、二人は至近距離で睨み合った。
それから、どちらともなく手を下ろした。
「……終わり?」
エレンが思わず呟く。
リヴァイは答えず、ディエゴから視線を外した。そのまま旧本部へ戻りかけたが、数歩進んだところで足を止める。
「ディエゴ」
「何です?」
「今度、俺の機嫌が悪くなったらまた付き合え」
リヴァイは振り向かない。
ディエゴは一瞬だけ目を丸くした後、喉の奥で笑った。
「その時は兵長も満足できるように派手にやりましょう」
「減らず口も直しとけ」
「善処します」
「する気ねえだろ」
それだけ言うと、リヴァイは今度こそ旧本部の中へ消えていった。
その背中が完全に見えなくなるまで誰も声を発せず、数秒の沈黙を挟んでから、リヴァイ班の面々が一斉に息を吐いた。
「お前……!」
最初に詰め寄ったのはオルオだった。
「新入りのくせに入団初日から兵長と喧嘩する馬鹿がどこにいる!」
「まあまあ」
「まあまあじゃね…!!ガブッ!!」
ペトラまで額を押さえながら、半ば呆れたようにディエゴを見る。
「本当に心臓に悪いからやめて。兵長にあんな言い方する人、初めて見たんだけど」
「ケンカを売ってきたのは向こうからじゃあないんですか?」
「掃除をちゃんとしろって言われただけでしょ!」
「そうかな?」
「そうです!」
そこへエレンも横から加わった。
「前から思ってたけどお前、上の人にもう少し普通に接した方がいいって!」
「前から思ってたのならそう言ってくれよ」
「…一応確認するが、オレがそう言ったところでお前は納得したか?」
「いいや」
「だよな…」
その後も周囲から次々に文句が飛んできたが、ディエゴは適当に相槌を打ちながら、そのほとんどを聞き流していた。
頭の中に残っているのは、先ほどの戦いだった。リヴァイ。人類最強。噂だけの男ではなかった。
この世界にも、自分が本気で戦ってみたいと思える人間がいる。それが分かっただけでも、調査兵団へ来た価値は十分にあった。
ディエゴは口元に残った笑みを消さないまま、再び旧本部へ入っていった。
もっとも、その直後にリヴァイから地下室の掃除を最初からやり直すよう命じられ、今度こそ露骨に顔をしかめることになるのだが、それはまた別の話だった。