旧調査兵団本部へ移ってからというもの、ハンジの周囲には常に騒がしさがつきまとっていた。
捕獲された二体の巨人、ソニーとビーン。ハンジは寝る間も惜しむようにして実験を続け、痛覚や再生、日光への反応などを一つずつ調べていった。エレンを巨人化させることで得られる情報も多かったが、それだけでは分からないことがあまりにも多い。巨人そのものを調べられる機会は、調査兵団にとって何物にも代えがたいものだった。
ディエゴも何度か実験を眺めた。
もっとも、彼自身にとっては新鮮な発見ばかりというわけではない。普通の巨人のうなじに人間が入っていないことも、巨人の身体が異常な再生力を持つことも、壁外での実験を通してすでに知っている部分が多かった。
それでも、ハンジが何を見つけるのかには興味があった。自分が知っていることと兵団が知っていること、その差を把握しておくことは重要である。
何を知っていて、何を知らないのか。
それが分かれば、どこまで嘘をつけるかも分かる。
しかし、その実験は突然終わった。
ある朝、ソニーとビーンが何者かによって殺害されたのである。
知らせを受けたハンジが現場へ駆け込んだ時には、二体ともすでに再生できないほど損傷していた。怒りと悲しみを隠そうともせず、ハンジは声を荒らげたが、犯人の姿はどこにもない。
調査兵団の内部に、巨人について知られたくない者がいる。
少なくともエルヴィンは、そう考えていた。
誰が敵なのか分からない状況で、兵団は次の壁外調査へ向けて動き始めることになった。そして同じ頃、第104期訓練兵団の卒業生たちにも、それぞれが進む兵団を決める日が訪れていた。
◆
「ジャンはどうするんですか?」
夕方、兵舎の片隅でサシャが尋ねた。
ジャンは少しだけ黙った後、壁へ背を預けたまま答える。
「調査兵団に行く」
以前のジャンなら、憲兵団へ入って内地で安全に暮らすことを迷わず選んでいたはずだった。だがトロスト区で多くの同期を失い、マルコまで帰ってこなかった今、その考えは変わっている。
サシャは少し驚いたように目を丸くしたものの、やがて静かに頷いた。
「そうですか」
「お前はどうすんだ?」
ジャンに聞き返され、サシャは一瞬だけ視線を泳がせた。
そこへ、近くで話を聞いていたライナーが口元を緩める。
「まあ、サシャは聞かなくても分かるだろ」
「え?」
「あいつがいるからな」
ライナーはからかうように笑った。
「健気なもんだ」
「な、何のことですか!」
サシャの頬が一気に赤くなる。
「私は別に、ディエゴがいるから調査兵団に行くわけでは……!」
「なんでディエゴなんだ?」
コニーが本気で分からないという顔で首を傾げた。
「え?」
「いや、今ディエゴって言っただろ。何であいつが関係あるんだ?」
悪意など欠片もない。
だからこそ余計に困る。
「ち、違います! 何でもありません!」
サシャは耳まで赤くしながら両手を振った。
自分でも、どうしてここまで恥ずかしいのか分からない。ディエゴの名前が出ただけで胸の奥が妙にざわつき、周囲に何か見透かされたような気分になる。
その様子を見ていたミカサの口元から、ごく自然に笑みがこぼれた。
「ミカサ?」
ジャンが思わずそちらを見る。
ミカサ本人は、自分が笑っていることに気づいていないらしい。
それを見たクリスタもつられるように小さく笑い、ユミルは面白いものを見つけたと言わんばかりに口角を上げた。
「へえ。芋女も大変だな」
「だから何の話ですか!」
「何の話だろうな」
ユミルは完全に楽しんでいる。
ジャンはそんなやり取りを半分聞き流しながら、しばらくミカサの横顔を見ていた。
普段はほとんど表情を変えない彼女が、こんなふうに自然に笑うことがある。
綺麗だと思った。
ただ、それを口に出せるほどジャンは素直ではなかった。
◆
やがて、入団兵を選別するための時間が来た。
エルヴィン・スミスは集められた新兵たちの前に立ち、調査兵団がどれほど危険な場所であるかを隠さなかった。
壁外へ出れば、死ぬ可能性は高い。
これまでにも多くの兵士が命を落とし、これからも犠牲は出る。
それでも人類が壁の外へ進み、巨人の正体を探り、失われた土地を取り戻すためには調査兵団が必要になる。
エルヴィンは甘い言葉で誘わなかった。
残る者には、死ぬ可能性を理解したうえで残れと告げた。
その場から、一人、また一人と新兵が立ち去っていく。
サシャも動きかけた。
足が震えていた。
巨人が怖い。
その事実だけは、どれだけ自分をごまかしても変わらない。
トロスト区で、自分は一度死にかけた。
うなじへ刃を届かせながら仕留めきれず、逃げ道を失い、巨人の手が自分へ伸びてきた。もしディエゴが来るのが少しでも遅ければ、今ここに立ってはいない。
壁外には、あんなものが何体もいる。
一体でもあれほど怖かったのに、今度は自分からその群れの中へ入っていくことになる。
考えるだけで泣きそうだった。
足が一歩、外へ向きかける。
その時、サシャの頭に浮かんだのは、巨人に掴まれかけた瞬間のことではなかった。
自分の刃が、巨人のうなじへ届いた時の感触だった。
浅かった。
仕留められなかった。
けれど、届かなかったわけではない。
あと少しだけ落ち着いていれば、もっと深く斬れていたかもしれない。トロスト区の補給所でも、自分一人では何もできなかったわけではなく、仲間同士で互いの失敗を補い合ったから生き残れた。
あの時、自分の失敗をディエゴが埋めた。
なら、次はどうするのか。
また誰かが失敗した時、自分は助けてもらう側で待っているのか。それとも、今度は自分が手を伸ばす側へ回るのか。
サシャは唇を噛んだ。
怖い。
それでも、怖いから何もしないままでは、ずっと助けられた時の自分から変わらない。
そして、もう一人。
なぜかディエゴの顔が浮かんだ。
いつも偉そうで、言い方もきつく、何を考えているのか分からない。それなのに思い浮かべると、胸の奥が少しだけ温かくなる。
ディエゴがいるから巨人が怖くなくなるわけではない。
怖いものは怖い。
ただ、彼がいると思うと、怖いままでもあと一歩だけ踏ん張れるような気がした。
理由はまだ分からない。
けれど、これはこれで悪くないとサシャは思った。
外へ向きかけていた足を戻す。
最後までその場に残った人数は、多くなかった。
ミカサ、アルミン、ジャン、ライナー、ベルトルト、コニー、サシャ、クリスタ、ユミル。
それぞれが違う理由を抱えながら、調査兵団へ進むことを選んだ。
◆
それから少しして、旧調査兵団本部で同期たちは再び顔を合わせた。
サシャは建物へ入るなり周囲を見回していた。
探している相手は一人だった。
廊下の向こうに金髪が見えた瞬間、考えるより先にそちらへ歩いていく。
「ディエゴ!」
呼ばれたディエゴが振り返った。
「何だ」
「あの、私も……調査兵団に入りました」
「そうか」
あまりにも普通の返事だった。
それでもサシャはその場から動かず、どこか落ち着かない様子で髪へ指を触れている。
ディエゴは眉を寄せた。
なぜわざわざ自分へ報告する。
同期なら他にもいる。
調査兵団へ入ったことを自分に伝えたところで、サシャに何の利益があるのか分からない。
いつものディエゴなら、そこで興味を失っていたかもしれない。
しかし、ふとサシャと目が合った。
彼女は恥ずかしそうに視線を逸らしながらも、またこちらを見ている。
ディエゴが気になったのは、その仕草ではなかった。
目元だった。
僅かに赤い。
涙を拭った跡も残っている。
そこまで見れば、理由を推測するのは難しくなかった。
こいつは怖かったのだ。
巨人が怖い。
調査兵団に入りたくない。
それでも残った。
恐怖が消えたから前へ進んだのではなく、恐怖を抱えたまま前へ進む方を選んだ。
その事実を理解した瞬間、ディエゴの中に、自分でも説明のつかない感情が生まれた。
「……人間の偉大さは、恐怖に耐えるその姿にある」
「……え?」
サシャがぽかんとする。
ディエゴ自身も、口から出た言葉に僅かな違和感を覚えていた。
「誰が言った言葉だったかは忘れたが…オレもそれに関しては否定しない。それが生きるってことなんだろうな」
すぐ近くでは、偶然その会話を耳にしたミカサ、アルミン、エレンが揃って足を止めていた。
「……珍しい」
ミカサが小さく呟く。
「僕、初めて聞いたかもしれない」
アルミンも声を潜める。
「オレも」
エレンまで同意した。
三人の声はディエゴには届いていない。
本人はいつものように鼻を鳴らしながら、もう一度サシャを見る。
これまでサシャを見ていなかったわけではない。
訓練兵時代から、よく食べる女だとは思っていた。妙なところで勘が鋭く、狩猟の経験から来る動物的な感覚もある。トロスト区では失敗こそしたものの、恐怖の中で巨人のうなじまで辿り着いた。
だが今、初めてそれらを一つの人間として見たような気がした。
「…お前は、他のカス共とは少し違うようだな」
「え?」
「少し認識を改めるとしよう」
ディエゴは一度だけ目を細めた。
「サシャ、お前は……生きているな」
その声には、普段の嘲笑もからかいもなかった。
サシャはきょとんとしたまま、ディエゴを見つめる。
言った本人の表情は、ほとんどいつも通りだった。
だが内心では違った。
――何を言ってるんだ、オレは……?
ディエゴは誤魔化すように前髪をかき上げた。
前世でも、こんな言葉を誰かへ向けた覚えはない。
そもそも、他人を心から認めるという行為自体が、ディエゴには馴染みのないものだった。
人間は利用するものだった。
上にいる者は引きずり下ろし、下にいる者は踏み台にすればいい。
自分の役に立つ者なら使い、邪魔になる者なら排除する。
そのどちらにも当てはまらない相手へ、わざわざ言葉を与える理由など今までなかった。
「……あいつ、他人を認めることあるんだな」
少し離れたところで、エレンが本気で感心したように呟く。
「僕も驚いた」
アルミンがそれに答える。昔から外面はいいが、その実、人を馬鹿にすることを生きがいにしていたようなやつだ。
素直などと言う言葉は、あいつの対角線上にあるものである。
「…」
だが、ミカサだけはサシャが認められた理由を何となく理解していた。
ディエゴは、いわゆる普通の人間を嫌悪している。幼少時から、そう感じることがたまにあった。
自分に被害が及ばない限り見て見ぬふりをし、誰かが不幸になっても自分でなければ構わない。危険を引き受けることもなく、何もしないまま安全な場所から結果だけを求める。
そして一人が右向けばそろって右に向きそれに従う。ディエゴは、そういう人間を心の底から軽蔑している。
彼が上に立ちたがり、優劣をつけたがるのはそういうところからきている、と思っている。
なぜそこまで嫌っているのか、ミカサには分からない。
ディエゴが過去に何を経験したのかも知らない。
ただ、サシャは普通の人間とは違った。
恐怖を感じないから残ったわけではない。
逃げたいと思い、泣きそうになり、実際に泣き。恐怖を知りながらも前へ進んだ。
この世界は残酷だ。戦わなければ勝てないことを、言葉ではなく心で理解したのだろう。
だからディエゴは、サシャを見たのだ。
一方、サシャにも分かった。
今の言葉は、ディエゴの本心だった。
普段のような皮肉でも、誰かを動かすための言葉でもない。
ほんの一瞬だけ、彼の胸の内を直接見せてもらったような気がして、胸の奥が嬉しくなる。
しかし同時に、それとは別の感情が強く湧いた。
放っておけない。
なぜそんなふうに思ったのか、サシャ自身にも説明できなかった。
本心から誰かを認める言葉を口にしただけで、本人が狼狽している。他の人は気づいていないようだけど。
まるで、人へ素直な言葉を渡すことそのものに慣れていないようだった。
その時、ああ。と思った。この人は、一人でいることに慣れすぎているんだ。
何があったのかは知らない。
ディエゴの過去など、サシャはほとんど何も知らなかった。
それでも、ずっと誰にも頼らず、誰も信用せず、自分だけで立つことを当たり前にしてきたような孤独を、なぜか感じた。
この人を一人にしたくない。
その思いだけは、理由を探すより先に胸の中へ根を下ろした。
サシャは柔らかく笑った。
見ている側まで少しだけ温かくなるような、いつもの屈託のない笑顔だった。
「大丈夫ですよ」
「……は?」
ディエゴが本当に目を丸くした。
サシャはそれを見た瞬間、思わず笑いそうになった。
こんな顔もするのだ。
いつも余裕があり、自分が世界のすべてを理解しているような顔をしているくせに、たった一言でこんなふうに驚く。
少し楽しかった。
調査兵団へ入れば、これから先はきっと地獄のような日々が待っている。
世界は残酷だ。巨人は怖い。死にたくもない。
それでも、この人が同じ場所にいるなら、そんな世界もほんの少しだけ面白くなるのかもしれない。
サシャはそう思った。
一方のディエゴは、本気で意味が分からなかった。
何が大丈夫なのか。何に対して言ったのか。
前世でも今世でも、ディエゴは人間の生汚い部分を嫌というほど見てきた。
人間というものは、結局のところ自分が一番大切なのだ。
弱い者が踏みにじられていても、自分に火の粉が降りかからなければ見て見ぬふりをする。
母が助けを求めた時、誰も手を差し伸べなかった。
鳩の群れのように同じ顔をして、誰も彼も自分だけは無関係だと思っている。
ディエゴにとっては、どいつもこいつも有罪だった。
今も、その考え自体は変わっていない。
だが目の前のサシャを見ていると、なぜか一人の女を思い出した。
ルーシー・スティール。
性格も違う。意志も違う。行動の仕方も、何もかも同じではない。
それでも一つだけ、重なるものがあった。
恐怖も不安も確かにあるのに、それらを抱えたまま前へ進む。
あの激動のスティール・ボール・ランの最中、ただの一般人にすぎなかったルーシーは、夫の身を案じ、自分より遥かに危険な相手がいることを知りながら行動した。
怖くなかったわけではないだろう。あの大統領と行動を共にしたのだ。むしろ、想像を絶するような恐怖のただなかにいただろうことは容易に想像がつく。
それでも。怖くても、目的のために動いた。今、目の前にいるサシャも同じだった。
その事実が、ディエゴには妙に引っかかった。
「フン……」
やがてディエゴは鼻を鳴らした。
考えるだけ無駄だ。
こいつが何者であろうと、自分の最終目的には関係ない。
少なくとも、敵意がないことだけ分かれば十分だ。
「まあいい」
「はい?」
「何でもない」
ディエゴはサシャから視線を外し、いつものように不敵な笑みを浮かべた。
「最後に全てを手に入れるのは…このDioなのだからな」
サシャには意味が分からなかった。
それでも、先ほどまでとは少し違って見える横顔を眺めながら、なぜかまた小さく笑った。