旧調査兵団本部へ第104期の新兵たちが合流してから、奇妙なことに、それまで張り詰めていた空気が少しずつ和らぎ始めていた。
その最大の理由は、ディエゴ・ブランドーの上官に対する態度が、ほんの僅かながら改善されたことにある。
それまで調査兵団の古参兵がディエゴへ示す反応は、大きく二つに分かれていた。
リヴァイやエルヴィンのように、トロスト区での実績と本人の能力を認めた上で多少の無礼には目を瞑る者。
もう一方はオルオのように、新兵でありながら上官を上官とも思わない態度へ露骨な苛立ちを見せる者だった。どちらも兵士としては自然な反応だったが、問題なのは、ディエゴ一人を扱うために周囲が余計な神経を使わなければならないことだった。
命令そのものには従う。しかし、その理由が気に入らなければ嫌味を返し、自分より経験のある兵士へも平然と意見する。
相手が階級だけを盾にすれば、途端に態度まで悪くなる。実力がなければ、とっくに誰かに叩き直されていただろうが、その実力があまりにも突出している以上、単純に規律違反として切り捨てるには惜しすぎる人材でもあった。
エルヴィンですら、ディエゴをどのように組織へ馴染ませるべきかについては、何度かリヴァイと話したことがある。
ところが、第104期が旧本部へ合流してから数日後を境に、その問題は不思議なほど軽くなった。
正確に言えば、ディエゴの性格そのものが変わったわけではない。慇懃無礼なところも、自信満々なところも、自分の判断に絶対的な価値を置くところも以前のままだった。ただ、それまでより素直な対応をされる人間が増えたのである。
その原因に、ミカサは誰よりも早く気づいていた。
◆
数日前の夜、ミカサは訓練を終え、自室へ戻るため旧本部の廊下を歩いていた。
夕食も済み、辺りがかなり静かになった時間帯で、エレンは今ごろ何をしているだろうかと何となく考えながら歩いていると、途中にあるディエゴの部屋から明かりが漏れていることに気づいた。
それだけなら珍しくない。ディエゴは夜遅くまで何かを読んでいたり、装備を触っていたりすることがある。
しかし、その日は室内から別の人間の声まで聞こえていた。
「ディエゴ、上官に対してあの態度は良くないと思いますよ」
聞き覚えのある声に、ミカサは思わず足を止めた。
サシャだった。
別に盗み聞きするつもりはなかったが、あまりにも意外な組み合わせだったため、ミカサは開ききっていない扉の隙間から室内をそっと覗いた。
ディエゴは机へ肘をつき、いかにも面倒そうな顔で椅子へ座っている。その向かいではサシャが椅子に腰掛け、片手に蒸した芋を持ちながら、どういうわけかディエゴを説教していた。
「リヴァイ兵長にもそうですし、オルオさんにもです。思ってても言わなくていいことってあるじゃないですか」
「オレは必要なことしか言ってない」
「必要じゃないこともかなり言ってます」
「例えば?」
「『その判断はケツの穴で考えたのか?』とかです」
「言ったかなあ〜〜〜うーん…記憶がない」
「そういうところです!」
サシャが少しだけ頬を膨らませると、ディエゴは心底面倒そうに彼女を見た。
普通なら、ここで鼻で笑うか、理屈で言い負かす。少なくとも、ミカサが三年間見てきたディエゴならそうするはずだった。
ところが、この日は違った。少し頬を膨らませながらこちらをじっと見るサシャに、根負けしたように視線をそらす。
「…チッ。しょうがない」
「そうです。それでいいんです」
サシャは満足そうに頷くと、手にしていた芋を大きく一口齧った。
「分かればよろしいです」
説教を終えた直後とは思えないほど幸せそうな顔で芋を頬張っている。ディエゴはその姿を数秒見つめてから、片手で額を押さえた。
「人を叱ったと思えば、その場で食い始める……何なんだ、お前は」
「美味しいですよ。半分食べますか?」
「いらん」
ミカサは無言のまま扉から離れると、その足で最初にエレンとアルミンのいる部屋へ向かった。
◆
「サシャがディエゴを叱っていた」
ミカサがそれだけ告げると、エレンは数秒黙った後、堪えきれないように腹を抱えて笑い始めた。
「はははっ! あいつが!? サシャに!?」
「笑いすぎ」
「だって想像できるか!? リヴァイ兵長にすら喧嘩売った奴だぞ!」
ミカサは真顔のまま頷く。
「しかも、言うことを聞いていた」
「嘘だろ!?」
「本当」
今度はアルミンまで肩を震わせた。
「それは……ちょっと見てみたかったな」
三人でしばらく笑っていたが、そのうちアルミンの表情が少しずつ変わった。何かを思いついた時の顔である。
「……これ、使えるかもしれない」
「何を?」
エレンが尋ねると、アルミンは少し考えた後、何も答えず部屋を出ていった。
翌日から、旧本部では妙な習慣が生まれた。
◆
「サシャ」
「はい?」
「ブランドーに、午後から厩舎の装備点検を手伝うよう伝えてくれ」
「分かりました」
兵士から頼まれたサシャがディエゴを探しに行くと、数分後には厩舎から二人の声が聞こえてきた。
「ディエゴ、午後から装備点検だそうですよ」
「何でお前が伝令になってるんだ?」
「いいから行きましょう」
「理由くらい説明しろよ」
「人手が足りないそうです」
「それを先に言え」
「じゃあ行きますよ」
「…やれやれ」
それまでなら、命令を伝えた兵士へ一言二言は嫌味が飛んでいたところだったが、サシャが伝えるだけで大抵はそれで済んだ。
もちろん、重要な作戦命令までサシャを経由するようなことはない。
戦闘や部隊運用に関わる指示はリヴァイやエルヴィンが直接伝え、作戦内容が複雑な場合にはアルミンが説明役に回ることもあった。
そうした命令に対してディエゴが意見を述べることは依然としてあったものの、少なくとも以前のように余計な嫌味まで付け加えることは減っていた。
リヴァイも最初こそ怪訝な顔をしていたが、効果がある以上、わざわざ止める理由はなかった。
ある日の午後、サシャに言われたディエゴが黙々と物資を運んでいる姿を見たリヴァイは、横にいたペトラへ小さく呟いた。
「……あいつ、あの芋女の言うことは聞くんだな」
「みたいですね」
「意味が分からねえ」
「兵長でも分からないんですか?」
「分かる必要がない…だが、使えるなら使うぞ」
そう言いながらも、リヴァイは以前よりディエゴを見る目を僅かに変えていた。
初めの頃は、面倒だが異常に使える新兵という認識しかなかったが、今ではそこへ、年相応の部分も一応残っている新兵、という評価が加わっている。
本人が聞けば余計なお世話だと怒りそうな変化だった。
何より面白がったのは、第104期の同期たちである。
「思うんだけど」
ある日、エレンがコニー、ライナー、ジャンへ小声で話しかけた。
「同期で最強はサシャじゃないか?」
「は?何の話だよ」
「考えても見ろよミカサでも勝てなかったディエゴを、一言で動かせるんだぞ」
ジャンが口元を押さえる。
「……確かに」
「やめろ、笑っちまうだろ」
ライナーまで肩を震わせた。
「戦闘力ならディエゴ、統率力ならサシャか」
「無敵の2人って感じだな」
当人たちに聞こえないところで、そんな冗談まで飛ぶようになった。
もっとも、サシャ本人は自分が何か特別なことをしているつもりなどなかった。ディエゴが良くないことをしたから注意し、必要な仕事があるから伝えただけである。
そしてディエゴ自身も、なぜサシャに言われた時だけ反論する気が少し失せるのか、その理由を深く考えようとはしていなかった。
◆
第57回壁外調査の日が来た。
ウォール・ローゼの門が開き、調査兵団が一斉に壁外へ飛び出していく。広大な平原へ展開した兵士たちは、エルヴィンの指示に従い、長距離索敵陣形を形成していた。
前方から側面へ広く人員を配置し、巨人を発見した地点から信号弾を上げ、情報を中央へ伝達する。巨人との戦闘を可能な限り避けながら、部隊全体を進ませるための陣形である。
ただし、その中に一つだけ、少々特殊な役割を与えられた班があった。
ディエゴを中心とした遊撃班である。
当初、エルヴィンとリヴァイはディエゴをリヴァイ班の中へ入れ、その指揮下で動かす予定だった。
実際、その判断には十分な理由がある。何だかんだ言いながらも、ディエゴはリヴァイの実力を認めており、命令に口を挟むことはあっても、合理的だと認めれば従う。
前回の一件以降、真正面から反抗することもなくなった。
問題はリヴァイ班の方だった。
ディエゴに三年間付き合ってきたエレンは多少のことなら聞き流せたが、ペトラやオルオたちは違う。
いくら能力が高いとはいえ、新兵が当然のように自分の判断を口にし、時には先輩の判断まで修正しようとする状態で長時間行動するのは、想像以上に精神を削った。
そこで編成が見直された。
ディエゴには数人の兵士を付け、外周付近で巨人の接近を早期に察知し、必要に応じて排除する遊撃役を任せる。そこへ第104期からサシャが加えられた。
狩猟経験による地形把握や感覚の鋭さがあり、何よりディエゴとの意思疎通が妙に円滑である。エルヴィンとしても、使える要素を無視する理由はなかった。
結果として、その判断は今のところ上手く機能していた。
「右前方、三体」
馬上のディエゴが前を向いたまま告げると、サシャが目を細めた。
「見えるんですか?」
「いいや。だが臭う」
「ホントに?」
「イグザクトリー」
スケアリー・モンスターズによって強化された嗅覚は、風向きさえ合えば遠方の巨人まで捉えることができる。
当然、その詳細を周囲へ教えるつもりはなく、ディエゴは単に鼻がいいという説明だけで押し通していた。
少しして、本当に遠方に三つの巨体が姿を現した。
「本当にいた……」
同じ班の兵士が呆れたように呟く横で、サシャはすぐに信号銃を構えた。
「赤を上げます!」
巨人の位置を知らせる赤い信号弾が空へ撃ち上がる。
本来であれば、長距離索敵陣形では巨人を発見した時点で進路を調整し、可能な限り戦闘を避ける。
しかし、進路や位置関係によっては排除しなければならない個体も存在し、特に速度のある奇行種が陣形内部へ入り込めば被害は一気に拡大する。
ディエゴはそうした個体を優先して狩った。
銀色の馬、シルバー・バレットが平原を駆ける。巨人との距離が縮まると、ディエゴは鞍から身体を浮かせ、立体機動装置のアンカーを巨人の肩付近へ射出した。
その勢いを利用して一気に首元へ回り込み、刃をうなじへ走らせる。
一体目が倒れ始める頃には、すでに次の巨人へ向かっていた。
班員が信号弾で情報を流し、その間にディエゴが危険度の高い巨人だけを排除する。必要以上には戦わず、陣形を維持することを優先するという役割分担が、少しずつ形になっていた。
以前のディエゴなら、自分一人で倒せる巨人ならそのまま全て狩っていたかもしれない。
だが今回は少し違った。
「深追いするな。陣形から離れるぞ」
追撃しようとした兵士へディエゴ自身が声を掛けると、相手もすぐに馬首を返した。
「了解!」
その様子を見たサシャは、少し意外そうな顔をした。
「何だ?」
「いえ、ちゃんと班長みたいなこと言うんですね」
「オレを何だと思ってた?」
「強いけど好き勝手する人です」
「お前、最近遠慮がなくなってないか?」
「気のせいですよ」
「ふうん?」
サシャは笑って誤魔化し、ディエゴもそれ以上は追及しなかった。
今回の壁外調査で、ディエゴが以前より周囲の位置を意識しているのは事実だった。
リヴァイに言われたから、というだけではない。自分の班から死人が出れば面倒であり、せっかく使える人間を配置されているのに、無意味に消耗させるのは効率が悪い。
本人はそう考えていた。少なくとも、表向きには。
サシャについても同じである。索敵能力があり、野外での勘もいい。こちらの意図を理解するのも早い。だから死なせない。それだけで説明はつくはずだった。
壁外へ出てからしばらくの間、ディエゴの班には一人の死者も出なかった。初めて壁外へ出るサシャを含め、新兵たちも陣形を崩さずに進んでいる。
しかし、平原をさらに進んだ頃から状況が変わり始めた。
遠方から赤い信号弾が上がり、続いて別方向からも一本、そのさらに奥からもほとんど間を置かずに信号が続いた。
ディエゴが空を見上げると、通常の巨人発見だけでは説明しづらいほど、複数箇所から信号が集中している。
「多いな」
ほどなくして、地平線の向こうに巨人の姿がいくつも現れた。その中には通常種だけではなく、明らかに移動速度の速い個体まで混じっている。
「来ます!」
班員の声が響いた瞬間、サシャの顔から笑みが消えた。
トロスト区での記憶が、身体の奥から一瞬で蘇る。巨人の手、自分へ迫った指、逃げ場を失った感覚。喉から悲鳴が出かかったが、サシャは寸前でそれを飲み込んだ。
「三体がこっちへ来ます!」
「分かってる。右の二体はオレがやる。左は脚を止めろ!」
「了解!」
ディエゴの指示が飛ぶと、サシャは手綱を引き、馬の進路を変えた。
左から迫ってくる巨人は九メートル級で、走る速度も速い。まともに首を狙えば回避される可能性もあるため、サシャは隣の兵士と視線を合わせた。
「私が右脚へ行きます!」
「分かった、俺は左だ!」
二人が同時に馬を離れる。アンカーが地面付近へ突き刺さり、ガスの噴射とともに身体が低空を走った。
巨人が腕を振り下ろす。
サシャの身体が一瞬強張る。
怖い。
それでも止まらない。
トロスト区で決めたことを思い出す。助けられたままで終わりたくない。今度は、自分が誰かを助けられる側になる。
巨人の手が頭上を通過する直前、サシャはワイヤーを巻き取りながら身体を捻り、その脇を抜けた。視界へ右脚を収めると、狙いを膝裏へ定める。
「はああっ!」
刃を深く押し込み、そのまま速度を殺さず横へ抜ける。反対側ではもう一人の兵士が左脚を斬り、両脚の支えを失った巨人が大きく前へ崩れた。
「やった!」
喜んだのも束の間、サシャはすぐに周囲を見た。
ディエゴが担当した二体は、すでに倒れ始めている。一体目のうなじを斬り抜け、その身体を足場に二体目へ移り、そのまま首を落としたらしい。
そして次の瞬間には、脚を削がれて倒れた九メートル級の上へ着地していた。刃が一閃し、巨人のうなじから肉片が飛ぶと、その身体から力が抜けて動かなくなった。
蒸気が噴き上がる中、サシャは地面へ着地すると、荒い息を整えながら自分の手を見た。指先は僅かに震えている。
怖かった。
今も怖い。
それでも動けた。
自分で考え、班員と合わせ、巨人の脚を止めた。
その時、ディエゴがこちらへ近づいてきた。
「サシャ」
「は、はい?」
何か失敗しただろうかと、サシャの身体が思わず固くなる。
ディエゴは倒れた巨人とサシャを一度見比べてから、僅かに口元を上げた。
「やればできるじゃあないか」
「……え」
「タイミングも悪くない。最初に腕へ釣られそうになったが、途中で目線を脚へ戻した。あれなら次も使える」
サシャは思わずディエゴの顔を見た。
真正面から目が合う。
以前、調査兵団を選んだ時にも褒められたが、あの時とは少し違う。今回は、自分が実際にやったことを見た上で認めてもらった。
頬がじわりと熱くなる。
「……ありがとうございます」
サシャは照れを隠しきれず、少しだけはにかんだ。
ディエゴはその表情を見ながら、以前とは違う意味で彼女を評価していた。
サシャが怖がっていることは分かっている。息が速く、手も僅かに震えているうえ、巨人が近づいた瞬間には匂いまで変わった。
恐怖を知らない人間ではない。
それどころか、かなり怖がっている。
それでも動いた。
恐怖が消えるのを待つのではなく、恐怖を抱えたまま、自分の身体を自分の意思で動かした。
口で言うほど簡単なことではない。
少なくとも、ディエゴはそういう人間を嫌いではなかった。
「次もその調子でやれ」
「はい!」
今度の返事は、先ほどより少しだけ力強かった。
その時、遠くでまた信号弾が上がった。一発だけではなく、さらに一発、別方向からも続けて撃ち上がる。
ディエゴは空を見上げながら、先ほどから感じていた違和感がさらに大きくなっていくのを感じていた。
――この信号弾の撃ち方、何かあるな……
通常の巨人なら、ここまで部隊全体を乱すような情報の流れにはなりにくい。何かが陣形内部へ入り込んでいるうえ、それはかなり速く移動している。
そう考えた瞬間、風向きが僅かに変わった。
ディエゴの鼻が、遠方から流れてきた匂いを拾う。
巨人特有の強い蒸気と熱。その奥に、別の匂いが混じっている。
嗅いだことがある。
それも何度も。
訓練場でも、食堂でも、兵舎でも、格闘訓練でも感じていた匂いだった。
ディエゴの目が細くなる。
その匂いは異常な速度で平原を移動している。
馬ではなく、馬の汗も毛も蹄の土臭さもない。巨大な肉体特有の熱と蒸気だけが高速で移動しており、その感覚はエレンが巨人化した時と同じだった。
巨人の中に、人間がいる。
そして、その人間の匂いをディエゴは知っている。
アニ・レオンハート。
ディエゴの口元がゆっくりと吊り上がった。
とうとう来た。
訓練兵時代から、何かを隠していることは分かっていた。ライナーやベルトルトと同じように、あの女にもこちらへ明かしていないものがある。
その正体が、自分から走ってきた。
しかも巨人の身体を使って。
「ディエゴ?」
隣にいたサシャが、その表情の変化に気づいた。
「どうしたんですか?」
「いや」
ディエゴは遠くを見たまま答える。
「ちょっと知り合いが来たみたいでな」
「知り合い?」
サシャには意味が分からなかったが、ディエゴはそれ以上答えず、遠方を走る匂いだけを追った。
そろそろアニとは一度、ゆっくり話をしてみたいと思っていたところだ。できることなら、淹れたてのコーヒーでも飲みながら。
もちろん、向こうが素直に席へ着いてくれるとは思っていない。
ならば先に、席へ着く気になるようにすればいい。
ディエゴ・ブランドーは深く、黒く笑った。
壁外調査は、ようやく面白くなってきた。