第57回壁外調査が始まってからしばらくすると、長距離索敵陣形の各所から上がる信号弾の数が、目に見えて増え始めた。
ただ巨人の数が多いというだけではない。赤い信号が一方向へ流れていくのではなく、まるで何か一つの存在を追いかけるように位置を変えながら連続している。通常の巨人との遭遇とは明らかに違う情報の流れを見て、ディエゴたちの遊撃班にも緊張が走った。
やがて後方から一騎の伝令が追いつき、馬を並べるなり声を張り上げた。
「報告! 陣形内に特殊な巨人が侵入! 女性のような体格を持ち、通常の巨人とは明らかに異なる行動を取っている! 知性を有している可能性が高い!」
伝令が離れていくと、サシャをはじめとする班員たちの視線が一斉にディエゴへ集まった。
「女の巨人……?」
「知性があるって、本当なのか?」
「班長、どうします?」
何人かが同時に問いかけたものの、ディエゴは進行方向を変えず、信号弾が上がり続ける空を一度見上げただけだった。
「作戦に変更はない。このまま遊撃を続けるぞ」
「でも、知性を持つ巨人ですよ?」
サシャが尋ねると、ディエゴは馬上から彼女を横目で見た。
「だから何だ。オレたちの役目は、陣形へ入り込む巨人を減らして本隊の動きを楽にすることだろ。向こうで何が起きていようが、勝手に配置を崩したら長距離索敵陣形を組んでいる意味がなくなる」
答えそのものには何もおかしなところがなく、むしろ以前のディエゴを知る者からすれば、驚くほど模範的な判断だった。
「了解です!」
班員たちはすぐに前へ向き直り、サシャも頷いて手綱を握り直す。
ただ一人、ディエゴだけは遠方から風に乗って漂ってくる匂いを追いながら、表情の奥で別のことを考えていた。
知性を持つ女型巨人と聞いても、それが誰なのかを考える必要などなかった。
ディエゴにとって、その正体は最初から分かっていた。
◆
ハンジが捕獲していたソニーとビーンが殺されたと知らされた時点で、ディエゴの中ではすでに一つの答えが出来上がっていた。現場に残った匂いを確認した時、その人物が誰なのかまで分かっていたのである。
スケアリー・モンスターズによって強化された嗅覚は、人間のそれとは比較にならない。風向きや湿度に左右されるとはいえ、条件さえ整えば猟犬以上の精度で匂いを拾い分けることができる。
現場には外套や手袋、立体機動装置の油、馬、血、泥など、複数の兵士と物品の匂いが入り混じっていた。犯人は意図的に様々な匂いを身につけ、自分自身の痕跡をその中へ埋没させようとしていたらしい。
普通の人間を相手にするのであれば、それで十分すぎるほどだっただろう。
しかし、ディエゴの鼻までは誤魔化せなかった。
数多くの匂いの奥に残されていたものを、彼は三年間の訓練生活を通して何度も嗅いでいる。
アニ・レオンハートの匂いだった。
さらに現場で使われた立体機動装置の匂いまで辿っていけば、もう一つ無視できない事実へ行き着く。それはトロスト区で死亡したマルコ・ボットが使用していた装備だった。
死んだマルコの立体機動装置を、なぜアニが持っていたのか。
考えられる筋道はそう多くない。
少なくともマルコの死か、その直前の出来事に、アニたちが関与していた可能性は高い。そしてライナー、ベルトルト、アニの三人が何らかの秘密を共有していることは、訓練兵時代からディエゴも察していた。
そのうち、ベルトルトが超大型巨人であることはすでに判明している。
エレンも人間から巨人へ変身する能力を持っていた。
そこまで材料が揃えば、アニだけが何の力も持たない普通の人間だと考える方が不自然だった。
だからディエゴは、この時点でほぼ確信していた。
アニ・レオンハートは人類側に潜り込んだ内通者であり、同時に知性を持つ巨人でもある。
そして、そこまで確信した上で黙っていた。
理由は単純だった。
ディエゴ・ブランドーの目的は、前世から何一つ変わっていない。誰よりも高い場所へ登り、自分を見下ろす者がいなくなるところまで辿り着き、その上から世界を見る。
この世界へ生まれ変わったからといって、その欲望まで消えたわけではない。むしろ巨人という巨大な力が存在し、その力を人間が操れることを知ったことで、かつては漠然としていた「頂点」というものが、以前より具体的な形を持ち始めていた。
知性巨人は力である。
純粋な戦闘力であるだけでなく、軍事的な価値を持ち、政治にも利用できる。そして何より、壁の外にある世界や巨人の正体へ繋がる情報そのものでもあった。
それなら、殺してしまうより使った方がいい。
できる限り多くを、自分の手の届く場所へ置いておきたい。
エレンにはすでにスケアリー・モンスターズの力を仕込んであり、ベルトルトにも同じ種を植え付けている。
ならば、アニも手に入れたい。
そのために必要なのは、今すぐの告発ではなかった。
まずは観察する必要がある。
アニがどのような巨人へ変身するのか、どれほどの身体能力を持ち、どんな特殊能力を使うのか。それすら分からないうちから捕獲へ動くことは、ディエゴにとって愚策にしか思えなかった。
リヴァイへ真相を伝えるだけなら簡単である。
「兵長、犯人はアニですよ。オレは猟犬並みに鼻が利きます」
そう言えば、リヴァイはいつもの仏頂面でこちらを見た後、「分かった」とだけ答えて捕獲へ動くかもしれない。エレンの護衛をディエゴへ預け、自分がアニを捕らえに向かう可能性もあれば、逆にリヴァイがエレンの側へ残り、ディエゴへ捕獲を命じる可能性もある。
しかし、そのどちらになるかをディエゴ自身が選べる保証はない。
何より厄介なのは、アニの能力を知らない状態で捕獲作戦を始めれば、こちらの想定外の能力を使って逃亡される可能性があることだった。
それならば、調査兵団には少しばかり人身御供になってもらった方が安全である。
アニが力を使い、調査兵団がそれを受ける。
そうすれば、何ができるのかが分かる。
能力も性質も十分に観察してから、自分が最後に動けばいい。
ディエゴにとっては、それだけの話だった。
◆
ソニーとビーンが殺された日の午後、現場から少し離れた場所で兵士たちの動きを眺めていると、いつの間にかエルヴィンがディエゴの横へ立っていた。
「この事件、君には何が見える?」
唐突な問いだったが、ディエゴは横を見ることもなく答えた。
「巨人の内通者でしょう。恐らく、この兵団内に下手人に近い奴がいる」
エルヴィンはそれだけ聞くと、特に驚いた様子も見せずに小さく頷いた。
「うむ…後で、私の部屋へ来てくれ」
それだけ告げると、エルヴィンは再び現場へ戻っていった。
しばらくして指定された部屋を訪れると、そこにはリヴァイを含めた調査兵団の古参兵たちが何人か集まっていた。ディエゴが扉を開けるなり、リヴァイがこちらへ視線を向ける。
「やっぱり来たか」
「なるほど…」
「まあ、座れよ」
指されたソファへ腰を下ろすと、リヴァイは余計な前置きを挟まず、本題を切り出した。
「お前の鼻で何か分からねえか?」
ディエゴは一瞬だけ沈黙したが、この質問が来ることは最初から予想しており、答えもあらかじめ用意してあった。
「猟犬ほどのものを期待されても困りますが……女かと」
リヴァイの眉が僅かに動く。
「ほう?」
「オレがいることを警戒してるんでしょうね。様々な匂いを混ぜた外套や服、装備品を身にまとっている。その上、現場にいた時間も短い」
ディエゴは自分が実際に確認した情報だけを選びながら並べていった。
「ただ、中の匂いまでは隠しきれない。女特有の匂いはしますが、それ以上は分からないですね」
「そうか」
リヴァイはそれ以上追及しなかった。
ディエゴは表情には出さず、内心で笑っていた。
嘘はついた。
しかし、すべてを嘘にしたわけではない。犯人が複数の匂いを利用して自分の痕跡を薄めようとしていたのは事実であり、短時間しか現場にいなかったという推測も間違ってはいない。
嘘なのは、それ以上は分からないという一点だけだった。
実際には、犯人がアニだと断定できている。
嘘は真実へ混ぜ込んだ方が、遥かによく馴染む。
少なくともリヴァイを含めてその場にいる者たちの様子を見る限り、ディエゴが意図的に重要な情報を隠していると疑っている者はいなかった。
「それだけでも十分だ」
少し離れた場所で話を聞いていたエルヴィンが口を開く。
「対象を絞ることはできる」
リヴァイがそちらを見た。
「どうする?」
「炙り出す。その上で捕獲する」
エルヴィンの声には迷いがなかった。
この時点ですでに調査兵団上層部は、兵団内部に敵が紛れ込んでいることを前提に動き始めている。
ディエゴにとっては、それで十分だった。
自分からアニを告発しなくても、いずれエルヴィンたちが何らかの形で敵を動かす。そうなればアニも、自分の正体を守るために必ず何かをする。
その時に見ればいい。
何を持っているのか。
どこまでできるのか。
そして、その力をどうすれば自分のものとして利用できるのか。
◆
今、遠方を高速で移動している女型巨人から漂う匂いは、あの日の現場に残されていたものと完全に一致していた。
やはりアニだった。
問題があるとすれば、その出現位置である。
ディエゴ自身が近くにいれば、そのまま接触することも考えられた。しかし、遊撃任務を続けながら陣形の外周付近を動いていた結果、女型巨人が侵入した位置とはかなり離れてしまっている。
それが偶然だとは思えなかった。
アニはディエゴの存在をよく知っている。訓練兵時代には格闘訓練で直接戦っており、トロスト区でどれほど巨人を倒したのかも噂として聞いているはずだ。
ならば、ディエゴがいる側を避けて陣形へ侵入したと考える方が自然だった。
その判断から読み取れることもある。
アニは少なくとも、自分との正面衝突を好ましい状況だとは考えていない。
女型巨人がどれほど強いのか、その特殊能力が何なのかはまだ分からない。すでに何人の調査兵を倒しているのかも知らないが、ディエゴとの直接戦闘を避けるだけの理由がアニにはある。
それだけ分かれば十分だった。
ディエゴの口元に薄い笑みが浮かぶ。
お前がオレとの勝負を避けるという事。それはすなわち、お前はオレに勝てないと言ってるようなものだぞ、アニ・レオンハート
もっとも、今この瞬間に持ち場を放棄して追跡する必要はない。こちらには遊撃班としての役割があり、それを無視して女型だけを追えば、かえって自分の行動を周囲から怪しまれる。
だから、今は待てばいい。
状況が変わるまで。
◆
森へ到達する頃には、遊撃班が担当していた周辺の巨人は大幅に減っていた。
女型巨人に引き寄せられたのではないかと思えるほど奇行種や通常種が集まってきたが、その多くは森へ入り込む前にディエゴの手で倒されている。
シルバー・バレットの蹄が平原を駆ける中、ディエゴは馬上から巨人へ飛び移ってうなじを削ぎ、一体を倒し切るより先に別の巨人へアンカーを打ち込んだ。蒸気の中を抜けるようにして次の首へ回り込み、そのまま着地することなく連続して刃を走らせていく。
ある時は馬を降り、立体機動装置だけで複数の巨人の間を抜けたかと思えば、別の時にはシルバー・バレットを巨人の足元まで突っ込ませ、その身体すら利用して一気に高度を稼いだ。
中でも十五メートル級を倒した時には、近くの巨大樹上で待機していた104期生たちまで言葉を失った。
シルバー・バレットは速度を落とさず、十五メートル級へ真正面から駆けていく。普通なら自殺行為にしか見えなかったが、衝突する寸前、ディエゴが手綱を操ると銀色の馬は地面を強く蹴って跳んだ。
前脚が巨人の膝付近へ掛かる。
部分的に恐竜化されたシルバー・バレットの脚力と爪が皮膚を捉えると、馬体はそこで止まるどころか、まるで急斜面を駆け上がるように巨人の身体を一気に上っていった。
十五メートル級が胸元の馬と人間を掴もうとして腕を動かした時には、すでに遅かった。
ディエゴは肩付近で鞍を蹴り、その勢いのまま首の後ろへ飛び込む。
刃がうなじを横切り、深々と肉を削ぎ落とした。
巨人の巨大な身体が力を失って傾き始めるより早く、ディエゴはワイヤーを巻き取ってシルバー・バレットの鞍へ戻り、倒れていく巨人の肩を足場にするようにして地上へ着地した。
森の高い枝からその一部始終を見ていたジャンは、驚くことにも次第に疲れてきたのか、しばらく呆然と下を見下ろしていた。
そこへ隣の枝にいたコニーが、心底不思議そうな声で言った。
「なあ、もうディエゴ一人でいいんじゃねえか?」
まさに同じことを考えていたジャンは、反射的にコニーの顔を見る。
「何だよ?」
「いや……何でもねえ」
自分とまったく同じ感想を一秒先に言われたことが妙に悔しく、ジャンはそれ以上何も言わなかった。
少し離れた枝にはミカサやクリスタがおり、ライナーとベルトルトもまた、下で巨人を狩り続けるディエゴを見ていた。
特にライナーとベルトルトの表情は硬かった。何を考えているのかまでは周囲には分からなかったものの、ディエゴが巨人を仕留めるたび、二人の目が僅かに険しくなっている。
その一方で、サシャは遊撃班とともに森の外周まで到達すると、木の上で待機している同期たちを見つけ、先ほどまで巨人と戦っていたとは思えないほど大きく片手を振った。
「みなさーん!」
その姿を見下ろしたジャンが、思わず呆れた声を漏らす。
「何であいつあんなに元気なんだよ……さっきまで巨人の群れの中にいたんだぞ」
「俺にも分かんねえ」
コニーまで信じられないような顔をしていた。
実際、サシャ自身も壁外へ出る前は、巨人を思い出すだけで足が震えそうになっていた。今だって怖くないわけではないし、目の前で巨人が走ってくれば身体が強張る。
それでも、自分のすぐ近くで次々に巨人が倒され、遊撃班にもまだ一人の死者も出ていないという事実が、少しずつ彼女の緊張を解いていた。
何より、自分自身も一体の巨人の動きを止めることができた。
恐怖を感じながらも身体を動かし、班員と連携して役割を果たせた。
その小さな成功が、サシャにほんの少しだけ余裕を与えていた。
ディエゴはそんなサシャを横目で見ながら、調子に乗って馬から落ちなければいいが、とだけ考えていた。
その時、森の奥から空気そのものを震わせるような叫び声が響いた。
人間の声ではない。
女型巨人の咆哮だった。
低く鋭い声が巨大樹の森を駆け抜け、木々がざわめき、枝に止まっていた鳥たちが一斉に空へ飛び立つ。周囲にいた兵士たちも異常を察して森の奥へ顔を向けた。
「何だ、今の……?」
「巨人の声か?」
誰もその意味をすぐには理解できなかったが、サシャだけは表情を一変させた。先ほどまで同期へ手を振っていた顔から笑みが消え、山で獣を追っていた狩人の目で森の奥を睨む。
「ディエゴ!」
「何だ?」
「あの声、変です…」
サシャは少し耳を澄ませるようにしながら続けた。
「さっきの悲鳴は、追い詰められた獣が全部を投げ打つ時に出す声に似てます…!何をするか分かりません。とにかく警戒してください!!」
その提案に具体的なものはない。突っぱねるのは簡単だが、ディエゴはすぐには答えず、まずサシャの表情を見た。冗談を言っている顔ではなく、狩猟生活で培った経験から本気で危険を感じ取っているらしい。
「よし、信じよう」
「え?」
あまりにも迷いなく受け入れられたため、今度はサシャの方が驚いた。
ただし、ディエゴが警告を聞き入れた理由は、サシャの経験を信用したからだけではなかった。
咆哮が響いてから、周囲の匂いが急速に変化している。
先ほどまで遊撃班の周辺を徘徊していた巨人たちが、次々に方向を変えていた。
一体や二体ではない。
離れた場所にいた個体まで、まるで同じものへ引き寄せられるように森の中心方向へ進み始めている。
ディエゴは鼻を僅かに動かし、風に乗る複数の巨人の匂いから進行方向を読み取った。
女型の咆哮が原因だ。
そう考えれば、状況の変化にも説明がつく。
遊撃班に与えられた役割は、陣形の外周から流れ込む巨人を減らし、本隊へ余計な負担を掛けないことである。ところが、その巨人たち自身が女型の声へ反応して森へ集まり始めているのなら、これまでと同じ場所に留まり続ける意味は急速に薄くなる。
むしろ放置すれば、森の内部へ大量の巨人が集中し、本隊側の危険が一気に増す可能性がある。
そして、その中心には女型巨人がいる。
さらに、その女型が狙っているのがエレンなら、ディエゴ個人にとっても無視できなかった。
エレンはシガンシナ区地下室へ辿り着くための鍵であり、人間が巨人へ変身する仕組みを知るための重要な材料でもある。その身体にはすでにスケアリー・モンスターズの力を仕込んでいる以上、ここでアニに奪われれば、これまで自分が積み上げてきたものをまとめて失いかねない。
その一方で、森の奥にいるのは間違いなくアニだった。
女型の能力を直接観察できる。
アニがどこまで戦えるかも確認できる。
エレンを守り、森へ集まり始めた巨人へ対応するという正当な理由を持ったまま接近できるうえ、状況次第ではスケアリー・モンスターズを仕込む機会まで生まれる。
戦術上の必要と自分自身の目的が、初めて完全に同じ方向へ重なった。
ここまで条件が揃えば、逆に動かない理由がない。
ディエゴは周囲の班員へ視線を走らせ、すぐに指示を出した。
「巨人の流れが森へ変わった。今の位置に留まってても仕事が減るだけだ。森の外周へ沿って本隊側へ寄せるぞ。信号はこれまで通り上げろ。陣形から完全には離れるな」
「了解!」
班員たちが一斉に返事をすると、ディエゴはシルバー・バレットの手綱を引き、馬首を森の外周から本隊に近づく方向へ向けた。
「行くぞ」
サシャも慌てて自分の馬を走らせる。
「本隊に合流するんですか!?」
「最終的にはそうなるかもな。だが、知り合いのところだと言っただろう。話聞いてなかったのか?」
「聞いてましたけど、こんなところに知り合いなんているんですか?!」
「いるさ。見てもわからんだろうがな」
「…ディエゴの言ってること、たまにわかりません」
文句を言いながらも、サシャはディエゴの後ろについていった。
やはり一言多い。
せっかく真面目に危険を教えたのに、最後には必ずこういう言い方をする。
それなのに、自分の警告を疑わず、それを実際の判断へ組み込んでくれたことは少し嬉しかった。
いつも通りの嫌味には腹が立つ。
それでも、いつも通りのディエゴであることには妙な安心感がある。
その上、なぜか胸の奥が少しだけ高鳴っていた。自分のことなのに、何かよくわからない。わかる気もするけど、それは今じゃない気がする。
サシャはそんなことを考えながら、前を走る背中を見失わないよう馬を進めた。
ディエゴの意識は、すでに森の奥へ集中していた。
匂いから判断する限り、女型巨人はまだ動いている。
別の位置にはエレンもいる。
それだけではない。
ディエゴには、匂いとは別にエレンの位置をある程度把握する手段があった。
以前エレンへスケアリー・モンスターズの力を仕込んだ際、その身体にはノミほどの大きさしかない小型の恐竜も潜ませている。極端に小さく、複雑な思考などできず、視界を完全に共有できるわけでもないが、エレンがどの方向へ移動しているか、周囲で大きな衝撃や振動が起きているか、その程度なら断片的な感覚として拾うことができた。
その感覚からも、状況が大きく動いていることは分かる。
女型巨人はエレンを狙っている。
エルヴィンたちは女型を捕らえようとしている。
そして今、その女型が上げた咆哮によって、周囲の巨人まで森へ引き寄せられ始めた。
このまま静かに終わるはずがない。
アニが追い詰められれば、逃げるために別の手を使うだろう。
それでもエレンへ迫るなら、リヴァイ班が阻止する。
さらに追い込まれれば、エレン自身も黙ってはいない。
その時には巨人化する可能性が高い。
そうなれば、二人の知性巨人が直接ぶつかる瞬間が生まれる。
ディエゴが欲しいのは、そこだった。
二体の巨人が戦い始めれば、周囲の人間は否応なくそちらへ意識を奪われる。巨大な身体同士がぶつかり合う最中に、誰がどこへ触れたのかまで逐一確認できる者などほとんどいない。
その混乱へ紛れて自分がアニへ接触し、スケアリー・モンスターズの力を流し込む。
ベルトルトへ行った時と同じように。
エレンへ仕込んだ時と同じように。
すぐに何かをさせる必要はない。
一度植え付けておけばいい。
知性巨人という札は、一枚でも多く自分の手元へ置いておくべきだった。
しかも今回は、それだけが目的ではない。
エレンを守る。
森へ集中し始めた巨人に対応する。
女型の能力を確認する。
そのすべてを遊撃任務の延長として実行しながら、自分自身の目的まで達成できる可能性がある。
これ以上都合のいい状況は、そう多くない。
ディエゴはシルバー・バレットの速度を上げ、森の奥から漂うアニの匂いを追った。
命を運ぶと書いて、運命。
誰が最初にそういう字を当てたのかは知らない。
だが、よく言ったものだ。
自分から力を見せ、こちらが近づくための理由まで用意した上で、ディエゴ・ブランドーの手が届くところへやって来るとは、偶然というにはあまりにも都合がいい。
ディエゴの口元に、ゆっくりと笑みが浮かんだ。
女型巨人。
アニ・レオンハート。
ようやく、自分の前へ出てくる時が来た。