女型巨人の咆哮を境に、森の周囲を徘徊していた巨人たちの流れは明らかに変わっていた。ディエゴの嗅覚が捉えている限り、それまで遊撃班へ近づいていた個体まで次々と森の中心へ向かい始めており、少なくとも外周付近に留まっている限り、しばらく大規模な接敵が起こる可能性は低い。
ディエゴはシルバー・バレットを止めると、森の外縁を見渡した。スケアリー・モンスターズによって強化された鼻だけではなく、隣にいるサシャも周囲へ鋭く視線を走らせている。
「どうだ?」
唐突に聞かれ、サシャは少しだけ首を傾げた。
「何がです?」
「周りだ。何かいるか?」
意味を理解したサシャは、馬上で姿勢を低くし、風の音や枝葉の揺れへ意識を向けた。山で狩りをしていた頃から、生き物が近くを動けば姿が見えなくても気配を拾うことができる。
しばらく周囲を探った後、サシャは小さく首を横へ振った。
「今のところは何も感じません。さっきみたいに、こっちへ向かってくる感じもしないです」
「オレも同じだ」
ディエゴの鼻も、森の外周へ近づいてくる新たな巨人の匂いを拾ってはいなかった。それならば、ここへ班員を残しても危険は少なく、森の内部で異変が起きた際には外から信号を送らせることもできる。
「お前らはこの辺りを周回してから、木の上で待機しろ。何か近づいてきたらすぐに信号を上げろ」
班員たちは一瞬だけ顔を見合わせたものの、それまでディエゴの判断で一人の死者も出ていないこともあり、すぐに頷いた。
「了解!」
「巨人を見つけた時は?」
「近づいてくるなら赤。森の中で異常が起きたと思ったら、中心に向かって何発でも撃て。ここからなら他の班にも見える」
「分かりました」
全員が動き始めようとしたところで、サシャだけがその場に残ったままだった。
ディエゴが怪訝そうにそちらを見ると、サシャは森の奥へ向かうシルバー・バレットとディエゴを交互に見てから、少し心配そうに口を開いた。
「ディエゴは……森の中に行くんですか?」
声には、隠しきれない不安が混じっていた。先ほどまでなら冗談の一つでも返していたかもしれないが、サシャの顔を見たディエゴは少しだけ間を置いた。
「オレの心配をするなら無用だ。それよりも、何かあったら信号弾を森の中心に向かって撃ちまくれ」
それだけ言って馬首を返しかけたところで、ディエゴは森の奥へ目を向けたまま続ける。
「おそらく……エレンは巨人化する」
その言葉に、近くの木へ移ろうとしていたミカサが勢いよく振り返り、アルミンも同時にディエゴへ視線を向けた。
「エレンが?」
「どうしてそう思うの?」
「落ち着けよ」
ディエゴは特にミカサへ向けてそう言うと、森の奥から漂う匂いを確かめながら説明した。
「女型が狙ってるのはエレンだ。調査兵団が捕獲に失敗するか、エレン自身が追い詰められれば、あいつが巨人化する可能性は高い」
ミカサの表情がさらに険しくなる。
「なら、私も行く」
「待て。お前が今どこに配置されてると思ってる。勝手に離れれば、それこそエレンのために組まれた作戦を壊すぞ」
すぐに動こうとしたミカサを、ディエゴは言葉だけで制した。ミカサは何も言わなかったが、納得していないことだけは表情から分かる。
アルミンが二人の間へ入るように口を開いた。
「ディエゴは、エレンが巨人化したら何か問題が起きると思ってるの?」
「可能性はある」
「どんな?」
ディエゴは一度だけ周囲を見回してから、森の奥へ視線を戻した。
「意識を保てればいい。だが、ヤツが巨人化するということは調査兵団がピンチだってことだ。」
「それはそうだろうが…」
今度はライナーが眉を寄せた。
「普通に部隊が危険だってことだ。追い詰められた末の変身なら、精神的動揺で敗北する可能性がある」
「私も行く」
「だからやめとけって」
逸るミカサをジャンがなだめる。
ディエゴはそれを見てシルバー・バレットの手綱を握り直しながら、当然のことを口にするように続けた。
「だからオレが行く。どのみち、この作戦が成功するかどうかはエレンとオレの才覚にかかってるんだからな…」
言い切ると、シルバー・バレットの腹を軽く蹴った。銀色の馬は即座に応じ、巨大樹の森へ向けて加速していく。
その背中を見送りながら、サシャはいつの間にか両手を胸の前で握りしめていた。指が絡み合い、まるで祈るような形になっていることに本人は気づいていなかった。
「大丈夫だよ」
横から声を掛けられ、サシャが振り向くと、そこにいたのはクリスタだった。
「ディエゴなら心配ないよ。彼の強さを誰よりも知っているのは、サシャでしょう?」
「……そうですね」
サシャは森の奥を見たまま、小さく頷いた。
五年前に立体機動装置も使わず巨人を倒し、訓練兵時代にはミカサやアニにも負けず、トロスト区でも数多くの巨人を相手に生き残った。自分自身も、ディエゴに命を救われている。
彼が強いことくらい、嫌というほど知っていた。
「そうですよね。ディエゴですもんね」
少しだけ声に力が戻ったサシャを見て、ユミルが口元を吊り上げる。
「強いだけじゃなくて、あいつのことは『色々』知ってんだろ?」
「ユミル」
クリスタが止めようとするより先に、ジャンが呆れた顔で口を挟んだ。
「こんな時に下世話なこと言ってんじゃねえよ」
「何だよ。ちょっと聞いただけだろ」
ユミルは悪びれもしなかったが、サシャは慌てて否定することも、いつものように顔を真っ赤にして怒ることもしなかった。
「いえ。彼のことは、まだ何も知りません」
静かな返事に、周囲の視線が集まった。クリスタが不思議そうに首を傾げる。
「何も?」
「はい。ディエゴがどんな音楽を好きなのかとか、どういう景色を見たら心が落ち着くのかとか、何をお腹いっぱい食べたいと思うのかとか……そういうこと、何も知らないです」
サシャ自身、口にしてみて初めて気づいた。三年間一緒に訓練し、何度も話し、命まで助けてもらった。最近では以前より近くにいる時間も増えたのに、ディエゴが自分自身について話したことは驚くほど少ない。
「だから、知りたいんです。これから」
サシャは森の奥を見たまま、僅かに笑った。
クリスタはその横顔を見ると、何も言わず微笑んだ。少し離れたところにいたミカサも、ほんの僅かに口元を緩めている。
逆に、ジャンやコニー、ライナーたちは何とも言えない顔でサシャを見ていた。ユミルだけは数秒黙った後、面倒そうに頭を掻く。
「こりゃ思ったより重症だな、芋女」
「?」
「分かってないならいいよ」
「何なんですか、もう」
いつもの調子で言い返しながらも、サシャの視線はすぐに森の奥へ戻った。
◆
その頃、森の中では戦況がディエゴの予想した通りに動いていた。
エレンの身体へ潜ませた小型恐竜から届く感覚は鮮明ではない。映像をそのまま見ることはできず、巨体が動く振動や身体の向き、強い衝撃が加わった瞬間を断片的に拾える程度だったが、何が起きているのかを判断するには十分だった。
エレンはすでに巨人化し、女型巨人と戦っている。そして今、極めて強い衝撃が頭部へ加わった直後、その身体が大きく傾いた。
おそらく女型の蹴りを受けた。
反応も急激に鈍くなっている。
ディエゴはシルバー・バレットを走らせながら目を細めた。
「負けそうなら……それはそれで、この状況を利用すべきだ」
エレンが勝つなら、それでいい。しかし負けるのなら、今こそ仕込んでおいた力を試すべき時だった。
ディエゴは片手を上げ、指先へ力を込めた。
「スケアリー・モンスターズは、今! 発動させるッ!!」
指を鳴らした瞬間、遠く離れた森の中で、エレンの身体へ仕込まれていた力が目を覚ました。
◆
アニは、女型巨人の身体を通して倒れたエレンを見下ろしていた。
蹴りは確実に入った。
巨人化したエレンの頭部は大きく損傷し、そのままではまともに戦えない。
長居するつもりはなかった。
幸い、ここにはあの奇妙な男もいない。
ディエゴ・ブランドー。
訓練兵時代から、何を考えているのか分からない男だった。こちらが隠している何かを最初から知っているような目で見てくるうえ、人間離れした反応速度と身体能力を持ち、アニ自身も一度として底を見たことがない。
今、この場所にディエゴはいない。
リヴァイも遠い。
ミカサが高速でこちらへ向かってきているが、まだ間に合わない。
今ならエレンを奪える。
アニは倒れた巨人のうなじへ顔を近づけ、その中にいるエレン本人を噛み出そうと口を開いた。
その瞬間、何かがおかしいことに気づいた。
倒れているはずのエレン巨人の身体が動いている。
ただし、それは普通に身じろぎしているのではない。全身の筋肉が皮膚の下から波打つように蠢き、破壊された頭部の断面からは大量の蒸気が噴き上がっている。
その奥で肉が異常な速度で再生し始めた。
アニは一瞬、その光景を理解できなかった。
これまで見てきた巨人の再生とは明らかに違う。
元の形へ戻っているのではなく、身体そのものが別の生物へ作り替えられている。
潰れた頭部が再生する過程で顎が前方へ大きく伸び、口の中には人間の歯とは到底呼べないものが生えていく。一本一本が鋭く長く、獲物を噛み砕くためだけに存在する猛獣の牙だった。
両腕にも異変が起きていた。
巨人らしい巨大な拳が細く変形し、代わりに指先から恐ろしく長い爪が伸びていく。全身を覆っていたむき出しの筋組織には硬質な鱗が次々と形成され、肩から背中、胸、脚へと広がっていった。
それだけでは終わらない。
腰の後ろが盛り上がり、肉と骨が伸びながら巨大な尾へ変わっていく。
アニの中で、本能的な警鐘が鳴った。
このまま変化させてはいけない。
何が起きているのかを考えるより早く、女型巨人の拳を振り下ろした。完全に変化しきる前に潰すという判断自体は間違っていなかった。
だが、拳が地面を抉った時、そこにはもうエレンの姿がなかった。
「――ッ!?」
十五メートル級の巨体が、目の前から一瞬で消えた。
次の瞬間、耳をつんざく咆哮が響く。
「GYAAAAAAAAAAAAッ!!!!!」
同時に、女型巨人の身体へ横から凄まじい衝撃が叩き込まれた。
視界が回転し、足が地面から離れる。アニの巨体はそのまま横へ吹き飛ばされ、一本、二本と巨大樹をへし折りながら森の中を転がった。
すぐに身体を起こして構える。
だが、正面にはいない。
アニは視線を左右へ走らせた。
どこに行った。
そう思った瞬間、答えはすぐそばにあった。
巨大な牙と、荒い呼吸を吐き出す鼻先が、顔のすぐ横にある。
アニは反射的に蹴りを放った。訓練兵時代から磨き続けてきた、無駄のない回し蹴り。巨人の筋力で放てば、まともに受けた相手の頭部を吹き飛ばす威力がある。
しかし、脚が通過した時には、その空間にはすでに何も存在していなかった。
視線を動かしたアニは、遠くの巨大樹に張り付く影を見つけた。
両脚だけで幹へ身体を固定し、まるで重力など存在しないかのような姿勢でこちらを見下ろしている。
エレン巨人だったもの。
今や、それを巨人と呼んでいいのかさえ分からなかった。
恐竜か、悪魔か、それともその両方を混ぜたような怪物が木の幹へ張り付き、大きく口を開いた。
再び咆哮が森を震わせた。
◆
森の中を駆けながら、ディエゴは小型恐竜から流れ込んでくる感覚を拾い、思わず笑った。
「とんでもないな」
元々エレンの巨人は十五メートル級の巨体を持つ。その身体へスケアリー・モンスターズによる恐竜の性質が加われば、ディエゴ自身が完全変身した時とはまるで別物になる。
巨体に似合わない敏捷性に加え、爪、牙、鱗、尾まで備わっている。それらが人型巨人の筋力と再生能力へ組み合わさっているのだから、想定以上に厄介な生物が完成したのも当然だった。
「だがオレが行くまで殺すんじゃあないぞ。アニ・レオンハートは生きている方がふさわしい。死なない程度が……なあ、エレン」
その指示はスケアリー・モンスターズを通して怪物となったエレンへ流れ込み、結果として恐竜化したエレンは命令を忠実に守った。
◆
女型巨人の拳が空気を押し潰すように振り抜かれる。
恐竜化したエレンは、それを紙一重ですり抜けた。
続く蹴りも当たらない。
アニ自身、格闘技術には絶対の自信がある。人間の身体であれば、ミカサほどの身体能力を持つ相手でも容易には崩れない。巨人化した今なら、一撃の威力はさらに増している。
それなのに当たらない。
エレンだったはずの怪物は、人型巨人の巨体を持ったまま獣のように地面を這い、木へ飛びつき、時には四肢すべてを使って女型の死角へ潜り込んでくる。拳を振ればその下を抜け、蹴れば跳び、距離を取ろうとすれば一瞬で間合いを詰めてくる。
アニは攻撃を当てることを諦め、防御へ切り替えた。
腕を硬質化させると、白く硬い結晶が皮膚を覆ってエレンの爪を迎え撃つ。
次の瞬間、甲高い破砕音が森に響いた。
硬質化した腕に亀裂が走る。
アニの目が見開かれる。
爪が硬質化を削っていた。
さらに怪物が口を開くと、巨大な顎が腕へ食らいつき、硬質化した部分ごと噛み砕いた。
アニは強引に腕を引き抜き、反対の拳を振り下ろす。それすら避けられ、直後には背中へ凄まじい衝撃が走った。
長大な尾が鞭のように振るわれ、女型巨人の身体が再び地面へ叩きつけられる。
何なの、これは。
アニの中に、初めて明確な恐怖が生まれた。
勝てない。
その事実を認める暇さえなく、怪物が再び迫ってくる。
爪が太腿を裂き、牙が肩へ食い込む。逃れようと蹴りを放っても、その頃にはもう別の位置へ移動していた。
それでも、致命傷だけは避けられている。
いや、違う。
避けられているのではない。
殺されていないのだ。
相手が意図的に急所を外している。
それに気づいた瞬間、アニの背筋に、それまでとは違う寒気が走った。
もし誰かが操っているのなら、思い当たる人間は一人しかいない。
ディエゴ・ブランドー。
そう考えた途端、アニの脳裏にベルトルトの顔が浮かんだ。
あの時、超大型巨人の身体に起きた異常。
本人にも制御できなかった変化。
そして今、エレンにも同じような異常が起きている。
アニの中で、点と点が繋がり始めた。
その瞬間にも、恐竜化したエレンの爪が脇腹を抉り、女型巨人は再び地面へ倒れた。
アニは一瞬だけ空を見上げる。
自分は天罰でも受けているのだろうか。
そう考える程度には追い詰められていた。
地獄に落ちるようなことなら、確かにいくつもしてきた。殺した兵士も、踏み潰した人間もいる。
そして最後にマルコの顔が脳裏へ浮かび、アニは無理やりその思考を切った。
今は生き残るしかない。
◆
巨大樹の森の各所で、その戦いを見ていた調査兵たちは動けずにいた。
トロスト区で超大型巨人が異形の怪物へ変化したという報告自体は、上層部にも届いている。
しかし、あの時の異変は極めて短時間で、現場で直接見た兵士も少なかった。混乱の中で集められた証言だったこともあり、報告を読んだ者の中には多少誇張されているのではないかと考える者さえいた。
だが、今は違う。
目の前で、エレンだった巨人がさらに別の生物へ変貌し、女型巨人を一方的に追い詰めている。
ハンジは木の上から身を乗り出し、興奮と困惑が入り混じった目で怪物を見ていた。
「何あれ……! あんな変化、前の実験では一度も……!」
隣でエルヴィンが静かに言う。
「認識を改める必要がある」
「どういうこと?」
ハンジが振り向く。
エルヴィンは恐竜化したエレンから目を離さなかった。
「敵は、巨人だけではない」
その言葉を聞いた周囲の兵士たちの表情が変わった。
エレンが自発的に変化したのか、それとも誰かの能力によって変えられたのか。何も分からないものが、これまで理解していた巨人の常識をさらに壊している。
リヴァイだけは比較的冷静な顔をしていた。
「で、どうするんだ?」
エルヴィンがそちらを見る。
「あのままなら女型は殺される。だが、あの化け物になったエレンへ近づけば何が起きるか分からねえ。それを差し置いてでも助けに行くか、あるいはエレンを止める理由はあると思うが……」
リヴァイは恐竜化したエレンを見ながら、僅かに目を細めた。
「どこを切りゃあいいんだ?」
人型巨人なら弱点はうなじだが、今目の前にいるものが従来の巨人と同じ構造を持っている保証はない。動きも速く、硬質化を破壊する爪と牙まで備えている以上、近づいてから弱点を探す余裕があるかも分からなかった。
エルヴィンはしばらく恐竜を見つめた後、静かに答えた。
「弱点が分からない。正体も分からない。現時点で有効だと判断できる作戦もない。この状態で突撃すれば、これまで積み上げたものをすべて失う可能性が高い。それはトマトジュースを飲んだ後、口の周りが赤くなるより確実だ」
リヴァイがゆっくりとエルヴィンを見る。
「えらく可愛い例えじゃねえか」
「分かりやすいだろう」
「お前が言うと余計気味悪いな」
ハンジが吹き出しかけたものの、戦況は笑って済ませられる状態ではない。
リヴァイは再び女型と恐竜を見た。
「なら撤退だな」
その言葉を言い終える直前、森の反対側から新たな蹄の音が響いた。
巨大樹の根の間を縫って、銀色の影が猛烈な速度で接近してくる。
リヴァイだけでなく、エルヴィンまで目を見開いた。
「まさか……」
近くの兵士の一人が、その姿を認めて叫んだ。
「ディエゴだッ!!」
シルバー・バレットが巨大樹の森を駆けている。
その背にはディエゴがいた。
単騎で、しかも速度を落とさない。
戦っていたアニも、その存在に気づいた。
最悪の相手。
そう認識した瞬間、女型巨人は恐竜化したエレンから一度距離を取り、森へ突っ込んでくるディエゴへ向けて蹴りを放った。
ディエゴは直前まで避ける素振りすら見せない。
女型の踵が迫った瞬間、鞍を蹴った。
ディエゴの身体だけが高く跳び上がり、同時にシルバー・バレットも横へ大きく跳ねる。巨人の脚が二人の間を通過し、完全な空振りに終わった。
その隙を、恐竜化したエレンは見逃さない。
地面へ低く沈み込んだ巨体が爆発的に加速し、巨大な顎が女型巨人の軸足へ食らいついた。硬質化する暇もなく牙が肉へ深く入り、そのまま首が激しく振られる。
女型巨人の脚が膝下から引き千切られた。
片足を失ったアニの身体が大きく傾き、そのまま地面へ倒れ込む。
真下には、落下していくディエゴがいた。
「ディエゴ!」
誰かが叫んだ直後、女型巨人の巨体が地面へ激突した。
大量の土煙と蒸気が噴き上がり、砕けた枝葉が周囲へ飛び散る。ディエゴの姿は完全に巨体の下へ消え、外からは何も見えなくなった。
リヴァイは反射的に立体機動装置へ手を掛けた。
「待て!!!」
それをエルヴィンの大声が止める。
「何だ!」
「まだ動くな!」
リヴァイが苛立ったように振り向いたが、エルヴィンは倒れた女型巨人を凝視していた。
何かがおかしい。
倒れ方が不自然だった。
まるで恐竜化したエレンが、女型をディエゴのいる位置へ正確に倒したように見える。
もちろん、それは偶然でも悪運でもなかった。
ディエゴがスケアリー・モンスターズを介し、エレンへそう指示していたのである。
◆
女型巨人の巨体が地面を覆った瞬間、ディエゴはその下へ潜り込んでいた。
普通に押し潰されれば、人間の身体などひとたまりもない。
しかし、ディエゴにとっては最初から計算の内だった。
接地する寸前にスケアリー・モンスターズを全身へ巡らせ、身体を完全な恐竜のものへ変える。
皮膚が硬質な鱗に覆われ、筋肉が膨張し、指先から鋭い爪が伸びる。顎には牙が生え、瞳孔が細く変化していく。
完全恐竜化したディエゴは落下してくる女型の肉体へ爪を突き立てると、押し潰されるより早く、自分が潜り込めるだけの肉を一気に切り取った。
女型巨人の後頭部の肉を抉り、身体一つ分だけの空洞を作る。
そこへ滑り込む。
女型の巨体が完全に地面へ落ちた時、ディエゴはその身体の下ではなく、切り取った肉の隙間へ身を潜める形で圧死を免れていた。
大量の蒸気と血が視界を覆う。
外から見れば、ディエゴは女型巨人の下敷きになり、その姿を完全に消したようにしか見えない。
狙い通りだった。
これなら誰にも見られない。
ディエゴは女型の肉体の下へ隠れたまま、そこから後頭部へ向けて進み始めた。
狙いはうなじ。
ただし、正面からうなじそのものを破壊するつもりはない。
アニも馬鹿ではなかった。
倒されると同時に両手を後頭部へ回し、硬質化させた腕でうなじを覆っている。通常なら、この防御を突破しなければ中の人間へ届かない。
しかし、ディエゴが狙っているのは、その一メートル上だった。
アニの手が届いていない後頭部。
守る必要がないと思っている場所から肉体内部へ入り、うなじのアニへ向かって掘り進めばいい。
大量の蒸気と女型巨人の肉体そのものが、外部からディエゴの姿を完全に隠している。
誰にも見られていない。
今なら遠慮する必要はない。
ディエゴの口元が大きく歪んだ。
すでに完全恐竜化しているこの身体なら、立体機動装置の刃を使うよりも、自分自身の爪を振るった方が遥かに速く、深く切り込める。
「無駄無駄無駄無駄無駄無駄ーーーッ!!!」
ディエゴの右手が女型巨人の後頭部へ突き刺さった。
五本の爪が肉を裂き、そのまま腕を振るう。
最初の一撃で皮膚と筋肉を切り裂き、返す腕でさらに深く抉り取る。以降も止まることなく動き続ける爪は、速すぎるせいで一本の腕が何本にも増えたように見えるほどだった。
女型巨人の肉が猛烈な勢いで削り取られ、傷口から噴き出す蒸気がディエゴの全身を包む。
再生するより早く抉る。
骨へ到達すると、今度は頚椎に沿うように爪を滑り込ませ、その周囲の肉をさらに削りながら下へ進む。
アニの本体が存在するうなじ付近まで、あと一メートルほどしかない。
そこまで到達するのに、数秒とかからなかった。
その瞬間、奥から人間の声が聞こえた。
「……あんたが、ベルトルトをああした犯人だね」
息を切らしながらも、その声には確信があった。
ディエゴは一瞬だけ目を細めると、まるで何の心当たりもないような調子で答えた。
「まさか、だろ?」
声には余裕しかなかった。
アニには、それだけで十分な答えになっていた。
やはりこいつだ。
ベルトルトの超大型巨人をおかしくしたのも、エレンをこの怪物へ変えたのも、おそらくすべてディエゴ・ブランドーの仕業だった。
女型巨人の内部でアニが僅かに身体を動かすと、その瞬間、ディエゴの爪がさらに奥へ入った。
「だが捉えたぜ……射程距離一メートル。この距離なら、お前はオレを攻撃できないし、何をやってもオレの方が早い」
「……試してみても?」
アニの声に、ディエゴは鼻で笑った。
「無駄だ。だが……助かりたくないなら好きにしろ」
アニは一瞬、言葉の意味を理解できなかった。
助かりたくない。
その部分だけが妙に引っかかる。
そして、ようやく気づいた。
「……助かる?」
「察しがよくて助かるぞ、アニ。お前を再起不能にするのは、オレの心も痛むところだ」
ディエゴの声は穏やかだったが、そんなことを一欠片も思っていないのはアニにも分かった。むしろ、この状況そのものを楽しんでいるようにしか聞こえない。
その間にも、女型巨人の外では恐竜化したエレンが容赦なく動き続けていた。片腕を噛み千切り、もう片方の腕を爪で裂き、再生しかけた脚へ再び食らいつく。
女型巨人の再生能力は高い。
だが、再生する端から破壊されれば意味がない。
抵抗に使える四肢を次々と失い、アニは巨人の中で完全に動きを封じられつつあった。
「そして時間切れだ。自由はない、という意味だが」
ディエゴの声がさらに近づいた。
次の瞬間、恐竜化した手が肉の隙間を抜け、女型巨人と完全には癒着していないアニ本人の腕へ到達する。
爪が突き刺さった。
「うわああっ!!」
激痛に、アニの叫び声が上がった。
ディエゴはその声を聞きながらも、まるで午後にゆっくり紅茶でも飲みながら話しているかのような調子を崩さない。
「落ち着け、落ち着けよアニ……これでオレとお前は友達になったんだ……」
爪を通して、スケアリー・モンスターズの力が流れ込む。
目的は達成した。
ディエゴはすぐに腕を引き抜くと、自分が掘り進めてきた肉の隙間を逆方向へ駆け上がった。女型巨人の肉体内部から後頭部付近へ戻り、そのまま外へ飛び出す。
ほぼ同時に、外では恐竜化したエレンが女型巨人の身体へ最後の一撃を叩き込んだ。
巨体が大きく跳ねる。
外へ飛び出したディエゴの身体も、その衝撃に巻き込まれたように宙へ弾き飛ばされた。
周囲から見れば、女型巨人の下敷きになったディエゴが、どうにか肉を切り取ってその下へ身を隠し、女型の巨体が吹き飛ばされた瞬間に外へ脱出したようにしか見えない。
それこそが、ディエゴが最初から用意していた説明でもあった。
エルヴィンが即座に叫ぶ。
「今だ! ディエゴだけでも救出するぞ!」
号令と同時に、リヴァイを先頭として複数の兵士が立体機動装置を射出した。
恐竜化したエレンがそちらへ顔を向ける。
巨大な口を開き、一瞬だけ兵士を食おうとするような動きを見せた。
その直後、全身から急激に力が抜ける。
巨体が大きく揺れ、そのまま突然限界を迎えたかのように倒れ込んだ。
実際には偶然でも限界でもなく、ディエゴがスケアリー・モンスターズの命令を解除しただけだった。
◆
ディエゴは巨大樹の枝へ身体を引っ掛け、そのまま木の上へ避難した。
ほどなくして、リヴァイが凄まじい速度で近づいてくる。
「無事か?」
「ええ、無事です。ちょいと火傷はしちまいましたが」
答えを聞いたリヴァイは、ディエゴの全身を一度見た。
血まみれだった。
女型巨人の肉と血に加え、肉体内部へ潜り込んで大量の蒸気へ晒され続けたせいで、腕の一部には火傷のような痕まで残っている。
ただし、見た目ほど本人の傷は深くなかった。
「いろいろ気にはなるが……まずはずらかるぞ」
「もちろん」
ディエゴは枝へ手をつき、問題なく立ち上がった。
リヴァイはその姿を確認すると、女型巨人の方へ一度視線を向けた。
「一つだけ聞く。女型の下に消えてから、何してやがった?」
予想していた質問だった。
ディエゴは血の付いた腕を軽く持ち上げながら、何でもないことのように答える。
「押し潰される前に、女型の肉を刃で切り取ったんですよ。身体が入るだけの空間を作って、その肉体の下に隠れてました」
リヴァイの眉が僅かに動く。
「肉の下に?」
「十五メートル級にまともに潰されたら、いくらオレでも無事では済まないでしょう。接地する直前に腹側の肉を削って、身体を滑り込ませた。蒸気で火傷はしましたが、圧死するよりはマシでしょう?」
話そのものには無理がなかった。
ディエゴの立体機動技術と身体能力なら、女型が地面へ落ちる一瞬の間に肉を削り取ることも不可能とは言い切れない。
何より実際にディエゴの身体は大量の巨人の血と蒸気に晒されており、腕には軽い火傷まで残っている。それらの痕跡が、説明に妙な説得力を与えていた。
リヴァイは何秒かディエゴを見た後、鼻を鳴らした。
「相変わらず無茶苦茶しやがる」
「生き残るためです。それに、目の前にわけのわからない化け物もいた。
無理に戦わずに情報を得た方がいい」
「で、得られたのか?」
「はい、最高のものが」
「なんだ、それは」
即答されたが、ディエゴはもったいぶったように言った。
それから、いかにも今初めて気にしたというような顔で尋ねる。
「そいつは後で話します。エレンはどうしたんです?」
リヴァイは一瞬だけ間を置いた。
「今、救助されている。おそらく死んではいない」
「そうですか……」
ディエゴの声から僅かに力が抜け、ほっとしたように聞こえた。
もちろん、それは演技だった。
エレンが生きているかどうかなど、スケアリー・モンスターズを通して分かっている。恐竜化を解除し、そのまま気絶させたのもディエゴ自身である。
今はただ、周囲から見て不自然ではない反応を返しただけだった。
リヴァイはそんなディエゴを少しだけ睨む。
「だが、お前の行動についても……あとでたっぷり聞かせてもらうぞ」
「もちろんです」
「今の話も含めてだ」
「二度言うことは無駄だと思いますが…肉を切り取って、巨人の身体の下に隠れていただけです」
「『だけ』で済ませる内容じゃねえんだよ」
リヴァイは呆れたように吐き捨て、そのまま離脱方向へ身体を向けた。
ディエゴも何食わぬ顔で後に続く。
誰にも見えない角度で、口元を片手で覆った。
笑いが漏れそうになった。
巨人ッ!
笑わずにはいられないッ!
エレン、ベルトルト、そしてアニ
これで三体。
もちろん、力を植え付けたからといって、三人をいつでも完全に操れると決まったわけではない。それでも、自分の能力を介入させるための種はすべての身体へ入った。
必要な時に使える可能性がある。
情報を引き出す道具にもなる。
そして、この世界の秘密へ近づくための札が、また一枚増えた。
かつて大陸横断レースで、他人を蹴落としながら頂点を目指した時と本質は変わらない。
ただし、今度の舞台は馬のレースではなく、壁の中ですらない。
この世界そのものだ。
ディエゴ・ブランドーの野望は、誰にも気づかれないまま確実に前へ進んでいた。