ウォール・ローゼ内部に巨人が出現したという報告だけでも異常だったが、その日のうちに、壁そのものについてさらに理解しがたい事実が判明した。
壁内へ侵入していた巨人の一体をミカサが仕留めた際、倒れ込んだ巨体が壁面へ激突したのである。表面を覆っていた石材の一部が剥離し、その奥から姿を見せたものを目にした瞬間、その場にいた兵士たちは言葉を失った。
壁の内部から覗いていたのは、巨大な眼球だった。見えているのは顔の一部だけだが、通常の巨人とは比較にならないほど大きく、まるで壁そのものを構成する材料のように超大型の巨人が埋め込まれている。
その光景を目にしたハンジの反応は早かった。
壁の秘密を知っている可能性が最も高いウォール教のニック司祭を捕まえると、そのまま壁の上まで連れていき、眼下に広がる光景を見せながら問い詰めた。
「説明してもらおうか。どうして壁の中に巨人がいる? あれは何体いる? 誰が入れた? それから、どうしてあんたたちは今まで黙ってた?」
普段ならどこか浮ついた明るさを残しているハンジの声に、今はほとんど温度がなかった。
ニック司祭は明らかに怯えていた。壁の端へ追い詰められ、少し押されただけでも落下しかねない状況でありながら、それでも口を割ろうとはしない。
「私は……話せない」
「何万人死んでも?」
「……話すことはできない」
ハンジの目が鋭くなる。
恐怖していることは見れば分かる。それでもなお黙っている以上、単純に脅せば吐くような秘密ではないらしい。
結局、力ずくで聞き出すことはできなかった。
だからこそ、ハンジたちは別の方法を取った。
壁内で今まさに何が起きているのかを、ニック本人へ見せたのである。
家を捨てて逃げる住民、家族とはぐれた子供、巨人の出現に怯えながら避難する人々。自分たちが秘密を守り続けている間にも、名も知らない人間たちが生活を失っていく光景を、ニックは黙って見続けた。
やがて、その顔から頑なさとは別のものが少しずつ崩れていった。
「……私は話せない」
それでも最初に出た言葉は同じだった。
ハンジが何も言わず見つめると、ニックは苦しそうに続けた。
「だが、話すことを許されている者はいる」
「誰?」
しばらく躊躇った後、ニックは一人の少女の名前を口にした。
「第104期訓練兵団の…クリスタ・レンズだ」
その名前が壁そのものを巡る秘密へつながっていることを、この時点で理解している者はほとんどいなかった。
◆
その夜、ウトガルド城跡周辺の巡回へ向かう途中でも、ハンジの頭は昼間に得た情報で埋め尽くされていた。
アニ・レオンハートは現在、行方不明になっている。
兵団は当然のように彼女を探していた。調査兵団だけではなく、駐屯兵団や憲兵団にも情報は回され、立場の異なる複数の組織が捜索に当たっている。
それにもかかわらず、アニ本人は影も形も見つからなかった。
「やっぱり面白いなぁ……」
馬を進めながら、ハンジが突然そう言った。
アルミンが顔を向ける。
「何がですか?」
「女型の硬質化」
ハンジは興奮を抑えきれないように答えた。
「アニ本人がどこにもいないのに、残された硬質化部分は消えてない。本人が離れたからって解除されるものじゃないんだよ。つまり、一度作ればある程度は独立して残る可能性がある」
アルミンはその言葉を聞きながら、別のことも考えていた。
アニが逃げたのなら、それ自体は理解できる。正体が露見しそうになり、調査兵団から追われる前に姿を消した。それなら何も不自然ではない。
しかし、ここまで徹底して見つからないのは妙だった。
憲兵団だけなら捜索に穴があっても不思議ではないが、調査兵団まで動いている。都市内部から周辺地域まで探して、それでも痕跡一つ出ない。
まるで最初から、人間として移動していないような消え方だった。
嫌な考えが頭を掠めたものの、今はまだ確証がない。
アルミンは一度その疑問を押し込み、代わりにハンジの言葉から浮かんだ可能性へ意識を向けた。
「ハンジ分隊長」
「ん?」
「もしエレンにも、女型と同じような硬質化ができたらどうでしょう?」
ハンジが振り返る。
「というと?」
「壁に穴が開いているなら、巨人化したエレン自身に硬質化してもらって、その穴を塞ぐんです。一度作った硬質化が残り続けるなら、巨大な岩を運ぶよりもずっと現実的だと思います」
ハンジの表情が見る見る明るくなった。
「アルミン、それいい!」
「悪くはねえ」
少し前を進んでいたリヴァイが会話へ入った。
「ただ、お前も分かってるだろ」
アルミンの表情が曇る。
「あいつがこの前、訳の分からねえ化け物になった原因がまだ何一つ分かってねえ」
「……はい」
「巨人化させて壁を塞がせようとしたら、またあのトカゲみてえな姿になる可能性もある。今度も都合よく敵だけを殴ってくれる保証はねえ」
「エレンは誰も殺していません」
ミカサがすぐに反論した。
リヴァイはそちらを見る。
「結果としてはな」
「結果ではなく事実です」
「分かってる。だから地下牢で済んでる」
ミカサは納得していない様子だったが、それ以上は言わなかった。
アルミンもエレンを信じている。ただし、リヴァイの懸念自体を否定することはできない。
「僕も、エレンが自分の意思であの姿になったとは思ってません。でも原因が外部にあるなら、むしろもう一度同じことが起こる可能性があります」
「そういうことだ」
リヴァイはそこで何か思い出したように周囲へ視線を向けた。
「そういや……あいつならどう考えるか聞いてみてえな」
「ディエゴですか?」
アルミンが尋ねた直後、遠くから蹄の音が近づいてきた。
全員が振り返る。
暗い道の向こうから、白い馬が猛烈な速度で接近していた。
「噂をすれば、だな」
リヴァイが呟く。
シルバー・バレットが速度を落とし、一行の横へ並ぶ。その背には、疲れている様子すらほとんど見せないディエゴが座っていた。
「随分楽しそうな話をしてますね」
「ディエゴ?」
アルミンが驚く。
「反対側に行ってたんじゃなかったの?」
「北ならほぼ片付いた。道中にも何体かいたが、十体を越えた辺りから数えるのをやめた。まあ、これで少なくとも後ろから襲われる心配はしなくていいだろう」
ハンジが目を丸くする。
「十体以上?」
「細かい数が必要なら、後で死体を数えてください」
「相変わらずだねぇ」
リヴァイだけは大して驚いた様子もなく、いつもの調子で言った。
「でかした」
「どうも」
ミカサがディエゴの後ろを見る。
「サシャは?」
「旧本部へ戻った。故郷の確認も終わったし、あいつまで無理に連れ回す必要はないだろ」
ミカサは僅かに頷いた。
リヴァイはディエゴの身体とシルバー・バレットを一度確認する。
「お前も戻って休め」
「必要ありません。オレもこいつも、まだ十分動ける」
ディエゴはシルバー・バレットの首筋を軽く撫でた。
「どうせなら、まだ帰ってこない南側の班に合流するつもりです」
「好きにしろ。ただし、勝手に突っ込んで俺にケツを拭かせるんじゃねえぞ」
「ありがとうございます」
殊勝な返事をしたものの、ディエゴの目的は兵団への献身などではなかった。
南側にはライナーがいる。
昨夜、アニから話を聞いたことで、ライナーが鎧の巨人であることはすでに分かっていた。
今すぐ必要なのは、マーレをどうするかでも、壁内の権力をどう奪うかでもない。
まずは自分の手が届く範囲にある力を、一つずつ確保する。
エレン、ベルトルト、アニには、すでにスケアリー・モンスターズを仕込んである。
次はライナー。
鎧の巨人まで同じ状態へ置けば、少なくともアニが語った潜入戦士の中で、自分の影響が及ばない者はほとんどいなくなる。
それが今のディエゴにとって、最も分かりやすい一歩だった。
――まずはお前だ、ライナー。
ディエゴがそんなことを考えていた時、遠くから巨大な破砕音が響いた。
全員の顔が一斉にそちらへ向く。
方角はウトガルド城跡で、ただの倒木や崩落とは思えないほど大きな音だった。
「巨人か」
ディエゴの目が細くなる。
もしライナーたちがあそこにいるなら、目的を果たす機会になるかもしれない。仮にいなかったとしても、夜間に巨人が群れて暴れている以上、何かが起きていることだけは間違いない。
そして何より、ディエゴには妙な勘があった。
前世では、スタンド使いが不自然なほど互いの周囲へ集まった。
こちらの世界でも、重要な巨人が次々と同じ場所へ寄ってくる。
エレン、アニ、ライナー、ベルトルト。
単なる偶然と片づけるには、少し出来すぎている。
「……巨人と巨人は惹かれ合う、か」
ディエゴが呟く。
「何?」
アルミンが聞き返したが、ディエゴはすでに手綱を握り直していた。
「ミカサ」
「何?」
「ガスが十分残ってるなら、ついてこい」
ミカサは一度リヴァイを見る。
リヴァイは面倒そうに手を振った。
「行け。俺も後から向かう」
「了解」
ミカサが立体機動装置を作動させたのとほぼ同時に、シルバー・バレットも駆け出した。
二人の姿が闇の中へ消えていく。
ハンジはそれを見送りながら、リヴァイへ横目を向けた。
「いいの?」
「何がだ」
「二人だけで先に行かせて」
「問題ねえ」
「随分信用してるんだね」
リヴァイは鼻を鳴らした。
「強さだけな」
そう言いながらも、彼の声にはほとんど心配が含まれていなかった。
今は他にも考えなければならないことが多すぎる。
壁の穴をエレンの硬質化で塞げる可能性、エレンの処遇、突然起きた恐竜化、女型の失踪、壁そのものに埋め込まれている巨人、そしてニック司祭が名前を出したクリスタ・レンズ。
調べるべきことは山ほどある。
少なくとも、ミカサとディエゴの二人についてだけは、今この場で心配する必要がないとリヴァイは判断していた。
◆
シルバー・バレットを走らせるディエゴは、ウトガルド城跡へ近づくにつれて、空気の中に混ざる匂いを細かく拾っていた。
普通の巨人が複数いる。
人間の血の匂いもする。
そして、その中に一つだけ妙なものが混じっていた。
「……これは」
ディエゴの目が細くなる。
知っている匂いだった。
ユミル。
しかし、いつもの人間の匂いだけではない。その上に、明確な巨人の匂いが重なっている。
アニから聞いた九つの巨人。
壁内へ潜伏している人間。
そして今、ユミル本人の匂いと巨人の匂いが同じ場所から漂っている。
そこまで揃えば、答えはほとんど一つだった。
「ユミル……お前もか!」
ディエゴの口元が徐々に上がっていく。
ライナーを探しに来たはずが、予想していなかった知性巨人まで現れた。
それは計画していた成果ではない。
だからこそ価値があった。
自分がまだ知らない札が、この島には残っている。
「ククク……間違いないッ! 運はこのDioに味方しているッ!」
シルバー・バレットの腹を蹴ると、白馬がさらに速度を上げた。
少し後方では、立体機動装置を使うミカサが無言で追従している。
ウトガルド城が見えた。
その周囲では複数の巨人が群がり、崩れかけた建物へ手を伸ばしている。
中央では、小型ながら異常な俊敏性を持つ巨人が必死に戦っていた。
ユミルだった。
巨人の身体にはすでにいくつもの傷があり、再生が追いついていない。複数の巨人から同時に襲われ、そのうち一体の口が肩へ食らいつこうとしている。
周辺にはライナー、ベルトルト、コニー、クリスタたちもいた。
ライナーを見つけた瞬間、ディエゴの目が一度だけそちらへ向いた。
目標はいる。
しかし、今ここで手を出す必要はない。
まずは状況そのものを片づけなければ、何をするにも邪魔が多すぎる。
「先に掃除だ」
ミカサも状況を把握していた。
「何体?」
「見えてるのは七。奥に二体いる」
「九体」
「そうだ。殺しに行くぞ」
「了解」
二人が同時に動いた。
◆
最初に姿を見せたのはミカサだった。
立体機動装置のアンカーが巨大樹へ突き刺さり、その身体が一気に加速する。ユミルへ噛みつこうとしていた巨人の背後へ回り込み、刃を振り抜いた。
うなじが深く切り裂かれ、巨人が倒れ始めた時には、ミカサはすでに次の個体へ向かっていた。
その横を銀色の影が駆け抜ける。
「ディエゴ!?」
コニーが叫んだ。
シルバー・バレットは巨人の正面へ突っ込んでいた。
普通の馬なら、その時点で恐怖から制御不能になる。
だがシルバー・バレットは違う。
ディエゴが僅かに手綱を引いただけで進路を変え、巨人の指先を紙一重で避ける。
すれ違いざまにディエゴの刃が巨人の足首を切り、身体が傾いた瞬間には鞍の上から跳んでいた。
倒れ込む巨人の肩を足場にして駆け上がり、その勢いを一切殺さないまま刃を振るう。
「すっとろいぞッ!」
うなじが切り裂かれる。
巨人が地面へ倒れるより先に、ディエゴはその身体を蹴って次の個体へ飛び移っていた。
「何だよ、あれ……」
コニーが呆然とする。
一体を倒したと思えば、次の瞬間には別の巨人の背後へ回っている。
単純に速いだけではない。
シルバー・バレットの速度、立体機動装置、巨人自身の身体まで足場として利用し、常に最短距離でうなじへ到達している。
荒々しく巨人を切り刻むのではなく、最初から決められた軌道をなぞっているように動くため、その戦い方には奇妙なほど華があった。
「すごい……」
クリスタも思わず声を漏らした。
以前からディエゴが強いことは知っている。訓練時代では首席で、ミカサにもアニにも負けず、巨人相手にも圧倒的な戦果を挙げていた。
しかし、命を賭けた戦場で彼が戦うところをこれほど間近で見るのは初めてだった。
ふと、サシャの顔が浮かんだ。
最近、ディエゴの話をする時だけ妙に様子がおかしくなる同期の少女である。
――サシャがあんな感じになるのも、ちょっと分かるかも。
そう思ってしまい、クリスタは自分でも場違いなことを考えたと慌てて首を振った。
一方で、コニーとは違い、ライナーとベルトルトは喜んでいる場合ではなかった。
ディエゴが巨人を倒すたび、二人の表情が硬くなっていく。
訓練兵時代から異常に強かったことは知っている。
それでも、今目の前で行われている戦いは、訓練で見せていたものとは明らかに違う。
対人訓練では相手を殺さない。
今は一切の躊躇なく、最も効率のいい軌道で相手の生命を奪っている。
もし自分たちの正体が露見し、この男と本気で戦うことになったらどうなるのか。
鎧なら耐えられる。
超大型なら圧倒的な質量と熱を持つ。
理屈ではそう考えられる。
それでも、二人の背中には冷たい汗が流れていた。
「ベルトルト」
「……うん」
ライナーが小さく声を掛けただけで、ベルトルトには言いたいことが理解できた。
できれば敵に回したくない。
だが二人がそんなことを考えている間にも、戦況は一方的に傾いていった。
ミカサが二体を仕留め、ディエゴがさらに三体を連続で倒す。残った巨人も、わずかな時間で次々にうなじを削がれていった。
最後の一体が倒れた時、ウトガルド城の周囲には巨人の身体から立ち上る蒸気だけが残った。
◆
「ユミル!」
クリスタが真っ先に駆け出した。
巨人化を解いたユミルは、崩れた瓦礫の間に横たわっていた。身体中に傷があり、特に背中側は深く裂けている。
クリスタが近づくより先に、ディエゴがその身体を抱き上げた。
「おい」
ユミルが薄く目を開ける。
「何だ、王子様気取りか?」
「その減らず口が出るなら、思ったより元気そうだな」
「うるせえよ……」
ユミルは痛みに顔をしかめながらも、口元だけは笑っていた。
「こんなところ、芋女が見たら固まるんじゃねえか?」
「何でサシャが出てくる」
「自覚ねえのが一番面倒なんだよ、お前」
「フン…お元気そうで何よりって感じだ」
クリスタが心配そうに覗き込む。
「ユミル、大丈夫?」
「ああ……たぶんな。それより、こいつに抱えられてる方が精神的にキツい」
「なら落としてやろうか?」
「怪我人にそれ言うか普通」
ディエゴは鼻で笑いながら、ユミルの背中側へ手を回した。
「傷を見るぞ」
「触んなよ、いてえんだから」
「だから見るんだろうが」
指先が傷口付近へ触れる。
「いっ……!」
ユミルが顔をしかめた。
「痛えって言ってんだろ! さっさと運べ!」
ディエゴはその抗議を聞きながら、口元へ僅かな笑みを浮かべた。
「ああ……任せておけ」
その手から、誰にも見えない形でスケアリー・モンスターズの力が流れ込んでいく。
傷口へ触れたのは、状態を確認するためだけではない。
数秒あれば十分だった。
エレン。
ベルトルト。
アニ。
そしてユミル。
これで四人目になる。
ディエゴは表面上何もなかったようにユミルを抱え直したが、内心では予定が一つ増えたことを理解していた。
ライナーを確保するつもりで来た。
ところが、その前にユミルという未知の知性巨人まで見つかった。
ならば、まずは確保できる方から確保しておけばいい。
能力の正体も、どの巨人を継承しているのかも後から調べれば済む。
重要なのは、自分が必要とした時に手を伸ばせる状態へ置いておくことだった。
――これで四人。
ディエゴは何気ないふりをしてライナーへ視線を向ける。
こちらを警戒していた。
表情には出していないつもりなのだろうが、匂いまでは誤魔化せない。
緊張している。
恐れてもいる。
――次はお前だ。
今はそれで十分だった。
ライナーまで手中へ収めた後、集めた巨人をどう使うかは、それから考えればいい。
アニから世界の広さを知らされたばかりである。
まだ自分自身、使える札の総数すら把握していない。
焦って目的を一つへ決める必要などない。
持てるものを増やしながら、最も高い場所へ続く道を選べばいい。
その時だった。
「ユミル……」
クリスタが傷ついた彼女へ呼びかける。
ユミルは少しだけ目を開けた。
「クリスタ……いや」
言葉が途切れると、クリスタの表情が変わった。
「ユミル?」
「もういいだろ……こんな時まで、その名前使わなくて」
ライナーとベルトルトも僅かに反応した。
ユミルは痛みに顔を歪めながら、それでもはっきりと言った。
「ヒストリア」
ディエゴの視線がクリスタへ向いた。
ヒストリア。
その名には聞き覚えがある。
ニック司祭が壁の秘密について語ることのできる人物として挙げた名前だった。
「……ヒストリア?」
クリスタは目を伏せた。
ユミルが余計なことを言ったとでも思っているらしい。
ディエゴは何も尋ねなかった。
今ここで問い詰めれば、警戒されるだけだ。
ただ、頭の中に名前だけを残した。
ヒストリア。
普段はクリスタ・レンズを名乗っている。
ニック司祭は壁の秘密を自分では話せないと言いながら、この少女なら話せると告げた。
その二つが偶然である可能性は低い。
――なるほど。
ディエゴはそこで初めて、クリスタを少し違った目で見た。
知性巨人ではない。
少なくとも今のところ、巨人の匂いもしない。
戦闘能力についても特筆するほどではない。
それでも、壁そのものへつながる情報を持っているのなら価値はある。
どの程度の価値なのかは、まだ分からない。
ニックが宗教上の理由で名前を挙げただけなのかもしれず、あるいは壁の建造に関わった一族の末裔程度なのかもしれない。
だからこそ、今すぐ何かを決める必要はなかった。
まず正体を調べる。
なぜ偽名を使っているのか。
なぜウォール教が彼女を知っているのか。
そして、彼女が壁について何を知っているのか。
そこまで分かって初めて、使い道を考えればいい。
昨夜まではマーレという国家の存在すら知らなかった。
今日になって、ユミルが知性巨人だと判明した。
さらにヒストリアという、壁の秘密へつながる人間まで目の前に現れた。
自分が知らないものは、まだいくらでもある。
ならば今は、慌てて世界の頂点へ至る道を一つに絞る時ではない。
情報を集め、力を集め、それぞれがどう繋がっているのかを見極める。
その上で、一番価値のある場所を奪えばいい。
ディエゴは腕の中のユミルを抱え直しながら、クリスタ――ヒストリアへもう一度だけ視線を向けた。
今はただ、その名前を覚えておけば十分だった。
いずれこの少女が何者なのかを知った時、自分の次の目的もまた一つ形を得ることになる。