ディエゴ・ブランドーには、夜になると人知れず外へ出歩く癖があった。もちろん、シガンシナ区の大人たちは誰一人として知らない。まだ幼い少年が寝床を抜け出し、人目を避けて壁を登り、その向こう側で巨人を相手に実験を繰り返しているなど、まともな人間なら想像することさえないだろう。
あの新月の夜から、ディエゴは何度も壁外へ出ていた。
目的は一つしかない。
スケアリー・モンスターズと巨人という、この世界では本来交わるはずのない二つを組み合わせた時、どこまでのことが可能になるのかを確かめるためだった。
最初の成功に浮かれて、それだけで自分の力を理解したつもりになるほどディエゴは楽天的ではない。たまたま成功しただけなのか、発動には何らかの条件が必要なのか、逆に失敗する場合は何が違うのか。そうしたものを一つずつ確かめ、再現できて初めて武器と呼べる。
実験を重ねた結果、いくつかのことが分かった。
まず、巨人を恐竜化させるには明確な条件がある。
スケアリー・モンスターズの力さえ流し込めば、どこからでも変化させられるというわけではなかった。腕、脚、腹、首と何度か場所を変えて試したが、どこから力を流しても巨人には目立った反応が起こらない。
唯一、確実に変化が始まったのがうなじだった。
「やはりここか」
ディエゴは蒸気を上げながら倒れている巨人を見下ろし、満足そうに目を細めた。
巨人にとって、うなじは生命の中枢に近い場所らしい。そこを大きく削り取れば死に、スケアリー・モンスターズの力を定着させる場合にも、同じ場所へ直接作用させる必要がある。
なぜそうなるのかという疑問は当然あったが、今のディエゴには理由そのものより、再現できる事実の方が重要だった。
「意味はそのうち調べればいい。今は使えると分かれば十分だ」
次に調べたのは、恐竜化した巨人がどの程度の戦闘力を持つのかだった。
これについては、ディエゴ自身の予想を遥かに上回った。
◆
ある夜、ディエゴは十メートル級の巨人を一体だけ恐竜化させ、それを別の巨人へぶつける実験を行った。
条件は単純である。
ディエゴ自身は人間の姿へ戻り、恐竜化させた巨人だけを手元へ残す。
当然、近くにいた別の巨人は、人間へ戻ったディエゴを獲物として認識した。
巨人がこちらへ向き直る。
腕を伸ばし、大きく口を開け、地面を蹴って迫ってくる。
普通の人間なら、それだけで死を覚悟する状況だったが、ディエゴは一歩も動かなかった。
「来い」
巨人が手を伸ばすのと同時に、ディエゴが命令を下す。
その瞬間、横合いから巨大な顎が飛び込んできた。
恐竜化した巨人が、襲いかかってきた巨人の腕へ勢いよく噛みついたのである。
肉が裂け、その下で骨が砕ける。
通常の巨人が反撃へ移ろうとするより早く、恐竜はさらに一歩踏み込み、全身を叩きつけるような体当たりで相手を地面へ倒した。
そこから先は、もはや戦闘と呼ぶのも馬鹿馬鹿しいほど一方的だった。
前脚で相手の胴体を地面へ押さえつけ、そのまま牙を食い込ませる。通常の巨人が腕を伸ばして反撃しようとしても、恐竜の方が遥かに速く、鋭い爪と牙によって巨体を次々と引き裂いていった。
通常の巨人も、力そのものが弱いわけではない。
あれだけ巨大な肉体を持っている以上、人間とは比較にならない腕力を持つ。
だが、戦い方というものをまるで知らない。
人間を見つければ近づき、手を伸ばして掴み、そのまま口へ運ぶ。
基本的にはそれだけだった。
一方、恐竜化した巨人には、元々の巨体をそのまま活かしたパワーに加え、巨人を上回る俊敏性がある。牙があり、爪があり、さらに尾までも武器として利用できる。
そして何より、ディエゴの命令に従って動く。
同程度の体格であれば、もはや勝負にならなかった。
「なるほどな……元からこいつらは、身体の大きさに対して戦い方が下手すぎる。そこへスケアリー・モンスターズを加えれば、こうなるわけか」
ディエゴは腕を組みながら戦いを観察していた。
結果は圧勝だった。
通常の巨人は十秒もしないうちに動きを止めた。
その次に行ったのは、恐竜化した巨人にも元の弱点が残っているのかという実験だった。
結論から言えば、うなじという弱点そのものは消えていなかった。
恐竜の姿になろうが、元のうなじに相当する部分を十分に破壊されれば死ぬ。見た目も骨格も大きく変化しているにもかかわらず、その部分だけは巨人としての性質を残しているらしい。
ただし、そこにはディエゴにとって都合のいい変化もあった。
恐竜化した後では、外見からうなじの正確な位置を判断することが極端に難しくなるのである。
人間に似た通常の巨人なら、首の後ろを狙えばいい。
だが巨大な恐竜になれば、どこからどこまでを「うなじ」と判断すればいいのか見ただけでは分からない。暗闇の中でそれを正確に狙い、さらに巨人特有の再生力を上回る傷を与えるとなれば、少なくとも通常の巨人よりは遥かに厄介な相手になる。
対人戦に投入したとしても、普通の巨人より圧倒的に使える。
ディエゴはそう確信した。
奇行種についても試した。
通常の巨人とは異なる、予測の難しい動きをする個体であっても、恐竜化そのものに問題はない。変化を終えた後は、普通の巨人と同様にディエゴの命令へ従った。
少なくとも、一体だけを動かすのであれば。
「問題は、ここだな」
その夜、ディエゴは草原の中央に立ち、目の前に並ぶ三体の巨大恐竜を見上げていた。
まずは単純な命令から試す。
「右へ行け」
三体が動き始めた。
動き出すまでに僅かな差はあるものの、命令そのものは全員に通じている。
「止まれ」
一体目が止まり、少し遅れて二体目が止まる。さらに数秒遅れて最後の一体がようやく足を止めた。
その様子を見たディエゴは、僅かに眉を寄せる。
「次だ。あの岩を壊せ」
三体のうち二体が岩へ向かった。
しかし、残る一体はその場に留まり、意味もなく首を動かしている。
「……チッ」
単純な命令であれば、三体程度まではどうにか扱える。
進め、止まれ、襲え。
その程度なら、多少の時間差を許容すれば同時に命令できる。
だが、一体ずつ別の細かな動きを要求すると、一気に精度が落ちた。
一体だけであれば、どの方向から攻撃するのか、どこで止まるのか、誰を狙うのかといったところまでかなり細かく操れる。
しかし数が増えると、そこまで意識を行き渡らせることができない。
「現状、確実に扱えるのは一体。三体なら単純な指示が限度……か」
ディエゴは恐竜たちを見上げ、内心で舌打ちした。
足りない。
これでは話にならない。
壁の外には巨人が無数にいる。
それらを自分の軍隊へ変えられる可能性があるというのに、一度に一体や二体しかまともに操れないのでは、宝の持ち腐れというものだった。
「鍛えるしかないな」
出した結論は単純だった。
スタンドパワーそのものを、生前よりもさらに強くする。
今の肉体はまだ成長途中にあり、能力にも伸びしろが残っているはずだ。それならば、足りない部分は鍛えて補えばいい。
むしろディエゴにとって、それは歓迎すべきことだった。
一度目の人生では完成させられなかった力を、この世界では最初から育て直すことができる。
いずれ十体、百体、あるいはそれ以上を同時に動かせるようになったなら。
その光景を想像しただけで、ディエゴの口元には自然と笑みが浮かんだ。
だが、その夜から数日後。
巨人とはまったく別の問題が、壁の外で姿を現した。
◆
「……人間?」
ディエゴは草むらへ身を伏せながら、遠くの闇へ目を凝らしていた。
距離があるうえに夜である。
普通の人間なら、そこに何かがいると気づくことさえ難しい。
しかし、部分的な恐竜化によって強化された嗅覚と聴覚が、確かに存在を捉えていた。
壁の外に、人間がいる。
それも一人ではない。
複数だ。
「調査兵団……じゃあないな」
すぐにそう判断した。
服装が違う。
装備も違う。
何より、壁の方角から来た様子がない。
ディエゴはさらに姿勢を低くし、気配を殺した。
向こうはこちらに気づいていない。
だからといって油断する理由にはならなかった。
少し前まで、ディエゴは恐竜化した巨人を連れて移動していた。相手が現れるのがあと数十秒早ければ、こちらの姿を見られていた可能性すらある。
「危ないところだったな」
小さく呟きながら、耳を澄ませる。
距離があるため、会話のすべてを聞き取ることはできない。
それでも風に乗り、いくつかの単語だけが断片的に届いた。
「……戦士……」
「……故郷……」
「……帰る……」
聞き取れたのは、それだけだった。
だが、ディエゴにとっては十分だった。
「そういうことか」
目が細くなる。
アルミンが読んでいた本。
海。
壁の外。
まだ見ぬ世界。
以前は半分ほどしか信じていなかった話だったが、今この瞬間、壁の外には明らかに人間が存在している。
しかも、壁内の人間とは異なる服装と装備を持つ者たちがいる。
そこまで分かれば、一つの答えへ辿り着くのは難しくなかった。
「海の向こうにも人間がいる。考えてみれば当たり前のことじゃあないか」
ほとんど確信だった。
もしその推測が正しいなら、この世界はディエゴが思っていたより遥かに広い。
巨人だけではない。
壁の外には、別の文明がある。
別の国があり、別の軍隊が存在し、壁内とは異なる技術を持っている。そして恐らくは、自分のまだ知らない力も存在する。
「……まずいな」
この時ばかりは、ディエゴも笑わなかった。
ここは慎重になるべき場面だった。
恐竜の存在を見せるべきではない。
巨人を自分が支配できると知られるのもまずい。
そして何より、スケアリー・モンスターズそのものを他人へ見せるのは避けるべきだった。
もし万が一、壁の外にスタンドという概念を知る人間がいるなら、自分の能力を見られることは致命的になり得る。
「スタンド能力を他人に晒すなんてのは……ケツの穴を見せて歩くようなもんだからな」
ディエゴは小さく鼻を鳴らした。
能力が知られれば対策される。
弱点を探られ、場合によっては利用される。
そんなことは一度目の人生で十分に理解していた。
情報は力である。
そして情報戦において最も有利なのは、自分だけが相手を知り、相手にはこちらを何も知られていない状況だった。
「支配するにせよ何にせよ……まずは知らなきゃあならないようだな。この世界の謎を」
そこで改めて、調査兵団という立場の価値を考えた。
兵団へ入れば、壁の外へ合法的に出ることができる。
巨人について調べることもできるし、壁外で見つけた人間たちについて探る機会も増えるはずだ。
兵団そのものに興味があるわけではない。
仲間意識など、なおさら必要ない。
欲しいのは立場だった。
自由に壁外へ出入りし、情報を集めるための肩書き。
「いいだろう。俺は何も知らない子供のふりをしてやる。その間に、お前らのことを全部調べてやるよ」
ディエゴはゆっくりと立ち上がり、遠くにいる人影を最後に一度だけ見た。
そして、その決意を固めた二日後。
世界は何の前触れもなく、大きく動いた。
◆
巨大な音がした。
それを聞いた瞬間、シガンシナ区にいたほとんどの人間が反射的に空を見上げた。
壁より上に、顔があった。
肉がむき出しになった巨大な顔。
壁を越えるほどの高さを持ち、人間の常識から完全にはみ出している存在。
後に人々は、その瞬間をそれぞれの言葉で語ることになるのだろう。
恐怖。
絶望。
屈辱。
自分たちが安全な場所に住んでいるという幻想が壊れた日であり、人類が自分たちこそ弱者なのだと思い知らされた日だった。
「……なんてことを、大抵の奴は考えるんだろうな」
ディエゴは超大型巨人を見上げ、鼻で笑った。
確かに大きい。
これまで見てきた巨人とは桁が違い、あれほど巨大な相手はディエゴにとっても初めてだった。
そして壁を破壊した。
純粋な破壊力に限れば、それは素直に評価しなければならない。
「おっと。パワーだけはちょっとヤバいな」
そこまでは認めた。
しかし、恐怖より先に浮かんできた感情はまったく別のものだった。
「あれも……恐竜にできるのか?」
ぞくりと背筋が震えた。
もし可能なら。
もし、あの大きさの巨人にまでスケアリー・モンスターズが通用するのなら。
壁より高い巨大恐竜。
その背に立つ自分。
一瞬だけそんな光景を想像したところで、ディエゴはすぐに思考を切り替えた。
「……いや。今考えることじゃあない」
壁が破られた。
当然、巨人が内部へ入ってくる。
ならば、まず今この場でどう動くべきかを決めなければならない。
ディエゴの中には三つの選択肢が浮かんだ。
一つ目は、すでに恐竜化させている巨人を投入すること。
「却下だ」
これは即決だった。
理由を考えるまでもない。
人の目が多すぎる。
ここでスケアリー・モンスターズを大々的に使えば、自分の能力を壁内の人間全員へ宣伝して回るようなものだ。
まして、人前で巨人を恐竜化させるなど論外だった。
二つ目は、何もせず逃げること。
「これが一番だな」
敵の数も分からない。
種類も分からない。
超大型巨人が何をできるのかも分からない。
それなら、わざわざ危険を冒して戦う理由はない。
ディエゴなら十分に逃げ切れる。
巨人には独特の臭いがあり、恐竜化した嗅覚を部分的に使えば、かなり離れた段階から接近を察知できる。
そして最後の選択肢は、巨人を倒すことだった。
「……なくはない」
ディエゴは顎へ手を当てた。
大きすぎない個体。
自分一人で仕留められる程度の相手。
それを一体だけ、公衆の前で倒す。
積極的にやる必要まではないが、いずれ調査兵団へ入るつもりなら、実力を示す手土産としては悪くない。
「二を基本にする。機会があれば三だ」
方針はそれで決まった。
まずは家へ向かう。
母親を連れて逃げる必要があった。
母親への愛情があるのかと問われれば、ディエゴは恐らく首を傾げただろう。
この世界で自分を育てた女。
今のところ、それ以上でもそれ以下でもない。
だが、息子だけが真っ先に逃げたとなれば不自然であり、その後の評判にも影響する。
「面倒だな」
ディエゴは家へ向かって走り出した。
しかし、そこへ辿り着く前に、母親を連れて逃げるという選択肢は失われた。
◆
「ディエゴ!」
母親の声が聞こえた。
崩れた建物と瓦礫。
その向こうに一体の巨人がいた。
十メートルには届かない程度の大きさだが、人間を食うには十分すぎる。
母親は逃げられなかった。
片脚を大量の瓦礫に挟まれている。
近くには兵士が一人倒れていた。
すでに生きてはいない。
立体機動装置が地面へ転がり、その近くにはブレードが一本落ちていた。
「逃げなさい! ディエゴ! 早く!」
巨人の手が伸びる。
ディエゴはその場から動かず、頭の中で瞬時に計算した。
間に合うか。
助けられるか。
瓦礫を退け、母親を引き出し、そのまま巨人の手から逃げる。
完全に不可能というわけではない。
だが、そのためにはスケアリー・モンスターズを使う必要がある。
しかも周囲には多くの人間がいた。
そして、そこまでして助ける価値があるのか。
ディエゴが答えを出すより先に、巨人の指が母親の身体を掴んだ。
「逃げて!」
それが最後の言葉だった。
巨人の口が開き、そのまま閉じる。
骨が砕ける音が聞こえた。
ディエゴは、その光景を黙って見ていた。
泣かなかった。
叫ぶこともなかった。
ただ、ほんの僅かに眉が動いた。
「ふん」
母親は死んだ。
それ以上でも、それ以下でもない。
ディエゴは巨人から視線を外し、地面に落ちていた兵士のブレードへ目を向けた。
ゆっくり歩み寄り、それを拾い上げる。
「ずいぶん軽いな」
刃を眺める。
見た目ほど重くなく、薄い。
それでも切れ味は悪くなさそうだった。
「材質は何だ? 普通の鉄じゃあないな」
指先で刃の峰を軽く押すと、僅かにしなる。
それを見て、ディエゴは興味深そうに目を細めた。
「まあいい。これから世話になるかもしれないからな」
その時、重い足音が近づいてきた。
巨体が歩くたび、地面が震える。
母親を食った巨人が、次の獲物としてディエゴへ向かっていた。
「ディエゴ!」
今度は別の声だった。
振り返ると、少し離れた場所にハンネス、エレン、ミカサ、アルミンの姿がある。
ハンネスは三人を守りながら退こうとしていた。
そして全員が、ディエゴを見ていた。
「……丁度いい」
ディエゴは笑った。
「よく見ておけ。もっとも、この距離じゃあ聞こえていないだろうがな」
ブレードを逆手に持つ。
巨人の手が迫っていた。
巨大な掌が、人間一人など簡単に握り潰せる勢いで振り下ろされる。
それでもディエゴは動かない。
「ディエゴォォォ!」
エレンが叫んだ。
直後、巨人の手が地面を叩いた。
轟音とともに土が弾ける。
しかし、そこにディエゴはいなかった。
「なっ……!」
ハンネスの目が大きく見開かれる。
ディエゴは空中にいた。
後ろへ逃げたのではない。
前へ。
巨人の腕へ向かって跳んでいた。
空中で身体を捻り、一回転のムーンサルトを描く。
巨人の手を紙一重で避け、そのまま前腕の上へ両足で着地した。
「なんだ……あれ……」
アルミンが呆然と呟く。
ディエゴは止まらない。
そのまま巨人の腕の上を駆け上がる。
巨人も驚いたように腕を振り上げ、足場が急角度へ変わった。
普通の人間なら、そのまま振り落とされている。
だがディエゴは落ちない。
靴の中で誰にも見えないよう足指の爪を伸ばし、巨人の皮膚へ食い込ませていた。
反対側の手が迫ってくる。
自分の腕ごと叩き潰すつもりらしい。
「SYAAAAA―――!!!」
ディエゴは前腕から肩へ向かって跳んだ。
巨人の掌が自分自身の腕へ叩きつけられ、その衝撃によって巨体が僅かに体勢を崩す。
「何やってるんだ……」
ハンネスは完全に呆然としていた。
相手は子供だ。
まだ兵士ですらない。
立体機動装置も使っていない。
それなのに、巨人の身体をまるで馬場に置かれた障害物か何かのように駆け上がっている。
肩から首へ。
さらに背中へ回り込む。
巨人が激しく首を振っても、ディエゴの足は滑らない。
むしろ、揺れを利用してさらに速度を上げていく。
そして、うなじへ到達した。
「ここだッ!」
ブレードを構える。
母親を食った巨人が振り返ろうとした。
しかし、もう遅い。
「WRYYYYYYYYYYYYY!!」
絶叫と同時に刃が走る。
一閃。
肉が大きく裂ける。
さらに刃を返し、二閃目を重ねた。
うなじの肉が一気に削ぎ取られる。
ディエゴはそのまま巨人の背を蹴り、地面へ飛び降りた。
膝を深く曲げて衝撃を殺し、まるで何事もなかったように着地する。
その背後で、巨人の身体が倒れた。
轟音とともに土煙が巻き上がり、巨大な肉体から大量の蒸気が噴き出す。
シガンシナ区の一角が、ほんの数秒だけ奇妙な静寂に包まれた。
誰も声を出せなかった。
エレンも。
ミカサも。
アルミンも。
ハンネスも。
近くにいた住民も兵士も、ほとんど全員が同じような表情を浮かべている。
今、自分たちは何を見たのか。
理解が追いついていない顔だった。
「う……うおおおおおおおおおッ!」
誰かが上げた叫びをきっかけに、それまで止まっていた空気が一気に弾けた。
「倒した!」
「巨人を倒したぞ!」
「子供が!?」
「立体機動もなしで!?」
兵士たちの表情まで変わり始める。
ついさっきまで恐怖に飲まれ、巨人を前にして逃げ腰になっていた者たちの目に、再び火が戻った。
「やれるぞ!」
「俺たちもやれる!」
「住民を逃がせ!」
「巨人を止めろ!」
士気というものは目には見えない。
それでも確実に、その場の空気は変わっていた。
もっとも、その原因を作ったディエゴ本人は、そんなものに興味を持っていないようだった。
手にした刃を眺め、一度軽く振って付着した巨人の血を払う。
「なるほど。悪くない」
エレンは口を開けたままだった。
アルミンも言葉が出ない。
ミカサですら、いつもより僅かに目を見開いている。
そしてハンネスだけは、また別の意味で表情を強張らせていた。
「……俺は」
自分の手を見る。
僅かに震えている。
つい先ほど、自分は巨人を前にして逃げた。
エレンの母親を助けられなかった。
怖かった。
死ぬと思った。
だから子供たちを抱えて逃げた。
それを、同じ年頃の少年が。
兵士ですらない子供が。
立体機動装置すら使わず、一人で巨人を倒してしまった。
「俺は……何を……」
胸の中で何かが軋んだ。
恥。
後悔。
安堵。
嫉妬。
尊敬。
そのどれか一つだけではない。
あまりにも複雑で、ハンネス自身にも自分の感情を整理できなかった。
一方、その原因となった本人は、何事もなかったようにこちらへ歩いてきた。
朝起きてパンを食べ、そのまま近所を散歩してきたとでも言いたげな顔だった。
「ディ……ディエゴ……」
エレンがようやく名前を呼んだ。
「何だ?」
「お前……今……」
「話は後だ」
ディエゴは表情を変えず、鼻へ意識を集中させた。
周囲に漂う巨人の臭いを探る。
一体。
二体。
それだけではない。
もっといる。
「数が多すぎる」
遠くから別の巨人の足音が響き、建物が崩れる音と人々の悲鳴が重なって聞こえてきた。
ディエゴはブレードを肩へ担ぐ。
「逃げるぞ」
「……え?」
「聞こえなかったか? 巨人が多すぎると言った。ここで戦う意味はない」
ついさっき、その巨人を一人で倒した人間の言葉だった。
だからこそ、誰も反論できなかった。
「行くぞ」
ディエゴが歩き出す。
ミカサが最初に動き、次にアルミンとハンネスが続く。
最後にエレンも、その後を追った。
全員がまだ、半分ほど放心していた。
◆
避難船は、人で溢れ返っていた。
泣いている者。
家族の名前を叫びながら探している者。
怪我をして呻いている者。
何も話さず、遠ざかっていくシガンシナ区だけを見つめている者。
エレンも、その一人だった。
遠ざかっていく街。
自分の家。
母親。
そして、今も人々を食らっている巨人たち。
それらを見つめながら、エレンは強く拳を握った。
爪が掌へ食い込む。
少し離れた場所には、ディエゴが座っていた。
先ほど巨人を倒した少年。
そして、自分と同じように母親を失った少年。
条件は同じはずだった。
正確には、似ているはずだった。
自分は母親を助けられなかった。
ディエゴも母親を助けられなかった。
それなのに、結果はあまりにも違う。
ディエゴは、母親を食った巨人を殺した。
誰かの力ではない。
自分自身の手で。
エレンの胸の奥に、黒い感情が生まれた。
羨ましい。
そう思ってしまった。
そして同時に、どうしようもなく悔しかった。
自分は何もできなかった。
母親が食われるところを見た。
叫んだ。
泣いた。
そして逃げた。
それだけだった。
ディエゴは違った。
「……俺も」
握った拳が震える。
その時、遠くから再び轟音が響いた。
船の上にいる人間たちが、一斉に振り返る。
さらに奥。
壁へ向かって、巨大な何かが猛烈な勢いで突っ込んでいた。
鎧のような皮膚。
異常に発達した肉体。
「巨人……」
アルミンが小さく声を漏らした。
次の瞬間、壁が破壊された。
衝撃と煙。
大量の瓦礫。
その向こうから、さらに多くの巨人が人類の領域へ入り込んでくる。
人間の領土が失われていく。
それを見たエレンは、船の上で立ち上がった。
「駆逐してやる……」
声が震えていた。
しかし、今度は恐怖によるものではない。
「一匹残らず……俺が……この世から……全部!」
歯を食いしばり、目には涙を浮かべている。
ミカサがエレンを見た。
アルミンも見る。
ディエゴも、一瞬だけそちらへ視線を向けた。
羨望。
嫉妬。
憧れ。
そして、それらをすべて飲み込むほど強い憎悪。
何となく、エレンが何を考えているのかは分かった。
だが、ディエゴにとってはどうでもよかった。
エレンが何を思おうが、自分をどう見ようが、そんなことに興味はない。
ディエゴの目は、もっと遠くに向けられていた。
先ほど壁を破壊した巨人。
鎧のような身体。
通常の巨人とは明らかに違う。
最初に現れた超大型と同じく、何らかの特別な個体であることは間違いなかった。
「ほう。なかなかのパワーとスピードだ」
ディエゴは口元だけで笑った。
超大型。
鎧。
そして、数日前に壁の外で見つけた人間たち。
何かが繋がっている。
まだ答えは分からない。
だからこそ価値がある。
「いつかあいつも試してやる。支配してやるぜ。
このDioがとことん上からなあ」
誰にも聞こえない程度の声で呟いた。
恐竜化できるのか。
命令を聞くのか。
もし、あれほど特殊な巨人さえ自分の力で支配できるなら。
「クク……」
ディエゴは笑いを噛み殺した。
周囲では、人々が泣いている。
故郷を失った。
家族を失った。
未来を失った。
誰もが絶望の中にいる。
その中でただ一人、ディエゴ・ブランドーだけが、新しい玩具を見つけた子供のような目で鎧の巨人を見つめていた。