夕暮れが近づくにつれて、森の奥へ落ちる影は少しずつ長くなっていた。
調査兵団はすでに、ライナーとベルトルトがエレンを連れて森の中へ逃げ込んだことをほぼ確信している。目的は明確だった。ライナーとベルトルトを可能であれば捕縛し、抵抗が激しければ討伐する。そのうえでエレンとユミルを救い出す。
ディエゴも表向きは、その方針に従うつもりだった。
だが、内心では思っていたより面倒な状況になったと感じている。
森までの距離が近かったため、少数で先行するような展開にはならず、調査兵団はまとまった戦力を一気に動かすことができた。エルヴィンの指揮も早く、ライナーたちが潜んでいる方角も大きくは外していない。
これでは抜け駆けがしづらい。
ライナーへスケアリー・モンスターズを仕込み、自分の手駒にする。そのためには、兵団から切り離された瞬間を狙う必要があった。
ディエゴは馬上から森の奥へ鼻を向ける。
匂いは分かる。
ライナー、ベルトルト、エレン、ユミル。四人とも、かなり近い。少なくとも、すでに森の外へ抜けたということはない。
さて、どうする。
ライナーを生かして手に入れる案はいくつか考えてある。人間へ戻った瞬間を狙う。ベルトルトを恐竜化させて拘束させる。あるいはエレン側へ仕込んだ力を利用し、混乱の中でライナーだけを切り離す。
ただ、どの案も調査兵団がこれだけ近くにいる状態では不確定要素が多かった。
それなら、殺すのも一つの手ではある。
鎧の巨人という札は惜しいが、扱えない札を無理に抱えて自分の能力を疑われるよりは、ここで消した方がいい場合もある。
ディエゴはほんの少し考え、やがて口元を歪めた。
今回は決めすぎない方がいい。
状況は動いている。敵も、味方も、自分の予想通りには動かない。
ならば最後の一手だけは、その場の流れを見て決めればいい。勝負とは、決めた作戦へ自分を縛りつけることではない。変化した盤面の上で、最後まで一番得な位置にいることだ。
◆
エレンが意識を取り戻した時、最初に目へ入ったのはライナーの顔だった。
次にベルトルト。
少し離れた場所にはユミルがいる。
身体はまだ重く、口の中には血の味が残っていた。
「……てめえら」
エレンが低く呟く。
ライナーは少し疲れた顔をしていた。戦士としてやるべきことと、兵士として共に過ごした時間。その二つが頭の中で混ざり、本人ですら整理できていないのだろう。
その曖昧な表情を見た瞬間、エレンの怒りが一気に噴き出した。
「一丁前に人らしく悩んでんじゃねえぞ!!」
ライナーが顔を上げる。
「お前らはもう人間じゃねえんだぞ! 分かってんのか、この人殺しが!!」
エレンは拘束された身体を無理に起こそうとしながら、さらに怒鳴った。
「ベルトルト! てめえは特にだ!! あんなバケモノに変わって壁の中を地獄に変えやがって!!」
ベルトルトの顔が引きつった。
「ぼ、僕だって知るもんか!!」
普段なら声を荒らげることの少ないベルトルトが、珍しくエレンへ言い返した。
「あんなの、こ、故郷でだって聞いたことなんかない!!!」
「何だと!?」
「それに聞いたぞッ! 君こそ変身したってなあッ!!」
エレンの口が止まった。
女型の巨人と戦った時、自分が恐竜じみた姿へ変わったことは聞かされている。
だが本人には記憶がない。
どうやったのかも分からない。
「……俺は、あんなの自分でやったんじゃねえ」
「僕だって同じだ!!」
ベルトルトは息を荒げた。
「僕はあんな姿になろうなんて思ってない! あの時だって……気づいたら、身体が勝手に……!」
「だから何だよ!」
エレンがさらに怒鳴る。
「壁を壊したのはお前らだろうが!!」
「その人殺しに何を求めてんだ、てめえは!」
今度はライナーが割って入った。
エレンが睨む。
ライナーも同じように睨み返した。
「俺たちにまともな答えでも期待してんのか!? そもそも、お前こそ巨人を超えた化物に――」
そこまで言ったところで、ライナーの言葉が止まった。
表情も止まる。
「……ライナー?」
ベルトルトが訝しげに見る。
だがライナーの耳には、その声がほとんど入っていなかった。
エレンが異形へ変わった時、あの場にはディエゴがいた。
正確には、ディエゴは戦場へ途中から現れた。
そしてベルトルトがトロスト区で異常な姿へ変わった時も、後から聞いた話では、ディエゴが最初に現場へ駆けつけたという。
さらに思い出す。
奴の発言。
あいつは、自分たちが巨人だけを相手にするなら、という言い方をした。
まるで最初から、巨人以外の敵が存在することを知っていたかのように。
証拠はない。
何一つ証明できない。
ただの仮定だ。
だが、もし。
もしその仮定が正しいのなら。
ライナーの顔から血の気が引いた。
エレンの異常変化も、ベルトルトの異常変化も、あいつがやったのか。
さらに最悪の可能性が頭をよぎる。
アニだ。アニも行方不明になった。
もし彼女まで、すでにディエゴの手に落ちているのだとしたら。
そして、自分たちの身体へ同じことができるのだとしたら。
ライナーの呼吸が浅くなる。
いつでも俺たちを――。
「ベルトルト」
声の質が変わった。
「え?」
「今すぐ出るぞ」
「もう出るのか!?」
ベルトルトが目を見開く。
「まだ日が落ちきってない。それに疲労も――」
「俺はもう一度巨人化できる」
ライナーは言い切った。
「今すぐ逃げるぞ。あいつが来る前にだ」
「……あいつ?」
ベルトルトは一瞬だけ戸惑い、すぐに誰のことを言っているのか察した。
その顔にも緊張が走る。
「ディエゴ……?」
「声を落とせ」
ライナーはエレンの方へ近づいた。
エレンが何か言うより早く首へ腕を回し、そのまま強く締め上げる。
「ぐっ……!」
エレンが暴れる。
だが、ほどなく身体から力が抜けた。
意識を失ったエレンを支えながら、ライナーは低い声で続ける。
「ここに長くいる方が危険だ」
◆
そのやり取りを、ユミルは黙って聞いていた。
ライナーとベルトルトが調査兵団を恐れていることは分かる。
だが、それ以上に警戒している相手がいることも分かった。
ディエゴ。
ウトガルド城での戦いを見れば、無理もない。ミカサと二人だけで巨人の群れを壊滅させ、本人はほとんど息すら乱していなかった。
しかもユミルには、あの男がそれだけではないという嫌な感覚がある。
まだ何か隠している。
あいつは戦場に立っている時より、何もしていない時の方が怖い。
問題はクリスタだった。
あのお人好しなら、必ず来る。
自分がここにいると知れば、危険だと分かっていても追ってくる。
だからこそ、連れていかなければならない。
壁の中に置いておくより、自分と一緒にいた方がまだ生き残れる可能性がある。
ただし、ディエゴが邪魔だった。
クリスタだけを攫って逃げる。それができれば一番いい。
だが、もしディエゴに敵対したと判断されれば、自分は殺される可能性が高い。
あいつは同期だからといって手心を加える男ではない。
芋女――サシャを攫うという手も、一瞬だけ頭に浮かんだ。
ディエゴがあいつを妙に気にしていることは、見ていれば分かる。
ウィークポイントとして使える可能性はある。
だが、それは危険すぎる。
サシャを攫うために時間を使い、その間にライナーたちが調査兵団へ追いつかれて始末されれば本末転倒だ。
何より、サシャへ手を出した瞬間にディエゴがどう動くのか分からない。
最悪の場合、交渉材料にする前に自分が殺される。
結局のところ、どちらへ転ぶかは分からない。
ユミルは内心で、自分の置かれた状況をネットへ当たったテニスボールのようなものだと思った。どちら側へ落ちるかは自分にも分からないが、それでも打つしかない。
ユミルの目に決意が宿った。
その直後、遠くで信号弾が上がった。
調査兵団が近づいている。
「……来たか」
ユミルは立ち上がった。
◆
森へ向けて先頭近くを走っていたディエゴの目にも、信号弾の光が映った。
同時に、別の感覚が伝わってくる。
スケアリー・モンスターズの力を仕込んだ相手特有の、曖昧な位置感覚。
その一つが大きく変化した。
「巨人化した!」
アルミンが叫ぶ。
ミカサも前方を睨む。
「敵?」
「いや」
ディエゴは即座に否定した。
表情は冷静だったが、内心ではほくそ笑んでいる。
ユミルか。
ライナーの位置とは少し離れている。
エレンへ潜ませた小型恐竜からも、大まかな動きは分かる。
ユミルだけが別方向へ動いた。
何か致命的な事態が起きたわけではない。
むしろ好都合だった。
「これは使えるぞ」
誰にも聞こえない程度に呟く。
ユミルとクリスタが親しいことは知っている。
ならば、ユミルが別方向へ姿を見せれば、104期の連中はそちらへ引かれる。
ライナーを追う戦力が分散する。
しかもユミル自身は、ディエゴがライナーとエレンを優先して追うと踏んでいるのだろう。
ライナーの匂いとユミルの匂いが、明確に離れていく。
そしてユミルは、兵団から見つけやすい位置で動きを止めた。
まるで自分から見つけてくれと言っているようだった。
「なるほどなぁ……」
ディエゴは笑った。
「あいつとクリスタは仲がいいからな……とはいえ、これで計画通りだ。フフフ……」
隣を走っていた兵士が一瞬そちらを見たが、ディエゴはすぐ前へ視線を戻した。
エルヴィンの位置を確認する。
「団長」
「何だ」
「オレはエレンを追いますが、構いませんね」
エルヴィンはほとんど迷わなかった。
「当然だ。ユミルが巨人化したようだが、我々の最優先目標は変わらない」
その言葉を聞くのとほぼ同時に、別方向から叫び声が響いた。
「ユミルだ!」
コニーの声だった。
クリスタが真っ先にそちらへ反応する。
「ユミル!?」
ジャン、アルミン、コニー、クリスタたち104期の面々が進路を変える。
ユミルの姿を確認しようと、何人かが立体機動装置を使って森の中へ飛び込んでいった。
「ぼさっとすんな!!!! 追うぞ!!!」
ジャンの怒鳴り声が森へ響く。
その直後、前方で大きな音がした。
ユミルが動いた。
◆
クリスタがユミルの姿へ近づいた瞬間、状況が変わった。
「ユミル!」
巨人化したユミルが大きく口を開く。
「え?」
クリスタが避けるより早く、その身体が口の中へ収められた。
「クリスタ!!」
同期たちの悲鳴が重なる。
だがユミルは噛まない。
クリスタを口内へ守るように収めたまま、木々を蹴って一気に走り出した。
「待て!」
コニーが叫ぶ。
その先。
森の出口付近で、別の巨大な影が現れた。
鎧の巨人。
その肩にはベルトルトが乗り、腕には意識を失ったエレンが抱えられている。
「エレン!」
ミカサの声が響いた。
兵団全体の空気が変わった。
目標が見えた。
立体機動装置を使っていた兵士たちが一斉に鎧の巨人へ向かう。
ディエゴを含む数人は、そのまま馬で森を抜けた。
シルバー・バレットが地面を蹴る。
前方では、ユミルが木々を次々と跳ねながら異常な速度で鎧の巨人へ追いついていく。
さらに後方からは、クリスタを取り戻そうとする同期たちも馬へ乗り換え、必死に追ってきていた。
ディエゴはその光景を眺めながら、少しずつ笑みを深くしていく。
ライナー。
ベルトルト。
お前たちはエレンを故郷へ連れて帰りたい。
そうしなければ、自分たちも故郷へ帰れない。
それが目的だ。
そして目的があるからこそ、エレンを捨てることができない。
逃げるだけなら、人間の姿で森へ紛れた方がいい。
それでもエレンを運ぶために巨人となり、こうして兵団の前へ姿を晒さなければならない。
守りたいものや達成しなければならない目的は、人間を強くすることもある。
だが同時に、逃げ道を縛る鎖にもなる。
その目的こそがお前らの弱点だ。
ディエゴの目が細くなる。
「カス共が……」
誰にも聞こえないほど低い声で呟き、シルバー・バレットの上で指を僅かに動かした。
「お前たちはもう、釈迦の手のひらの上を飛び回る猿ですらないッ!!」
スケアリー・モンスターズが発動した。
◆
ユミルは鎧の巨人へ並び、肩に乗ったあと、上半身だけを自分の巨人の頭部から出した。
口の中からクリスタも顔を出す。
全身が唾液まみれになったクリスタは、息を整える暇もなくユミルへ怒鳴った。
「ユミル……何をしているの!? 私たちはエレンたちと、あなたを助けに来たのに……!」
「助けなくていい!!」
ユミルが食い気味に叫ぶ。
クリスタが怯む。
「私はベルトルト、ライナーたちと行く!! どのみち壁の中はこれから地獄になる!! 私と一緒に……ッ!!」
そこまで言ったところで、ユミルの声が途切れた。
「……え?」
本人が最初に異変へ気づいた。
身体が熱い。
巨人化している時の熱とは違う。
もっと内側から、自分の肉そのものを別の形へ書き換えられているような感覚だった。
ユミルの目が大きく開く。
「ユミル……?」
クリスタが不安と疑問の入り混じった声を出した。
その直後、ユミルの口元から異様な音がした。
歯が伸びている。
人間の歯ではない。
鋭い牙へ変わっていく。
「ヒッ……!」
クリスタが小さく悲鳴を上げた。
少し前を進んでいたベルトルトも振り返り、その顔を恐怖で染める。
「まさか……!」
ユミルの口が裂ける。
指先から爪が伸び、手の形そのものが変わり始める。
皮膚には細かな鱗が浮かび、首筋から頬へ向けて一気に広がっていった。
「な、何だこれ……!」
ユミル自身にも分からない。
顔の半分だけがまだ人間のまま残り、もう半分は完全に恐竜のものへ変わっている。
その境界が少しずつ侵食する。
そして同時に、人間として外へ出していた上半身が、自分の巨人体の中へずぶずぶと沈み始めた。
「ユミル!」
クリスタが手を伸ばす。
届かない。
ユミルの残っていた人間の顔まで、巨人体の内部へ飲み込まれる。
次の瞬間、巨人の全身が大きく痙攣した。
骨格が変わる。
顎が伸びる。
腕と脚の筋肉が膨れ、爪がさらに巨大化する。
体表の一部には鱗が浮かび、元々俊敏だったユミル巨人の身体が、より獣じみた異形へ変貌していった。
「GYAAAAAAAAAAAAAAAAAA――――ッ!!」
咆哮が森の外まで響いた。
鎧の巨人が反射的に振り返る。
ライナーも何が起きたのか理解できていない。
だが、その瞬間。
恐竜化したユミルが地面を蹴った。
元のユミル巨人を上回る速度で鎧へ飛びかかる。
ライナーは咄嗟に左腕を上げ、防御姿勢を取った。
硬質化した鎧が前へ出る。
普通の巨人の牙なら、そこで止まったはずだった。
だがユミルの顎は止まらない。
巨大な牙が鎧へ食い込む。
硬質化した表面にひびが走った。
次の瞬間、それが一気に砕けた。
鎧の巨人の腕が、肉と硬質化の破片を撒き散らしながら噛み砕かれる。
「――ッ!!」
ライナーの巨体が大きくよろめいた。
ベルトルトの顔から完全に血の気が引く。
少し離れた場所からその光景を見ていた兵士たちも、一瞬だけ動きを止めた。
ただ一人、ディエゴだけが笑っていた。
「追い詰めたぞ、ライナー」
低く呟く。
シルバー・バレットの腹を蹴る。
白馬が一段階、速度を上げた。
恐竜化したユミル。
鎧を失い始めたライナー。
エレン。
ベルトルト。
そして、そのすべてを追う調査兵団。
盤面は整った。
あとは、どの札を自分のものにするか決めるだけだった。