恐竜化したユミル巨人は、異常なほど速かった。もともとユミルの巨人は小柄な体格と敏捷性を武器にするタイプであり、四つ足と二足歩行を状況に応じて切り替えながら、木々や地面を蹴って変則的に動く。その身軽さだけでも通常の巨人とは比較にならなかったが、スケアリー・モンスターズによる変化は、その長所をさらに極端な方向へ引き伸ばしていた。
ライナーの視界には、残像すら見えていた。鎧の巨人が拳を振るっても、ユミルは攻撃の軌道に合わせて避けるのではなく、拳が届く頃にはすでに別の位置へ移っている。四つ足で地面すれすれまで姿勢を落としたかと思えば、そのまま巨木を蹴って跳ね上がり、次の瞬間には二本の脚で鎧の背後へ回り込んでいた。
ライナーは身体を捻り、その軌道へ肘を叩き込もうとした。
「SYAAAAAAA―――ッ!」
ユミルは人間には到底不可能な角度へ身体を反らし、頭上を通過した肘の下へ潜り込んだ。そのまま鎧の脇腹へ爪を走らせると、硬質化した表面から火花のような破片が散った。完全に切り裂かれたわけではないものの、鎧の一部にははっきりと傷が刻まれている。
ライナーは低く唸りながら、すぐに構えを立て直した。肩にクリスタがいる以上、首から上を本気で狙ってくる可能性は低いと考えられるが、それでも安心できる相手ではない。何かの拍子に首へ牙を食い込まれれば、自分自身の命が危うくなるため、守りに徹するだけではいずれ押し切られる。
だからこそ、ライナーは反撃へ移った。鎧の巨人が強いことに疑いはなく、マーレで戦士として育てられた経験から、対人格闘を徹底的に叩き込まれている。訓練兵団では実力を隠していたが、本気で戦えば人間相手なら上位に入る技量を持ち、その経験を巨人の身体へ応用することで、巨人化したエレンを真正面から圧倒することもできた。
しかし、その戦闘技術の根幹は、あくまで人間を相手にするためのものだった。二本の腕と二本の脚を持ち、基本的には二足歩行をする相手を想定した技術であり、今目の前にいるユミルの動きは、その前提から完全に外れている。
ユミルは四つ足で走った直後に二足で立ち上がり、巨木を蹴って空中へ飛び、顎と爪だけでなく尾まで別の武器として使ってくる。攻撃の起点も重心も人間の動きから予測できず、どこから何が飛んでくるのかを対人戦の感覚で読むことができないため、ライナーほどの戦闘経験があっても有効な対応策を組み立てられなかった。
要するに、どう戦えばいいのか分からなかったのである。ライナーがその事実を認識した時、激しく動き回るユミルの向こう側に、一人の男の姿が見えた。
◆
「よし……いいぞ、ブス女」
シルバー・バレットを走らせながら、ディエゴは満足そうに口元を吊り上げた。周囲から見れば独り言のようにしか聞こえないが、その意識はスケアリー・モンスターズを通じてユミルへ向けられている。
「そのままライナーの足を止めろ。急いで殺す必要はないから、動ける程度に残しながら弱らせろ」
命令は確実に届いていた。恐竜化したユミルは首やその他の致命部位を避けながら、脚、腕、脇腹と動きを阻害しやすい場所だけを集中的に削っていく。
ライナーの動きが止まれば、その分だけディエゴたちは追いつきやすくなる。さらに消耗が進めば、巨人化を維持できず人間へ戻る可能性も高くなるため、ディエゴにとって現在の戦況はかなり理想に近いものだった。
◆
「ねえ、ユミル!! やめて!! どうしちゃったの!?」
クリスタがライナーの頭部付近から必死に呼びかけても、ユミルから返事はなかった。恐竜へ変貌した身体はディエゴの命令に従い、ライナーを殺さない程度に削り続けている。
その光景を見ていたベルトルトは、声を出すことさえできなかった。目の前で起きていることを理解できないというより、理解したくないという思いの方が強く、自分にも同じことが起きたという事実が恐怖をさらに大きくしていた。
ユミルの身体は本人の意思とは無関係に化け物へ作り替えられた。自分も以前、意思に反して異形へ変わり、エレンにも同じ現象が起きている以上、次に変えられるのが誰であっても不思議ではない。
その考えに行き着いた瞬間、身体の芯から震えが走り、目には涙まで滲んだ。自分たちは地獄の中にいて、殺してきた人間たちの代わりに何か得体の知れない存在から裁きを受けているのではないかという考えさえ、現実味を帯びて感じられた。
猿轡を噛まされ、ライナー側に担がれていたエレンが、その時ようやく意識を取り戻した。
「んんっ……!」
エレンが身体を捩って暴れ始めたことで、ベルトルトの意識が一瞬だけそちらへ向く。その瞬間、頭の中に一つの疑問が浮かび、整理するより先に口から言葉となって漏れた。
「……どうして、僕はあの姿にならないんだ……?」
ベルトルトは自分の手を見たが、そこには何の変化も起きていなかった。牙も生えておらず、爪も伸びていないうえ、身体が恐竜へ変わり始める兆候も見当たらない。
後方で暴れているエレンも同じだった。現在のエレンは完全に人間の姿を保っており、以前のような異常変化が起きている気配はない。
もし何らかの毒や病気によって、あの異常な変身が引き起こされているのだとすれば、発症する時期がここまで都合よく偏るのは不自然だった。現在、変化しているのはユミルだけであり、しかもそのユミルはエレンやクリスタへ襲いかかることもなく、ライナーだけを消耗させるような戦い方を続けている。
あまりにも調査兵団にとって都合がよすぎる。まるで、誰かがユミルへ命令を与え、戦況そのものを操作しているかのようだった。
そこまで考えた瞬間、ベルトルトの中で、それまで別々に見えていた事実が一つの形へまとまり始めた。
「違う……」
もし誰かがこの状況を操っており、自分たちを巨人からさらに別の化け物へ変えることができるのだとすれば、その何者かにも条件があるはずだった。
自分とエレン、そしてユミルに共通する条件を考えれば、答えはそれほど多くない。これまで異常な変化が起きたのは、三人とも巨人化している時だけだった。
「……できないんだ」
ベルトルトの声が震えた。今の自分とエレンが安全なのではなく、単に変化させるための条件を満たしていないだけだと考えれば、これまでの出来事にも説明がつく。
そして、ライナーはいまだ恐竜のような異形へ変わっていない。自分が変わった時、エレンが変わった時、そしてユミルが変わった今、その近くには必ず同じ男がいた。
「ディエゴ……」
名前を口にした瞬間、ベルトルトの顔から血の気が引いた。だからこそ、ディエゴはあれほどの速度で先頭を走り、異形へ変わったユミルへ迷わず近づくことができるのだと考えれば、すべてが繋がる。
普通なら、正体不明の化け物へ変貌したユミルを前にすれば慎重になる。実際、ミカサとアルミン以外の調査兵団員たちは速度を落とし始めており、後方から追ってくる無垢の巨人との距離が縮まっているにもかかわらず、未知の存在へ自分から近づくことを躊躇していた。
しかしディエゴだけは、速度を落とすどころか一直線にこちらへ向かってくる。その理由が、自分だけは襲われないと知っているからだとすれば、今までの異常なほどの落ち着きにも説明がついた。
「そういうことか……ッ!」
ベルトルトの中で、確信に近いものが生まれた。
「ライナー!!!」
突然耳元で叫ばれたエレンが顔を上げる。
「この化け物は――」
そこまで言いかけたところで、ベルトルトはエレンの視線が自分ではなく、さらに後方へ向いていることに気づいた。
次の瞬間、すぐ背後から声が聞こえた。
「Good afternoon」
振り向く暇もなかった。ベルトルトの腕と口元へ同時に鋭い痛みが走り、エレンを押さえていた腕が大きく切り裂かれたうえ、猿轡を固定していた部分まで刃で断ち切られる。
「ぐああああああああああッ!!」
ベルトルトは悲鳴を上げながら地面へ転がり、拘束を失ったエレンの身体が宙へ放り出された。だが地面へ落ちる前に、ディエゴがその身体を空中で受け止めた。
「間一髪だったな」
「ディエゴ……助かったぜ!」
エレンが安堵の表情を浮かべると、ディエゴは僅かに口元を上げた。
「ああ。色々となぁ」
その言葉を残した直後、ディエゴはエレンを横方向へ放り投げた。
「うおっ!?」
少し遅れて到着したミカサが、投げられたエレンをそのまま受け止める。
「エレン!」
「ミカサ!」
続いてジャン、アルミン、コニーたち104期の面々も追いつき、倒れたベルトルトを取り囲んだ。ベルトルトは腕を切断され、口元から血を流しながら荒い呼吸を繰り返していたが、それでも視線だけはディエゴから外そうとしなかった。
その目には、同じ人間を見るものとは思えないほど強い恐怖が浮かんでいた。目の前にいるのが人間の姿をした何か得体の知れない化け物であると、本気で疑っているような目だった。
コニーはそんなベルトルトを見下ろしながら、苦しそうに口を開いた。
「……なあ。全部、嘘だったのか?」
ベルトルトが僅かに視線を動かす。
「お前ら……ほんとに何考えて、俺らと一緒に生活してたんだ……?」
続いてジャンも一歩前へ出て、怒りを隠そうともせずに言葉をぶつける。
「よく……被害者たちの前で、あんなにぐっすり寝れたもんだな……」
二人の言葉を受けたベルトルトの表情から、それまで浮かんでいた怒りが少しずつ消えていった。代わりに申し訳なさと罪悪感が入り混じったような顔になり、視線を落としたまましばらく黙り込む。
やがて、長い間押し殺してきたものが耐えきれなくなったように、ベルトルトは顔を上げた。
「誰が……誰が進んで人殺しなんかしたいと思うんだ!!」
その叫びに、周囲の同期たちは一瞬言葉を失った。
「好きでこんなことしてるわけじゃない! 僕だって……僕たちだって……!」
声が詰まり、目から涙が落ちる。
「誰か……僕たちを見つけてくれ……」
長い間抑え込まれていた苦しみが、その短い言葉へそのまま滲んでいた。
しかしディエゴは、そんなベルトルトへほとんど興味を向けなかった。静かに立ち上がると、ライナーがいる方向よりさらに前方へ視線を向ける。
「ああ……確かに、お前たちを見つけた奴らはいるな」
その言葉につられ、同期たちも同じ方向を見る。次の瞬間、全員の表情が一斉に変わった。
「ただし、スカスカの脳みそしかない巨人どもらしいが」
前方から、無数の巨人が押し寄せていた。その先頭を走っているのはエルヴィン・スミスであり、調査兵団団長は自分の後方へ巨人の群れそのものを引き連れてきていた。
「お前ら離れろ!!!」
ハンネスの怒鳴り声が響くと同時に、恐竜化したユミルが大きく跳んだ。狙いは鎧の巨人の首であり、ライナーも反射的に腕を上げようとしたが、ユミルの方がわずかに速かった。
エルヴィンが引き連れてきた巨人たちが一斉に押し寄せる中、兵士たちはそれぞれ別方向へ飛び退いた。ミカサもエレンを抱えたまま立体機動装置を噴かし、巨人の群れから距離を取っていく。
その混乱の中で、ディエゴは真っ先にユミルの頭部へ目を向けた。そこにはクリスタが取り残されている。
ユミルが鎧の巨人へ飛びかかるのとほぼ同時に、ディエゴは身を躍らせた。空中でクリスタの身体へ腕を回し、そのまま片腕で抱え込む。
「きゃっ!?」
突然身体が浮き、クリスタが反射的にディエゴの胸元へしがみつく。
「動くな」
短く告げられた直後、ユミルの牙が鎧の首元へ食い込んだ。硬質化した装甲へ亀裂が走り、さらに顎へ力が加わると、その一部が大きく砕け飛ぶ。
ほんの一瞬だけ、鎧の巨人の首から肩にかけて、内部の肉が外気へ晒された。
ディエゴはクリスタを抱えたまま、ユミルの肩を蹴って軌道を変えた。巨人の群れとユミルの身体が視界を遮る中、鎧の巨人の肩へ一瞬だけ接近する。
クリスタの意識は、突然自分を抱き上げたディエゴと、暴走したように見えるユミルへ向いている。だからこそ、ディエゴが空いた手を動かしたことには気づかなかった。
「もらった……」
ディエゴの手刀が、装甲の失われたライナーの肩を浅く切り裂いた。
「ぐあああああッ!!」
ライナーが咆哮する。
傷そのものは致命傷にはほど遠い。しかし、その裂け目を通じてスケアリー・モンスターズの力が確実に流れ込んだ。
ディエゴはそれ以上その場へ留まらず、クリスタを片腕に抱えたまま鎧の肩を蹴って離脱した。そのままシルバー・バレットの背へ戻ると、クリスタを腕の中へ収めたまま手綱を取り、巨人の群れから距離を取るために馬を加速させた。
「ディエゴ……!」
クリスタはようやく状況を理解し、息を整えながら彼の横顔を見た。巨人が押し寄せる中でも表情を崩さず、自分を片腕で抱えたまま馬を操る姿には、普段の傲慢さとは別の頼もしさがあった。
ほんの一瞬だけ、胸の奥が強く跳ねる。
しかし、それ以上にユミルのことが気になった。
「ユミルは!? お願い、離して! 私、ユミルのところへ行かないと!」
クリスタが身を捩ろうとするが、ディエゴの腕は緩まなかった。
「それはできない」
「でも!」
「ああなったユミルを今すぐ助けるのは難しい。あいつ自身が何をしているのかも分からない以上、お前まで近づけば余計に危険になる」
クリスタは唇を噛んだ。
「それでも、ユミルを一人には――」
「それに」
ディエゴが言葉を遮り、前方へ向けていた視線をゆっくり彼女へ戻した。
「お前が傷つくこと。それ自体がオレは耐えられない」
「……え?」
冗談めかした調子ではなかった。ディエゴはクリスタの目をまっすぐ見たまま、まるでそれが当然のことだと言うように、少しも視線を逸らさない。
クリスタの胸が、どきんと再び大きく鳴った。
戦場の喧騒が一瞬だけ遠くなったような気さえした。
だが、ディエゴの内心はまるで違っていた。ヒストリアという名前、壁の秘密を知るウォール教が名指しした人物、そして隠していた本名という三つの情報だけでも、この女が今後大きな価値を持つ可能性は十分にある。
ならば、今のうちから自分へ好意を向けさせておいて損はない。まして、少し甘い言葉を使うだけで信頼を深められるのなら安いものだった。
「……でも、ユミルが心配です」
そう言いながら、クリスタは無意識のうちにディエゴの服をつかんでいた。
「分かっている。だからこそ、お前が今ここで傷つく必要がないと言っているんだ。身も、心もな……」
ディエゴはそれ以上何も言わず、シルバー・バレットを走らせた。
クリスタも返事をせず、ただユミルのいる方向へ視線を向ける。しかし先ほどまでよりも強く、無意識のうちにディエゴの腕をつかんでいた。
◆
ライナーは首元と肩の損傷を再生させながら、内心で激しく歯噛みしていた。今の一撃が具体的に何を意味するのかまでは分からないものの、ディエゴがわざわざ危険を冒してまで自分へ直接触れたという事実だけで、十分すぎるほど嫌な予感がした。
傷そのものは深くなく、巨人の身体ならすぐに再生できる程度でしかない。だからこそ、目的が単なる攻撃ではなかったことだけは明らかだった。
自分も、ベルトルトやエレン、そしてユミルと同じように、あの異形へ変えられるかもしれない。今すぐ発動するのか、それとも次に巨人化した時なのかは分からないが、ディエゴに一杯食わされたことだけは間違いなかった。
しかも現在、自分たちは大量の無垢の巨人に囲まれつつある。ライナーが恐竜化したユミルへ視線を向けると、なぜか彼女は自分へ襲いかかるのをやめ、こちらへ向かってくる巨人を迎撃していた。
そこまで見れば、ディエゴが今の時点では自分を殺すつもりがないことも推測できる。ならば、もし本当に自分があの化け物へ変えられるとしても、それが起きる前に少しでも多く相手を削るしかない。
「うおおおおおおおおおッ!!」
鎧の巨人が咆哮し、自分へ飛びかかってきた無垢の巨人を掴んだ。そのまま大きく振りかぶり、調査兵団の方角へ向けて巨体を投げ飛ばす。
◆
「フン……ちょいとばかり傷が浅かったようだな、ライナー。まだまだ元気じゃあないか」
ディエゴはクリスタを片腕で抱えたまま、もう片方の手だけでシルバー・バレットの手綱を操っていた。飛んでくる巨人の軌道を見切り、身体を伏せさせたり、進路をわずかにずらしたりしながら、巨体の間を紙一重ですり抜けていく。
クリスタは激しい揺れのたびにディエゴの腕や服を強くつかんでいたが、ディエゴはそれを気に留める様子もなく、片腕で彼女の身体をしっかり支え続けていた。
「だが、地球上の生物で恐竜の動体視力にかなうものはない」
ディエゴの目には、自分へ向かってくる攻撃の軌道も速度も、次に何が来るのかという流れも、十分に追うことができていた。前世で経験した戦いと比べれば、ただ巨体を投げつけてくるだけの攻撃に対応することは、それほど難しいものではない。
ジャイロ・ツェペリやジョニィ・ジョースターと潰し合った、あの丘での攻防はもっと複雑だった。何が飛んでくるか分からない能力を相手にしながら、一瞬の判断を誤れば即死する状況で、相手の意図を読み、罠を読み、そのさらに裏まで読み合わなければならなかった。
それに比べれば、鎧の巨人が力任せに投げてくる巨体など、軌道さえ見えていればかわすことは容易だった。しかも今はクリスタを抱えているとはいえ、その程度でシルバー・バレットの動きを鈍らせるほど、ディエゴの騎乗技術は甘くない。
どのみち自分に支配されるライナーの抵抗など無駄だと、ディエゴは心の中で嘲笑する。すでにスケアリー・モンスターズを仕込んだ以上、この先どれだけ足掻いたところで、自分の掌から逃げ切れるとは思えなかった。
その時、ライナーが投げた巨人の一体が、ディエゴの横を大きく逸れて飛んでいった。最初は狙いが甘いだけかと思ったが、着地点を見た瞬間、ディエゴの目が細くなる。
巨人が向かっている先には、ミカサとエレンがいた。
「チッ!」
巨体が地面へ叩きつけられ、その衝撃で土と石が一気に爆ぜる。エレンを抱えていたミカサの馬は大きく体勢を崩し、完全に立て直すことができないまま、二人とも地面へ投げ出された。
ディエゴはクリスタを抱えたまま舌打ちし、その瞬間にライナーの意図を理解した。自分へ巨人を投げれば避けられることは、すでに向こうも分かっている。だからこそ、ディエゴが回避する方向を見たうえで別の個体を本命として投げ、同時に自分がどのように動くのかまで観察していたのだ。
「なるほど……オレにあえて投擲をかわさせて、本命はあちらか。そこでオレの動向まで見ているというわけだ」
口元から笑みが消える。一杯食わされたのは、こちらも同じだった。
さらに別の無垢の巨人が、地面へ落ちたエレンへ向かって走り始める。
ディエゴは一瞬、エレンを恐竜化させて逃がすことを考えたが、すぐに不可能だと判断した。スケアリー・モンスターズによる変化には時間がかかり、直接触れれば早められるとしても、この距離では到底間に合わないうえ、兵団の目の前で能力を露骨に使うわけにもいかない。
ライナーを恐竜化させても状況は変わらない。今まさにエレンへ迫っているのは別の巨人であり、ライナーを操作したところで、その一体を止めるまでには間に合わない。
「これは……」
ディエゴの額を、冷たい汗が一筋流れた。自分の手が届かず、計算を重ねても時間そのものが足りないという感覚は、彼にとって久しく味わっていなかったものだった。
その瞬間、エレンが何かを叫んだ。距離があるためディエゴには言葉まで聞き取れなかったが、その声へ応じるように、エレンへ向かっていた巨人へ別の巨人たちが一斉に襲いかかった。
ディエゴは思わず目を見開いた。一体だけではなく、複数の巨人がまるで同じ命令を受けたかのように進行方向を変え、人間ではなく別の巨人へ襲いかかっている。さらに離れた場所にいる個体まで、エレンの意思へ従うように動き始めた。
腕の中にいるクリスタも、その異常な光景に息を呑んだ。
「巨人が……エレンの言うことを……?」
ディエゴは答えなかった。
その光景を見た瞬間、彼の頭の中へ、これまで得てきた情報が一気に流れ込んでいた。アニから聞いたマーレの話、九つの巨人、戦士たちの目的、壁内へ潜入した理由、そして彼らが何年もの間追い求め続けていたものが、一つの答えへ収束していく。
座標。
ディエゴは声を出さなかった。ただ、驚愕に見開かれていた目が徐々に細まり、口元へ抑えきれない笑みが浮かんでいく。
――あいつなんだ。あいつが、ライナーやアニたちが追い求めていた『座標』。
これまで別々だった情報が、今ようやく完全に繋がった。ライナーたちがエレンを執拗に求める理由も、マーレが壁内へ戦士を送り込んだ理由も、エレンが他の巨人とは違う価値を持っている理由も、すべて巨人を操るこの力へ繋がっている。
――なんということだ…!!すでにして、このDioが手にしていたんだッ!!!
エレンにはすでにスケアリー・モンスターズを仕込んでいるため、ディエゴはその肉体へある程度干渉することができる。そして今、そのエレン自身が無垢の巨人たちへ命令を与え、実際に従わせている。
つまり、自分がすでに手中へ置いている人間が、巨人そのものを支配する力まで持っていることになる。
その事実を理解した瞬間、胸の奥から圧倒的な高揚感が込み上げた。暗闇の中へ突然光が差し込んだような、何もかもが自分のために繋がったと思えるほど清々しい感覚だった。
――そうか。そういうことか。
ディエゴは腕の中のクリスタを抱えたまま、エレンと、その周囲で命令に従う巨人たちを見渡しながら、心の中だけで笑った。
――オレはすべての生物界の頂点に立ったッ!!!支配してやるぞッ!!!マーレも、巨人も!!上からとことんなッ!!!
人間も動物も巨人も、自分より下へ並び始めている。そのすべての頂点へ自分自身がぴたりとはまり込んだように感じられ、ディエゴの中では長い間求め続けてきた「上に立つ」という欲望が、これまでになく具体的な形を取り始めていた。
ただし、この時のディエゴはまだ知らなかった。自分が見つけた「座標」という力が、彼の想像より遥かに巨大であり、同時に遥かに厄介な条件と意思によって動く力だということを。