壁の上へたどり着いた時、ようやく追撃の気配が遠ざかった。夕暮れの光が石畳を赤く染め、生き残った兵士たちは互いの顔を確かめるように周囲を見回していた。エレンの奪還には成功したものの、その代償はあまりにも大きく、誰も勝利を喜ぶ気にはなれなかった。
ディエゴは腕に抱えていたクリスタを見下ろした。壁の上まで気丈に意識を保っていた彼女は、安全な場所に着いたと悟った途端、糸が切れたように気を失っていた。彼は近くに敷かれた布の上へ彼女を静かに寝かせ、兵士から受け取った毛布を肩まで掛けると、何事もなかったように立ち上がった。
「……クリスタ、大丈夫かな」
サシャが心配そうに覗き込むと、ディエゴは彼女の顔色を確かめながら答えた。
「疲労と緊張が限界に来たんだろう。呼吸は落ち着いているし、今は眠らせておけ」
少し離れた場所では、アルミンがエレンと向き合っていた。彼の頭から離れないのは、撤退の直前に起こった不可解な現象だった。エレンの叫びに呼応するように巨人たちが動き、鎧の巨人へ襲いかかったのである。
「エレン、さっきのことを覚えてる? あの時、君が巨人たちを動かしたんじゃないかと思うんだ」
「……分からねえ。俺も必死だったし、何をどうしたのかなんて覚えてないんだ。ただ、あいつを許せないと思って……それから巨人が動き出した」
「もし本当にそんなことができるなら、すごい力だと思う。エレンには、まだ自分でも知らない可能性があるのかもしれない」
ミカサはエレンの肩に手を置き、落ち着いた声でそう言った。コニーも勢いよく頷き、あれだけの巨人を一度に動かせるなら壁の奪還だって夢ではないと口にした。アルミンも同意したが、その胸中には別の疑問が重く残っていた。
――どうして今回は、エレンがあの化け物にならなかったんだろう。
以前、エレンの巨人が異形の姿へ変わった時には、誰にも説明できない力が働いていた。今回も彼は生命の危機にさらされていたのに、その変化は起きなかった。巨人を操る現象と、巨人を別の生物へ変える現象に関連があるのかさえ不明であり、アルミンは考えるべき問題が増え続けることに頭を抱えた。
「……ユミル!」
突然の叫びに、全員が振り返った。クリスタが毛布を跳ねのけ、起き上がろうとしていたのである。彼女は立ち上がった途端によろめいたが、すぐそばにいたディエゴが腕を伸ばし、倒れる前に身体を支えた。
「無理するな。今のお前が走り出したところで、壁の下へ落ちるだけだぞ」
「ディエゴ……!」
すぐ近くで見上げた彼の顔は、疲労の色をほとんど見せていなかった。整った目鼻立ちと、こちらの状態を見定める真剣な眼差しに、クリスタの心臓が一瞬だけ速くなる。しかし彼女はすぐに首を振り、ディエゴの上着を両手で掴んだ。
「お願い、ユミルを助けて! あなた、すごく強い人なんでしょう!? だったら、あの人を連れ戻してよ!」
「おい、クリスタ。落ち着けって!」
エレンが立ち上がり、ジャンも彼女をなだめようと一歩踏み出した。だがディエゴは片手を上げて二人を制し、クリスタへ視線を戻した。責めることも、安請け合いをすることもなく、ただ続きを待っている。
「ユミルはライナーたちに連れていかれたの! しかも、あの人まで化け物みたいな姿に変わって……。早くしないと、ユミルがどうなるか分からない。私、あの人を……」
言葉を重ねるうち、クリスタは自分の声が震えていることに気づいた。ディエゴが静かに聞いているせいか、胸の内を占めていた焦りが少しずつ形を変え、ようやく今の状況を考えられるようになる。彼女は上着を掴んでいた手を緩め、申し訳なさそうに俯いた。
「……ごめん。私、全然冷静じゃなかったね」
「気にするな。お前が友人だと思っていたユミルに、あれだけのことが起きたんだ。取り乱すのは当然だろう」
ディエゴは穏やかに答え、ずり落ちていた毛布をもう一度彼女の肩へ掛け直した。
「それに、自分で気づいて落ち着けたじゃあないか。今は身体を休めろ。助ける方法を考えるにしても、まず何が起きたか整理する必要がある」
「……ありがとう、ディエゴ」
クリスタは毛布の端を握り、少し頬を赤くして微笑んだ。エレンとジャンは顔を見合わせ、コニーも珍しく感心した様子で頷いている。あのディエゴが、取り乱した相手を馬鹿にもせずに落ち着かせたのだから、驚くのも無理はなかった。
サシャも二人を見ていた。クリスタがディエゴを見上げる眼差しに気づくと、胸の奥がわずかに痛んだが、それとは別に、彼の振る舞いには奇妙な違和感を覚えた。自分に対する時のような遠慮のない言葉ではなく、相手が最も安心する言葉を選んでいるように聞こえたからだ。
その直感は、間違っていなかった。
ディエゴはクリスタの名前を、別の場所でも聞いていた。ウトガルド城跡でユミルが口にした「ヒストリア」という名と、ウォール教の関係者から得たヒストリア・レイスに関する情報が、彼の頭の中で一つにつながっていたのである。目の前の少女が王家の血に関わる人物であるなら、政治的に利用できる価値は計り知れない。
――今のうちに恩を売っておくのは悪くない。
彼はそう判断していた。そうでなければ、取り乱した小娘をここまで丁寧に扱う理由などない。クリスタへ向けた優しい表情の裏で、ディエゴはすでに彼女をどう使うべきか考え始めていた。
「……エレン」
場の空気が少し落ち着いたところで、ジャンが口を開いた。いつもの皮肉を含んだ調子ではなく、ひどく疲れた声だった。
「お前を取り戻すために、お前の知り合いのおっさんも死んだ。ほかにも大勢やられて、兵士の六割が戻らなかった。団長だって片腕を食われたんだ」
エレンは唇を噛んだ。ジャンはその表情を見ながらも、言葉を止めなかった。
「つらいのは分かる。でも、もしお前に本当に巨人を操る力があるなら、死んだ人たちを無駄にするかどうかは、これからのお前次第なんじゃねえのか」
「……ああ。分かってる」
エレンは俯いていた顔を上げた。失ったものの大きさに押し潰されそうになりながらも、その目には再び強い意志が宿っていた。
「俺は、絶対にこの力を使えるようになる。あいつらの死を、無駄にはしねえ」
「それでいい」
ディエゴが短く同意すると、エレンは意外そうに彼を見た。だが、その同意の意味は、エレンが考えているものとはまるで違っていた。
――巨人を操る力か。発動条件さえ分かればお前などに用はない。
エレンを恐竜化させ、その力を自分のものとして扱えるようにする。巨人を支配する能力を利用して壁内の秩序を崩し、必要なものをすべて奪った後は、エレンも用済みになる。ディエゴにとっては、百四期の同期も壁内の住民も、頂点へ上り詰めるための障害でしかなかった。皆殺しにすることさえ、計算の中にあった。
ただし、今はその時ではない。ディエゴはいつもの不遜な表情を保ったまま、決意を固めたエレンを静かに眺めていた。
*
数日後、負傷したエルヴィンが療養する病室を、ピクシス、リヴァイ、ハンジ、そしてコニーが訪れた。片腕を失ったエルヴィンは寝台の上で身体を起こし、彼らが持ち込んだ報告に耳を傾けていた。窓の外では穏やかな日差しが差していたが、室内で交わされる話は決して穏やかなものではなかった。
「ラガコ村の家屋には、巨人が侵入した形跡がほとんどありませんでした。それなのに住民は消え、村には動けない巨人が残されていたんです」
ハンジは調査結果を説明し、コニーへ目を向けた。コニーは拳を握りしめ、苦しそうに言葉を継いだ。
「……あの巨人、俺の母ちゃんに似てたんです。最初はそんなはずないって思ったけど、家の上にいたあいつが、俺に話しかけたように聞こえて……」
コニーは最後まで言い切れなかった。ハンジは彼の代わりに、ラガコ村の状況とこれまでの巨人に関する情報を照らし合わせれば、巨人の正体が人間である可能性は極めて高いと説明した。病室には重苦しい沈黙が落ち、ピクシスは長い髭に手を添えた。
「……つまり、我々が長年戦ってきた相手は、もとは人間だったというわけか」
「まだ全容は分かりません。ただ、今までの前提を改める必要があります」
ハンジが答えると、エルヴィンは静かに頷いた。しかし彼の関心は、それだけにとどまらなかった。
「だが、今回も別の問題が起きた。ユミルの巨人まで、あの異形の生物に変わったそうだな」
エルヴィンはコニーを見た。コニーは緊張した面持ちで頷き、あの異様な変化を確かに目撃したと答えた。ピクシスも報告は受けていたが、その仕組みについては何の説明も得られていない。
「超大型巨人が壁を破壊した時には、同じく異形の姿となって壁を壊した。女型と鎧の巨人に対しては敵対するように動きながら、後には鎧の巨人を守る行動まで見せた。あれは一体、何を目的としておるのかのう」
「条件が分からねえな」
リヴァイは腕を組んだ。
「命の危機に反応するなら、超大型とユミルの時が説明できねえ。好きな時に変われるなら、今までの行動がちぐはぐすぎる。何か制約があるのか、そもそも俺たちが見ているものが間違ってるのか」
「一つ、はっきりしておることはある」
ピクシスが口を開くと、全員の視線が集まった。
「あの化け物は、知性を持つ巨人を殺しておらん。圧倒するだけの力を見せながら、殺さず、捕らえもしない。少なくとも、この一点だけを見れば、我々の味方だと断定することはできんじゃろう」
「私も同意見です。ただし、敵とも断言できません」
エルヴィンは落ち着いた声で続けた。
「明確に我々の利益へ反する行動を取ったのは、超大型巨人による壁の破壊に関わった時くらいでしょう。しかし、超大型巨人はもともと壁を破壊するために現れた存在だと考えると、あの変化がなくとも、結果は同じだった可能性があります」
ハンジは難しい顔で頷き、リヴァイも異論を挟まなかった。ピクシスはしばらく考え込んでいたが、やがてエルヴィンへ続きを促した。
「コニー、報告は十分だ。君は少し休んでくれ」
「……はい」
エルヴィンに促され、コニーは一礼して病室を出た。扉が閉まり、足音が遠ざかったことを確かめると、エルヴィンは残る三人へ向き直った。
「私は、あの異形の出現に関わっている者が、調査兵団の内部にいる可能性を考えている」
ハンジとリヴァイの目が見開かれた。ピクシスだけは表情を変えず、黙って耳を傾けている。
「もし外部の人間が自由に巨人を変化させられるなら、壁内外の各地で同じ現象が起きていてもおかしくありません。しかし確認されている事例は、いずれも兵士がいる場所で発生している。そのうち二件は壁外で、しかも三件とも今年に入ってからの出来事です」
「……104期の誰か、ってことか?」
リヴァイが目を細めた。
「断言はできない。壁外に別の勢力が存在し、我々の行動を追っている可能性もある。ただ、内部の人間を疑う根拠としては無視できないだろう」
「もし仲間にできるなら、ぜひ協力してほしいね!」
ハンジの声が急に弾んだ。
「あの変化がどういう仕組みで起きるのか、何が条件なのか、調べたいことが山ほどある。巨人を別の生物に変えられるなんて、これまでの常識が根底から覆るじゃないか!」
「落ち着け、クソメガネ」
リヴァイは冷ややかに言った。
「仲間になれば助かるのは確かだが、協力する気があるなら最初から姿を見せてるだろう。正体を隠してる以上、簡単に味方へ引き込めるとは思えねえ」
「その通りじゃな」
ピクシスも頷いた。
「今は壁の中が混乱の極みにある。いつ内部で争いが始まっても不思議ではない状況で、正体の分からぬ存在を追い回す余裕はあるまい。巨人の正体についても、扱いを誤れば取り返しがつかん」
「私も同じ考えです。まず優先すべきは、エレンとヒストリア・レイスの身柄を守ることでしょう」
エルヴィンは二人の名を口にし、それぞれの重要性を説明した。エレンの巨人化能力は壁の奪還に直結し、ヒストリアの出自をたどれば、巨人について情報を握る組織へ近づける可能性がある。どちらも今後の作戦に欠かせない存在だった。
「エレンにはミカサとアルミンをつけたい。ヒストリアの護衛にはディエゴが適任でしょう。彼がそばにいれば、少なくとも身の安全を確保できる見込みは高い」
「……あいつらの面倒は俺が見る」
リヴァイが答えた。
「腕を食われた奴に、これ以上ガキのお守りまでさせるのは気の毒だからな。俺が決めた」
エルヴィンはかすかに笑った。リヴァイは面白くなさそうに舌打ちし、続けた。
「ただし、ほとんどガキばかりだ。おまけにディエゴはほんとに面倒くせえ。あいつの監視役にはサシャ・ブラウスをつける」
「へえ、面白い配置だね」
ハンジが笑った。
「ヒストリアにディエゴがついて、ディエゴにはサシャがつくわけか。誰が誰の世話をしてるんだか、分からなくなりそうだ」
「少なくとも、あいつはサシャの言うことなら聞くことがある。使えるものは使うだけだ」
リヴァイの言葉に、ハンジはますます愉快そうに笑った。エルヴィンはそのやり取りを聞きながら、これから編成される新しい班が、従来とは違う役割を担うことになると考えていた。
*
トロスト区から離れた山奥に、かつて調査兵団が補給基地として使っていた建物があった。人目につきにくいその施設へ移動した一行は、到着するなり荷車から物資を降ろし、寝具や食料を屋内へ運び始めた。建物には長く使われていなかった形跡があり、床や窓枠には埃が積もっていた。
「サシャ、勝手に食うんじゃあないぞ」
木箱を持ち上げながら、ディエゴが言った。
「さすがに今は食べませんよ!」
「今は、か。後でなら食うつもりなんだな?」
「そういう意味じゃありません!」
サシャは頬を膨らませ、両腕に抱えた荷物を運んでいった。ディエゴはその背中を一瞥すると、次の木箱へ手を伸ばした。
「おい、ジャン! ちゃんと靴の泥を落としてから入れよ。リヴァイ兵長に見つかったら怒られるぞ!」
エレンが入口で注意すると、ジャンは苛立った声を上げた。
「うるせえ! てめえはオレの母ちゃんか!」
「お前が汚いまま入ろうとするからだろ!リヴァイ兵長が見たら…!」
「だったら自分の仕事してろ!」
コニーが横から笑いながら口を挟み、二人の言い争いはさらに騒がしくなった。アルミンは止めるべきか迷った末、まず荷物を運ぶ方が先だと判断し、黙って通り過ぎていった。
ディエゴは騒ぎを完全に無視し、廊下の向こうにいたヒストリアへ歩み寄った。彼女は自分の荷物を抱え、どの部屋へ運ぶべきか迷っていたところだった。
「ヒストリア。なるべくオレから離れるなよ」
「……え?」
「お前の護衛はオレの役目になった。どこにどんな邪悪が潜んでいようと、この世のどんな不幸が降りかかろうと、オレがお前を守ってやる」
ヒストリアは思わず彼を見上げた。何のためらいもなくそんな言葉を口にできることが信じられず、頬がみるみる赤くなっていく。
「……う、うん。ありがとう、ディエゴ」
「礼はいらない。お前の無事がオレの任務だからな…」
ディエゴは自信に満ちた笑みを浮かべ、彼女の荷物を受け取った。ヒストリアは照れたように俯いたが、その口元には隠しきれないにやつきが滲んでいた。
少し離れた場所で見ていたミカサは、無言で眉をひそめた。訓練兵時代からディエゴを知っている彼女には、あの男が何の目的もなく他人へ甘い言葉をかけるとは思えなかった。以前はヒストリアにあれほど関心を示していなかったくせに、今では誰よりも頼れる男を演じているように見える。
――絶対に、利用しようとしている。
ミカサはそう確信していた。兵士としてのディエゴの実力は認めているが、人間として信用できるかどうかは別問題だった。しかしヒストリアの護衛は正式な任務であり、彼女が今ここで異議を唱えたところで、配置が変わるわけでもない。
「ディエゴ!」
その時、サシャの声が響いた。
「そんなところで格好つけてないで、荷物をもっと運んでください!」
ディエゴはゆっくり振り返った。
「……何ィ?」
「私もリヴァイ兵長から、あなたの補佐をするように言われてるんですからね。ちゃんと働いてもらいます!」
サシャは胸を張った。両手にはすでに荷物を抱えているというのに、さらに積まれた木箱を顎で示し、ディエゴへ運ぶよう促している。
「……オレに命令する気か?」
「補佐です! 補佐として、仕事が進むように言ってるんです!」
「……フン。口だけは一人前になったな」
ディエゴは肩をすくめたものの、言い返す代わりに木箱を二つ持ち上げた。サシャは満足そうに笑い、彼の隣へ並んで歩き出す。
「ありがとうございます、ディエゴ!」
「礼を言うくらいなら、途中で食料をつまみ食いするなよ」
「しませんってば!…多分」
二人はいつもの調子で言い合いながら、建物の奥へ消えていった。ヒストリアはその後ろ姿を眺め、ミカサは相変わらず納得できない顔をしていた。
一方、入口付近ではエレンとジャンとコニーが、揃ってその光景を目撃していた。あれほど尊大なディエゴが、サシャに言われただけで文句を言いながらも荷物を運んでいったのである。
「……なあ、今の見たか?」
エレンが呟くと、ジャンは黙って頷いた。
「見た。あいつ、結局言うこと聞いてたよな」
「……やっぱりサシャって、すげえんじゃねえか?」
コニーが真顔で言った。エレンとジャンはしばらく考え込み、それからほとんど同時に頷いた。
「……ああ。あいつに命令できる奴なんて、そうそういねえ」
「リヴァイ兵長でも面倒くさがる相手だぞ。サシャ、どうなってんだよ……」
こうして、百四期の男子たちの間で、一度は冗談として語られた『サシャ最強説』が再び浮上した。もっとも、その当人は何も知らず、ディエゴが運んだ食料箱の中身を気にしながら、楽しそうに廊下を歩いていた。
新しい拠点での生活は、まだ始まったばかりだった。