旧・調査兵団補給基地へ移り、ようやく全員が腰を落ち着けた頃には、日暮れ前の冷たい空気が建物の中へ入り込み始めていた。長く使われていなかった施設だけあって、床には薄く埃が積もり、棚の隅には蜘蛛の巣が残っている。ひとまず使える部屋を確保し、最低限の掃除を終えた一同の前で、リヴァイは無言のまま床へ視線を落としていた。
「……お前ら」
低い声が響いた瞬間、エレンの肩が目に見えて跳ねた。雑巾を握ったまま固まった顔には、明らかに「やっちまった」と書いてあり、ジャンとコニーも揃って視線を逸らしている。ミカサだけは平然としていたが、アルミンはリヴァイの視線の先を確かめ、小さく息を呑んだ。
「これで掃除したつもりか?」
「いや、その……一応、かなりやったつもりなんですけど」
「つもりで埃が消えるなら苦労はしねえ」
リヴァイが床板を指でなぞると、指先に薄い灰色の汚れが付いた。それを突きつけられたエレンは完全に言葉を失い、ジャンが小声で「だから言っただろ」と呟く。ただし、その本人の持ち場も大差ないことは全員が知っており、誰も相槌を打とうとはしなかった。
一方のディエゴは、自分には何の関係もないという顔で椅子に座り、腕を組んでいた。掃除に積極的だったかと問われれば答えは否だったが、リヴァイに睨まれても眉一つ動かさない。その態度を見たリヴァイは、汚れた指先を拭いながら彼へ向き直った。
「お前もだ、ディエゴ」
「何の話だ?」
「その態度から先に掃除してやろうか」
「遠慮しておく」
即答したディエゴを、リヴァイはしばらく鋭く見つめていた。しかし、今は床の埃より優先すべき話があるらしく、舌打ちを一つすると壁際へ移動した。エレンもそれを見て雑巾を置き、改めて姿勢を正した。
「掃除の話は後だ。エレン、お前には予定通り巨人化の実験を続けてもらう。硬質化ができるなら、それを使って壁の穴を塞ぐ計画にも変更はねえ」
「はい」
エレンは表情を引き締め、壁の奪還に直結する自分の力を思いながら頷いた。先日の一件では巨人を操った可能性まで浮上しており、実験によって明らかにすべきことはさらに増えている。一刻も早く能力の条件を突き止めたいという思いは、誰に命じられるまでもなく本人の中にあった。
だが、ハンジはその返事を聞いてから眼鏡の位置を直し、珍しく重い表情で口を開いた。いつもの好奇心に満ちた調子は消え、エレンの意気込みを前にしても、すぐに実験の話へ進もうとはしない。その様子に気づいた一同は、何かあったのだと察して口を閉じた。
「ただし、すぐに始めるのは待ってほしい。状況が一つ変わった」
「何かあったんですか?」
「ニック司祭が殺された」
ニック司祭の死が告げられた瞬間、部屋の空気が張り詰めた。エレンは目を見開き、アルミンの表情からも血の気が引いていく。ヒストリアは思わず胸元の布を握りしめ、食料袋を運んでいたサシャも、その場で足を止めた。
「殺されたって……誰に?」
「中央第一憲兵の連中が絡んでいる可能性が高い。爪を十枚、全部剥がされていた」
ハンジが吐き捨てるように言うと、リヴァイはわずかに目を細めた。拷問の痕跡を聞くだけで、ニックがどれほど執拗に口を割らせようとされたのかは想像がつく。それでも爪を十枚剥がすところまで続けたのなら、相手は容易に答えを得られなかったのだろう。
「なら、あのジジイは口を割らなかっただろうな」
「私もそう思う」
ニック司祭は決して善人ではなく、壁の秘密を抱えたまま多くの人間を見殺しにした男だった。そのことへの怒りはハンジの中にも残っていたが、それでも最後まで何かを守ろうとしたことだけは認めざるを得ない。彼が死んだ今、その秘密を隠そうとする者たちが、自分たちへ手を伸ばしてくる可能性も無視できなかった。
リヴァイは全員の顔を見回し、誰もこの話を他人事として聞いていないことを確かめた。その上で、今後の選択肢を一つずつ切り分けるように、静かに言葉を続けた。
「中央のどこかに、エレンとヒストリアを奪いたい連中がいる。こっちにゃ、まだあのバケモンの正体すら掴めてねえが、こうなった以上、取れる選択肢は二つだ。後ろから刺される前に外へ出るか、後ろから刺そうとしてる奴を先に潰してから外へ出るかだ」
「両方やろう」
ハンジは迷う素振りもなく答え、リヴァイを見据えた。いつものような冗談めいた響きはなく、眼鏡の奥の目だけが冷たく据わっている。
「中央の動きを探りながら、エレンの力も進める。両方やらなきゃいけないのが調査兵団のつらいところだけどね」
「……エルヴィンなら、そう言うだろうな」
リヴァイは小さく息を吐き、ハンジの方針を受け入れた。二人のやり取りを聞いていた一〇四期の面々も、自分たちがこれから何を相手にするのかを理解していく。壁の外にいる巨人だけでなく、内側にいる人間からも身を守らなければならないのだという現実が、誰の胸にも重くのしかかっていた。
*
しばらくして話し合いはいったん打ち切られ、一同はキッチンへ移って夕食の準備を始めた。古い鍋や食器を洗い、保存食と野菜を並べていく中で、コニーは包丁を握りながら難しい顔をしている。ただ、その顔つきからすると、先ほどの話を整理しているというより、半分も理解できずに持て余しているらしかった。
「正直、中央とか憲兵とかはよく分かんねえけどよ」
「そこを堂々と言うなよ」
ジャンが呆れたように突っ込んでも、コニーは気にせず野菜を切り続けた。分からないことを無理に取り繕う気はないらしく、包丁を動かす手元を見つめたまま、自分にとって確かな問題へ話を移した。
「でも、あの猿みてえな巨人だけは絶対にぶっ殺さなきゃいけない。あいつがオレの村のみんなを巨人にしたんだろ」
その言葉を聞いたディエゴは、鍋の横で食材を分けていた手を止めた。コニーの怒りそのものよりも、今初めて耳にした巨人の特徴が気になったらしく、顔だけをそちらへ向けた。
「待て。猿のような巨人だと? そいつも知性巨人なのか?」
「ああ。でっけえ猿みたいなやつだ。喋るし、他の巨人に命令してた」
「そうか。普通の巨人とは違うわけだな」
「ああ。間違いねえよ」
ディエゴの瞳に、わずかな光が宿った。自分が不在の間に、そのような存在が現れていたとは聞いていない。他の巨人に命令を与えられるという話が確かなら、単に知性を持つ巨人よりも、はるかに使い道がある可能性すらあった。
「ユミルだって、いろいろ知ってたくせに何も言わなかったしよ。あいつもひでえよな」
コニーが不満げに続けると、ヒストリアがすぐに顔を上げた。ユミルのことだけは黙って聞き流せないらしく、先ほどまで伏せていた目に明らかな反発が浮かんでいる。
「ユミルには、ユミルなりの事情があったと思う」
「でもよ――」
「少なくとも、私たちを助けてくれたことまで嘘じゃない。そこは忘れないでほしい」
強い口調ではなかったが、ヒストリアの声には譲る気のない響きがあった。コニーも助けられたことまで否定するつもりはなかったのか、それ以上は言い返さない。気まずそうに頭を掻くと、再び野菜へ視線を戻した。
しかし、ディエゴの興味はすでにユミルから離れ、猿の巨人へ向かっていた。知性を備えた上で他の巨人に命令を与えられるのなら、エレンの力と同様に、その条件を調べる価値がある。人間から変じるものなのか、それとも別の種類なのかは分からないが、能力を確かめれば使い道はいくらでも考えられた。
自分がいない時に現れたというその巨人を必ず見つけ出し、手駒にしてやるつもりで、ディエゴは新たな目的を頭の中へ加えた。エレンの力に加え、壁の内側に潜む権力と猿の巨人まで、自分の前には次々と未知のものが現れる。面倒事が増える一方で、頂点へ至るために使える材料もまた増えているのだと、彼は考えていた。
そうして考えを整理しながら顔を上げると、少し離れたところにいたヒストリアと目が合った。彼女は一瞬だけ動きを止め、頬をわずかに赤くすると、慌てて視線を逸らした。ディエゴはその反応を見て口元を薄く緩めたが、すぐに彼女の背後にある問題へ意識を戻した。
ヒストリアを懐柔すること自体は、恐らく難しくないだろう。むしろ問題なのは、彼女の血筋に何が隠され、その先に誰がいるのかということだった。そこを見極めなければ、利用するどころか自分が足をすくわれかねないと、先ほど聞いたばかりの話を思い返した。
*
夕食の準備に取りかかる少し前、全員が集まった部屋で、ヒストリアは自分の生い立ちを語っていた。レイス家の領地にある牧場で育った彼女は、母からほとんど愛情を向けられず、触れようとすれば突き飛ばされたという。自分がなぜそこにいるのかさえ分からないまま、誰にも必要とされていないのだと思って、幼少期を過ごしていた。
そんな日々が続く中、ある夜、ヒストリアの前にロッド・レイスが現れた。彼女はその時初めて、自分を迎えに来た男が父親なのだと知った。しかし、ロッドがヒストリアと母を連れて行こうとしたところへ、黒ずくめの男たちが現れ、行く手を囲んだ。
ロッドも含め、そこにいる男たちは黒いスーツを着て、黒いハットをかぶっていた。彼女たちを囲む者の顔には感情らしいものがなく、その中の一人がナイフを抜いて母の喉元へ刃を向けようとした瞬間、場違いなほど穏やかな声が響いた。
「レイス卿……皆さん。そこまでなさる必要がありますか?」
黒一色の集団の中から、一人の男がゆっくりと歩み出た。周囲が徹底して黒で統一されている中、その男だけが異様なほど鮮やかな白をまとっている。母の喉元へ向けられた刃から視線を動かしたヒストリアは、否応なくその姿に目を奪われた。
男は仕立ての良い白いスーツに身を包み、金色の髪をオールバックに整え、側頭部にはリングのような独特のカールを作っていた。引き締まった長身と整った顔立ちは、周囲の男たちとは明らかに異なっている。黒装束の一団が夜の闇に溶け込む中で、その人物だけは、暗闇へ差し込んだ一筋の光のように見えた。
「消すという判断そのものには同意しますが、ナイフまで使うというのは、いささか乱暴では?」
ナイフを構えていた男は露骨に顔を歪め、白い男を睨みつけた。口を挟まれたこと自体が気に入らないらしく、返す声にも敵意が剥き出しになっていた。
「黙れ、ヴァレンタイン。貴様など、卿の後ろ盾がなければ今すぐ始末してやってもいいんだぞ」
*
そこまで聞いた瞬間、ヒストリアの話に耳を傾けていたディエゴの目が見開かれた。普段ならどれほど意外な話を聞いても崩れない表情が、ほんの一瞬、はっきりと揺らいだ。彼の反応に気づいたヒストリアは、続けようとしていた言葉を止めた。
「……今、何と言った?」
ヒストリアは戸惑いながらディエゴを見た。名前を聞いただけで、なぜそこまで反応するのか分からず、周囲の面々も同じ疑問を抱いたように彼へ視線を向けている。
「え?」
「その男の名だ。もう一度言え」
「確か……ヴァレンタインって呼ばれてたと思うけど」
その名が繰り返されてから数秒間、ディエゴは身じろぎもしなかった。聞き違いを疑っていたのか、それとも記憶を確かめていたのか、表情からは読み取れない。返事のないまま黙り込んだ彼を見て、エレンが怪訝そうに眉を寄せた。
「ディエゴ? どうしたんだよ」
「……別に」
ディエゴは低く答えると、椅子へどかりと座り直した。平静を装ってはいるものの、先ほどまでとは明らかに雰囲気が違い、エレンの問いにまともに応じるつもりもないらしかった。
「大したことじゃあない。続けろ」
エレンは明らかに「絶対に嘘だ」と言いたげな顔をしたが、それ以上は追及しなかった。今のディエゴに何を聞いても答える気がないことだけは、その声と表情から十分に伝わってきたからだ。ヒストリアも、続きを話していいものかと迷いながら、自分の膝へ視線を落とした。
サシャだけは、別の理由で言葉を失っていた。ほんの一瞬、ディエゴの瞳に、これまで見たことのないほど濃い憎悪が宿ったのを見てしまったのだ。いつもの嫌味や苛立ちとも、誰かを見下す時の冷たさとも異なるそれは、目の前に相手がいれば迷わず噛み砕きそうな、深く黒い殺意だった。
その気配はすぐに消えたが、サシャの背筋には冷たいものが走っていた。怖いと感じたにもかかわらず、不思議と彼から離れようとは思えなかった。あんな顔をするほどの何かがあったのだと考えると、何も見なかったことにして放っておく方が、かえって怖く感じられた。
ディエゴが何を抱えているのか、サシャには分からない。それでも、彼が一人で何もかも背負い込み、誰にも弱みを見せようとしないことは知っている。その姿が今は危うく見えたからこそ、事情を聞き出せなくても、せめて自分だけは味方でいたいと静かに思った。
*
ヒストリアは少し戸惑いながらも、再び記憶を辿り始めた。白い男――ヴァレンタインは、ナイフを構えた男の脅しにもまるで動じなかったという。自分へ向けられた敵意を受け流すように、一度だけロッド・レイスへ視線を向けると、穏やかな笑みを浮かべていた。
これから何をするつもりなのか、幼いヒストリアには、その笑顔から何一つ読み取れなかった。母を殺さないように頼んでくれるのかと思いかけても、先ほど聞いた「消す」という言葉が頭から離れず、期待を抱くことさえできなかった。
「うーーーん……」
そこで言葉を切ると、ヴァレンタインは母と、その隣でナイフを構える男を順番に指した。指先の動きはあまりにも優雅で、二人の命について話しているのだとは思えないほど落ち着いていた。
「あ、そうそう。そういえば…その女性と、そこにいるナイフを持った方。そんな人間は、最初からここにいなかったように思いますがね?」
ロッド・レイスは表情を変えずに、白い男の言葉を聞いていた。その意味を理解しているようだったが、顔には躊躇も驚きもなく、ヒストリアが何かを尋ねるより先に答えを返した。
「ああ。そうだな」
ヴァレンタインは、その短い了承を当然のものとして受け取ったようだった。片手で金髪を掻き上げると、まるで子犬でも散歩させるような軽い足取りで二人へ近づいていく。母は怯え、ナイフを持った男は苛立ちを露わにしたが、彼はどちらの反応も意に介さなかった。
どこから取り出したのか、ヴァレンタインは大きな白い布をふわりと広げ、母とナイフを持った男をまとめて覆い隠した。ところが次の瞬間には、白い布が支えを失ったように、すとんと地面へ落ちていた。二人の身体を包んでいたはずなのに、その下には人間の輪郭を思わせる膨らみが一つも残っていなかった。
「……え?」
幼いヒストリアには、何が起きたのか理解できなかった。周囲の大人たちも同じらしく、布の下にあるはずの二人の姿が見当たらないことに気づくと、誰かが息を呑み、別の誰かが一歩後退した。それでも、布を確かめようと近づく者は一人もいなかった。
ヴァレンタインだけは楽しげに笑い、地面へ落ちた布の端を摘まんだ。周囲の混乱など目に入っていないかのように、舞台の仕掛けを披露する手品師めいた余裕を崩さず、腕を高く振り上げた。
「ドじゃああ~~~ん」
白い布が高々と持ち上げられても、その下には何も残っていなかった。ほんの数秒前までそこに立っていた母も、ナイフを持った男も、姿や痕跡を残さずに消えている。母がいなくなったのだと悲しむよりも先に、目の前の出来事を理解できない恐怖が押し寄せ、ヒストリアは声を出すことさえできなかった。
「レイス卿の仰る通りでした。全部消えちまうからな…」
穏やかな声が響いても、周囲の者たちは身を固くしたまま動けずにいた。何が起きたのか分からないという思いに縛られ、悲鳴を上げることすらできなかったのだろう。平然としていたのはヴァレンタインとロッド・レイスだけで、やがてロッドは、立ち尽くす娘へ歩み寄った。
「君の名は、今からクリスタ・レンズだ」
*
「……そうして、名前を変えて辺境でつつましく生きるなら見逃すって言われた」
回想を終えたヒストリアは、膝の上で両手を握りしめていた。何年も前の出来事であっても、口に出すと当時の光景まで蘇るらしく、指先には強く力が入っている。誰かと目を合わせることもなく、彼女は伏せた顔のまま言葉を続けた。
「父親のことも怖かった。でも、それ以上に、あのヴァレンタインって人が何だったのか分からなかった。どうしてお母さんたちが消えたのか、今でも分からない」
その後、ヒストリアは開拓地で二年を過ごし、十二歳で訓練兵団へ入った。そこでエレンたちと出会ってからも、クリスタ・レンズという名で生きてきたのは、あの夜に告げられた命令があったからだった。
話が終わると部屋は静まり返り、誰もすぐには口を開こうとしなかった。母親が目の前から不可解な形で消え、父から名前を捨てるよう命じられた少女に、どんな言葉をかければいいのか分からなかったからだ。彼女が握りしめた両手を見ても、軽々しく慰めることはできなかった。
しかし、ディエゴだけは別の理由で沈黙していた。ヒストリアの過去に同情するよりも先に、今聞いた名前と光景を、自分の記憶と照らし合わせていたのだ。白い男の姿だけなら偶然の一致とも考えられたが、二人の人間を布で覆い、姿を消したという話まで聞けば、疑う余地はなかった。
聞き間違いではないと、ディエゴは確信した。かつての大統領、ファニー・ヴァレンタインが、この世界にいる。自分の人生の終着点に立ち、自分を殺した男が今もどこかで生き、ヒストリアの父親と結びついているという事実を前に、彼は膝の上でゆっくりと指を組んだ。
復讐という言葉が真っ先に浮かばなかったと言えば嘘になるが、ディエゴはそれを表へ出さなかった。いずれ必ず殺すという意思は少しも揺らがずとも、今すぐ感情に任せて探し回るほど愚かではない。奴がここで何をしているのかを知らないまま動けば、また同じ相手に命を奪われることになりかねなかった。
ディエゴ・ブランドーの名は、すでにこの壁の中でも多少は通っている。レイス家と繋がりを持つほどの立場にいるのなら、ヴァレンタインが自分の名を耳にしていてもおかしくない。気づいていながら姿を見せないのだとすれば、何を知り、何を企んでいるのかを確かめるためにも、殺すにせよ利用するにせよ、一度は会って話す必要があった。
そのための手掛かりとなるヒストリア・レイスを、今ここで失うわけにはいかなかった。ディエゴは組んでいた指をほどき、話し終えてからも俯いている彼女へ視線を向けた。
「……よく話してくれた」
ディエゴがようやく口を開くと、ヒストリアは顔を上げた。先ほどまで彼が何を考えていたのかは分からないが、あの名前を確かめた後は話を遮らずに聞いていた。その彼から思いがけない言葉をかけられ、戸惑うように目を瞬かせた。
「え?」
「お前にとって楽しい話じゃあなかったはずだ。それでも話したのは正解だ」
声には落ち着きがあり、先ほど一瞬だけ見せた憎悪の色は消えていた。サシャでさえ、あの気配を見間違えたのではないかと思いそうになるほど、ディエゴはいつもの態度に戻っている。ヒストリアの表情を確かめると、彼はそのまま話を続けた。
「ただし、オレの予想ではこうだ。お前とエレンは今後、必ず狙われる。いや、もうすでに監視されている可能性すらある」
「……!」
ミカサが椅子を鳴らして立ち上がり、少し遅れてエレン、ジャン、コニーも腰を浮かせた。誰もがすぐに動かなければならないように感じたらしく、扉の方へ向きかけた者までいたが、ディエゴは片手を上げて制した。
「待て。慌てるな、落ち着けって」
ディエゴ自身は椅子へ座ったまま、立ち上がった面々を見回していた。焦って動けば相手に情報を与えるだけだとでも言うように、扉の方へ視線を動かすことすらせず、落ち着いた声で説明を続けた。
「向こうもこちらの動きを完全に掴んでいるわけじゃあない。情報はかなり遮断されているし、仮にこの周辺まで来ている奴がいたとしても、今いるのは斥候程度だろう」
「どうして分かる?」
ミカサは鋭く尋ね、ディエゴの表情を正面から見据えた。エレンの安全に関わることだけに、曖昧な推測を聞かされたまま納得するつもりはないらしかった。ディエゴもその視線を受け止め、判断の理由を口にした。
「本気でここを潰しに来るつもりなら、もっと人数を揃える。エレンとヒストリアを確保したいならなおさらだ。少人数で仕掛けて取り逃がすより、場所を特定してから一気に包囲した方が確実だからな」
その説明には筋が通っており、ミカサは警戒を残しながらも、ゆっくりと椅子へ座り直した。他の面々もそれに倣い、すぐに駆け出しかねなかった部屋の空気が、わずかに落ち着いていく。ディエゴは全員が席へ戻ったことを確かめてから、次の話へ移った。
「とはいえだ」
こちらの居場所がまだ掴まれていないとしても、それだけで状況が好転するわけではなかった。ディエゴが知りたいのは、相手がなぜ二人を欲しがり、何を隠そうとしているのかということだった。その答えを中央の人間たちが握っているのなら、待っているだけでは何も得られない。
「中央の連中、とくに憲兵共は、巨人とヒストリアに関する何かをオレたち以上に掴んでいる。どんな情報かは知らんが、オレはそいつらから何もかも奪いたい。連中だけが知っていることも、その上で好き勝手に振る舞える立場もな」
ジャンがごくりと唾を飲み込み、エレンとコニーも同じように喉を鳴らした。ミカサは表情を引き締めたまま黙って聞いており、誰もその言葉へ軽い冗談を返そうとはしない。ディエゴの横顔を見つめていたサシャは、少なくとも今の言葉には嘘がないのだと感じた。
相手の隠し事を暴くというより、自分たちのために何もかも奪い取るという発想は、あまりにもディエゴらしかった。あの名を聞いた時の反応については分からないままでも、今ここで口にした意思だけは、いつもと変わらないように思えた。
ディエゴはもう一度ヒストリアへ目を向けた。彼女は先ほどよりも顔をこわばらせ、自分の膝の上で指を絡めている。過去を話し終えたばかりの少女に、今度は命を狙われるのだと告げたのだから、当然の反応だった。
ヒストリアには、名前を捨てろと命じられたあの夜から、結局は何も変わっていないように思えていた。クリスタとして生きるのをやめ、自分のことを皆へ話せたと思った途端に、また父と結びついた誰かが自分を奪いに来るという。母の姿が消えた時の白い布を思い出し、知らず知らずのうちに肩を縮めていた。
「とはいえだ、ヒストリア。オレはお前の護衛の任務を受けている」
ディエゴの声に、ヒストリアは顔を上げた。彼はその視線を正面から受け止め、怯えていることを責めるでも、何でもないと笑うでもなく、落ち着いた調子で言葉を続けた。
「憲兵がどんなカスだろうが、オレたちの敵がどれほど強かろうが……お前だけは、この世のあらゆる残酷さから守ってやる。このオレがお前の横にいる限りはな」
ヒストリアの頬が一気に熱くなり、今度は別の理由で身を縮めたくなった。そんな言葉を皆の前で言われるとは思わず、目を逸らそうとしても、ディエゴの澄んだ瞳に射すくめられたように動けない。自分へ向けられた言葉の大きさに戸惑いながらも、胸の奥には、先ほどの恐怖とは違う感覚が広がり始めていた。
その約束を、何の疑いもなく受け入れられたわけではなかった。レイス家に連なる自分の出自を利用できるから、守ろうとしているだけではないのかという思いもある。ディエゴならそうした計算をするだろうし、実際、彼が自分を通して何かを得ようとしていることは、ヒストリアにも薄々分かっていた。
それでも、目の前の彼が口にしたすべてを嘘だとは思えなかった。守るという約束まで疑ってしまえば、ようやく差し出された手を、自分から払いのけることになる気がした。信じたいという思いと、見つめられている恥ずかしさが重なり、ヒストリアは膝の上で指を握り直した。
「あ、ありがとう……」
小さく答えた声は、自分で思ったよりも頼りなく響いた。何かもう少し言うべきだと考えても、熱くなった顔を見られていると思うと、続きを口にすることができない。ディエゴも返事を急かすことはなく、彼女が少し呼吸を整えるのを待っていた。
「……よくそんなこと言えるな、お前」
エレンは呆れたようにディエゴを見た。守るという意思に異論はなかったが、あそこまで臆面もなく言い切られては、聞いている方まで落ち着かなくなる。その声を聞いたディエゴは、わずかに眉を上げて彼へ向き直った。
「そうかな?オレからすれば、ヒストリアの不安を分かってやれないお前達のほうに呆れているぞ」
「なっ……別に、そういう意味で言ったんじゃ――」
「フン…ヒストリアは恐ろしい目に遭い、愛情にも飢えたまま、自分を偽って人と接してきたんだぞ。やっと自分を出せたと思ったら、今度は命を狙われる。そういう人間に、ただ落ち着けと言うだけで十分だと思うのか?」
エレンは言い返しかけた口を閉じ、ヒストリアへ目を向けた。ジャンもコニーも、彼女が膝の上で握りしめている手に気づいたらしく、先ほどまでとは違う顔で黙り込んでいる。アルミンはディエゴの言葉を聞きながら、話を終えた後の沈黙が、ヒストリアにはどう感じられたのかを考えていた。
「ならばオレが、せめて護衛の間だけでも、その荷を軽くしてやりたい。そう思うのはおかしいか? ン?」
「いや…わりぃ…」
問いかけられても、すぐに答える者はいなかった。守ろうと思っていなかったわけではなくても、その意思を彼女へ伝える必要があるところまでは考えていなかったのだろう。エレンも言葉を探した末に口を閉じ、気まずそうに頭を掻いた。
ヒストリアは、皆へ向けて話すディエゴを驚きながら見つめていた。自分の過去に利用できる情報があることは、彼も考えているはずだった。しかし、今口にしているのは、血筋の価値でも父との繋がりでもなく、ヒストリア自身がどんな思いで生きてきたかということだった。
(ここまで考えてくれてたんだ…)
胸の奥が強く揺れた。少なくとも今の言葉には、自分を都合よく動かそうとする意図も、気を引くためだけの嘘もないように思える。確かめる術はなくても、そう思いたいという気持ちが、先ほどまでの疑いを少しずつ押し退けていった。
ディエゴと目が合い、ヒストリアは慌てて目を伏せたが、それで胸の鼓動まで落ち着くわけではなかった。守るという約束を嬉しく感じているだけだと考えようとしても、ディエゴの声や、自分を見た時の瞳が繰り返し浮かんでくる。隣にいる限り守ってやると言われたことを思い返すたびに顔が熱くなり、今は誰にもその表情を見られたくなかった。
「お前の歯が浮くような台詞は聞き飽きたが、二人を守ることについては同意見だ」
いつからそこにいたのか、壁へ背中を預けていたリヴァイが口を開いた。途中から黙って聞いていたらしく、ディエゴの言い回しにはうんざりしていても、エレンとヒストリアを守る必要があるという判断は同じだった。彼の声で部屋の空気が少し緩むと、エレンもようやく顔を上げた。
「だから、連中が本格的に動く前にやることを進める。エレン」
「はい」
「お前の巨人化と、巨人を操った時の条件を調べるぞ。使える力なら、使える状態にしておく」
「分かりました」
エレンは迷う様子を見せずに頷き、リヴァイの指示を受け入れた。ディエゴもその返事を聞いて口元を緩めたが、笑みの奥では、ほかの誰にも明かしていないことを考えていた。
監視されていること自体は事実だったが、ディエゴは相手の動きについて一つだけ嘘をついていた。すでに斥候がこの山へ入り込んでいることも、ここを探る者たちがどうなっているのかも、彼だけは知っていた。その事情を話す必要はないと判断したディエゴは、何も知らない者たちの前で、いつもの笑みを崩さなかった。
*
「ぐぎゃあああああああッ!!」
人気のない山中へ、男の絶叫が鋭く響き渡った。木々の隙間から鳥が一斉に飛び立ったかと思うと、声は唐突に途切れ、何事もなかったかのような静けさが戻ってくる。中央から送り込まれた斥候の一人が、また消息を絶ったのだった。
巨人化能力を持つエレン・イェーガーと、レイス家に連なる少女が移送された可能性がある以上、憲兵団が山間部の廃施設を調べるのは当然の判断だった。しかし、斥候がこの付近へ入るたびに戻らなくなるという異常が続き、周辺に何かが潜んでいるという疑念は、調査を重ねるほど確信に変わっていた。事故なら遺体が見つかり、野生動物に襲われたのなら痕跡が残るはずなのに、それすら見当たらなかった。
行方不明者を調べるため、中央は追加の人員を送り込んだ。それでも消息が途絶える状況は変わらず、今この山へ入っていた別の斥候もまた、仲間の悲鳴を聞いた直後、理解不能なものと向き合うことになっていた。
「な、何だ……お前……」
男は尻餅をついたまま、目の前で揺れる茂みから逃れようと後退した。そこにいるものは少なくとも人間ではなく、かといって男の知る巨人とも明らかに違っている。地面を引っ掻く爪の音が近づき、湿った呼吸が耳へ届くにつれて、暗がりから細長い頭部がゆっくりと現れた。
「SYAAAAAAAAAA!!!」
「ひっ……!」
男の顔から血の気が引き、後ろへ這おうとしていた身体がこわばった。巨人なら身を守るための知識があり、人間なら戦う覚悟もできるが、こんなものが山にいるとは聞かされていない。目の前の存在が何なのかも、どうすれば逃げられるのかも分からず、彼は口を震わせた。
「神様……」
男が最後に口にできたのは、それだけだった。次の瞬間には悲鳴を上げることすらできなくなり、しばらくすると山中には再び風の音が戻っていた。
斥候がいた場所に血痕は残らず、山道では草木だけが風に揺れていた。何者かがそこで命を失ったことを示すものはなく、静まり返った木々の間には、最初から誰も足を踏み入れなかったかのような景色が広がっていた。