翌朝、隠れ家から少し離れた森の中で、エレンの巨人化実験が始まった。木々の間に立ち上る蒸気を避けるように、一同はあらかじめ決めていた距離まで下がり、土煙の向こうへ目を凝らしていた。巨人の輪郭がはっきりしてくると、記録用の紙を抱えたハンジが、早くも身を乗り出した。
「エレン! 聞こえる? 私が何を言っているか分かるなら、右手を上げて!」
木々を見下ろす巨人は、呼びかけられた方へ顔を向けた。それから右腕を持ち上げ、指を開いて見せる。動作そのものはゆっくりだったが、命令に反応していることは、離れて見ていた者にも分かった。
ミカサは巨人の目を見つめたまま、張り詰めていた肩からわずかに力を抜いた。アルミンも胸の前で握っていた手をほどき、ハンジの次の指示を待っている。ディエゴは少し離れた木のそばに立ち、その様子を黙って観察していた。
「よし、いいね。それじゃあ、今度は私の動きを真似してみて!」
ハンジは紙を脇へ挟むと、腕を広げ、腰をひねりながら妙な調子で身体を動かした。実験を見守っていたジャンが眉を寄せ、コニーは何が始まったのか分からないという顔で彼女を見ている。ハンジだけはいたって真剣らしく、巨人の顔を見上げたまま声を張った。
「はっぴーうれぴーよろぴくねー!」
エレンの巨人は、少しの間ハンジを見下ろしていた。やがて巨大な腕が左右へ開かれ、彼女が見せたばかりの動きを、ぎこちないながらもなぞり始める。木の枝が風圧に揺れ、足元の土が沈むたびに、ふざけた身振りとは釣り合わない重い音が響いた。
「できた! ちゃんと見て、理解して、同じ動きをしてる!」
「そこまでやらせなくても分かるだろ……」
ジャンが小声で呟いたが、ハンジは聞いていなかった。目の前の巨人が人間の動きを真似ていることに興奮し、急いで紙を引き戻して何かを書き込んでいる。その横でアルミンは困ったように笑い、ミカサも表情を緩めていた。
ディエゴはその様子を見てから木を離れ、巨人の視界に入る場所へ歩み出た。ハンジの指示に従えるなら、別の人間がする動きにも対応できるはずだと、エレンを見上げる。巨人の目がこちらへ向いたのを確かめると、何のためらいもなく片手を上げた。
「おい、エレン。こっちもやってみろ」
ディエゴは軽く身体を傾けると、指を順に立て、最後に輪を作って見せた。普段なら他人の悪ふざけを鼻で笑いそうな男が、妙に堂々とした態度で続けたため、サシャまで手を止めてそちらを見た。
「ちょっとそこ、四・二・〇〜。……しつれい」
巨人の顔が、言葉にできない呆れを浮かべたように見えた。一度だけ首を傾けてから、それでもエレンは言われた通りに指を動かし、最後には大きな指で輪まで作ってみせる。ディエゴは満足したように頷き、何事もなかったかのように元の位置へ戻った。
「お前まで何やってんだよ……」
「意思の疎通を確かめただけだ。何か問題でもあるのか?」
ジャンが返す言葉を失う一方で、ハンジはますます嬉しそうに記録を取っていた。ばかげた光景ではあっても、巨人になったエレンが、エレンのままでいることを確かめられたからだ。身体の姿形が変わっただけで、仲間の言うことを理解し、嫌々ながら付き合うこともできるのなら、そこにいるのはただの化け物ではなかった。
ミカサはその事実を確かめるように巨人の顔を見上げ、アルミンもハンジと記録について話し始めた。ディエゴは三人の安堵した様子を眺めながら、内心では少し落胆していた。意思が通じることに価値がないとは言わないが、自分が見たかったのは、それだけではなかった。
実験では、エレンの身体を硬質化させる試みも続けられた。手や腕へ意識を集中させ、できると思った動作を繰り返させても、皮膚が硬い物質へ変わる兆しは見られない。ハンジが指示を変えても、エレン自身が力を込めても、壁の穴を塞ぐために必要な変化は起こらなかった。
座標の力どころか、硬質化さえ使えないのでは話にならないと、ディエゴは腕を組んだ。これでは、少しばかり力が強く、人間の言うことを聞くだけの巨人ではないか。周囲がひとまず喜んでいることも理解はできたが、それで満足する気にはなれなかった。
もっとも、何も起こらなかったことから分かるものもある。硬質化についてはともかく、巨人を操る座標の力には、何かしらの条件か制限があるはずだった。思うだけで無制限に巨人を従えられるのなら、その力を奪い合う連中が何もせずにいるはずもなく、この世界はとうに滅んでいてもおかしくない。
命の危機が条件だと考えるのは簡単だが、それだけで説明できるわけではなかった。死にかけるほど追い詰められれば使えるというなら、最初に巨人へ変わった時に発動していてもおかしくない。エレンが危険に晒された機会は一度や二度ではなく、そのたびに周囲の巨人が従ったという話もなかった。
巨人の姿でいることが条件だという考えも、これまでの出来事と噛み合わない。ライナーたちとの戦いで力が発動した時、エレンは人間の姿だった。巨人化が必須なら、あの場で巨人を操れたこと自体が説明できなくなる。
場所についても、特定の土地に立つだけで使えるという単純なものではないだろう。もしこの壁の近くでしか意味を持たない力なら、マーレがエレンを奪い、本国へ持ち帰ろうとする理由が薄くなる。少なくとも、あの場所へ戻しさえすれば同じことが起こると考えるのは、早計だった。
そこでディエゴは、実験を続けているエレンから、周囲に集まった者たちへ目を移した。本人の状態でも、巨人になっているかどうかでも、立っている場所でもないのなら、条件は彼一人の中では完結していないのかもしれない。何かに触れるか、自分以外の何かを介する必要があると考えれば、まだ調べる余地が残っていた。
その時、前日に聞いた話が、別の意味を持って頭の中へ戻ってきた。中央の連中が欲しがっているのは、エレンだけではない。巨人の力を持つ人間を奪うことが目的なら、それだけで済むはずなのに、連中はヒストリアまで必要としていた。
ディエゴはゆっくりと顔を向け、少し離れた場所にいるヒストリアを見た。彼女の血筋に価値があるのは分かっていたが、それが単にレイス家の都合によるものだとは限らない。エレンの力を使うために必要だからこそ、中央は二人を揃えて手に入れようとしているのではないか。
ヒストリアが鍵なのだと考えた瞬間、ばらばらだった話が一つの形を取り始めた。ただし、それで何もかも説明できたわけではなく、あの時どうして発動したのかという疑問は残っている。ライナーたちとの戦いで自分がヒストリアを抱えていたことは覚えているが、彼女がいるだけで済むのか、接触が必要なのかさえ分からなかった。
詳しい条件を突き止めるには、まだ材料が足りない。それでも、目の前でエレンに声をかけている者たちよりは、核心へ近づいているという手応えがあった。何も知らずに同じ動作を繰り返させるより、どこを調べるべきか見えている分だけ、自分の方が先に進める。
ディエゴが口元を緩めたところで、こちらを向いたヒストリアと目が合った。彼は考えていたことを表へ出さず、彼女へ穏やかな笑みを向けた。ヒストリアはわずかに頬を染め、少しためらってから、小さく手を振り返した。
近くで道具を片付けていたサシャは、そのやり取りを見て複雑な気分になった。護衛としてヒストリアの気持ちを汲み取り、安心させようとすること自体は分かる。昨夜の話を聞けば、彼女が誰かに守ると言ってほしくなるのも、無理のないことだと思っていた。
それでも、
(ディエゴ…な~~んか、仲良くしすぎじゃあないですか?いえ、別にいいんですけど…)
そういう思いが、胸の奥に引っかかっていた。自分が口を挟むことではないと分かっているのに、ヒストリアが嬉しそうにしているほど、すんなりとは眺めていられなくなる。手元の器具を持ち直しても、その気持ちは簡単には片付かなかった。
気になるのは、二人の距離だけでもなかった。
(それに…な~~~んか、嘘っぽいって言うか…)
ディエゴがヒストリアへ向ける笑顔には、どこか、普段とは違うものが混じっているように感じられる。何がどう違うのか説明はできないが、彼女を見る直前まで考えていたことを隠し、別の顔を作っているようで、少しだけ嘘っぽく見えた。
ヒストリアは気づいていないのだろうと、サシャは彼女の横顔を見た。だからといって、何も分からないまま注意することもできず、そもそも今の自分の見方が正しいのかさえ確かめられない。気に入らないからそう見えるだけなのではないかと思うと、ますます胸の内が落ち着かなくなった。
(あ…ふふっ)
ヒストリアの方は、ディエゴが笑いかけてくれたことを純粋に嬉しく感じていた。護衛としてそばにいてくれるだけでも心強いのに、彼は自分の身の上話を聞いた上で、何を怖がっているのかまで考えてくれた。口先で慰めるだけではなく、その後も態度や行動で気遣ってくれることが、彼女には何より嬉しかった。
昨夜、皆がそれぞれの用事へ戻った後、彼はヒストリアへ短く自分のことを話していた。あの場で口にした言葉が、ただの思いつきではないのだと伝えるような、落ち着いた口調だった。その時の声を、ヒストリアは何度も思い返していた。
「オレも親に捨てられたからな。自分がいらない人間だと思わされる気分ぐらいは分かる」
彼はそれ以上、自分の過去を詳しく語ろうとはしなかった。それでも、似た境遇を知る人間がこちらの気持ちを理解しようとしてくれたことが、ヒストリアの胸には深く残っていた。憐れまれているのではなく、同じものを知る相手として向き合ってくれたように感じられたのである。
その上で紳士的に接し、優しい言葉を、あの綺麗な顔と瞳で向けてくるのだから、気にしない方が難しかった。彼には何かしらの打算があるのかもしれないという疑いが、消えたわけではない。それでも、ディエゴが自分の人生の中で、最も気になる男性になってしまったことだけは否定できなかった。
巨大な足が土を踏む音に、ヒストリアは慌てて顔を上げた。実験はまだ続いており、ハンジはエレンの動作を記録しながら、次の指示を考えている。今は別のことを考えている場合ではないと自分へ言い聞かせても、頬に残った熱はすぐには引かなかった。
*
その後も実験は続けられたが、エレンが巨人化を繰り返すにつれ、最初のような明瞭な反応は失われていった。二度目には動作が鈍り、身体も十分には作られなくなっている。硬質化の兆しはなく、ハンジの呼びかけを理解しているかどうかも、次第に確かめにくくなった。
三度目の変身で現れたのは、まともに身体を支えることすら難しい、不完全な巨人だった。エレンの反応がなくなったために実験は打ち切られ、一同は蒸気と熱に気をつけながら彼を巨人の身体から引き離した。ミカサが名を呼んでも、エレンは意識を失ったまま、目を開こうとしなかった。
「今日はここまでだ。これ以上やらせても、こいつが潰れるだけだろう」
「うん。回数を重ねれば、同じように力を使えるわけじゃない。それは記録しておかないとね」
リヴァイの言葉にハンジが頷き、実験道具の片付けが始まった。エレンは隠れ家へ運び込まれたが、寝台へ移された後も深く眠り続けている。アルミンが様子を確かめ、ミカサがそばを離れずに見守っていても、目を覚ます気配はなかった。
ディエゴは寝台の上を一度だけ見てから、窓の外へ視線を向けた。硬質化も座標の力も引き出せなかったことには不満があるが、今日の実験で考えるべきことは増えている。ただ、それとは別に、朝から妙な予感が胸の奥に居座っていた。
今日、あの男が来るのだと、なぜか思えてならなかった。誰かから知らせを受けたわけでも、具体的な足取りを掴んだわけでもない。それでも、ヴァレンタインという名を聞いた時から止まっていた何かが、いよいよ動き始めるような感覚があった。
ディエゴは窓枠から手を離し、森の向こうを見つめた。待っていれば向こうから来るというのなら、その方が都合はいい。胸の奥へ沈めていた憎悪が、これから顔を合わせる相手の姿をなぞるように、静かに熱を取り戻していた。
*
馬車の車輪が石畳を踏む音が、二人の間に落ちた沈黙を埋めていた。向かい合う席に座ったナイルは、エルヴィンからニック司祭の死を聞かされても、すぐには言葉を返さなかった。窓の外へ一度目を向けてから、ようやく重い口を開いた。
「中央第一憲兵がやったというのか」
「その可能性が高い。少なくとも、私たちに向けられている疑いとは無関係ではないだろう」
「同じ憲兵でも、あいつらとは指揮系統が違う。何をしているのか、こちらへ知らせてくるわけでもない」
ナイルは苦い顔をして、自分たちには接点がないのだと続けた。言い逃れではなく、中央の動きが彼の手の届く範囲にないことは、エルヴィンも理解していた。それでも、だからといって無関係のままで済む話ではなかった。
「ナイル。君は、彼らにエレンを委ねることが、この壁の危機を乗り越えることに繋がると思うか?」
ナイルはすぐには答えず、膝の上に置いた両手へ視線を落とした。車輪が段差を越えて馬車が揺れたが、その間も顔を上げようとはしない。エルヴィンが返事を待っていると、彼はゆっくりと言葉を選び始めた。
「オレは家族が大事だ」
エルヴィンはわずかに眉を動かし、向かいの男を見つめた。今の問いに対する答えとしては遠回りに聞こえたが、ナイルは冗談を言っている顔ではなかった。
「マリーのことでは、お前ともいろいろあった。だが、今のオレにはマリーと子供たちがいる。あいつらを守ることが、何より大事なんだ」
「……何の話をしている?」
「お前がクーデターを起こそうとしていることは知っている、エルヴィン」
エルヴィンは表情を変えずにいたが、視線だけがわずかに鋭くなった。ナイルはその目を正面から見返すことができず、一度唇を湿らせてから続けた。
「そして、我々憲兵団は、それに協力する」
今度はエルヴィンも、一瞬だけ目を見開いた。密かに進めていた計画を知られていることより、憲兵団として協力すると告げられた方が、予想から外れていたのである。彼はしばらくナイルの顔を見つめた後、低い声で尋ねた。
「どこまで知っている?」
「どこから聞いた、と尋ねないあたりがお前らしいな」
「質問に答えろ、ナイル」
ナイルは苦く笑いかけたが、すぐにその表情を消した。それから決行の日時を口にし、エレンとヒストリアの替え玉を用意することや、囮を使って相手の動きを誘うことを、一つずつ挙げていった。どれも曖昧な噂ではなく、エルヴィンが承知している計画と一致していた。
「王の首を挿げ替えるところまで、という答えでいいか」
「……ほぼすべてか」
エルヴィンの口元に浮かんだのは、笑みというより、漏れた苦笑に近かった。情報がどこかから流れているという段階ではなく、計画の中身を掴んだ上で交渉を持ちかけられている。ナイル自身の判断だけで動いているのではないと、そこでほぼ確信した。
「それで、見返りは何だ?」
ナイルは膝の上で手を握り、すぐには答えなかった。自分の口からその要求を出すことを嫌がっているようにも見えたが、エルヴィンは先を促さずに待った。やがてナイルは、絞り出すように言った。
「我々……が、望むのは、首の挿げ替えをヒストリアではなく……ヴァレンタイン氏にすることだ」
「ヴァレンタイン? 知らない名だな」
「クーデターは、成功することが絶対条件だ。だが、成功すれば終わりというわけじゃない。その後の治安をどう保つかも考えなければならん」
ナイルはそこで一度息をつき、用意されていた説明をなぞるように続けた。
「お前が知らないのも無理はない。ヴァレンタイン氏は王家の遠縁でな…あまり我ら兵士とは関わりの無い存在だ。だが、昔からの貴族たちからの人気が高く、彼が新しい政権の頂点に立てば、反発を抑え、治安を保つ上でも有利になるだろう。少なくとも、混乱の中へ血筋だけを頼りに少女を据えるより、確かな支持を見込めるはずだ」
エルヴィンはその説明を聞きながら、目を細めた。何も知らない協力者から出る話ではなく、こちらの計画を利用して、最後の成果だけを別の人間へ渡すための条件だった。しかもナイルは、自分の望みとして語るには、あまりにも苦しそうな顔をしていた。
「ヴァレンタインだな。君たちを手引きし、私たちへ脅しをかけているのは」
ナイルは視線を伏せ、否定しなかった。その沈黙を見たエルヴィンは、先ほど彼が家族の話を持ち出した理由を理解し始めた。協力するという言葉の裏には、こちらと同じ目的を選んだのとは別の事情がある。
「どのみち、我々にできることは少ない。断れば、計画のすべてを公にされて失敗する。それに、オレの家族も――」
ナイルは言いかけたところで、突然口を押さえた。喉の奥から奇妙な音が漏れ、肩が大きく上下する。エルヴィンは身を乗り出し、急に顔色を失った彼を覗き込んだ。
「どうした、ナイル?」
「おげ……アガあああぁ……ッ!」
指の隙間から血が溢れ、次の瞬間、ナイルは口から大量の鮮血を吐き出した。床へ散った血の中で、何かが光って跳ねる。小さな金属が板へ当たる乾いた音が聞こえ、エルヴィンは反射的に腰を浮かせた。
「うおおッ……!」
膝の上へ転がったものを見て、エルヴィンは息を呑んだ。血に濡れた薄い金属には鋭い刃がついており、それがカミソリだと分かるまでに、わずかな時間がかかった。そんなものが、たった今、ナイルの口の中から出てきたのである。
巨人に食い殺され、踏み潰され、身体を引き裂かれる兵士は何度も見てきた。しかし、目の前に敵の姿がないまま、人間の口から刃物が吐き出される光景など見たことがなかった。ナイルが仕込んでいたのではないことだけは、脂汗の浮いた顔と、止まらない震えを見れば分かった。
「こ……これに……」
ナイルは血を吐きながら懐へ手を入れ、折り畳んだ紙を取り出した。指がうまく動かないらしく、何度かつかみ損ねながらそれを開くと、挟んでいた短いペンごとエルヴィンへ押しつける。紙には文面があらかじめ記され、署名するための場所が空けられていた。
「この血判状に……サインしろッ……!」
「そんなことを言っている場合か! まず傷を――」
「早くしろォーーーッ!! 死ぬぞ! オレもお前もッ!!」
その叫びが終わるより先に、エルヴィンの右側で鋭い痛みが弾けた。失った右腕がそこにあるはずはないのに、切断された箇所の奥から、何かが皮膚を押し破ろうとしている。彼が目を向けた瞬間、血で染まった袖を突き破り、刃が外へせり出してきた。
「うぐああああーッ!!」
エルヴィンは身体を折り、座席から崩れ落ちかけた。右腕の断端から伸びたのは、光を返す金属のブレードだった。自分の身体の中にあるはずのないものが肉を裂いて現れていると理解した時、背筋に冷たいものが走った。
(ここから逃げなくては…ッ!?)
それでも彼は左手を伸ばし、馬車の扉の取っ手を掴もうとした。ここに留まっていては何が起こるか分からず、外へ出て状況を確かめなければならない。だが、指が取っ手へ触れかけた瞬間、その皮膚の下から細い金属が次々と突き出した。
「ぐあああーッ!」
指の間から血が滴り、無数の針が手を開く動作さえ妨げた。エルヴィンは左手を引き戻したが、それで針が消えるわけではない。右腕の傷からはブレードが生え、残った手には針が並び、自分の身体そのものが凶器へ変えられていくようだった。
助けを求めようとしてナイルを見ると、彼はもう声を出せなくなっていた。両手で首を掻きむしり、何かを押さえ込もうと必死に指を食い込ませている。その理由は、襟元から覗く皮膚を見た瞬間に分かった。
ナイルの喉の皮膚の下に、大きなハサミの形が浮き上がっていた。閉じていたはずの二枚の刃が、首の内側でゆっくりと開いていく。皮膚が不自然に持ち上がり、ナイルの口が声もなく歪むたびに、その輪郭が一層はっきりと見えた。
あの刃が閉じれば、ナイルの首は内側から断ち切られる。エルヴィンはそう悟り、押しつけられた紙へ目を落とした。新しい政権をヴァレンタインへ委ねることを求める文面が、血に汚れながらも読み取れた。
拒めば何が起こるのかを確かめる猶予は、もう残されていなかった。ナイルは首を押さえたままこちらを見ており、ハサミの輪郭は、今にも動き出しそうに震えている。エルヴィンは針の突き出した左手にペンを握り、膝へ押しつけた紙へ身をかがめた。
「うおおおおおーーーッ!」
痛みで震える指を無理やり動かし、エルヴィンは自分の名を書き殴った。紙へ血が落ち、最後の文字が歪んでも構わず、署名のそばへ血に濡れた指を押しつける。その直後、ナイルの喉を押し上げていたハサミの輪郭が、何の前触れもなく消えた。
エルヴィンの手からも針がなくなり、右腕の傷を押し広げていたブレードも消えていた。しかし、裂けた皮膚や流れた血まで元に戻ったわけではなく、激しい痛みは身体の中へ残っている。ナイルは喉を押さえながら身体を折り、ようやく吸い込めた空気に激しく咳き込んだ。
いつの間にか車輪の音は止まり、馬車の中には二人の荒い呼吸だけが響いていた。そこへ、誰も触れていない扉が、外側へゆっくりと開いていく。エルヴィンが顔を上げると、膝にあったはずの血判状までが、紙の端を誰かにつままれたように持ち上がった。
「……何だ、これは……」
紙を支える手は見えず、血のついた血判状だけが宙に浮き、開いた扉へ向かって運ばれていった。エルヴィンが手を伸ばそうとした時、すぐ近くから、低い声が響いた。
「賢明だ。お前たちは……クーデターも何も、命あってこそだな」
誰の姿も見えないまま、血判状は扉の向こうへ消えていった。エルヴィンは震える身体を無理やり起こし、座席へ肩をぶつけながら外を覗いた。周囲にはこちらを見ている人間も、立ち去ろうとする影もなく、ただ馬が落ち着かない様子で首を動かしていた。
御者へ声をかけようとして、エルヴィンは言葉を失った。御者台に残された身体は、手綱を握っていた姿勢のまま崩れており、その上にあるはずの首がなかった。視線を下げると、落とされた頭部が足元に転がっていた。
御者が殺された音さえ、自分たちは聞いていなかったのだと、エルヴィンは理解した。刃物を吐かせ、身体の内側から別の刃物を生やし、その間に外にいる人間の首まで落としている。どこから、誰が、どうやって襲ってきたのか、その手掛かりさえ何一つ掴めていなかった。
背後で座席が軋み、ナイルがようやく身体を起こした。彼は血のついた口元を拭う余裕もないまま、ソファへどかりと背中を預ける。喉から漏れる息はまだ掠れており、目も完全には焦点を結んでいなかった。
「これで……分かっただろう。ヴァレンタインに逆らえば……死よりも恐ろしいことが……起きる……」
エルヴィンは扉から離れ、傷ついた右腕を庇いながら向かいの席へ腰を落とした。ナイルが交渉の初めから見せていた苦々しい表情も、家族の話を持ち出した理由も、今なら違う重さで理解できた。彼はこの恐怖を知った上で、あの要求を伝えに来ていたのである。
「こ……こんなことが……何度も……?」
ナイルは目を閉じ、わずかに頷いた。それから何かを飲み込むように喉を動かし、答えること自体を怖がりながらも、掠れた声を出した。
「何人も……死んだよ。部下が、その家族が……な……」
エルヴィンはすぐには何も言えず、血に汚れた自分の左手を見つめた。命を懸ける覚悟を持つ者だけを相手にしているのなら、ナイルも違う選択ができたかもしれない。しかし、その覚悟をしていない家族まで同じ目に遭わされるのなら、従う以外の道を探すこと自体が、恐怖に変わってしまう。
それでも、思考を止めるわけにはいかなかった。クーデターの日時も、替え玉と囮の用意も、王を挿げ替える計画まで知られているのなら、相手が掴んでいる情報は、今ここで口にされたことだけではないはずだった。エルヴィンは窓の向こうへ目を向け、離れた場所にいる仲間たちのことを考えた。
エレンとヒストリアを隠している場所まで、すでに知られているのではないか。そう考えても、すぐに確かめる手段はなく、傷ついた身体で立ち上がろうとすると、右側に鋭い痛みが走った。彼は唇を噛み、今もどこかでこちらを見ているかもしれない相手の気配を、どうしても捉えられないまま息を整えた。
*
その日の夜、隠れ家の近くにある森では、木々の間を冷たい風が抜けていた。建物の明かりが枝葉に遮られるあたりで、白いスーツをまとった男が歩みを止める。金色の髪に残ったかすかな光が、側頭部の独特なカールを浮かび上がらせていた。
その数歩先で待っていたディエゴは、相手の姿を確かめても驚かなかった。昼間から胸に居座っていた予感が、今、目の前で形を取っただけだった。互いの顔を見定めるように、どちらも足を進めず、夜の森で視線を交わした。
ファニー・ヴァレンタインと、ディエゴ・ブランドーが向き合っていた。かつて一方がもう一方の命を奪った二人の間を、何も知らない夜風だけが通り抜けていった。