エルヴィンが馬車の中で血判状へ署名するより、少し前のことである。エレンたちが隠れ家へ移ってから数日が過ぎた頃、ナイルは、ある貴族が所有する地下施設を訪れていた。地上から人目を避けて出入りでき、厚い壁に囲まれたそこは、外へ漏らしたくない込み入った話をするには、都合のよい場所だった。
階段を下りた先では、磨き上げられた床が奥の扉まで続いていた。通路の両側には等間隔に灯りが置かれ、その光の下へ、絵画や骨董品、彫刻が順番に並べられている。ナイルはここへ来るたびに足を止めたくなるのを堪え、正面を向いたまま進まなければならなかった。
美術品の価値を見抜く眼など、自分にはない。それでも、壁の中で名を知られ、教科書に載っていたものと同じ姿が、目の前にいくつもあることは分かった。普通なら一つを見せるために人を集めそうな品々が、ここでは客を部屋へ通すための廊下を飾っていた。
見事だと感心するより先に、ナイルは嫌な気分になった。これほどの物を集め、惜しげもなく並べておける相手に、財力や権力でできないことなどあるのだろうか。自分が何を言いに来ようと、その程度の力では届かないのだと、部屋へ入る前から思い知らされているようだった。
通路の奥へ着いたナイルは、一度足を止めて襟元を整えた。拳を上げ、扉を叩こうとした、その直前に、向こうから落ち着いた声が聞こえた。
「入りたまえ」
ナイルは上げかけた手を止め、扉を見つめた。呼び出された時刻は決まっていたが、それでも、今ここへ立ったことまで分かるものだろうか。通路に誰かがいた様子もなく、知らせを入れる人間の姿も見ていなかった。
「……失礼します」
扉を開けると、広い部屋の中央にテーブルがあり、その正面に、今回自分を呼び出した男が座っていた。白いスーツをまとったファニー・ヴァレンタインは、両手を机上へ置き、待ちくたびれた様子もなくナイルを見ている。その背後と壁際に立つ三人へ目を移したところで、ナイルは足を止めた。
一人は、顎に髑髏を思わせる形の髭を蓄えた男だった。顔立ちにはどこか哀愁があり、こちらへ敵意を向けているようには見えないのに、安易に近づいてはいけないと感じさせる静けさがあった。その隣には全身を黒で包んだ男が立ち、目の白い部分まで黒く染まった異様な双眸を、ナイルへ向けていた。
二人とも初めて見る顔であり、ヴァレンタインの私兵にあたる者なのだろうと考えた。しかし、それ以上にナイルを驚かせたのは、壁際に立っていた三人目だった。そこには憲兵団の制服を着た、マルロがいた。
「どうした? ……ああ、マルロに驚いているのか」
ヴァレンタインはナイルの視線を追い、何でもないことのように笑った。部下がここにいる理由を尋ねるより先に、彼の方から説明を始める。
「彼とは、とても気が合ってね。最近は何かと私のことを手伝ってくれているのだよ。まあ、気にしないでくれ」
マルロはナイルへ向き直り、胸に拳を当てて敬礼した。しかし、心臓を捧げるその姿勢を取った後は、何の説明もせず、静かに腕を下ろした。上官へ向ける礼儀こそあっても、指示を待つ部下の顔ではないことに、ナイルは言いようのない違和感を覚えた。
その目が戻る先にいるのは、ナイルではなくヴァレンタインだった。命じられたことをただ手伝っているというより、自分の意思で、ここに立っていることを誇ってさえいる。憲兵団の一員が、自分の知らないところで別の人間へ忠誠を向けているのだと悟り、ナイルは唇を引き結んだ。
「そちらの二人はリンゴォとリゾットだ。私の仕事を手伝ってもらっている」
紹介されても、二人は自分から口を開こうとはしなかった。ナイルが目を向けると、髑髏の髭をしたリンゴォは静かに視線を返し、黒ずくめのリゾットは表情を変えずに立っていた。彼らが何を任されているのかまで、ヴァレンタインは話さなかった。話さずに、自らのグラスにワインを注ぎながら言った。
「飲むか?私は飲む。20年もののそこそこなやつだが、味は保証するよ」
ナイルは勧められた椅子へ腰を下ろし、テーブルを挟んで白い男と向き合った。背後に扉があることを確かめてから、余計な探り合いに時間を使うまいと口を開いた。
「それで……ご用件は何でしょうか」
「ふむ、せっかちだな。だが、まあいい。時間があるわけでもないからね」
ヴァレンタインは手元から紙の束を取り出し、ナイルの前へ滑らせた。どこから持ってきたのか尋ねる間もなく、こちらで読める向きに揃えられた文字が目へ入る。そこに見覚えのある筆跡を認めたナイルは、思わず顔を上げた。
「エルヴィンの計画書の写しだ。まずは、それを見たまえ」
ナイルは一枚目へ目を落とし、そのまま言葉を失った。調査兵団の動きに関する記述から始まった内容は、読み進めるほど、現在の体制へ刃を向けるものになっていく。決行に向けた準備や人員の動かし方まで記されており、単なる不満を書きつけた文書ではないと分かった。
あまりにも情報が多く、どこから考えるべきか判断がつかなかった。エルヴィンが何かを企てているのだとしても、ここまで踏み込んだ計画を、なぜこの男が持っているのか。ナイルは最後まで読み終える前に、まず確かめなければならないことを尋ねた。
「このことを、中央憲兵には伝えられたのですか」
「いや、まだ伝えてはいない」
ヴァレンタインはゆっくりと背もたれへ身体を預けた。安心させるつもりの返事ではなかったことは、その口元に浮かんだ笑みを見れば分かった。
「もっとも、君の態度次第では、伝えることもやぶさかではない」
ナイルは紙の端を握りかけ、指を止めた。エルヴィンのことを考えれば簡単に見過ごせず、かといって自分は、今や憲兵団を率いる立場にある。旧友の計画を守るために組織を動かすことも、目の前の男の要求を聞くことも、その場の感情で決められる話ではなかった。
「私の一存では決められません。もう少し、考える時間をいただけないでしょうか」
ようやく絞り出した言葉に、ヴァレンタインは腕を組んだ。困ったことを言われたという表情を作ったが、ナイルの事情を聞くために身を乗り出すことはなかった。
「ふむ…それは困るな。そうでないなら、君らの計画を今すぐ明かすだけだ」
「君ら、と言われても、私は――」
「この血判状にサインしたまえ」
ヴァレンタインはナイルの言葉を遮り、別の紙を差し出した。そこには、クーデター成功後、ファニー・ヴァレンタインを王として認める旨が記されていた。憲兵団団長と調査兵団の間で密約を結び、その条件を受け入れるなら、憲兵団が内部への進入を手引きするという内容まで用意されている。
ナイルは文面を読み返し、書かれていることが変わらないと確かめた。反乱を止めろと命じられるのではなく、成功させた上で、その成果をこの男へ渡せと言われている。自分の立場もエルヴィンの計画も、最初からそのための道具として扱われていた。
「そもそもだ、ナイル君。君は、あのエレン・イェーガーとクリスタ・レンズに、どれだけの価値があるか分かっているか?」
「エレンのことは分かりますが……クリスタ・レンズは?」
「分かっていないようだな」
ヴァレンタインは紙へ置いていた指を離し、ナイルの顔を見た。知るべきことを知らない相手へ、順を追って教えるような口調だったが、その目には、話を拒む余地を与える気配がなかった。
「今の王は、お飾りにすぎない。真の王家はレイス家なのだよ。そして、クリスタの本名は、ヒストリア・レイスという」
ナイルは目を見開き、続けようとしていた言葉を失った。調査兵団にいる少女の名と、壁の内側を支配する王家の話が、いきなり結びつけられている。聞き間違いではないかとヴァレンタインを見つめても、彼は取り消す様子を見せなかった。
「詳しく明かしてやることはできんが、ただの王家ではない。この世界の『パワー』が、そこには詰まっている」
「それは……」
否定しようとしても、ナイルには材料がなかった。自分が接してきた王政の姿が、この男の話より正しいのだと示すものさえ、すぐには挙げられない。その迷いを読んだかのように、ヴァレンタインは言葉を継いだ。
「今の王と遠縁にあたる私が言うのだから、間違いない。世間に公表するものとは別に、家系図もあるしな……君に見せてやることはできんがね」
見せられないものばかりを根拠にされているのだと、ナイルにも分かった。だが、エルヴィンの計画書を実際に目の前へ出された後では、どこまでが虚勢なのか見極めることができない。権力も情報も自分より深いところへ届いている相手に、知らないから信じないと言うだけでは対抗できなかった。
「いいかね、ナイル君! あの二人を手に入れることが『正義』なのだ! そのためには、どんな手段も取る!」
不意に強まった語気に、ナイルは肩をこわばらせた。先ほどまで世間話のように脅しを口にしていた男が、今は揺るぎのない確信を声へ乗せている。リンゴォもリゾットも動かなかったが、壁際のマルロだけは、その言葉に深く頷いていた。
「あれは『兵器』だ。吉良(きちりょう)なるものではないが、この世界の基本にして『パワー』なのだ。この壁と、海を越えた向こうで待ち望まれている『パワー』なのだよ」
海の向こうという言葉まで飛び出し、ナイルはさらに眉を寄せた。エレンの巨人の力について話していることは分かるが、目の前の男が見ている範囲は、自分が知る壁の内側に収まっていない。王家の血を引く少女まで含めて兵器と呼ぶその考えにも、すぐには頷けなかった。
「それを手に入れることは、この壁の中では何よりも優先される。だから、最終的には我々が必ず手に入れるのだ」
ヴァレンタインはもう一度、血判状をナイルへ向けて押し出した。初めからそこへ話を戻すつもりだったように、署名欄の上へ指先を置く。その動きを見ながら、ナイルは逃れられない問いを突きつけられている気分になった。
「だから、君はエルヴィンと組んで、クーデターを成功させたまえ。うまくいけば、首が挿げ替わる。そして、この壁の中と外の世界にまで、恒久的な平和を作り出すことができる」
「だから、エレンを縛るために……あなたが王に?」
ヴァレンタインが返事をするより先に、壁際から鋭い視線が向けられた。マルロが姿勢を正し、テーブルの向こうではなく、上官であるナイルの方を睨んでいた。
「縛る……? 言葉には気をつけてください、ナイル団長」
ナイルは突然の言葉に驚き、思わず壁際のマルロを見返した。上官へ向かって何を言うつもりだと叱りかけたが、その目を見た途端、口にするはずの言葉が止まった。そこにはヴァレンタインへの絶対の忠誠と、目的のためなら命を懸けることも厭わない、黒い炎のようなものがあった。
「ヴァレンタイン氏がやっていることは『正義』です。それは憲兵団にとっても、この壁の中にとっても、正しい道なんです。だから、我々は正しい白の中にいます」
ヴァレンタインは満足そうにマルロの言葉を聞いていた。忠誠を示させるために目配せした様子はなく、マルロ自身が信じていることを口にしているのだと、ナイルにも分かった。そのことが、命令で言わされている場合よりも不気味に感じられた。
「中央は腐敗していますし、憲兵たちだってそうだ。オレは何度も、それを正そうとしてきた。それなのに、今日に至るまで何の行動も起こさず、腐敗を受け入れてきたあなたにッ! ヴァレンタイン氏を批判する権利はありません!」
ナイルは椅子の肘掛けを握り、怒りを押し込めた。自分たちの腐敗を指摘されたことと、だからこの男に従えという話は、同じではないはずだった。しかし、マルロはすでに答えを得た者の顔をしており、こちらの言葉を待とうともしていなかった。
「もう大丈夫だ、マルロ。君の考えは、よく分かっている」
ヴァレンタインが穏やかに制すると、マルロはすぐに口を閉じた。そして、今度は彼へ向かって胸に拳を当て、心臓を捧げる敬礼をする。ナイルはその姿を見ながら、これ以上ここで話を続けても、まともな交渉にはならないと判断した。
「……失礼します。この件については、改めて回答させていただく」
ナイルは椅子から立ち上がり、扉へ向かった。付き合ってはいられないという思いを押し隠し、せめて外へ出てから、何を知られ、何を要求されたのかを整理しようと考えた。背後から止める声はなく、リンゴォもリゾットも、その場を動く気配はなかった。
扉へ手を伸ばし、取っ手を掴んだところまでは覚えていた。その冷たさが掌へ伝わったはずなのに、気づいた時、ナイルはテーブルの前の椅子に座っていた。目の前には先ほどと同じ向きで血判状が置かれ、ヴァレンタインがこちらを見ていた。
「……何だ?」
ナイルは肘掛けに置かれた自分の手を見てから、背後の扉へ顔を向けた。そこへ歩いて行った記憶はあるのに、戻ってきた覚えはない。椅子へ腰を下ろした感覚さえなく、立ち上がる前と同じ姿勢で座っていることが、理解できなかった。
「嬉しいよ、ナイル。さあ、後はここへサインするだけだ」
ヴァレンタインは無表情のまま、署名欄を指した。まるでナイルが帰るのをやめ、考え直して席へ戻ったとでも思っているような口ぶりだった。ナイルは彼の顔と紙を交互に見てから、もう一度立ち上がった。
「私は、帰ると言ったはずだ」
今度は椅子が後ろへ動く音を聞き、自分の足で床を踏んでいることを確かめた。テーブルから離れ、扉の前へ立ち、取っ手へ手をかける。それでも次に目へ入ったのは、席の正面にいるヴァレンタインの顔だった。
ナイルは椅子に座り、先ほどと同じように両足を床へつけていた。息が浅くなり、喉の奥が乾いていく。二度も続けて同じことが起きれば、ぼんやりしていただけだと片付けることはできなかった。
「ばかな……オレは、確かに……!」
「おやおや。そう言いながら、君は私の眼の前に座っているじゃあないか」
ヴァレンタインの口元へ、薄い笑みが戻った。リンゴォは顎をわずかに引いてこちらを見ており、リゾットも壁際から動いていない。誰かに腕を掴まれた覚えも、椅子へ押し戻された記憶もないことが、かえってナイルの冷や汗を増やした。
「それとも、一存では決められないと言いながら、心の中では信じてしまっているのかな? この血判状へサインすることが、この国のためになると」
ナイルは答えられずにヴァレンタインを見つめた。自分の身体に起きたことの説明を求めているのに、相手は意思の問題として話し続けている。その落ち着きが、何もかも承知の上でやっているのだと物語っていた。
「だとしたら、大正解だよ」
ナイルは机を強く叩き、その音とともに勢いよく立ち上がった。今度こそ、どこで何が変わるのかを確かめてやろうと、視線を扉から外さずに歩く。取っ手へ手をかけ、引こうと力を込めた瞬間、見ている景色が変わった。
背中には椅子の感触があり、手はまた肘掛けの上へ戻っていた。テーブルの縁にも、血判状の置かれた場所にも、変化は見当たらない。ナイルは目を見開いたまま息を詰め、自分がどのようにここへ戻ったのかを、三度目も確かめられなかった。
「何だ……何なんだ、これは! オレは今、確かに扉を……!」
ヴァレンタインは両手を組み、テーブル越しにナイルを見た。問いに答える必要などないと言わんばかりに、相手が息を整えるのを待ってから、ゆっくりと口を開いた。
「反旗を翻すのは結構。だが、それよりも一つ、確かなことがある」
ナイルは肘掛けを握り、白い男の声を聞いていた。部屋の広さも、扉までの距離も変わっていないはずなのに、その間が途方もなく遠く感じられる。誰一人立ち上がっていないのに、空気そのものが震え、こちらへ重く押し寄せてくるようだった。
「君がサインしなければ、ここから永久に出られないということだ」
冗談とも誇張とも思えない言葉が、ナイルの胸へ落ちた。扉まで行くことはできても、その先へは進めないという現実を、すでに三度も見せつけられている。目の前の男は、その理由を説明しないまま、自分にできることとして告げていた。
「いつまででも待つよ。君の気が変わるまでな」
ヴァレンタインは背もたれへ身体を預け、ナイルの返事を待つように間を置いた。だが、その沈黙が相手を自由に考えさせるためのものではないことは、ナイルにも分かっていた。続きを聞く前から、逃れようとする行動のすべてが見透かされている気がした。
「君の帰りを憲兵団も調査兵団も心配するかもしれないが、まあ、構わんだろう。クーデターを失敗させ、壁の内側へさらなる混乱を引き起こした卑怯者に、君がなるだけだからなぁ〜〜」
ナイルは奥歯を噛みしめ、目の前の男を睨みつけた。恐怖が消えたわけではなかったが、自分が何に仕え、何のために憲兵団を率いているのかまで、この男へ決めさせるつもりはなかった。帰れないと言われたからといって、国の行く末をその場で売り渡せるはずもない。
「なめるんじゃあないぞ。この身は、すでにこの国へ捧げた。裏切るくらいなら――」
ヴァレンタインが手を動かしたため、ナイルは言葉を止めた。白い指の間で、小さな首飾りが揺れていた。どこから取り出したのかを見る余裕もなく、見覚えのある形へ目を奪われ、そのまま動けなくなった。
「フゥーム……いい首飾りだな、これは」
ヴァレンタインは灯りへかざすように持ち上げ、飾りの表面を眺めた。大切な物を扱うような丁寧な仕草だったが、ナイルの中では、その指先へ伸びていきそうになる衝動と、触れてはいけないという恐怖がせめぎ合っていた。
「私はこういうブランド物にもそこそこ詳しいが……結構、値が張るだろう。憲兵団団長のご家族の、悪くない暮らしぶりが窺えるなぁ〜〜」
ナイルの背中へ汗が流れ、握っていた手から力が抜けた。その首飾りは、自分が妻へ贈ったものだった。形も鎖も見間違えようがなく、妻が身につけていた姿まで、はっきりと目に浮かんだ。
「そ、それは……オレが妻に贈った……」
言い終える前に、ナイルの目の前へ、小さな帽子が落ちてきた。誰かが投げた方向も見えず、何もなかったはずの空間から現れたそれは、テーブルの端へ当たり、彼の膝の上で止まった。子供用のキャップだと分かった瞬間、心臓が嫌な音を立てた。
「はぁーっ、はぁーっ……!」
ナイルは帽子をつかみ、裏返しかけたところで手を止めた。確かめなくても、それが誰の物か分かってしまう。家にいるはずの子供がかぶっていた物が、今は自分の膝にあるという事実に、息を整えることもできなかった。
「そのキャップに、見覚えはあるかね?」
ヴァレンタインは首飾りを手元へ下ろし、ナイルが握りしめた帽子へ目を向けた。自分がどれだけのことをしているのかを、こちらに確かめさせるような、ゆっくりとした声だった。
「気をつけたまえ。部下がウォール・シーナ内の田舎者の家を訪れた際に、見つけたようだぞ……」
ナイルの手が震え、帽子の中から一枚の紙が滑り落ちた。とっさにつかんで広げると、そこには道と建物の位置が描かれていた。学校へ向かう道と、子供が家へ帰ってくる道が、迷いようのない線で示されている。
血の気が引いていくのを感じながら、ナイルは紙を見つめた。妻の首飾りも、子供の帽子も、偶然似た物を用意したのではない。自分の家族がどこで暮らし、どの道を通り、いつ帰ってくるのかを、目の前の男は掴んでいた。
家族を人質に取られているのだと、ようやくはっきり理解した。ここへ来るまでは、憲兵団団長としての責任と、エルヴィンとの関係をどう扱うべきかで迷っていた。しかし、妻と子供に手が届くと見せつけられた瞬間、その迷いを支えていた足場まで崩れてしまった。
「勘違いしてもらっては困るが、別に君たちの家族団欒やクーデターを邪魔しようというわけじゃあない」
ヴァレンタインは、言い聞かせるように穏やかに続けた。ナイルは帽子を膝の上へ抱えたまま、その声を聞くしかなかった。壁際のマルロへ目を向けても、彼はヴァレンタインの言葉を遮ろうとはしなかった。
「君の妻は、今まで通り、夫と子供の帰宅を待つ。子供は子供らしく、元気に学校へ通う。そして君は、自分の仕事に誇りを持ちながら家へ帰る」
思い浮かぶのは、何でもないはずの家の光景だった。自分が帰れば妻が迎え、子供たちが話しかけてくるという、それまで疑いもしなかった日常が、今はひどく遠く思える。ヴァレンタインはそのすべてを返してやるとでも言うように、紙の上へ指を置いた。
「何も変わらないんだ。ここへサインすればな」
ナイルは返事をすることもできず、テーブルの上の血判状へ目を落とした。さっきまでは国を売り渡すための紙に見えていたものが、今は、妻と子供を家に留めておくための条件として差し出されている。同じ文面なのに、そこから目を離すことができなくなった。
「……サインしなければ、どうなる?」
尋ねた声は、自分で思ったよりも掠れていた。答えを聞かずに済ませたいと思いながら、それでも、まだ何か別の道があるのではないかと期待してしまう。ヴァレンタインはそんな迷いを確かめてから、静かに返した。
「そうだな……君はここから帰れないだろうし、君のご家庭は崩壊へ向かうだろう。もちろん、クーデターも失敗する」
ナイルは喉を動かし、唾を飲み込んだ。扉へ向かっても椅子へ戻される自分には、家へ駆けつけることも、妻へ知らせることもできない。帰りを待っている家族は、自分がここで何を突きつけられているのかさえ知らずにいるのだった。
「まあ、サインするかしないかは君の自由だ。仮に君がいなくとも、調査兵団はクーデターを起こすだろうし、ある程度は事を進められるだろう」
ヴァレンタインはそこで言葉を切り、ナイルの目を見た。自由だと口にしながら、どの選択をすれば何が起こるのかを、すべて自分で決めている。その不合理を指摘したところで何も変わらないことを、ナイルはすでに思い知らされていた。
「もう一度言うが、クーデターは失敗する。君のせいでな」
ナイルは紙から目を上げ、白い男を見つめた。王になろうとするこの男が、壁の内側へ平和をもたらすのか、それとも別の支配を持ち込むのか、自分には判断するだけの材料がなかった。それでも、従わなければ何をされるのかについては、もう十分に理解できていた。
「それに、君と君の家族、そして調査兵団と憲兵団のすべてに、これまでの人生で最も大きな不幸が襲いかかる。これだけは保証しよう」
その言葉を聞いても、ナイルは怒鳴り返すことができなかった。自分一人が命を捨てれば済むという抵抗さえ、最初から奪われていたのである。国へ捧げた身だと言い切ったばかりなのに、膝にある子供の帽子を握る手は、離せと命じても動かなかった。
逆らうことはできないのだと、ナイルは絶望した。ここで誇りを守って黙り続けても、その代償を払わされるのは、何も知らずに暮らす妻と子供だった。エルヴィンや部下たちにまで同じものが向けられるのなら、もう、自分の決意だけで抗うことはできなかった。
ナイルは家族へ、心の中で何度も詫びた。守るための選択だと思おうとしても、彼らを自分の決断の理由にしていることが、ひどく苦しかった。続いてエルヴィンの顔を思い浮かべ、これから計画へ持ち込む裏切りについて、声にできない謝罪を繰り返した。
テーブルの上には、初めから署名のための道具まで用意されていた。ナイルは震える手でペンを取り、紙を押さえ、自分の名を書いた。最後に血で判を押し終えても、胸の内に安堵はなく、取り返しのつかないところへ足を踏み入れたという思いだけが残った。
ヴァレンタインは差し出された血判状を受け取り、署名を確かめた。納得したように一度頷き、大切な書類を扱う手つきで紙を揃える。その満足げな顔を見ても、ナイルにはもう何も言うことができなかった。
「よし……これで、円卓に座る準備ができたぞ。このヴァレンタインがな」