ディエゴは真夜中に、突然目を覚ました。物音に起こされたわけではなく、隠れ家の外に撒いていた恐竜の一匹が、何者かに切り刻まれて死んだのである。支配下に置いていた感覚が不意に断ち切られ、その衝撃が眠っていた意識を引き戻した。
彼は寝台の上で身を起こさず、暗がりの中へ目を凝らした。周囲からは眠っている兵士たちの静かな呼吸が聞こえ、廊下の向こうにも、誰かが異変に気づいた気配はない。昼間の実験で意識を失ったエレンも、まだ目を覚ましてはいないはずだった。
森へ放った恐竜は、隠れ家に近づく中央憲兵の斥候を減らすためのものだった。ただし、その目的は敵を殺すこと自体にはなく、エレンの実験を続けるための時間を稼ぐことにある。追っ手が居場所を特定するまでの時間を延ばせば、それだけ座標の力を調べる機会が増え、発動条件へ近づくことができると考えていた。
数も一匹や二匹ではなく、並の兵士なら一頭を相手にするだけでも苦戦するはずだった。複数に囲まれれば、まともに抵抗することさえ難しいだろう。ミカサやリヴァイほどの人間でもなければ勝負にならないと、ディエゴは自分の作った警戒網を評価していた。
その一匹が死んだことを確かめている間に、別の感覚が途切れた。続けてもう一匹が殺され、さらに別の一匹まで、短い間隔で支配から脱落していく。敵を囲んでいるのか、追っているのかを考えるより早く、森の中に残る手駒は減っていった。
最後の二匹に異変が起きた時、ディエゴは寝台の上で目を細めた。今度は殺されたのではなく、何かに掴まれ、そのままどこかへ持ち去られていた。そこにいたはずのものが、間を飛ばして消えるような感覚には、よく覚えがあった。
胸の内へ、どす黒いものが広がっていった。口の中へ無理やり糞を押し込まれたような不快さと、吐き出しても消えそうにない苛立ちが、眠気の残りを塗り潰していく。昼間から離れなかった予感が、ようやく形を取ろうとしていた。
「……来たか」
ディエゴは音を立てずに身を起こし、周囲へ目を向けた。誰もこちらを見ていないことを確かめると、身体の一部を恐竜へ変え、爪を伸ばした指を窓枠へかける。窓を開ける音まで抑えながら外へ抜け、壁を伝って地面へ下りた。
隠れ家から離れるにつれ、建物の灯りは木々に遮られ、足元も闇へ沈んでいった。ディエゴは人間の形へ戻りながら進み、先ほど二匹の恐竜が消えた方角へ目を向けた。まだ相手の姿は見えなかったが、逃げるために手駒を消したのではないことは分かっていた。
少し歩いたところで、目の前へ何かが投げ捨てられた。重いものが土へ落ち、二つ、三つと転がって止まる。裂かれた胴と切り離された脚が、つい先ほどまで生きていた二匹の恐竜のものだと、ディエゴはすぐに見分けた。
その向こうで、白いスーツが闇の中から浮かび上がった。金色の髪を整え、側頭部に独特なカールを作った男が、何でもない道を歩いてきたような足取りで現れる。ディエゴはその顔を見た瞬間、自分の内側に沈んでいた殺意が、いっそう深く熱を持つのを感じた。
「やはり、君もここへ来ていたか……Dio」
ファニー・ヴァレンタインは、数歩の距離を残して足を止めた。足元へ捨てた恐竜にはもう興味がないらしく、正面にいるディエゴだけを見ている。二人の間を夜風が抜けても、どちらも視線を動かさなかった。
「大統領…いや、今はヴァレンタインと呼んだ方がいいのか?」
ディエゴは相手の喉元を見据え、口の端を持ち上げた。笑おうとしているのではなく、歯を剥き出しにするのを、まだ人間の表情に留めているような顔だった。
「地獄から舞い戻ったぜ」
ヴァレンタインは表情を変えず、その言葉を聞いていた。やがて足元の恐竜へ一度だけ目を落とし、そこから確かめられるものを確かめたように、再び顔を上げた。
「私は死ぬ前にいくつもの次元を越え、生きている君を見つけたが……君は、私が殺した君のようだな」
ディエゴの指先に、爪が戻りかけた。目の前の男が同じ顔をした別人ではなく、自分を殺した記憶を持っていることを、わざわざ言葉で確かめさせられたのである。あの時の屈辱が蘇り、喉へ噛みつくまでの距離を、考えるより先に身体が測っていた。
「…何が言いたいんだ、ヴァレンタイン? まさか、生前のオレを殺したことを誇りに思って、自慢しに来たわけじゃあないだろう? え?」
「落ち着け。君は私を敵だと思い、信用していないだろう」
ヴァレンタインはディエゴの手を見ても、身構えなかった。恐竜を何頭も始末した後とは思えないほど呼吸は落ち着き、その目にも、相手の怒りへ付き合うつもりはないという冷たさがあった。
「私も君を信用してはいない。だが、敵ではない。今はな」
ディエゴは前へ出しかけていた重心を戻し、指先に伸びかけた爪を収めた。すぐに噛みつくための姿勢こそ解いたが、警戒を緩めたわけではない。ヴァレンタインがわずかでも動けば対応できるよう、相手の肩と手元から目を離さなかった。
「そう言われてもな……お前がオレを殺したことに変わりはない。今でも復讐の心が、熱した鉄みたいに内側で滾っているんだぜ」
「だが、それよりも上にあるはずだ。この世界の『パワー』を手に入れ、支配者になることがな」
ディエゴは言い返そうとして、口を閉じた。見透かしたような言い方には腹が立ったが、野心より復讐を優先すると断言することもできなかった。自分がこの壁の中で何を手に入れようとしているのかを、相手も掴んでいるということだけは分かった。
「……なるほどな。お前も知っているのか、エレンとヒストリアについて」
「少し違うな」
ヴァレンタインは、問いを待っていたかのように答えた。声に得意げな響きはなかったが、そこにあるのは、同じところまで辿り着いた者同士として話す態度ではなかった。
「『知っている』のではない。『理解(わか)っている』のだよ。その力の使い方と、行き着く先までな」
「……ッ!?」
予想を越えた言葉に、ディエゴは思わず目を見開いた。発動条件を絞り込み、ヒストリアへ疑いを向けた自分に対して、ヴァレンタインは、その先まで把握していると言っている。虚勢である可能性を考えても、恐竜を片付けた手際と、今ここへ来た余裕を前にすると、簡単には切り捨てられなかった。
「実にナイスな返事だ、Dio」
ディエゴは舌打ちをし、そばにあった木へ乱暴に背を預けた。望んだ反応を引き出されたことが気に入らず、そのまま正面に立って話を聞いているのも癪だった。腕を組み、こちらを見ているヴァレンタインへ顎を向けた。
「それで? 結局、オレに何の用だ。物知り博士さんよ」
ヴァレンタインは一度頷き、ここからが本題だと告げるように間を置いた。夜の森にいることも、相手が今にも襲いかかりかねないことも、彼の調子を変えなかった。
「私は、この壁の中の王になる。だから君がマーレを獲れ、Dio」
ディエゴは一瞬、頭上へ目を向けた。用心していたのは、配下へ加われという命令か、エレンとヒストリアを引き渡せという要求だった。海の向こうにある国そのものを奪えと言われるとは思わず、相手の顔へ視線を戻した時には、目の奥に別の光が宿っていた。
「おや……ほぉ?」
ヴァレンタインは、その反応を見ても急いで説明しようとはしなかった。ディエゴが言葉の意味を考え始めたことを確かめてから、エレンたちの話へ戻った。
「エレンとヒストリア……特に、エレンの方は、この世界における『パワー』だ。『遺体』のように吉良(きちりょう)なるものではないが、この世界の中心であり、『兵器』なのだ」
ディエゴは木にもたれたまま、黙って続きを聞いた。エレンの力が壁の内外を動かしていることは分かっていたが、ヴァレンタインの言う中心という言葉には、それより深い意味があるようだった。かつて奪い合った遺体まで引き合いに出されたことで、単なる兵力の話として聞き流すこともできなくなっていた。
「あれを支配する者が、この世界のナプキンを取る。最初の一枚を誰が取るかで、その後の連中の振る舞いが決まる。私はそれを、他人に決めさせるつもりはない」
ヴァレンタインは隠れ家のある方角へ、一度だけ目を向けた。その先で眠っている少年を、彼は人間としてではなく、支配を成立させるための力として見ていた。エレン自身の意思を尊重するという発想は、その語り口のどこにもなかった。
「兵器に自我があること自体、扱う側にとっては許されるものではない。できるなら自我をなくさせたいところだが、そう簡単にはいかん」
ディエゴはそこで片方の眉を上げたが、口を挟まなかった。ヴァレンタインがエレンをどこまで制御できると考えているのか、その話をもう少し聞いておく必要があった。
「レイス家も同じだ。本当の王家ではあるが、だからこそ、好きに振る舞わせてはおけない。始祖と王家を支配することが壁の内側の平穏となり、この世界のナプキンを取ることへ繋がる」
始祖という言葉を聞きながら、ディエゴは昼間の推理を思い返していた。エレンの力とヒストリアの血筋を、ヴァレンタインも一組のものとして扱っている。ただし、そこから先については明かさず、必要なのは自分が支配することだという主張だけを、はっきりと口にしていた。
「そんなものを、壁の中から外へ出すことはできない」
ヴァレンタインはディエゴへ向き直り、目を合わせた。自分の欲望を語っているというより、他の誰かへ任せることこそが誤りだと、心から信じているような顔だった。
「この私だけだ。海の向こうで、自分の利益と甘い汁のことしか考えていないクソ野郎どもにだけは、決して渡せない」
ディエゴはしばらく相手を見つめ、言葉の中から必要なものを拾い上げた。壁の中を支配する理由や、海の向こうの連中を嫌う理屈はともかく、エレンがこの世界で何にあたるのかは分かり始めていた。遺体を巡って起きたことと重ねるなら、確かめておくべきことがある。
「ならば、エレンのいるここが……基本の世界であり、中心だということか」
「そういうことだ」
ヴァレンタインは迷わず答え、ディエゴを見た。ようやく話の前提が揃ったとでもいうように、先ほどの提案へ戻っていく。
「私は君を信用していないが、その野心は高く評価している。遺言を託したくらいだからな……君が支配しろ、マーレを」
ディエゴは木から背を離し、片手で髪を掻き分けた。大きな取り分を示されたからといって、そのまま従うと考えられているのなら、甚だ不愉快だった。相手が自分を殺した男であるという事実は、話している間も一度として消えていなかった。
「遺言やナプキンがどうのという話は分からんが……オレがお前に従う理由はあるのか?」
ヴァレンタインは返事を急がず、ディエゴが続きを口にするのを待っていた。その態度に腹を立てながらも、ディエゴは相手の目を見据え、こちらが握っているものを突きつけた。
「オレは今すぐにでも、エレンを恐竜に変えて自害させることができるんだぞ。お前が欲しがっている兵器を、お前が手を伸ばす前にな」
口に出した脅しとは別に、ヴァレンタインの首へ狙いを定める意識があった。指を動かせば爪を伸ばせるし、踏み込めば喉へ歯が届く。それをせず、ここに立ったまま話を聞いていること自体が、どれほどの我慢なのか、この男へ分からせてやりたかった。
「そもそもオレは、お前に殺されたんだ。今すぐ噛み砕きたいのを堪えながら、こうして立っている。これ以上妙なことを言うなら、この場で即!始末してやる」
「いいや。君は私を始末しないし、エレンも殺さない」
ヴァレンタインは、ほとんど間を置かずに断言した。脅しを受けて考え直した顔でも、恐怖を隠している表情でもなく、最初から分かっていたことを確かめるような声だった。
「君は、そこまで愚かではない。始祖の巨人の能力をどう使うかも分からないまま殺してしまっては、支配も何もなくなる。そのくらいは理解しているはずだ」
ディエゴは顎へ力を込め、相手の言葉を聞いた。エレンを殺せば計画を壊すことはできるが、自分が求めているものまで失うことになる。ヴァレンタインを今殺した場合も、あの力の使い方を知る機会を一つ潰すのだと、考えずにはいられなかった。
「この世界に聖人はいない。だから、吉良なるものは存在しないが、あれこそがこの世界のナプキンだ。あれを手にする者こそが、円卓につける」
ディエゴは黙ったまま、ヴァレンタインを見ていた。自分の怒りに応じることなく、話を支配のための条件へ戻してくるところが、かつての大統領と少しも変わっていない。殺したいと思うほど、その先へ進むために聞いておくべきことが増えていくのが、ひどく腹立たしかった。
「今、我々はナプキンを手にしていない…どちらも満足に扱えないからな。だが、円卓へ座る権利は持っている。そして、その円卓に我々以外の者座ろうとしている」
ディエゴは、ようやく相手の提案の形を掴んだ。壁の内側だけを自分のものにしても、外で同じ力を求める国が残れば、支配は安定しない。反対に、海の向こうへ手を伸ばそうとしても、この壁の中に自分の邪魔をする者が残っていれば、足元を掬われることになる。
「レイスと、マーレか」
「その通りだ」
ヴァレンタインは小さく頷き、ディエゴから視線を外さなかった。信用という言葉を使って取り繕うつもりは、もうどちらにもない。互いの前に残っている敵をどう片付けるか、それだけが、今この場で話を続ける理由だった。
「君が私を殺したがっているのは知っているし、私もいずれ君を殺すつもりではいる」
ディエゴの目が、静かに細くなった。いずれ刃を向けると告げられても驚きはなく、むしろその方が、友好を装う言葉よりは聞きやすかった。相手が何を望み、どこまで利用するつもりなのかが、はっきりするからだった。
「だが、それは今ではない。レイス家とマーレを潰した後の話だ。違うか?」
夜風が二人の間を抜け、足元の葉を揺らした。ディエゴはしばらく何も言わず、白いスーツの男を見つめていた。相手を生かしておくことが、自分の目的を進めることへ繋がるという話を、否定しきれないのが何より気に入らなかった。
「なんだか……とんでもなく上から目線で語られている気がするな」
ディエゴは低く言い、口の端をわずかに持ち上げた。怒りが薄れたわけではなく、それを今すぐ相手へぶつける代わりに、自分の中へ押し戻していた。いずれ吐き出す時には、今日の分までまとめて返すつもりだった。
「いずれお前は殺すし、マーレもオレのものにする。だが、円卓にほかの連中が座っているのは、もっと気に入らない」
ディエゴはヴァレンタインへ背を向け、隠れ家の方へ歩き出した。無防備に立ち去るつもりはなく、背後の気配は捉えたままにしていたが、これ以上ここで条件を聞かされ続ける気もなかった。歩きながら、肩越しに言葉を投げた。
「……だから今だけはお前の頸動脈をぶち切らないでやる。感謝しておけ」
ヴァレンタインは、その背中を追おうとはしなかった。足音が離れ始めたところで、今夜ここへ来た最後の用件を告げるように、落ち着いた声を向けた。
「そろそろ、君たちの親玉が何かを起こす。その流れに逆らわず、私を助けろ」
ディエゴは足を止めず、返事もしなかった。エルヴィンが動こうとしていることを、この男はやはり掴んでいる。それがどこまでの情報なのかを尋ねる代わりに、次に告げられる言葉へ耳を向けた。
「そして、ヒストリアを守れ。それが今の君の使命だ」
使命と呼ばれたことに、ディエゴは口元を歪めた。しかし、振り返って言い争うことはせず、そのまま木々の間へ入っていった。ヒストリアを失えないという判断自体は、ヴァレンタインへ命じられるまでもなく、自分の中で決まっていた。
*
隠れ家へ戻ったディエゴは、もう一度身体の一部を恐竜に変え、来た時と同じ窓から音を立てずに中へ入った。建物の中はまだ静かで、廊下にも、誰かが起き出した気配はない。身体を人間の形へ戻すと、そのままヒストリアが眠っている場所へ向かった。
そっと様子を確かめると、彼女は寝台の上で穏やかな寝息を立てていた。前日に身の上を話した時の強張りも、命を狙われると聞いた時の怯えも、今の顔には浮かんでいない。近づいた者の痕跡や争った様子もなく、ディエゴは部屋の中へ向けていた警戒をわずかに緩めた。
この少女は鍵なのだと、彼は眠る顔を見ながら考えた。昼間にはまだ推測だったことを、ヴァレンタインは当然の前提として語っていた。詳しい使い方を知らないままでも、エレンと並べて扱う必要がある以上、失うわけにはいかなかった。
少し離れた寝台では、サシャも眠っていた。ただし、夢の中では何かを食べているらしく、口元を動かしながら、掛け布を抱え込んでいる。頬を緩めた顔を見れば、少なくとも、恐ろしい夢に追われているわけではなさそうだった。
「……まだ、食べられます……」
小さな寝言を聞き、ディエゴの口元に自然な笑みが浮かんだ。夢の中でも何かを貪っているのだろうと思うと、たった今まで胸に渦巻いていたものとは別の感覚が、ほんのわずかに入り込んでくる。本人が起きていれば呆れた声をかけていたかもしれないが、今は笑いを漏らさず、静かにその顔を見ていた。
ディエゴは寝台から目を離し、部屋を出る前に一度だけ振り返った。誰も目を覚ましていないことを確かめて廊下へ戻る頃には、その表情から柔らかさは消えている。代わりに戻ってきたのは、まだ手にしていないものを見据える、いつもの野心に満ちた顔だった。
彼は暗い窓の向こうへ目を向け、夜の森に残してきた男を思い浮かべた。今は同じ円卓から邪魔な連中を退かすことにしても、最後まで席を譲るつもりはなかった。いずれ決着をつける時まで、今夜押し込めた殺意も、忘れずに持っていく。
「せいぜい上から見ていなよって感じだ……マーレの後は、お前との決着をつけてやるぞ……ヴァレンタイン」