西暦八五〇年。三年間にわたった第104期訓練兵団の訓練課程は、ようやく終わりを迎えようとしていた。
整列した訓練兵たちの前を、教官がゆっくりと歩いていく。三年前にはまだ少年少女の面影を色濃く残していた者たちも、今では軍服を身につけ、それなりに兵士と呼べる顔つきになっている。ただし、同じ三年間を過ごしたからといって、全員が同じだけのものを得たわけではない。途中で脱落した者もいれば、辛うじて卒業まで辿り着いた者もおり、その一方で、誰の目にも明らかなほど他者より抜きん出た者たちもいた。
「これより、第104期訓練兵団、成績上位十名を発表する!」
教官の声が訓練場へ響き渡り、それまでわずかに残っていた私語がぴたりと止まった。訓練兵たちは一斉に背筋を伸ばし、自分の名が呼ばれる瞬間を待つ。
「第十位! クリスタ・レンズ! 第九位、サシャ・ブラウス!」
「はっ!」
サシャはいつになく真面目な顔で胸を張ったが、次に名を呼ばれたコニーは緊張が抜けていたのか、いつもの調子で返事をしてしまった。
「第八位! コニー・スプリンガー!」
「おう!」
「返事は『はっ』だ、馬鹿者!」
「は、はっ!」
張り詰めていた空気の中に小さな笑いが漏れたものの、教官がひと睨みするとすぐに静まった。発表はそのまま続き、第七位にマルコ・ボット、第六位にジャン・キルシュタイン、第五位にエレン・イェーガーの名が呼ばれる。
エレンは前へ進みながら、胸の奥に五年前から消えることのないものを感じていた。シガンシナ区で母を失ったあの日から、巨人に対する憎悪は一度たりとも薄れていない。その感情を三年間の訓練へ叩きつけた結果が、今の順位だった。
「第四位! アニ・レオンハート! 第三位、ベルトルト・フーバー!」
無表情のアニと長身のベルトルトが、それぞれ前へ進み出る。そして教官は一度名簿へ目を落とした後、残る二名の名を読み上げた。
「第二位! ミカサ・アッカーマン!」
「はっ!」
ミカサの成績について、異論を差し挟む者はいなかった。入団直後からあらゆる科目で突出した数字を叩き出し、教官たちからも歴代屈指の逸材と評されている。普通の期であれば、彼女が首席になって当然だっただろう。
だが、第104期には一人だけ、その「当然」を壊した男がいた。
「首席――ディエゴ・ブランドー!」
「はっ」
ディエゴは特に感慨を見せることもなく、いつもの落ち着いた表情で前へ出た。周囲にも驚く者はいない。三年間、誰一人として彼を総合成績で上回れなかった以上、首席という結果は発表される前から分かりきっていたからだ。
馬術、対人格闘、立体機動、座学、持久力。そのほとんどが最高水準であり、中でも馬術と対人格闘に関しては、教官たちですら評価の言葉を選ぶほどだった。馬に乗らせれば人馬が最初から一つの生き物だったかのように動き、対人格闘では相手の癖を数合で見抜く。訓練兵の中では明らかに突出しているミカサでさえ、何度挑んでも最終的にはディエゴに制された。
ある日の訓練で、教官が口にした言葉を覚えている者は多かった。
『アッカーマンは歴代でも屈指だ。だが、ブランドーについては……比較対象がいない』
それは褒め言葉であると同時に、半ば教官自身の困惑でもあった。ミカサには「極めて優秀な訓練兵」という比較の尺度がまだ使えるのに対し、ディエゴにはそれすら当てはめにくい。三年間を通して積み上げられたその評価が、最終的に首席という順位へ結びついていた。
上位十名が並び終わると、教官は改めて訓練兵全員を見渡した。
「以上の者には憲兵団への入団資格が与えられる! だが、憲兵団、駐屯兵団、調査兵団、そのどこへ進むにせよ、お前たちは今日から一人の兵士だ。自分が三年間で何を学んだのか、それを忘れるな!」
教官が右拳を胸へ当てると、訓練兵たちもそれに続いた。
「人類のために――心臓を捧げよ!」
「「「はっ!」」」
一斉に響いた声が訓練場の空気を震わせる。その瞬間をもって、長かった三年間の訓練兵生活は終わった。
◆
その夜、同期たちはささやかな食事を囲みながら卒業を祝っていた。三年間ほとんど毎日顔を合わせてきた者たちも、これからは調査兵団、駐屯兵団、憲兵団と、それぞれ別の道へ進むことになる。
「俺は憲兵団に行くぜ」
ジャン・キルシュタインは迷う素振りもなく言い切った。以前から何度も公言していたことであり、内地へ入り、巨人とは無縁の安全な生活を手に入れることこそ、彼が上位十名を目指した最大の理由でもある。
「マルコ、お前も憲兵団だろ?」
「そのつもりだけど。俺は王に仕える仕事がしたいって、前から思ってたから」
「そうじゃねえよ。せっかく上位に入ったんだぞ?」
ジャンは呆れたように肩を竦めると、周囲にも聞こえる声で続けた。
「やっとこのくっそ息苦しい最前線の街から脱出できる! 内地での安全な暮らしが俺たちを待ってるからだろうが!」
途端に、それまで賑やかだった部屋が静まり返った。食事をしていた者まで手を止めてジャンを見るものだから、本人もさすがに言い方が悪かったと気づいたらしく、気まずそうに眉を寄せた。
「……なんだよ。悪かったって。別にお前らを馬鹿にしたかったわけじゃねえよ」
そこで終わればよかったのだろうが、ジャンは少し考えた後、むしろ先ほどより真剣な声で言葉を続けた。
「けどよ、言い方が悪かっただけで、俺が言ってること自体は間違ってねえだろ。五年前にウォール・マリアが破られて、そのあと人類は領土奪還作戦なんてものをやった。二十五万人近く送り込んで、まともに帰ってきたのはほんの一部だ」
エレンの表情がわずかに強張った。ジャンもそれには気づいていたが、ここで口を閉ざすつもりはないらしい。
「領土奪還なんて立派な名前がついてるけど、実際は食料不足をどうにかするための口減らしだったって、みんな知ってる。人類の二割近くを突っ込んで、それでもウォール・マリアは奪い返せなかったんだ」
ジャンは自分自身へ言い聞かせるように拳を握った。
「俺たちは、巨人には勝てねえんだよ」
重い沈黙が落ちる。その空気を最初に破ったのは、やはりエレンだった。
「内地に行かなくても、お前の頭の中はずいぶん快適そうだな」
「あ?」
ジャンの眉が吊り上がる。エレンは椅子から立ち上がると、真正面から彼を睨んだ。
「巨人に勝てないって最初から決めつけて、逃げる理由ばっかり考えてるんだろ」
「現実を見ろって言ってんだよ。気合いだけで巨人が死ぬなら、あの作戦で二十万人も死んじゃいねえ」
「俺だって現実を見てる。だから言ってるんだ」
「何をだよ」
「巨人に勝った奴を、この目で見た」
ジャンの口が止まった。エレンはそのまま部屋の端へ視線を向け、周囲の者たちも自然と同じ方向を見る。
そこにはディエゴがいた。食事を続けながら、まるで今の会話が自分とはまったく無関係であるかのような顔をしている。
「五年前、シガンシナ区でディエゴは一人で巨人を殺した。立体機動装置すら使わずにな」
その話を知っている者もいれば、噂としてしか聞いたことのない者もいた。サシャとコニーなどは改めてディエゴを見ているが、本人は視線を集めても特に反応しない。
「俺はその場にいた。だから知ってる。巨人は絶対に勝てない相手じゃない」
ジャンは苦々しく舌打ちしたものの、ディエゴの実力そのものを否定する言葉は出てこなかった。三年間、嫌というほど見せつけられてきたからである。
人間離れしている、という表現では足りない。入団したばかりの頃なら「あり得ない」と思っただろうが、あり得ないものを三年も見続ければ、いずれ感覚の方が麻痺してくる。今のジャンにとってディエゴ・ブランドーとは、もはや「人知を超えている」とでも言わなければ説明しようのない存在になっていた。
「……あいつが化け物なのは認めるよ」
「だったら――」
「でもな、ディエゴ一人で何ができる?」
エレンの言葉を遮って、ジャンは壁の向こうを指すように顎をしゃくった。
「ウォール・マリアをうろついてる巨人全部を、あいつ一人で殺せるのか? できねえだろ。ディエゴがどれだけ強くても、それだけで人類全体が巨人に勝てるって話にはならねえ」
「人類は戦術も兵器も進化した。ディエゴじゃなくても巨人を殺せる確率は増えたんだ」
「どれだけの確率だ?その確率的に巨人を殲滅できるんなら今ごろ巨人はいない。現実を見ろよ」
「わかったよ…だが、お前みたいなこと言う奴がいると士気が下がるんだよ。そんなに内地が恋しいならとっとと出ていけよ、邪魔だ」
「てめえに言われる筋合いはねえ」
二人が互いの胸ぐらを掴みかねない距離まで詰め寄ると、同期たちの何人かは「また始まった」という顔をした。ミカサが止めに入ろうと腰を浮かせ、ライナーも面倒そうに二人を見る。
その時、別の声が横から割って入った。
「やれやれ。三年間も一緒にいて、最後の夜までそれか」
ディエゴが飲み物を片手に、気だるそうな足取りで近づいてきた。もっとも、その顔を見る限り、争いを穏便に収めようなどという善意から来たわけではないらしい。
「何だよ」
ジャンが不機嫌そうに睨むと、ディエゴはまず彼を見て、それからエレン、最後に周囲の訓練兵たちへ視線を巡らせた。その口元には、他人をどこか面白い生き物でも観察するような薄い笑みが浮かんでいる。
「しょせん、人間はハトの群れと同じだ。一羽が右へ飛べば、残りも考えなしに右へ行き、一羽が怯えて飛び立てば、今度は揃って逃げ出す」
「……は?」
「どいつもこいつも自分の利益とうぬぼれしか見ようとしないくせに、周りと同じ方向へ飛んでいる間だけは安心した顔をしている。気取り屋どもの群れってわけだ」
そこでディエゴはジャンへ視線を戻し、露骨に馬鹿にするような笑みを浮かべた。
「てめ――」
「だが、勘違いするなよ。オレはお前に『気取るな』と言ってるわけじゃあない」
ジャンが言い返すより先に、ディエゴは言葉を重ねた。怒っている様子はなく、むしろ自分の考えを口にすること自体を楽しんでいるようだった。
「オレはお前より、もっと気取らせてもらう。そんな『ハトの群れ』に混ざって、どちらへ飛ぶかを他人に決めてもらう気はない。巨人がいるから、壁が壊れたから、周りの連中が諦めたから――そんなくだらない理由で自分の人生を決められるほど、オレは安くないんでね」
ディエゴはジャンとエレンを交互に見ながら、さも当然のことを告げるように肩を竦めた。
「オレは生きる。とことん気の済むまで、自分の人生を生きるとするぜ」
その言葉には、自信も傲慢さも自負もあった。普通の訓練兵が口にすれば、大言壮語だと笑われて終わったかもしれない。しかし、言っているのがディエゴでは話が変わる。首席であり、教官に「比較対象がいない」と評され、まだ幼かった頃には立体機動装置もなしに巨人を倒した男である。少なくともジャンには、何を言い返しても負け惜しみにしかならないということが分かっていた。
「……チッ」
ジャンは舌打ちして視線を逸らした。
「言い方は相当ヤバいけどよ」
エレンは少しだけ笑うと、ディエゴへ真っ直ぐ視線を向けた。
「やっぱすげえな、お前。俺も追いつくからな」
「何にだ?」
「お前にだよ。いつか絶対、お前に追いついてやる」
「そりゃ大変だな」
ディエゴが興味なさそうに返したので、エレンは思わず顔をしかめた。
「もっと何かねえのかよ!」
「ないな」
「即答すんな!」
二人のやり取りを聞いて、周囲から笑いが起こった。先ほどまで部屋を覆っていた重苦しい空気はいつの間にか薄れており、コニーまで「まあ、巨人全部がディエゴくらい強いわけじゃねえしな」と妙な納得をしている。
「それ、逆じゃない?」
マルコが苦笑しながら言った。
「ディエゴの方が巨人よりおかしいって話じゃ……」
「聞こえてるぞ」
「ご、ごめん」
さらに笑いが広がった。ジャンだけは面白くなさそうにしていたが、エレンと殴り合いを始める気は失せたらしく、自分の席へ戻っていく。
ディエゴも何事もなかったように席へ戻った。自分の言葉で同期の士気が上がったことにも、誰かが多少救われたことにも、大した興味はない。ただし、先ほど口にした内容そのものは紛れもなく本心だった。
国や兵団、壁や巨人といったものに、自分の人生の方向を決めてもらうつもりはない。ディエゴ・ブランドーは、あくまでディエゴ・ブランドー自身のために生きる。その一点だけは、一度目の人生から何も変わっていなかった。
◆
深夜、訓練兵舎の自室へ戻ったディエゴは、一人で机に向かっていた。卒業式の日だからといって、彼の日課まで変わるわけではない。
三年間の訓練兵生活を送る間も、情報収集を欠かしたことは一度もなかった。ただ、子供の頃のように自分で壁を登り、好き勝手に外へ出るわけにはいかなくなっていた。点呼はあるし、周囲には同期がいる。夜な夜な姿を消していれば、さすがに誰かが不審に思う。
そこでディエゴは、自分の代わりに動くものを用意した。
「便利なもんだ」
机の上には、一匹の小さな鼠が座っていた。一見すればどこにでもいる鼠だが、よく見れば皮膚の一部が細かな鱗へ変わり、足先の爪も不自然なほど鋭く発達している。
スケアリー・モンスターズは、巨人に使えば巨大な恐竜を作り出す。しかし対象が鼠や蜥蜴、虫ほどの大きさであれば、当然ながら生まれる恐竜も小さい。人間なら気にも留めない生き物が、床下や天井裏、物置、寝室の隅まで入り込み、そこで交わされる会話を拾ってくる。
この三年間、ディエゴはそれらを使い続けた。その結果、本人たちが誰にも知られていないと思っていた秘密まで、少しずつ彼のところへ流れ込むようになっていた。
「人間が巨人になる、か」
椅子へ深く腰掛けたディエゴは、机を指先で軽く叩いた。最初に耳にした時はさすがに疑ったが、同じ話を何度も、それも別々の場所で拾えば偶然では片づけられない。
密談の断片、何気なく漏れた単語、眠っている時のうわ言。それらを時間をかけて繋ぎ合わせていくと、ぼんやりとしていた輪郭が一つの形を取り始めた。
人間を巨人へ変える薬が存在する。そして壁の外には、ただ人間が生き残っているというだけではなく、一つの国家と呼べるほど大きな社会が存在している。
「マーレ……」
その名を、ディエゴは小さく口にした。海の向こうには文明があり、軍隊があり、この壁の内側とはまったく異なる世界が広がっている。そして、その世界から送り込まれた人間が、すでに自分たちのすぐそばへ潜り込んでいた。
「ライナー・ブラウン。アニ・レオンハート。それから――ベルトルト・フーバー」
三人とも巨人になれる。しかも、ただの巨人ではない。
「ベルトルトが超大型巨人とはな。あの冬のナマズみたいなやつが……人は見かけによらんもんだ」
初めて知った時には、さすがのディエゴもしばらく笑ってしまった。ベルトルトは三年間を通して目立たない男だった。身長と成績だけなら嫌でも目につくのに、性格は控えめで、ライナーの後ろにいることが多く、自分から中心へ出ようとしない。
その男こそが、五年前にシガンシナ区の壁を蹴り壊した超大型巨人だった。
普通の人間なら、ここで怒りを覚えただろう。故郷を壊した仇がすぐ近くにいると知れば、復讐を考える者も少なくないはずだ。
だが、ディエゴにとって三人の正体など心底どうでもよかった。
今すぐライナー、ベルトルト、アニの寝室へ踏み込み、三人を殺そうと思えば、おそらくできる。巨人になる時間すら与えず仕留める方法はいくらでもあった。眠っている間に恐竜化した鼠へ喉を噛み切らせてもいいし、毒を使っても、事故に見せかけてもいい。
仮に暗殺へ失敗し、巨人化されたところで、それでも勝てるとディエゴは考えていた。通常の巨人より強いことは間違いないだろうが、彼にとって巨人との戦闘はすでに未知の領域ではない。何より、能力を隠す必要さえなくなれば、使える手札はこちらにも山ほどある。
「だが、殺すメリットがない」
結局のところ、それがすべてだった。
三人には生かしておく価値がある。一つ目は、壁の外についての情報源として利用できることだ。マーレ、戦士、故郷、巨人の正体。ディエゴがまだ知らない事実を、彼らは知っている。
そして、もう一つ。こちらの方がディエゴにとっては遥かに重要だった。
「巨人になれる人間を、恐竜にできるのか」
口元の笑みが深くなる。通常の巨人へスケアリー・モンスターズが作用することは、とっくに確認済みだ。ならば、人間が自ら巨人へ変身した場合はどうなるのか。
その巨人体にもスケアリー・モンスターズは作用するのか。作用するとすれば、人間として持っている意識はどうなるのか。そして、六十メートル級の超大型巨人さえ自分の支配下へ置けるのか。
「試さない手はないな」
もっとも、巨人化した後でベルトルトのうなじへ直接触れに行くのは効率が悪い。超大型巨人は大量の熱を放出するうえ、六十メートル近い巨体へ取りつく必要まである。
だからディエゴは、発想を逆にした。
巨人になってからスケアリー・モンスターズの力を流す必要があるとは限らない。人間の状態であらかじめ力を仕込んでおき、その後に巨人化させればどうなるのかを試せばいい。
「仕込みなら、昨夜のうちに済ませてある」
ベルトルトが眠っている間、ディエゴは恐竜化させた小さな虫を寝床へ潜り込ませた。狙わせたのは、通常の巨人と同じくうなじの位置である。
虫にほんのわずか噛ませ、そこからスケアリー・モンスターズの力を流し込む。残る傷は小さく、本人が気づいたとしても虫刺され程度にしか思わない。
あとは、ベルトルトが巨人化するのを待つだけだった。
「情報が正しければ、決行は明日らしいな」
ライナー、ベルトルト、アニが再び何かを仕掛けようとしていることまでは掴んでいる。具体的な手順までは聞き取れなかったが、壁を攻撃するつもりなのは間違いない。
ならば、ディエゴにとっては都合がよかった。敵の計画をわざわざ止める必要などない。その瞬間を利用して、自分の仮説を確かめればいい。
「お前が巨人になった瞬間、答え合わせといこうじゃあないか」
誰もいない部屋で、ディエゴは楽しそうに笑った。
◆
翌日、突如として響いた轟音とともに空気が震え、熱を含んだ蒸気が壁際を覆った。
その光景を見た瞬間、エレンは五年前へ引き戻されたような感覚に襲われた。目の前に現れたのは、シガンシナ区の壁を破壊し、母を失うきっかけを作ったあの超大型巨人だったからだ。
「また……こいつ……!」
胸の奥から一気に怒りが込み上げる。五年間、一日たりとも忘れたことのない相手が再び目の前へ現れたのだから、考えるより先に身体が動こうとした。
だが、そのエレンをアルミンの声が止めた。
「待って! 何か、おかしい!」
超大型巨人の様子は、確かに異常だった。巨体が激しく痙攣し、首の後ろを気にするように身体を捩っている。最初は大量の蒸気のせいで輪郭が揺らいでいるだけかと思えたが、ミカサもすぐに違和感へ気づいた。
「筋肉だけじゃない。身体そのものが変わってる……」
「なんだ……?」
エレンの怒りが、一瞬だけ困惑に押し流される。
「なんなんだよ、これ……」
超大型巨人の両腕が不自然に縮み始め、肩から背中にかけての骨格が大きく変形していく。湾曲した背骨の延長からは太い尾が形成され、頭部も人間に似た輪郭を失って前方へと伸びていった。
肥大した顎の内側には、それまでなかった巨大な牙が次々と生えていく。六十メートル級の肉体が、巨人とはまったく異なる生物へ作り替えられている。
アルミンは息をすることすら忘れたように、その変化を見つめていた。知識の中にある生き物を必死に探し、ようやく一番近いものへ思い当たる。
「……恐竜?」
その言葉がこぼれた直後、変化は終わった。
壁を越えるほどの巨大な身体は、もはや人型の巨人ではない。長大な尾と巨大な顎、鋭い牙を備えた異形の恐竜が、ウォール・ローゼの目前に立っていた。
次の瞬間、その怪物は大きく顎を開いた。
「GYAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAッ!!」
耳をつんざく咆哮が響き渡り、大地が震えた。建物の窓が一斉に鳴り、近くにいた訓練兵たちは誰一人として、その場から動くことができない。
エレンたちは知らなかった。
その光景を、少し離れた屋根の上から眺めている者がいることを。
ディエゴ・ブランドーは、変貌した超大型巨人を見上げながら、ゆっくりと口元を吊り上げた。
「できるじゃあないか」
五年前、初めて通常の巨人を恐竜へ変えた時にも興奮した。しかし今回は、その時とは比較にならない。
人間が巨人へ変身する特殊な存在であっても、スケアリー・モンスターズの力は失われず、巨人体へそのまま引き継がれた。しかも対象は、人類が五年前から恐れ続けてきた六十メートル級の超大型巨人である。
それが今、自分の力によって別種の怪物へ変わっている。
「クク……最高だ」
ディエゴの目には、恐怖など欠片もなかった。
五年前に壁を壊した怪物も、人類へ絶望を与えた怪物も、エレン・イェーガーが人生を賭けて憎み続けてきた仇も、ディエゴにとってはただ一つの意味しか持っていない。
あれは今、自分の能力がどこまで通用するのかを証明する、最高の実験動物だった。