ストヘス区の通りに、遠くから銃声が響いていた。荷馬車の御者台で手綱を握るアルミンは、音のした方へ目を向けたが、並ぶ建物に遮られて何も見えなかった。悲鳴まで聞こえたところで隣を走る仲間へ顔を向けると、ジャンもまた、落ち着かない様子で屋根の上を見ていた。追っている霊柩馬車は、通りを二つ先へ進んでいる。
見失わない距離へ詰めたいところだったが、相手がこちらに気づいている可能性もあった。ディエゴが匂いを辿れるため、角を曲がるたびに姿を確かめなくてもよいことだけが、今は救いだった。
シルバーバレットの背で、ディエゴは前方から流れてくる風を嗅いだ。馬と車輪の油の匂いに混じり、エレンとヒストリアのものも、途切れずに残っている。だが、その後ろを進む自分たちの周囲には、さっきまでなかった人間の匂いが増え始めていた。
「そのまま進め。まだ、見失ってはいない」
アルミンは頷き、曲がり角へ馬車を向けた。建物の間が開き、前方を走る霊柩馬車の後部が見えた時、頭上からワイヤーの走る音がした。反射的に見上げたジャンの視界へ、人影が一つ飛び込んできた。
銃を持った憲兵が、屋根の縁からこちらを狙っていた。その男が身を乗り出すより早く、別の影が横合いから迫り、刃を振るった。憲兵の身体が崩れて屋根から落ち、引き金を引くはずだった手から銃が離れた。
サシャは息を呑み、コニーも馬上で肩を強張らせた。倒れた男が起き上がらないことを、二人とも通り過ぎるまで見てしまっていた。ジャンは唾を飲み込んだまま、今の一瞬をどう受け止めればいいのか分からず、飛んできた人間へ目を戻した。
リヴァイは血のついた刃を引き、アルミンの操る馬車へ飛び乗った。荷台が重みで揺れたが、彼は膝を使って着地を収め、すぐに背後へ視線を向けた。隣のシルバーバレットから、ディエゴだけが平然と声をかけた。
「お美事」
「そりゃどうも」
リヴァイはそれだけ返し、追っている馬車の方を見た。前へ進めば二人へ近づけるはずなのに、その顔には、追いつくための指示を出そうとする気配がなかった。血に濡れた刃を握り直し、仲間へ告げた。
「一旦、エレンとヒストリアは諦める」
「なっ……兵長!?」
アルミンの声が裏返り、ミカサはすぐにリヴァイへ顔を向けた。ジャンも手綱を引きかけたが、止まるわけにはいかず、馬を走らせたまま言葉を待った。驚いた様子を見せなかったのは、進行方向よりも、すでに周囲の建物へ注意を向けているディエゴだけだった。
「奴らは二人を餌にして、残った調査兵団を皆殺しにする気だ。追えば、そのまま待ち伏せへ飛び込むことになる」
ミカサは唇を引き結び、前方を走る霊柩馬車を見つめた。今ここで離れれば、またエレンの行き先が分からなくなるのではないかという焦りがあった。だが、さっき屋根から狙っていた銃口を思い返せば、このまま追うことが救出へつながるとは言い切れなかった。
「幸い、ヴァレンタインの手下が、厄介な奴と何人かを引きつけてくれた。この程度で済んでるのは、そのおかげだ。だが、まだ待ち伏せがいると思え」
リヴァイの視線が、馬車の横を走るディエゴへ移った。ディエゴは短く鼻を鳴らし、追跡を続けられることを確かめるように顎を引いた。二人の間に、改めて質問する必要はなかった。
「こいつがいれば、姿を見失っても追える。今は憲兵どもを迎撃しながら、平地へ出るぞ。アルミン、道を選べ」
「わ、分かりました!」
アルミンは前へ向き直り、建物の並びを見ながら、広い道へ抜けられる方角を探した。追うために使っていた頭を、仲間全員を逃がすために切り替えなければならなかった。手綱を握り直す間にも、リヴァイの指示は続いた。
「サシャ、コニー。馬で牽引しろ。速度を落とすな」
サシャとコニーは左右から馬車へ寄り、予備の牽引綱を取って、自分たちの馬具へつないだ。車輪の音に蹄の響きが重なり、荷台が大きく揺れながら前へ引かれた。アルミンは二人の位置を確かめ、曲がる先を声で知らせた。
「ジャンは荷台から銃で応戦しろ」
「りょ、了解!」
ジャンは馬の手綱を荷台へ預け、走る馬車へ乗り移った。積んであった銃を掴んだものの、持ち上げた時には、さっき落ちた憲兵の姿が頭をよぎった。振り払うように息を吐き、後方を見渡せる位置へ膝をついた。
「ミカサは俺と、立体機動で逃走の支援だ」
「はい」
ミカサも馬を馬車へつなぎ、装置の握りを確かめた。リヴァイが次の屋根を見定めてから、最後にディエゴへ目を向けた。ディエゴはその視線を受け、少しだけ眉を上げた。
「お前は……そうだな。馬と立体機動で逃走を支援しながら、ジャンの援護だ」
「オイオイオイオイオイ。何だか、オレだけ多くないですか?」
ディエゴは荷台のジャンと、御者台のアルミンを順に見た。文句を言う声音ではあったが、どちらの位置も、すでに頭へ入れているようだった。リヴァイはいつもと変わらない目を向け、問い返した。
「できないのか?」
ディエゴは不愉快そうに鼻を鳴らした。背後から近づくガスの噴射音を聞きながらも、その口元には、むしろ挑まれたことを面白がるような笑みが浮かんだ。手綱を片手へまとめ、荷台の二人を見た。
「ジャンとアルミンを守る。立体機動で逃走の支援もする……両方やれというわけだ。こいつらを相手にするくらいなら、そう難しいことじゃあない」
「頼もしいです!」
サシャは振り向きかけ、すぐ前へ目を戻した。それでも、声に明るさが戻ったことは、隣を走るコニーにも分かった。ジャンもアルミンも大口だと言う気にはならず、今の言葉をそのまま頼りにしている自分に気づいていた。
「分かったんなら、さっさとやれ。敵さんは待っちゃくれねえようだぞ」
屋根の向こうから、数人の憲兵が飛び出してきた。銃口がこちらへ向く前に、リヴァイが荷台を蹴り、ミカサも反対側の建物へ鉤を打ち込んだ。二人の身体が馬車の上を離れた途端、頭上で刃と銃のぶつかる音が響いた。
アルミンは腰を浮かせそうになるのを堪え、馬を走らせた。振り返れば前の道を見失い、ここで車輪を引っかければ、逃げ道ごと塞いでしまう。仲間が何をしているか気になっても、自分はこの馬車を進めるしかなかった。
その横で、ディエゴはシルバーバレットの速度を緩めた。馬車が先へ出るのを許し、自分だけが一歩ずつ後ろへ離れていく。綱を取っていたサシャとコニーは、思わず同時に振り返った。
「おい、ディエゴ! 何してんだ、お前!」
ジャンが荷台から叫んだ時、ミカサの刃を避けた憲兵が、馬車の後方へ滑り込んできた。ワイヤーを巻き取りながら、荷台にいるジャンへ銃を向けている。その下を走っていたディエゴは、銃口より先に、男の身体が来る場所を見ていた。
シルバーバレットの背へ足を置き直すと、ディエゴは装置へ触れず、後ろ斜め上へ跳んだ。ジャンは、馬から落ちたのかと思って身を乗り出しかけた。だが、空中へ投げ出されたはずの身体は、飛来した憲兵の肩へ、狙っていたように降り立った。
「があッ!?」
憲兵は突然の重みに姿勢を崩し、銃口を下へ向けた。ディエゴは襟を掴んで身体の向きを変え、その背を踏んだまま、男を通りの低いところへ押し下げた。張ったワイヤーに一度引かれた身体が石畳へ叩きつけられ、憲兵は叫びを途切れさせて動かなくなった。
地面へ下りるより先に、ディエゴはその背を蹴っていた。次の憲兵が構えた銃の横を抜け、今度は頭上から肩口へ足をかける。狙う相手が自分の上へ来たことに、男は銃を持ち上げることさえできなかった。
「うわあああッ!」
二人目もまた、飛んでいた軌道を下へ変えられた。ディエゴは一緒に落ちながら壁を片足で蹴り、男だけを路上へ転がすと、自分は次の人影へ向かった。地面から届いた鈍い音に、ジャンは銃を握ったまま言葉を失った。
ディエゴは、自分の立体機動装置を一度も作動させていなかった。飛んでくる憲兵を足場にして跳び移り、足りない距離は建物の壁を蹴って埋めている。馬車から離れたはずの身体は、敵を踏むたびに前へ進み、走り続ける荷台の後ろへ、少しずつ戻ってきていた。
「何だよ……あれ……」
コニーは馬の進路を保とうとしながら、目だけでその動きを追った。空中に足場があっても、あの距離へ跳べるはずがなく、飛んでいる人間の上へ狙って降りるなど、考えたこともなかった。脚を動かしているのが自分たちと同じ人間だと思うほど、見えている光景が分からなくなった。
ミカサも、銃を構える敵へ近づきながら、その動きを視界の端で捉えていた。速さだけならまだ受け入れられたかもしれないが、ワイヤーで身体を支えることもなく、空中で次の足場を選び直して進む姿は、自分の知っている身体の使い方から外れていた。
追っていた憲兵たちも、ディエゴの名については聞かされていた。だからこそ、ano
男が、ただの脚力で頭上へ現れることを、すぐには理解できなかった。隊長のケニーでさえ、あのように装置を使わず、人を踏み台にして追いついてくることはないと、誰もが知っていた。
「散れ! まとめて狙え!」
数人が距離を取り、ディエゴへ銃口を集めようとした。だが、その一人が横へ向き直った時には、背後から別の影が迫っていた。自分のワイヤーが切られたことに気づくより早く、低い声がすぐそばで響いた。
「どこ見てやがる」
リヴァイの刃が走り、憲兵の身体が軌道を失った。ディエゴを追おうとした別の男へはミカサが回り込み、伸ばした腕を銃ごと弾いた。一人に注意を奪われれば、残る二人が、その隙を見逃すはずもなかった。
ディエゴは壁の出っ張りへ足をつき、こちらへ向き直りかけた男の背へ飛び移った。銃を持つ腕を蹴り下げ、その肩越しに、もう一人の身体が来る位置を見定めている。憲兵たちは狙いを揃える前に体勢を崩され、路上や建物の裾へ落とされて、二度と追跡へ加われなくなっていった。
リヴァイは次の鉤を打ち込みながら、舌打ちをした。以前やり合った時にも人並みの身体ではないことは分かっていたが、あの場で見せたものだけで測っていい相手ではなかった。
「あいつ……俺との喧嘩の時は、相当手を抜いてやがったな」
言ってから、リヴァイは口元だけで鼻を鳴らした。あの場で相手を殺すために、持っている手をすべて使おうとしなかったのは、自分も同じだった。余計な考えを切り、馬車の進む先へ銃を向けかけている憲兵へ、身体を振った。
サシャは馬車を牽きながら、ディエゴが落とした憲兵へ目を向けた。路上へ転がされた男が、腕を抱えて身を捩っている。別の男も、落ちた銃へ手を伸ばそうとして、痛みのためにその場へうずくまっていた。さっき動かなくなった男たちも、倒れた胸が、かすかに上下していた。
その様子を見た時、サシャは、息を詰めるほどの驚きとは別のものが胸へ湧くのを感じた。ディエゴは敵へ飛び移るたびに、落とす場所と、身体の向きを変えていた。追いかけられないほどの傷は負わせても、命を奪うための一撃を、あの男は加えていなかった。
今のような場所で、殺さないでほしいと頼むのが、どれほど難しいことかは分かっていた。銃を向けられた側に、相手の命まで選んで守れる余裕があるとは限らなかった。自分には人を撃つ覚悟がなくても、誰かが仲間を守るために殺してしまうことまで、止められるとは思っていなかった。
それでも、ディエゴはあの時、守るだけだと言ってくれた。相手を殺す方がずっと簡単なのに、わざわざ難しいやり方を選んでいるのなら、口先だけでサシャを安心させたわけではなかったのだと思えた。
サシャは前を向き直し、手綱を持つ指へ力を込めた。自分との約束を守ってくれているのかもしれないと思うと、嬉しさとともに、頼んだ言葉の重さが胸へ戻ってきた。あの人が大丈夫だと分かっていても、飛び交う銃弾の間へ姿が消えるたびに、目で追わずにはいられなかった。
最後まで追いすがってきた憲兵が、低く飛んで馬車へ近づいた。ディエゴは壁を蹴り、その背へ降りると、銃口を通りの端へ逸らした。男の身体が下へ向いたところで装置を留める帯を引きちぎり、外れた機材を掴み取った。
「う、うわああッ!」
憲兵は荷車の脇へ叩き落とされ、息を詰まらせたまま転がった。ディエゴはその肩を足場にもう一度跳び、少し先を走っていたシルバーバレットの背へ飛び乗った。主を背に戻した馬は速度を上げ、逃げ続けていた馬車の横へ、何事もなかったように並んだ。
ジャンは安堵の息を吐きかけ、そこでディエゴが抱えているものに気づいた。銃だけではなく、立体機動装置まで、腕や肩へいくつも引っかけられている。いつの間に集めたのか尋ねるより早く、ディエゴはそれを荷台へ放り込んだ。
金具と銃床がぶつかり合う重い音に、ジャンは慌てて足を引き、転がりかけた装置を押さえた。御者台のアルミンも一瞬だけ目をやり、すぐに前へ向き直りながら声を上げた。
「装備まで奪ってきたの!?」
「殺すなと言われたからな。いい気になった憲兵どもから何かを奪わないと、オレの気が済まない」
ディエゴは、当然の代価を取ってきたという顔だった。ジャンは荷台へ積まれた数人分の装備と、その持ち主だった男たちが倒れている方を見比べた。敵が多いほど相手のものを増やして戻ってくるという事実に、今はもう、呆れるより頼もしさが勝っていた。
「……これほど、お前を頼もしいと思ったことはねえぜ」
ジャンの手には、まだ銃が残っていた。構えることはできても、結局、一発も撃たないうちに、こちらへ来た敵はディエゴに落とされていた。その銃を膝へ下ろした時、助かったという気持ちの奥へ、自分だけが何もしなかった感覚が、消えずに残った。
頭上から、リヴァイとミカサが戻ってきた。追ってくる気配が途切れたことを確かめると、リヴァイは荷台の縁へ腰を下ろし、アルミンへそのまま進むよう指示した。ミカサは自分の馬へ戻り、まだ伏兵がいないか、後方へ注意を向けた。
シルバーバレットは、馬車を牽くサシャのそばへ寄った。サシャが顔を向けると、ディエゴはわずかに口元を緩めた。さっきまで敵の上を跳んでいた時とは違い、その目には、彼女の返事を待つような気安さがあった。
「フ……これでいいか?」
サシャは答えようとして、すぐには声が出なかった。守ってくれたのだと伝えるより先に、その顔を、もう一度確かめるように見てしまった。ヒストリアへ優しい言葉をかける時に感じた、どこまでが本当か分からない気配が、今はまるでなかった。
気づけば、こういう顔を自分へ向けられることが、前にも何度もあった。取り繕う必要などないというように、呆れたり、笑ったり、言い返したりする。そのたびに自分は嬉しかったのだと気づき、整った顔を見上げた瞬間、胸の中が大きく跳ねた。たぶん、というかきっと。この人のことを私は―――――
「……え、ええ。あの、はい……!」
返事をした途端、サシャは前へ顔を戻した。気づいてしまった気持ちが頬へ熱をもって上がってくるのを隠したくて、片手でフードを引き上げ、その陰へ顔を入れた。牽引する速さを変えないよう馬を走らせながらも、どうして自分には、ああいう顔をしてくれるのかという考えが、頭から離れなくなった。
ディエゴはその横顔を見て、怪訝そうに眉を動かした。何か言いたいことがあったのかと口を開きかけたところで、反対側からコニーの声が飛んできた。サシャが急に顔を隠したことに、コニーも気づいていた。
「おい、どうした、サシャ?」
「何でもありません!」
思ったより大きな声が出て、サシャはますます顔を伏せた。コニーは驚いて口を閉じ、尋ねる相手を間違えたかのように、ディエゴへ目を向けた。だが、ディエゴも理由を知っている顔ではなく、二人の間へ返事は戻ってこなかった。
アルミンは前方の道が開けていくのを見て、肩へ入っていた力をわずかに抜いた。馬車が建物の密集する区画を離れ、見通しのよい道へ出る頃には、屋根から銃口を向けられる心配も薄れていた。サシャの頬に残った赤さだけが、フードの下から、まだはっきりと覗いていた。
*
日が沈み、平原を渡る風が冷たくなってからも、一行は移動を続けていた。馬の息を整えるために速度を落とし、見通しのよい道を選んで進んでいる。離れた霊柩馬車の匂いはディエゴが辿っており、急いで追いつくより、待ち伏せを警戒しながら進むことが優先されていた。
荷台へ残っていたジャンは、手の中の銃をしばらく見つめていた。昼間に奪った装備は足元へまとめられ、その金具が、揺れるたびに小さく鳴っている。隣にいるリヴァイへ何度か目を向けたあと、ようやく口を開いた。
「オレは……あなたのやり方は、間違ってると思っていました」
リヴァイが前を見たまま何も言わないので、ジャンは、自分から続きを言わなければならないのだと分かった。銃を置き、膝の上で手を握り合わせた。
「自分が、手を汚したくなかったからです」
あの時、屋根から銃を向けてきた憲兵を斬らなければ、撃たれたのは自分か、馬車を操るアルミンだったかもしれない。それでも、殺したということだけに目を向けて、リヴァイが何を防いだのかを考えようとしなかった。自分が撃てずにいる間も、守ってくれる誰かがいることを、どこかで当てにしていた。
ディエゴが敵を殺さずに済ませたのは、ジャンが正しかったからでも、最初から簡単にできることだったからでもなかった。銃弾の間を跳び回り、わざわざ相手を生かして落とせるだけの力を、あの男が持っていたからだった。次の戦いでも同じことができると考え、自分はその後ろで銃を抱えているだけでよいとは、もう思えなかった。
「自分が間違っていました。あの光景を見た以上……そんなことは、もう言えません。次の戦いから、オレも撃ちます」
声は大きくなかったが、ジャンは目を逸らさなかった。誰かを撃てば平気でいられると思ったわけでも、その覚悟を口にするだけで怖さが消えたわけでもなかった。ただ、仲間を守るための判断を、ほかの誰かだけに背負わせることはやめようとしていた。
近くを進むコニーとサシャも、黙ってその言葉を聞いていた。コニーは握っていた手綱を持ち直し、サシャはゆっくりと顔を上げた。昼間に相手が倒れるのを見て息を呑んだ時とは違い、二人とも、自分が何をしなければならないかを考える目をしていた。
サシャは、ディエゴが約束を守ってくれたことを、嬉しく思っていた。その気持ちがあるからこそ、いつでも同じことを求めてよいわけではないことも、胸へ残っていた。自分や仲間の命を守るために必要な時まで、誰か一人へ難しい選択を押しつけたくはなかった。
リヴァイはそこで初めて、ジャンへ顔を向けた。決心のついた目を見ても、褒めることも、ようやく分かったかと責めることもしなかった。短く告げた声は、昼間に指示を出した時と同じように落ち着いていた。
「そうしろ。だが……」
ジャンが姿勢を正して続きを待っても、リヴァイは、その顔を確かめるように少しの間見ていた。やがて、馬車の揺れに合わせて刃の金具が鳴る中で、静かに言った。
「本当に何が正しいかは、俺にも分からない。お前は、間違っていなかったのかもしれない」
「え……?」
ジャンは、用意していた返事を失った。撃つと決めれば、それで正しい側へ行けるのだと思いかけていたところへ、その足元をそっと外されたような気がした。だが、リヴァイが迷いを否定せずに言葉を返したことで、自分の中へ残る怖さまで、無理に消す必要はないのかもしれないと思えた。
馬車の前方を進んでいたディエゴが、速度を落として横へ並んだ。手綱を緩く持ち、馬上で腕を組むと、まだ考え込んでいるジャンを見た。その顔に浮かんだ笑みを見て、ジャンは今度こそ、ろくなことを言われないと身構えた。
「鳩は鳩だが……ようやく、人っぽくなってきたな、ジャン」
「うるせえよ……」
ジャンは顔をしかめ、言い返しかけてから息を吐いた。何を言われようと、昼間に助けられたことまでなくなるわけではなかった。そのまま話を終わらせず、馬上のディエゴへ目を向け直した。
「だが、今日はお前に助けられた。それは……本当に、そう思ってる」
ディエゴは礼を受け取るとも断るとも言わず、前から来る風へ顔を向けた。返事を待つうちに、ジャンの口からは、昼間から気にかかっていた別の疑問が出た。
「というか、あの動きは何だ、お前。冷静に考えたら、おかしくねえか? 装置も使わずに、人の上を飛び回るなんてよ」
ディエゴは答えず、少しだけ顎を上げた。アルミンも御者台から顔を向け、コニーは聞きたかったことを先に言われたというように頷いた。ミカサまでこちらを見たが、ディエゴは誰の視線にも応じなかった。
「おい、聞けよ!」
ジャンがもう一度呼びかけた時、ディエゴの口元が緩んだ。風を確かめるように鼻先を動かし、組んでいた腕を解いて、道の先へ目を据えた。ふざけた返事を待っていたジャンも、その視線につられて、声を引っ込めた。
「フン……見えてきたぞ」
月明かりの下に、低い塀で囲まれた建物が見え始めていた。窓のいくつかに灯りが残り、その外にも、人が出入りしている気配があった。ディエゴは、ここまで追ってきた匂いが向かう先を確かめると、笑みを深くした。
「奴らの根城だ」