ピクシスは、机の上へ置かれた紙をしばらく見つめていた。政変が成功した時にはヴァレンタインを新たな王に推すという誓約に、エルヴィンの署名と血判が添えられている。持ち込まれた控えを指で押さえ、対面に立つ男へ目を上げた。
「これは……どういうことじゃ、エルヴィン」
エルヴィンは、すぐには顔を上げなかった。失った右腕の付け根には血の滲んだ包帯が巻かれ、残る左手の指にも、新しい傷があった。馬車で襲われた直後だと聞かされていなくても、平穏な交渉の末に署名したものではないことは、見れば分かった。
「見ての通りです」
「…何やら事情があるのは分かった。じゃが、このままでは、ワシはおぬしを処刑台へ送らねばならん」
ピクシスの顔から、普段の飄々とした気配が消えていた。今の王政を退けるために動いた先で、別の誰かへ人類の行く末を売り渡すのなら、加担するわけにはいかなかった。相手がどれほど有能な団長であっても、その判断を変える理由にはならない。
エルヴィンは視線を落としたまま、傷ついた指をわずかに曲げた。身体の内側から刃が出てきた時の感触と、声を上げることもできなかったナイルの顔が、まだ鮮明に残っている。拒めば自分だけが死ねば済むという状況ではなかった。
「すでに起きてしまったことです。あの場で逆らえる流れにはありませんでした。拒んでいれば、もっとひどいことが起きていたでしょう。ですが……」
言葉が途切れたところで、ピクシスの目が鋭くなった。エルヴィンはようやく顔を上げたが、その表情に、助命を願う色はなかった。署名した事実を消すことも、なかったことにして進むこともできないと分かった上で、まだ残っている手を探していた。
「まだ、何かあるのか?」
「賭けです。いつもの、分の悪い賭けになるでしょう。ですが、あの男が、本当に人類を導く器であるのなら……それでもいいのかもしれません」
エルヴィンは、予定していた政変の仕掛けと、その後に軍が取れる手について説明した。王政の判断を試すための偽報も、新聞を通じて明らかにするはずの事実も、そのために用意されたものだった。ヴァレンタインが王を望むならば、その行動を見極め、統治を任せられないと判断した時には、残る兵力で押さえるつもりだった。
ピクシスは最後まで聞き、窓の外へ目を向けた。街にはまだ、明日も同じ日が来ると信じている人間が大勢いる。自分たちが失敗すれば、その暮らしを守るための軍そのものが、内側から崩れることになる。
「おぬしを処刑台へ送るのは……その男の器を見たあとじゃな。じゃが、器に足りんと見れば、おぬしごと砕くぞ」
エルヴィンはその目を見返し、少しだけ背筋を伸ばした。身体の傷が痛んでも、今はそれを庇う仕草を見せなかった。自分が差し出した賭けの代価を、理解している声で答えた。
「覚悟の上です」
*
謁見の間に立たされたエルヴィンへ、王の側近たちの視線が集まっていた。調査兵団が起こした騒動と、中央へ逆らってきた行動を並べ、彼らはその責任を追及している。玉座では王が目を閉じ、処刑について話が進んでも、関心を示す様子がなかった。
ピクシスは列の中から、エルヴィンの横顔を見ていた。傷を隠す軍服の下には、まだ包帯が残っている。だが、処刑という言葉が出ても、その目が揺れることはなかった。
その時、扉の向こうで足音が乱れた。駆け込んできた兵士は礼を整える間もなく、声を張り上げた。謁見の間にいた者たちが、一斉にそちらへ顔を向けた。
「ウォール・ローゼが突破されました!」
ざわめきが広がり、側近の一人が立ち上がった。エルヴィンを責めていた口が止まり、貴族たちは互いの顔を見合わせた。ピクシスは、まず何を指示すべきか決まっていたように、報告した兵へ向き直った。
「避難民をウォール・シーナへ受け入れる。各門への経路を確保し、駐屯兵団を誘導に回せ」
「駄目だ!」
王のそばにいた貴族が、ピクシスの命令を遮った。顔へ浮かんだ焦りは、壁の向こうで巨人に追われる人々へ向けられたものではなかった。兵士を睨みつけ、命令を言い直した。
「ウォール・シーナの扉を、すべて閉鎖しろ! 避難民を入れれば、食糧も秩序も保てん!」
ナイルは唇を引き結び、声を上げた男を見た。門が閉じれば、外側に残された人々へ行き場はなくなる。何か言おうとしたところで、貴族たちの列から、落ち着いた声が響いた。
「それは、王の意志なのかね?」
白いスーツを着たヴァレンタインが、ゆっくりと顔を上げていた。金色の髪も、整った襟元も、突然の報告によって乱れた様子はない。問いを向けられた貴族は、その落ち着きに苛立つように声を強めた。
「そうだ、ヴァレンタイン! 壁の中で内戦が始まる可能性すらあるのだぞ! わざわざ敵を増やしてどうする! 王の意志に逆らう気か!」
ヴァレンタインは腕を組み、困ったように小さく首を傾けた。反論するために声を張ることもなく、相手の焦りが収まるのを待つような間を置いた。その視線が、やがてナイルへ向けられた。
「ふーむ……それは困ったな。私としては、何があっても壁の中の人民を守る意志があるのだが。王の血縁にあたる者として、見捨てるわけにはいかない」
ナイルの背へ、傷の痛みとは別の、冷たい汗が流れた。穏やかな声とは裏腹に、ヴァレンタインの目は、ここで何を言うべきかを逃さず求めていた。エルヴィンにとっても、自分にとっても、密約を実行へ移す時が来たのだと分かった。
家族を失うかもしれない恐怖は、まだ身体の奥に残っていた。それでも、避難民を門の外へ置き去りにしたくないという気持ちは、誰かに命じられて生まれたものではなかった。ナイルは息を吸い、側近へ向き直った。
「ヴァレンタイン氏の意志に従う。私はウォール・ローゼ側の人間だ。封鎖は阻止させてもらうぞ」
「貴様も王に歯向かうというのか!?」
「私も参加させてもらおう」
新たに響いた声へ、側近たちが顔を向けた。ザックレーが兵士を従えて進み出て、ナイルとピクシスの側へ立った。総統まで同じ意志を示したことに、王を囲む貴族たちの顔色が変わった。
「揃いも揃って……反逆するつもりか!」
「歯向かうも何も、その必要がないのだよ」
ヴァレンタインは、怒声を上げた貴族へ目を戻した。話がここまで進むのを待っていたように、口元へわずかな笑みを浮かべた。次に出た言葉で、謁見の間の空気が止まった。
「なぜなら、その知らせは誤報だからだ。違うかね?」
ピクシスは、偽報を言い当てたヴァレンタインへ目を向けた。何もかも知られていると決めつけるには早かったが、あの男が、仕掛けられた試しへ偶然うまく答えただけではないことは分かった。短い沈黙のあと、報告した兵へ目を向け、頷いた。
「その通りじゃ。ウォール・ローゼは破られておらん」
ザックレーもまた、それを肯定した。偽の知らせを聞かされた時、王政が守ろうとしたのは人類ではなく、自分たちの暮らす内側だけだった。その判断を、軍の指揮官たちが目の前で聞いていたことになる。
側近たちが言葉を探す間に、兵士が彼らの周囲へ動いた。ザックレーは持っていた号外を開き、エルヴィンへ差し出した。そこには王政の腐敗と、調査兵団へ着せられた罪について、すでに活字が並んでいた。
エルヴィンは紙面を追い、あるはずの記述がないことへ目を留めた。真の王家がレイス家であるという情報だけが、抜き取られたように消えている。代わりに、王と血縁を持ち、貴族の支持も厚いヴァレンタインならば、混乱を抑えて統治を担えるという論調が置かれていた。
エルヴィンは号外から顔を上げ、白いスーツの男を見た。ヴァレンタインはその視線に気づくと、薄く笑った。新聞社にまで手が入っているのだと悟った時、紙を押さえるエルヴィンの指へ、力がこもった。
*
ベルク社の扉が、外から激しく蹴り開けられた。机に向かっていた社員たちが顔を上げると、ハンジが号外を握り潰したまま入ってきた。足を止めることもなくロイへ近づき、その胸倉を掴んだ。
「どういうことだ! 何で、もう発行してるんだ!?」
ロイは椅子から引き起こされ、慌ててハンジの手を掴んだ。紙を握る方の手が目の前へ突き出され、活字の並んだ紙面が揺れた。
「レイス家の件が書かれてないじゃないか! 一番は、これだろうが! 何のために、あの話をしたと思ってる!」
「あんた、何を言ってんだよ……! あんたが、ここで言ったんじゃあないか!」
ハンジの手が、ロイの服を掴んだまま動きを止めた。ロイは苦しそうに襟元を引き、彼女の顔を見返した。怯えてはいたが、嘘をごまかす時の目には見えなかった。
「数時間前だ! レイスの件は、こっちの捜査手法の手違いだったって! だが、ほかはそのまま頼むって、あんた自身が言ってきたんだろうが!」
「……は?」
ハンジは、ロイの顔から周囲へ目を動かした。その時刻にここへ来た覚えなどなく、レイス家の件を取り消す理由もなかった。聞き違いだと言おうとする前に、近くにいた社員が声を上げた。
「私も聞いた! あなたが、そう説明してた!」
「俺も見たぞ! 貴族が一人、一緒に来てたじゃないか! その人も、あんたと同じ話をしてた!」
ハンジは胸倉を掴んでいた指を緩めた。ロイ一人ならば脅されたか、騙されたかを疑うこともできたが、ほかの社員まで、同じ人物を見たと確信している。誰も、目の前にいるハンジと別人だったとは思っていなかった。
「そんなわけないだろ!!それに誰だ、その貴族は……! 今すぐ回収しろ! 出したものを、全部だ!」
「もう遅えよ……外を見ろよ」
ロイは咳き込みながら、窓の方を示した。ハンジが顔を向けると、通りで号外を広げる人々の姿が見えた。売り子から紙を受け取る者も、読んだ内容を隣の人間へ話す者もいて、活字になった情報は、すでに手から手へ渡っていた。
ここへ来るまでにも、同じ紙を持つ人間と何度もすれ違っていた。どこまで配られたかを確かめる間にも、その中身は街へ広まっていく。ハンジは号外へ目を落とし、握り潰した紙を戻せないまま、うなだれた。
*
謁見の間では、側近たちが、偽報によって決断を迫られたのだと言い立てていた。だが、非常時であるほど本心が出たのだと返されれば、避難民を切り捨てる命令そのものは取り消せなかった。ヴァレンタインは、そのやり取りを聞きながら、脇へ立った男から一枚の紙を受け取った。
リゾットは、何も言わずに手を引いた。黒ずくめの姿と、白い部分まで黒い目は、金や絹で飾られたこの部屋の中で、ひどく異質に見えた。それでも、彼が誰のためにそこへ立っているかを、今さら尋ねる者はいなかった。
「おやおや……これは、これは。ずいぶんひどい言われようだな」
ヴァレンタインは号外を開き、わざとゆっくりと紙面へ目を走らせた。周囲へ内容を知らせるように持ち上げてから、王の側近へ差し出した。
「現王政に近い方たちの粗相が、掲載されておりますぞ。まあ、事実だから、仕方がないけど」
紙を押しつけられた貴族は、声を詰まらせた。自分たちの知らないところで、王政の内情が、街の人間にまで知らされている。言い逃れの言葉を探した末に、玉座でまだ目を閉じている男へ、その苛立ちを向けた。
「起きろ、老いぼれ!」
蹴られた玉座が揺れ、王が驚いたように顔を上げた。だが、自分の周囲で何が起きているかを尋ねることもなく、落ち着かない目を動かすだけだった。その姿を見て、貴族と兵士たちの一部から、隠しもしない失望が漏れた。
ヴァレンタインは椅子から立ち上がり、玉座へ近づいた。王が身体を引くと、そばにいた兵士がその腕を取り、席から下がらせた。白いスーツの男は、空いた場所をしばらく見下ろしてから、振り返った。
「さあ……仮初であり、器もない王にはお下がり願おうか。玉座は、このヴァレンタインにこそ相応しい」
ヴァレンタインは、そのまま深く腰を下ろした。誰かに許しを求める間も、戴冠の言葉を待つ間も置かなかった。王のものだった肘掛けへ手を置き、初めからそこに座るはずだったように、謁見の間を見渡した。
「私は賛成する」
「私もだ。今の混乱を収められる者が必要だろう」
側近たちの外側から、同意する声が続いた。保身のために風向きを読んだ者もいたが、その多くは、以前からヴァレンタインの働きかけを受けていた人々だった。貴族社会の中で築いてきたつながりが、今、次々に表へ出ていた。
ヴァレンタインは満足そうに頷き、懐から紙を取り出した。エルヴィンには、広げられる前から、それが何か分かっていた。署名する時に押し殺した恐怖が、部屋の空気とともに身体へ戻ってきた。
「さて、ここに私と調査兵団、憲兵団との盟約がある」
血判状が掲げられ、署名のある部分が指で示された。ザックレーが目を見開き、ピクシスも、ナイルへ視線を向けた。自分たちの持つ兵力を頼みに考えていたはずの場に、知らされていなかった取り決めが持ち出されていた。
「貴族も、調査兵団も、憲兵団も、私に従うようで嬉しいよ」
「エルヴィン……どういうことだ」
ザックレーが低い声で名を呼び、エルヴィンを睨みつけた。ピクシスはエルヴィンとナイルが王位を認める誓約をしたことまでは知っていた。だが、実際にそれを目の当たりにすると、抑え切れない怒りがうちから沸き上がる。
「…聞いてはいたが憲兵団まで、すでに手の内というわけか。」
ナイルは顔を強張らせ、何も言い返さなかった。ヴァレンタインへ逆らえば家族に何が起きるかを知り、すでに死んだ部下たちのことも覚えている。エルヴィンもまた、署名した事実を覆すために、ここにいる人間の命をどこまで賭けられるか、答えを出せずにいた。
さらに、ナイルの後方から憲兵たちが進み出た。先頭のマルロが玉座の前へ立つと、何人もの兵士がその両側を固めた。上官の指示を待つこともなく、ヴァレンタインを守る位置へ武器を構えている。
ピクシスは、向けられた武器の数を見た。軍として新王を牽制するつもりが、軍の内部にまで、その男のために動く兵が揃っていた。玉座のヴァレンタインは、彼の考えがどこへ至ったかを知っているように、穏やかに口を開いた。
「さて……ピクシス。君はどうするかな。いてもいいし、いなくてもいいような気がするが……」
「奴は有能だ」
リゾットの声が、すぐ脇から割って入った。ピクシスが目を向けても、その顔には、本人へ聞かせるべきではなかったという気配がなかった。品物の使い道を確かめるように、言葉を続けた。
「指揮を執らせるにしても、ほかの仕事を任せるにしても、人を動かす力がある。しばらくは、生かしておけ」
ピクシスは、隠す気もない苛立ちを顔へ出した。自分が殺されるかもしれないこと以上に、それを目の前で相談する態度を見過ごせなかった。玉座と、その脇に立つ男を順に見た。
「ずいぶんなご相談じゃな。本人を前にして、生殺与奪の話か?」
「そうだ。今は、私が王なのでね…決定権はこちらにある。この壁の中を統治するために、君は必要な人間だ」
「素直に言うことを聞くとでも?」
ヴァレンタインは笑い、肘掛けへ置いた指をわずかに動かした。ピクシスの反発を恐れる様子はなく、次に何を見せればよいかまで決めているようだった。視線を、すぐそばのザックレーへ移した。
「聞くさ。ザックレーの結末を見ればな」
「ほざくなよ」
ザックレーは低く言い放ち、自分の兵士たちへ手を上げた。マルロたちが銃を向け直しても、彼は一歩も退かなかった。総統の権限を奪われるのを、黙って見ているつもりはなかった。
「今すぐ貴様の首を取り、その玉座を血に染めてやってもいいのだぞ」
「ならば聞くが、君にできるのかね。貴族と民衆を抑えながら、巨人や未知の敵とも戦うことが。私には到底無理だと思うが……」
ヴァレンタインの薄笑いは消えなかった。ザックレーは、これ以上の交渉で相手の意志が変わることはないと判断した。紙と人脈で囲い込まれたのなら、その中心にいる一人を排除するしかなかった。
「交渉決裂だな」
「やめておけ。君には無理だ。私を殺すなど、とてもとても…」
ザックレーが腕を振り下ろすと、従えていた兵士たちが、一斉に玉座へ銃口を向けた。マルロが動くより早く銃声が重なり、肘掛けが砕け、背もたれへ次々に穴が開いた。
木片と詰め物が弾け、貴族たちが悲鳴を上げた。撃たれた玉座が傾き、その脚が折れて、段の上へ崩れた。だが、誰もがそこにあるはずだと考えた白いスーツの身体は、どこにもなかった。
ザックレーは目を細め、崩れた椅子の周囲を見た。身を伏せた姿も、逃げる影もなく、床に血が広がることさえない。ついさっきまで座っていた人間が、銃弾に晒された場所から、跡形もなく消えていた。
「どこへ……」
兵士の一人が言いかけた時、頭上で大きな布が翻った。吊られていたフリッツ王家の旗が、ザックレーたちを包むように落ちてきた。近くにいた憲兵や調査兵も巻き込まれ、手を上げて布を払おうとした姿が、その内側へ隠れた。
ピクシスは、とっさに前へ出ようとして足を止めた。床へ届いた旗が膨らみを失い、その下で人が動く気配まで消えていく。布を被ったまま倒れたのなら見えるはずの身体の形が、そこには残らなかった。
エルヴィンもナイルも、声を上げることができなかった。さっきまでザックレーのそばにいた兵士たちが、旗の落ちた場所から、いなくなっている。リゾットだけが表情を変えず、玉座の前へ立っていた。
*
顔を覆っていた布が離れた時、ザックレーは、まだ謁見の間にいると思った。床の模様も、柱も、壁へ掛けられた旗も、見覚えのあるものだった。だが、目の前に立っていた男の顔を見て、息が止まった。
そこには、自分と同じ顔の男がいた。軍服も、眼鏡も、咄嗟に上げた腕の角度までもが、奇妙なほど似ている。相手もまたこちらを見つめ、信じられないものに出会った顔をしていた。
「「何だ、こいつはッ!?」」
二つの声が重なり、周囲の兵士たちも叫びを上げた。彼らの前にも、それぞれ、もう一人の自分が立っていた。見知らぬ場所へ連れてこられたのか、それとも自分たちの方へ何かが紛れ込んだのか、誰も分からなかった。
その混乱を見渡せる位置へ、ヴァレンタインが現れた。破れたところも血の跡もない白いスーツをまとい、さっきまでと同じ顔で立っている。ザックレーが銃口を向けさせようとした時、その背に重なっていた白い人影が、別の身体として横へ出た。
もう一人のヴァレンタインが、そこに立っていた。背中から抜け出てきたようにも見えたその男が、落ち着いた声で言葉を発した。
「Dirty Deeds Done Dirt Cheap――いともたやすく行われるえげつない行為」
ザックレーは、二人のヴァレンタインを見比べた。どちらも同じ顔をしているのに、こちらへ向けられた目は、それぞれ別の人間のものだった。ヴァレンタインは、その戸惑いを楽しむように口元を上げた。
「死にゆくお前たちには、教えてやろう。これが、私の能力……『D4C』だ」
兵士たちが身を引き、目の前の自分から離れようとした。だが、向こうも同じように動いているはずなのに、距離がうまく開かなかった。ザックレーは胸元を引かれるような感覚に気づき、軍服へ目を落とした。
「この『隣』の世界へ、自在に入ってこられるのは私だけだ。だが、お前たちがこちらへ入りもう一人の自分と出会ったら、どうなると思う?」
ヴァレンタインが一歩下がると、もう一人の彼も同じように距離を取り、兵士たちの集まる場所を空けた。ザックレーは部下へ号令をかけようと口を開き、その前に、自分の足が意志に反して前へ滑るのを感じた。
「ゆっくり味わえ」
目の前にいる自分と、胸元の布が重なった。二人とも離れようとしたが、触れたところから、身体が細かな四角形へ崩れ始めた。ザックレーが声を絞ろうとした時には、二人の喉元に、同じ形の欠落が広がっていた。
「か……ッ……!」
伸ばした腕からも、床を踏みしめた脚からも、立方体の断片が剥がれた。肉も衣服も同じ形へ分かれ、空中へほどけるように消えていく。ザックレーはそれを止めようとしたが、押さえるための手までもが、もう一人の自分とともに崩れ始めていた。
ザックレーの周囲でも、もう一人の自分と出会った兵士たちに、同じことが起きていた。彼らは互いに助けを求めようとしたが、自分と同じ顔の人間へ引き寄せられ、その身体を失っていった。上がった悲鳴は、声を作る場所が消えるのとともに途切れ、誰も命令を受け取ることができなくなった。
ヴァレンタインは、二人のザックレーがいた場所を見ていた。恐怖にも、苦痛にも、目を逸らす様子はなかった。
「ザックレー。貴様のような変質者にこの世界を導く役目は務まらない。ましてやレイス家の小娘でもない。それができるのは……この私だけだ」
最後の断片が消えたあと、そこには、銃を向けた男も、その命令に従った兵士も残らなかった。ヴァレンタインは静けさを確かめるように見渡し、もう一人の自分へわずかに顎を引いた。白いスーツの裾が翻り、彼は自分の戻るべき場所へ身体を向けた。
*
基本の世界の謁見の間では、誰も、落ちた旗へ近づこうとしなかった。ザックレーだけでなく、巻き込まれたナイルやエルヴィンの部下たちも、戻ってこない。銃口を向ける相手さえ見つからず、兵士たちは、手にした武器と、何も起こらない布とを見比べていた。
ナイルは部下がいた場所を見つめ、エルヴィンは呼吸を整えるのに努めていた。ピクシスも、頭の中でいくつもの可能性を並べたが、目の前で起きたことへ届く説明は見つからなかった。リゾットだけが、これから何が戻ってくるのか、初めから知っている顔で待っていた。
「落ち着きたまえ」
床の旗が持ち上がり、その下から、ヴァレンタインが姿を現した。立ち上がった彼の手にも、服にも、血はついていなかった。あとから誰かが続くことはなく、旗の下に残っていたのは、冷たい床だけだった。
マルロが息を呑み、近くの兵士たちも後ずさった。消えた者たちがどこへ行き、そこで何が起きたのかを尋ねる声は、上がらなかった。ヴァレンタインは周囲を見渡し、答えを待たせていた相手へ向き直った。
「さあ、どうする、ピクシス。これで、君だけになったのだが……お望みなら、もう少し続けようか?」
ピクシスは、ヴァレンタインの顔を見た。怒っているようにも、戦いを終えて高ぶっているようにも見えない。処分を一つ終え、残る仕事へ戻ってきた人間の顔だった。
「私としては、無駄に兵員を減らすことは避けたい。怯えている私の部下たちを、これ以上、怖がらせたくもないのでね」
エルヴィンとナイルは、動かなかった。血判状へ従うと誓った事実に加え、逆らった者の末路を、今は部下たちまで見せられていた。ピクシスの側に残った駐屯兵も、前へ出る気配はなく、武器を握る手ばかりが強張っている。
マルロたちは、再びヴァレンタインを守る位置へ立った。その銃口は、ピクシスが新王へ近づこうとすれば、迷わず向けられるだろう。貴族たちも、自分の立つべき側がどちらかを、もう理解していた。
ピクシスは、息をゆっくりと吐いた。ここで反抗すれば、王を退けようとした者として、支持を示した貴族と憲兵たちが一斉に敵へ回る。調査兵団も、ナイルの指揮する憲兵団も、盟約の名で縛られた今、自分の判断だけで助力を当てにすることはできなかった。
たとえ目の前の兵を押し切っても、ヴァレンタイン自身をどうにかする手が見つからなかった。銃を撃たせたザックレーは、兵士たちと一緒に消えた。その結果だけを前にして、さらに部下を送り出すことは、戦いと呼べるものではなかった。
すでに詰んでいるのだと、ピクシスは悟った。軍の数も、指揮官同士のつながりも、相手を制するための最後の手にはならなかった。どう敗れたかを考えるより先に、これ以上失わずに済む人間のことを考えなければならなかった。
「分かった……ワシも、ヴァレンタイン氏を王と認めよう」
「嬉しいよ、ピクシス」
ヴァレンタインは、無表情のまま答えた。そのまま壁際へ歩き、そこに残っていた別の王家の旗へ手をかけた。布をめくった向こうには石壁しかないはずだったのに、重いものがせり出し、床へ落ちる音が響いた。
そこに現れた新しい玉座は、銃弾を受けたものと同じ形をしていながら、背もたれにも肘掛けにも、傷一つ見当たらなかった。ヴァレンタインはそれを自分の前へ据え、何事もなかったように腰を下ろした。
「すごい……!」
マルロは、目を輝かせてその光景を見ていた。人が消えた時の恐怖よりも、信じてきた相手が、常識の外にある力を示したことへの興奮が勝っていた。誰にも見えなかった場所から現れた玉座は、彼にとっては、新たな王のために用意された証に思えた。
「降って湧いたように、玉座がヴァレンタイン氏の前へ……! やはり、この壁を統べるべきは、ヴァレンタイン氏なんだッ!」
マルロは拳を胸へ当て、玉座へ向き直った。両側の憲兵たちも続き、広間へ、軍靴の踵を揃える音が響いた。
「我ら憲兵団は、新たなる王の誕生を喜ぶとともに、王に心臓を捧げます!」
「駐屯兵団も、同じく!」
「我ら貴族も、同じく……!」
忠誠を誓う声が重なり、まだ胸へ手を置いていなかった者も、周囲へ倣った。歓喜している者と、恐怖の中で身を従わせる者とが、同じ姿勢を取っていた。やがて、ナイルとエルヴィン、そしてピクシスを除く兵士と貴族が、すべて玉座へ心臓を捧げていた。
エルヴィンはその光景を見つめ、自嘲するように口元を緩めた。新しい王を、軍と民衆の意志によって測れると考えていた。その足場にするはずのものは、自分たちが用意を整えるより早く、すでに相手の手へ渡っていた。
「賭けは……負けました」
ピクシスは、隣から聞こえた声へ顔を向けた。エルヴィンは玉座を見たまま、低く続けた。
「いや、最初から賭けですらなかったのかもしれません。ヴァレンタインがここにいる限り……」
ピクシスは何も答えられず、玉座に座る男を見つめていた。兵士としての本能も、考え抜くための頭脳も、長く積み重ねてきた経験も、あの男を押し留める手へつながらなかった。単に、優れた政治家や強い兵士を相手にしていたのではなかった。
人間を超えた何かが、そこへ座っていた。自分たちの測れる尺度から外れた相手を前に、ピクシスもまた、自嘲気味に頭を振った。認めたくない敗北と、その先を見届けるしかない現実とが、重く胸へ残っていた。
「ワシがこの場でできることはなくなった。じゃが……この男なら、人間を超えたこの男なら、人類の手綱を握るに相応しいのかもしれんな……」
この日、壁の中に新たな王が誕生し、その名をファニー・ヴァレンタインといった。かつて合衆国大統領であった男は、異なる世界へ流れ着いてなお、ついに一つの国を、その手に収めた。