謁見の間から、消えた者たちの名を口にする声はなくなっていた。新たな玉座へ腰を下ろしたヴァレンタインの前で、兵士たちは指示を待っている。エルヴィンとピクシスも、その列の中に立っていた。
「よし…早速指令だ。エレン・イェーガーとヒストリア・レイスを奪還する。指揮は君が執りたまえ、エルヴィン」
ヴァレンタインは、机上の仕事を任せるような調子で告げた。王政を退けるための作戦が、自分を王と認めなかった者を消すところまで進んだあとでも、声に変化はなかった。エルヴィンは玉座を見上げ、残る手を身体の脇へ揃えた。
「くれぐれも頼むぞ」
「……承知しました」
エルヴィンは短く頭を下げ、謁見の間を出た。ピクシスもあとへ続き、控えていた兵士たちが二人を追った。扉の閉まる音が収まってからリゾットが玉座へ目を向けた。
「監視をつけなくていいのか。奴らは納得していない。すぐにでも反旗を翻すかもしれんぞ」
ヴァレンタインは答えず、肘掛けの脇へ手を下ろした。再び持ち上げた時、その手には見慣れない金属の缶があった。リゾットには前の世界で馴染みのあった品だが壁の中の謁見の間で見るには、ひどく場違いだった。
「知っているか、リゾット。缶ビールを一気に飲む方法を」
ヴァレンタインはペンを取り、缶へ突き立てた。金属の裂ける音に続いて泡が噴き缶を口へ運んだ途端、ビールが勢いよく流れ込んだ。予想より多かったのか、喉の奥から妙な声が漏れた。
「うごォッ……!」
リゾットは表情を変えず、その様子を見ていた。ヴァレンタインはどうにか飲み干し缶を下ろすと、満足げに息を吐いた。
「プハァ〜! イエスッ、イエスッ!」
口元を拭ったあとには、もう笑いの気配が消えていた。ヴァレンタインは空の缶を脇へ置き、先ほどの問いへ戻った。
「問題ない。あの二人が反旗を翻せばその瞬間に逆賊となる。王を認めた貴族と軍を相手に戦い、壁の中は崩壊へ向かうだろう。巨人と戦うどころではなくなる」
リゾットは閉ざされた扉を一度だけ見た。自分の命だけを賭けて動ける相手ならともかく、二人は自分の判断で多くの人間が死ぬことを知っている。王を認めたあとで兵を動かせば、その責任から逃れる余地もなくなる。
「それに兵数もこちらが上だ。賭けにすらならんよ」
玉座の近くに控えていたマルロがヴァレンタインへ向き直った。姿勢を正して拳を胸へ当てると、迷いのない声で答えた。
「お任せください、国王!!我ら国王親衛隊、並びに憲兵団がいかなる敵からも王の身をお守りします」
リゾットは胸へ当てられた拳を見た。マルロをはじめとする何人かの兵士へ、水面下で働きかけていたことは知っていた。だが、王を名乗ると同時にすでにその身を守る部隊まで形になっている。
ふと、あの『ボス』を思い出す。やつも判断そのものは非常に的確で迅速だった。危険を見つければ排除し、自分へ届く情報と人間を徹底して排除・管理していた。ヴァレンタインはそれに加えて、人を動かす役目とその者が望むものを先に渡していた。
「もちろんだ、マルロ。頼りにしているよ」
ヴァレンタインは頷き、それからリゾットを見た。忠誠を誓った兵士へ向けた時と同じように、目を合わせた上で言った。
「そして、私の右腕リゾット。君も厚く信頼している。これからも頼む」
リゾットは何も返さずその顔を見ていた。能力に見合った報酬も、仕事を任せる際の裁量も、この男は惜しまなかった。素性と前の生で何をしていたかを知った上で、それでも自分を必要な人間として遇している。
かつて欲しかったものがここには揃っていた。言葉にして訴える必要も、認めさせるために無謀な手へ出る必要もなかった。リゾットは静かに拳を持ち上げ、ヴァレンタインへ心臓を捧げる姿勢を取った。
*
中央憲兵の根城を囲む塀の陰で、リヴァイは建物の窓を見ていた。ディエゴが辿った匂いはここへ続き、内部にはまだ複数の人間が動いている。話し合いを持ちかけている間に、逃げられるわけにはいかなかった。
「抵抗する奴には手加減するな。殺す必要があれば、殺せ」
ジャンは銃を握り直し、サシャとコニーも、互いの位置を確かめた。前の戦いで口にした覚悟が、もう試されようとしていた。ディエゴだけはいつもと同じ顔で窓を見上げ、短く鼻を鳴らした。
リヴァイが動くと、ミカサが反対側へ回った。外を見張っていた憲兵が気づいて声を上げた時には、二人とも銃口の向けられる場所を離れていた。刃が走り、戸口から現れた男を、ジャンの放った弾が押し戻した。
アルミンは窓から裏手へ逃げようとした人影を見つけ、コニーへ知らせた。回り込んだコニーが先を塞ぎ、サシャは、そちらへ銃を向けた男の手元を狙って撃った。銃が床へ落ちるのを待たずに、ミカサがその間合いへ入った。
ディエゴは正面から中へ入り、近くの憲兵の腕を跳ね上げた。発砲した銃口が天井を向き、男はその反動を受けるより先に、身体を壁へ押しつけられた。膝が崩れたところで武器を取り上げ、床へ落ちた男を越えて、次の相手へ進んだ。
横合いから襲ってきた憲兵は、肩を掴まれて足を払われた。銃を離そうとしなかった指へ力がかかり、悲鳴とともに握りが緩んだ。ディエゴは奪った銃を放り、追撃できない姿勢で男を転がすと、奥から来る足音へ顔を向けた。
銃声と物の倒れる音は、長くは続かなかった。出口を塞がれた憲兵たちは、逃げることも射線を揃えることもできないまま、一人ずつ武器を失った。最後の抵抗が止んだあと、リヴァイは、生きている者を集めて縛るよう指示した。
サシャは床に倒れている男たちを見てから、ディエゴへ近づいた。彼が相手をした憲兵は、痛みに呻いていても、命までは失っていなかった。今度こそ殺し合いになると思っていたため、どう声をかければよいか少し迷った。
「あの……私、もう覚悟はできています。その、あまり気にしなくても……」
ディエゴは奪った武器を片づけ、サシャへ目を向けた。何を心配しているのかは分かったらしく、わずかに眉を動かした。
「別に、お前のためにやったわけじゃあない。生きている方が都合がいい場合もある」
サシャはすぐに返事をせず、彼の顔を見上げた。殺しにくる相手を前にして、なお生かして倒すだけの余裕があることにも驚いていた。だが、あの時にした約束が、まだ彼の中で終わっていないことが、何より胸へ響いた。
「……はい。分かりました」
サシャは気恥ずかしそうに口元を緩め、少しだけ笑って頷いた。言葉をそのまま受け取った顔ではなかったが、言い返して理由を確かめようともしなかった。ディエゴはその様子を見て鼻を鳴らし、捕らえられた憲兵たちへ視線を戻した。
聞き出せる口は多い方がよい。相手が何も知らないと分かる前に殺してしまえば、残るのは死体だけになる。サシャへの約束を守ることと、尋問の相手を確保することはディエゴにとって両立していた。もちろん殺してもよかったのだが、あの時のサシャの顔がなぜか脳裏に浮かんでしまう。
(相変わらず調子の狂う女だ…だが、妙なのはエレンとヒストリアだ)
気になっていたのは、二人の匂いが建物の中へ留まっていないことだった。ここまで来た痕跡は確かにあるが、新しい匂いは、裏手の道を通って別の方向へ延びている。二人を連れて移動した先まで確かめるには、鼻だけでなく、事情を知っている人間の口も使える方がよかった。
リヴァイは縛られた憲兵の前へしゃがみ、逃げ道のない壁へ背を押しつけた。男は抵抗しかけたが、近くで倒れている仲間を見て、その動きを止めた。リヴァイは余計な前置きをせず、問いを向けた。
「二人はどこへ運ばれた。誰が指示を出した」
「俺たちは……ケニー・アッカーマン隊長の命令で、ここを……」
聞き慣れた名のあとへ続いた姓に、リヴァイの手が止まり、ミカサも顔を上げた。男は二人の反応に気づき、余計なことを言ったのかと、怯えた目を動かした。
「今、何と言った。ケニーの姓は、アッカーマンか」
「そ、そうだ……何だよ、それが……」
リヴァイはミカサへ目をやり、彼女もその視線を受け止めた。自分と同じ姓を持つ男が、あの部隊を率いている。ミカサは何か言いかけたが、今ここで確かめられる話ではないと分かり、口を閉じた。
リヴァイもそれ以上は触れず、問いを戻した。ケニーの行方、二人を連れていった者、そしてレイス家の施設について、一つずつ答えさせた。聞き出された礼拝堂の位置は、ディエゴが匂いを感じ取っている方向と重なっていた。
*
しばらくして、礼拝堂の外へ到着した一行は木立の陰へ馬を寄せた。夜気の中に石造りの建物が立ち、周囲には人の集まっている様子が見えなかった。だが、ディエゴは地面へ下りるなり、正面の扉よりもその奥へ注意を向けていた。
合流したハンジは挨拶もそこそこにリヴァイの前へ立った。手には王都から届いた指示を持っている。切り出す前の表情を見て、リヴァイはよい知らせではないことを察した。
「ヴァレンタインが、正式に国王になった」
ジャンとコニーが顔を見合わせ、アルミンもハンジへ向き直った。計画に新王の名が入っていたことは知っていたが、それが本当にこれほど早く実現するとは思っていなかった。リヴァイは顔色を変えず、続きを促した。
「ザックレーはどうした」
「消えた。謁見の間から、部下たちと一緒に。調査兵団と駐屯兵団の精鋭、それに、その近くにいた兵も巻き込まれてるって聞いたよ」
ハンジは言い終え、渡すつもりだった紙を持ち直した。死んだと報告するよりも曖昧で、かといって生きていると考えられる材料もなかった。旗に覆われたあとで誰もいなくなり、戻ってきたのはヴァレンタインだけだという奇妙な証言だけが残っている。
「情報操作も既にされてたようだ。レイス家の件を新聞へ載せないように、私自身が指示したことになってたんだ。私は行ってないのに、新聞社の人間は、みんな私を見たと言ってる」
アルミンは眉を寄せ、意味を確かめるようにハンジを見た。聞き間違いでも、誰か一人の嘘でもないのなら、こちらが知らないやり方で、計画そのものへ手を入れられていたことになる。リヴァイは、ハンジの言葉を遮らずに聞いていた。
「ヴァレンタインが何かをしたのは、間違いない。でも、何をしたのかは分からない。幸い、エルヴィンは処刑されてない。二人を奪還しろという指示も、彼から来てる」
ハンジは、手にした指示書をリヴァイへ渡した。そこに記された命令は、ヴァレンタインを王に据えたあとのものだった。王都で何が起きたか分からないままでも、その事実だけは受け取らなければならなかった。
「今から反旗を翻すのは、相当厳しいだろうね…なんというか、ヴァレンタインは政治とか工作とか…『こういうこと』に慣れすぎている気がするよ、我々よりもずいぶんと」
ディエゴは慣れすぎている理由に心当たりがありすぎたが、素知らぬ顔をしていた。
リヴァイは紙面を読み、折り直して懐へ入れた。計画が望んだ形で進まなかったことを、今ここで嘆いていても、囚われた二人が戻ってくるわけではなかった。
「…うまくいかなかったのは残念だが、ヴァレンタインのことはあとだ。先に二人を取り戻す」
ディエゴは、話の間も礼拝堂から意識を離していなかった。人間が消え、別の場所に同じ顔の者が現れるという話から、あの男の使った手には察しがついていた。だが、今それを口にしたところで、こちらが欲しいものを手にする助けにはならなかった。
「ディエゴ、どうだ」
「二人ともいる。建物の中……その下だ」
ディエゴは鼻先をわずかに動かし、匂いの流れてくる場所を確かめた。エレンとヒストリアの匂いは、石造りの建物の奥から微かに上がっている。ほかの人間のものも重なっていたが、二人の匂いを取り違えることはなかった。
「やっぱり地下か」
ハンジは礼拝堂を見上げ、聞き出してきた施設の造りを思い返した。地上の広さと、レイス家がここを守らせている規模が、どうにも釣り合っていなかった。二人を隠す場所があるなら、目に見えている部分より下だと考えていた。
「ケニーの部下もかなりいると思う。数は分かる?」
「三十五人くらいだな。地下の二人がいる場所より手前に固まっている」
ハンジは、予備の道具を見直していたアルミンへ顔を向けた。銃を持った相手が、地下でこちらを待ち受けているのなら、見つけても、そのまま突っ込むわけにはいかなかった。アルミンは信号弾を確認し、入口と仲間の装備へ順に目を向けた。
「煙幕を使いましょう。相手がこちらを狙えるうちに入れば、撃たれます。煙で視界を塞いで、その間に距離を詰めるんです」
「うん。信号弾の煙も重ねれば、向こうから人数や位置を読み取りにくくなる」
二人は低い声で手順を詰め、誰が先に動き、どこを援護するかを確かめた。ジャンたちは使える道具を分け、装置の残量と刃を見直した。リヴァイは一通り準備を見届けてから、ディエゴへ向き直った。
「お前の任務は、ヒストリアの護衛だ。まず、あいつを保護しろ。お前の鼻なら、地下のどこにいるか分かるだろう」
ディエゴは、装備を整える同期たちへ一度目を向けた。リヴァイとミカサがいても、銃を持つ三十五人を、片手間にどうにかできるわけではなかった。だが、兵長の顔には、考えずに自分を外したという様子もなかった。
「いいのですか? そこそこ数がいるようですが」
「こいつらは、恐らく俺たちで何とかなる。厄介なケニーも、ヴァレンタインの手下が引きつけた」
リヴァイはそこで言葉を切り、礼拝堂へ目を向けた。根城を襲ってもここまで追ってきても、あの男は現れなかった。追わせる時と仕留める時の機会を理由もなく逃す人間ではないことを、リヴァイは知っていた。
「というより、ここに来ても出てこねえ以上……恐らくもう始末されてるんだろう」
ほんのわずかにリヴァイの顔が曇った。子供の頃の声と屋根の上へ現れた姿が頭の中で重なった。だが、その感情を言葉にすることはなくすぐにディエゴへ視線を戻した。
「だからお前は先に守りに行け。ケニーがいねえのに……何か嫌な予感がする」
「フン。今朝の占いで何かあったのか? 当てにできるものか怪しいな」
ディエゴが肩を竦めると、ハンジが準備していた手を止めた。からかうような口元ではあったが、言葉の方には確かな重みがあった。
「それは当てにした方がいいよ。こういう時のリヴァイの勘はかなり当たるんだ」
「そういうことだクソガキ。さっさとお姫様を救いに行きな」
リヴァイは立ち上がり、礼拝堂の方へ歩き出した。ハンジがあとへ続き、ジャンとコニーも、位置を確かめながら建物へ入っていった。残ったサシャは、ディエゴへ顔を向けた。
「多分……今、クリスタは、とっても不安になっているはずです。だから、きっと、ディエゴに来てほしいと思ってます」
サシャはそう言って、胸の前で持っていた道具を抱え直した。自分も怖くないわけではないことは、その指に入った力からも分かった。それでも、友人がどんな気持ちで待っているかを考え、ディエゴを送り出そうとしていた。
「こっちは気にせず、任務を果たしてください」
ディエゴは鼻を鳴らし、先へ入ったリヴァイの方を見た。次にミカサへ目を向け、それから、まだ返事を待っているサシャへ戻した。口を開くまでに、わずかな間があった。
「リヴァイ兵長とミカサがいるから、問題はないと思うが……やばくなったら、オレのところへ来い。守るくらいはしてやる」
サシャは一瞬、きょとんとした顔になった。それから言われたことが胸へ届いたように、ぱあっと表情を明るくした。
「はいっ!」
サシャは元気よく答え、礼拝堂へ入っていった。ディエゴはその背を見送り、ついさっきまで怖がっていた人間と同じなのかと呆れたように息を吐いた。自分も怖いくせに人の心配ばかりするところにもそろそろ慣れてきていた。
視線を戻すとミカサがこちらを見ていた。何か言うでもなく、妙に落ち着いた目で顔を見られディエゴは眉を寄せた。アルミンは先に入口へ向かい、二人の間へ声を挟まなかった。
「何だ? オレに何か用でもあるのか。じっと見てないでさっさと言え」
ミカサはその問いへすぐには答えなかった。礼拝堂へ入ったサシャの方へ目をやり、それからディエゴを見た。
「サシャが心配するのはどうしてだと思う?」
返事を待たずに、ミカサは入口へ向かった。ディエゴはその背を見ながら、口元を不愉快そうに歪めた。問いかけたのはこちらのはずなのに、答えるものだけが手元へ残されていた。
「質問に質問で答えやがって……マヌケが」
ディエゴは吐き捨て、仲間のあとを追った。なぜ心配されるのかを考えても、いつものように人の弱みや損得を並べるだけでは、答えに届く気がしなかった。結論が出ないまま、鼻へ入った地下の匂いへ意識を戻し、礼拝堂の中へ入った。
*
「エレン。起きろ」
すぐ近くで声がして、エレンは重い瞼を持ち上げた。頭上で木の軋む音がし、視界を塞いでいた棺の蓋が開いていく。覗き込んできたのは、ロッド・レイスだった。
冷たい空気が顔へ触れ、ようやく意識がはっきりしてきた。エレンは身を起こしかけて、自分が狭い棺の中へ寝かされていたことを確かめた。すぐ脇にも同じものがあり、ロッドはそちらへ手をかけた。
隣の蓋が開き、ヒストリアが顔を上げた。周囲を見回す間もなく、ロッドが彼女の拘束を解き、その身体を抱き寄せた。エレンは起き上がりながら、口元へ手をやった。
「すまなかった、ヒストリア」
父親の腕の中で、ヒストリアは動けなくなった。謝られると思っていなかったし、抱きしめられることも考えていなかった。求めていたはずの言葉と仕草なのに、胸の奥には、安心とは違う感覚が残っていた。
顔も声も、わずかに残る記憶の中の父のものだった。だが、抱き寄せたあとで肩へ置かれた手にも、耳元へ届いた言葉にも、どこかしっくりこないところがあった。何がおかしいのかを言えないまま、ヒストリアは父の腕に触れていた。
エレンが口元を押さえた時、猿轡はあっけなく頬から滑り落ちた。結び目が緩んでいたのかと思い、続いて手足を確かめると、縄もすでにほどけかけていた。棺の中で身体を動かすと、それも外れ、自由になった腕を持ち上げることができた。
ロッドとヒストリアのほかには、人影がなかった。広い地下の空間は冷え、離れた場所へ立つ柱の向こうまで見ても、警備らしい人間はいない。連れ去った相手を、こんなふうに動けるまま置いておくとは、エレンには不用心に思えた。
逃げ出すにも、ロッドを捕らえるにも、今なら好機だった。エレンは棺の縁を越え、足を床へ下ろした。ヒストリアを抱く男へ向き直り、声をかけた。
「おい、ロッド・レイス。お前には、調査兵団から捕縛命令が出てるんだ。大人しく、お縄につけよ」
ロッドはゆっくりと顔を向け、一度だけエレンの姿を見た。何を言われたかは分かったはずなのに、顔には驚きも焦りも浮かばなかった。そのまま視線を戻し、ヒストリアへ話しかけた。
「ヴァレンタインの脅威から、お前を守らなければならなかった。人類のために動きながら、それを果たすには……こうするしかなかったのだ」
ヒストリアの身体が、一瞬強張った。母と、ナイフを持った男を、白い布の下へ消した人物の名だった。あの夜の記憶が蘇ると、父が口にした脅威という言葉を、簡単には退けられなかった。
「無視してんじゃあねえぞ!」
エレンは苛立ち、ロッドの肩へ右手を伸ばした。掴めばこちらを向かざるを得ないと思った、その直後だった。ロッドの身体の横で何かが光り、伸ばした手が、手首から先だけ離れて宙を舞った。
エレンは、そこにあるはずの指先を見た。ヒストリアも、床へ落ちたものが何かを、すぐには理解できなかった。遅れて血が散り、エレンの喉から声が上がった。
「ぐあああッ!」
エレンは切られた腕の脇を抑え、その場へ崩れた。とっさに止血はしたが痛みと驚きで息が詰まり、目の前の男が何をしたかを考えることさえできなかった。ロッドは、まだ無表情のまま、その姿を見下ろしていた。
「巨人化すれば治るのだ。今しばらく、寝ていろ」
エレンは顔を上げ、相手の手にあるものを見た。装飾を施された刀が握られ、その刃には、さっきまでなかった赤い跡があった。巨人化しなければという思いが頭を掠めた時、ロッドは刀を返し、柄を振るった。
硬いものが顔へ当たり、エレンの身体が棺の脇へ弾き飛ばされた。床へ倒れたあと、彼は起き上がらず、呼びかける声も出さなかった。ロッドは刀を持ち直すと、何事もなかったようにヒストリアへ向き直った。
ヒストリアは、悲鳴を上げることもできなかった。抱きしめられた時からあった違和感が、今は、はっきりと形を持っていた。父の顔をして、父の声で話しているのに、目の前で刀を握る男を、同じ人間だとは思えなかった。
なぜそう感じるのかを、筋道立てて説明することはできなかった。会ったことも少ない父について、自分が何を知っているのかさえ分からない。それでも、この感覚だけは間違っていないと、ヒストリアは思った。
ロッドはゆっくりと彼女の前へ立ち、娘の顔を見た。刀を手放すことも、エレンを殴った理由を説明することもなかった。ヒストリアが一歩引きかけたところで、父と同じ声が、静かに響いた。
「ヒストリア。これからの話をしようか」