ロッドの記憶と、エレンへ触れた時に流れ込んだものを重ねれば、アヌビスには、この世界の仕組みがかなり見えていた。レイス家の血、始祖の巨人、初代王の意志も、その力を使うための条件として理解できた。ヒストリアとエレンを揃えて連れ帰る価値も、もはや説明を受ける必要はなかった。
始祖の力と、その叫びがもたらすものは強大だった。九つの巨人がそれぞれに持つ能力も、人間だけで相手にすれば、到底手に負えないだろう。だが、アヌビスは、それを脅威とは感じていなかった。
かつてナイル川へ沈められた自分が、なぜこの世界へ流れ着いたのかは分からなかった。折れていたはずの刀身まで、いつの間にか完全な状態へ戻っていた。理由を知るより先に、こちらの世界にも仕えるべき相手がいることを知った。
(DIO様以外にオレにはとても敵わないと思わされるスタンド使いがいるとは、この世界へ来るまで考えもしなかった。あのスタンドの力を目にしてしまった今、九つの巨人が集まろうと、始祖が叫ぼうと、あのお方の障害とならないことはハッキリとわかる)
問題になるのは、力による攻撃よりも、記憶の方だった。少なくとも、自分たちスタンド使いへ及ぶ影響は薄いようだったが、同じことを、この世界の人間すべてに望めるわけではない。広く記憶を改竄され、世界中が敵へ回れば、あのお方が負けずとも、望む世界を作る妨げにはなる。
(だが…逆に言うとそれだけだ)
強いものを倒せるかどうかと、人間たちを従わせられるかどうかは、同じ問題ではなかった。使わずとも、持っているだけで示しのつく力がある。エレンとヒストリアは、あのお方にとって、まさにそういうものだった。
初代王の思想へ賛同するためでも、二人の願いを叶えるためでもなかった。本人たちの意志など顧みず、自分にとって居心地のよい世界を作るために、その力を手に入れる。自分の都合のためだけに何も知らない2人を利用する。まさに吐き気を催す邪悪である。
(あのお方が過ごしやすい世界を創る。たったそれだけのためにエレンやヒストリアは犠牲になるのだ…あのお方の犠牲にな…だからこそ、このアヌビスが仕えるに相応しいお方よ)
だが、より強い力を得るために人を殺してきた自分が、今さらそれを責める理由はなかった。悪の中の悪であるからこそ、従うに相応しいと思えた。その望みを果たす邪魔になるなら、目の前の恐竜も、ここで斬り捨てればよかった。
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「KUSYAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA!!!!」
ディエゴが床を蹴ると、その身体が一気に間合いを詰めた。爪を振るう腕も、踏み込む脚も、人間の速さを超えていた。だが、
「フン!!!」
アヌビスはわずかに身をずらし、その一撃を刀の腹で受け流した。
ディエゴは振り切った腕を引くより先に、反対の手を突き出した。柄で軌道を逸らされると、尾を使って身体を返し、別の角度から爪を走らせた。それも避けられ、すれ違うように向けられた刀の切っ先が、喉元へ迫った。
ディエゴは首を捻り、恐竜の反射で刃をかわした。その動きに合わせて床を蹴り直し、横から噛みつこうとしたが、相手はもう、その位置を外れていた。力を込めた攻撃のすべてが、受け止められるか、空を切らされていた。
「ほう……なかなか素早い動きだ。だが、今ので『覚えた』」
アヌビスが笑うのを見て、ディエゴは唾を飲み込んだ。さっきの蹴りだけでなく、恐竜の身体で行う攻撃と回避まで、相手は見終えたと言っている。言葉を疑うより早く、その意味を、次の動きで知らされた。
「ウッシャアアアアアアアッ!」
刀が連続して走り、ディエゴは攻める姿勢を崩された。顔を避ければ胴へ、身体を引けば脚へと、刃が間を置かず追ってきた。爪で逸らそうとした腕の、その動き出す場所まで、読まれているようだった。
ディエゴは、この世界へ生まれ変わり、スタンドの力を手にして以来、鍛錬を続けてきた。生き延びるためにも、いずれすべてを奪うためにも、使える力を鈍らせるつもりはなかった。今の自分は、前の生の頃を相当に超えているという自負もあった。
その自分が、目の前の一人へ押し込まれていた。最初に見切ったはずの速さが、次の一刀では、もう当てにならなかった。かわした先へ来る刃が、回数を重ねるたび、さらに深く踏み込んでくる。
「さ、捌き切れない……ッ! 一刀ごとに、強くなっていく……!」
ディエゴは身体を折り、頭上を抜ける刃を避けた。すぐに脚を狙う一撃が来て、跳ね上げた足のすぐ下を、切っ先が走った。どの攻撃も紙一重で外しているのに、相手の方には、さらに速くする余地が残っていた。
「捌き切れるかァーッ! スタープラチナとチャリオッツの速さを覚えたこのアヌビスに! 貴様がついてこられるわけがないッ!」
名を聞いても、ディエゴには、それがどんなスタンドか分からなかった。だが、続く横薙ぎが、それまでで最も速いことだけは分かった。受けようとすれば腕ごと切られると判断し、ディエゴは後ろへ跳んだ。
「や……やばいッ!」
刃は身体の前を通り過ぎるはずだった。だが、アヌビスは、たった一歩でその距離を潰した。まだ着地していないディエゴの、逃げる先へ踏み込み、刀を振り上げた。
「もう覚えたと言ったろうがこの田吾作がァーっ!このアヌビス神は貴様のスタンドなど、圧倒的に上回っているのだッ!」
空中では床を蹴れず、尾を振っても身体の位置は大きく変えられなかった。アヌビスは着地を待たず、その胴を断ち切るつもりだった。刃が振り下ろされる瞬間、ディエゴの口元が歪んだ。
「スタンドだけならな」
ディエゴの身体が、急に後方へ引かれた。爪も尾も届いていない場所を支点に、空中の軌道そのものが変わっていた。斬るはずだった場所から胴体が消え、刀が、その手前の空間を裂いた。
「なあッ!?」
ディエゴの腰から、ワイヤーが伸びていた。背後の柱へ打ち込んだ鉤を支点に、立体機動装置が身体を引いていた。恐竜へ変わった指が操作具を握り、噴き出すガスとともに、さらに距離を取った。
「どんなスタンドを覚えたか知らんが、この装置と戦ったことはなかったようだな…この原始人が」
アヌビスは刀を返し、新しい軌道へ合わせ直そうとした。だが、ディエゴは、すぐに爪を振るってこなかった。喉が不自然に膨らみ、何かを腹の奥から押し上げるような音がした。
「ウゴゴ……胃石」
ディエゴは、消化を助けるための小石を、恐竜の胃の中へ蓄えていた。前もって呑み込んだそれを、普段は体内へ隠しておき、必要な時だけ吐き出す。身体の中に持つものならば、外から手札を数えられることもなかった。
口を開くと、石がまとめて噴き出した。剣でも爪でもない方向から飛来したそれが、ロッドの右目を打ち抜いた。アヌビスが顔を引いた時には、もう、その側の視界が失われていた。
「ギャアッ!?」
ディエゴはワイヤーを巻き、相手の右側へ身体を滑らせた。新たに生じた死角へ入りながら、爪を揃えた手を突き出した。アヌビスが刀を戻すより早く、鋭い手刀が胴体を貫いた。
「KUAッ!」
ロッドの身体が震え、刀を動かそうとしていた腕が止まった。ディエゴは手を引き抜くと同時に、その右腕へ、もう一方の爪を走らせた。反撃するための一振りも許さず、刀を持つ腕を切り落とした。
「WRYッ!」
切り離された腕が床へ落ち、ロッドの身体が傾いた。刀を握った指は、しばらく開かなかった。アヌビスは、崩れていく身体の口から、掠れた声を押し出した。
「身体能力の強化……だけでは、なかったのか……貴様の、能力……」
「フン……切り札ってのは、最後まで隠しておくもんだ。それを読めずに、能力を過信したお前の負けだ」
ディエゴは顔へ飛んだ血も拭かず、倒れかけた相手を見ていた。ロッドの膝が床へつき、そこでようやく、刀を握っていた指が緩んだ。だが、身体が横倒しになる直前、その口元へ、また笑みが浮かんだ。
「フフ……だが……今ので、覚えた」
ディエゴの背に、冷たいものが走った。次の言葉を待つ間に、ロッドの身体は血の上へ倒れた。刀が落ちる硬い音のあと、床に伏せた男の口から、別の調子の声が漏れた。
「ウーリ……フリーダ……僕は……」
ロッドの唇が、そこで動かなくなった。誰の名を呼んだのかを、ディエゴは考えようとしなかった。息が途切れ、もう立ち上がることがないと確かめても、身体に残った緊張は、すぐには抜けなかった。
「まさか……奇襲の胃石まで使うことになるとはな。正面から戦い続けていれば、間違いなく死んでいた」
ディエゴは息を吐き、恐竜へ変えた身体を戻した。尾が縮み、爪と鱗が引いていく間にも、頭の中には、最後に聞いた言葉が残っていた。覚えたと言う相手が死んでいるのを、もう一度確かめてから、ようやく視線を外した。
床へ転がった鞘を拾い、落ちた刀身へ滑らせて、刃を覆った。足で壁際へ寄せたところで、入口の方から扉の開く音がした。ディエゴは鞘から手を離し、そちらへ顔を向けた。
「で……ディエゴ?」
扉の隙間から、ヒストリアが顔を覗かせた。エレンを仲間たちのところへ連れていったあと、剣の音がしなくなったのを確かめ、戻ってきたのだった。中へ目を向けた彼女は、血に濡れた父と、そのそばに立つディエゴを見た。
「ああ……」
ヒストリアは、表情をなくしたまま、それだけ言った。すぐに泣き出すことも、父へ駆け寄ることもなく、倒れた身体を見つめていた。やがて、足を動かし、ディエゴのところへ歩いてきた。
「お前を守る任務のためとはいえ……」
「ううん……」
ヒストリアは首を振り、その先を言わせなかった。自分が助けを呼び、ディエゴが来てくれたことは覚えていた。あの男を止めなければ、エレンも自分も、どうなっていたか分からなかった。
「でも…」
それでも、床に倒れているのは、自分の父だった。ともに見た記憶の中にいた家族と、それを見ながら笑っていた父の顔が、うまく重ならなかった。今となっては、どこまでが父自身だったのかも、もう確かめられなかった。
ヒストリアは、動かなくなった唇を見た。言いたかったことも、聞きたかったことも、ほとんど口にできていなかった。母のことも、自分を遠ざけた理由も、あの時どう思っていたのかも、答えを聞く前に終わってしまっていた。
父の顔を見つめるヒストリアの頬を、一筋の涙が伝った。自分が何を失ったのか、声にすると、初めて分かってしまう気がした。ヒストリアは、父から目を離さず、微かに笑おうとした。
「親子喧嘩……すら、できなかったなあ」
ディエゴは何も言わず、彼女の肩を抱いた。無理にこちらを向かせることも、もう泣くなと慰めることもしなかった。ただ、傍に身体があり、崩れそうになる重みを受け止めてくれていた。
ヒストリアは、その手に触れようとして、また涙を落とした。何も求められず、今はここにいてよいのだと思えることが、張り詰めていたものを解いていった。止めようとしても、次々に溢れる涙を、押さえることはできなかった。
「うわああああああああああッ!」
ヒストリアはディエゴへ抱きつき、その胸で泣いた。さっき助けられた時には出てこなかった言葉にならない思いが、今は、父へ届かないまま溢れていた。会えなかった年月の間に積もったものを、身体の中からすべて押し出そうとするような泣き方だった。
ディエゴはその背を支え、肩越しに床へ目を落とした。顔を伏せたヒストリアから見えないところで、その口元が、わずかに曲がった。自分にとって都合のよい空気が、ここまで整ったことを、彼は感じ取っていた。
彼女を支えるべき親は、もういなかった。自分は空っぽだと感じてきた心へ、ディエゴが言葉を与え、望んでいた理解と愛情を注ぐ形になっていた。今、ヒストリアが頼り、縋っているのは、その空虚を埋めてくれると信じた相手だった。
最後にもう一押しすれば、こちらへ流れ込んできた気持ちを、確かなものにできる。ディエゴは、彼女が自分から離れ難くなるための言葉を選ぼうとした。本当の王家を手の内へ収めれば、ヴァレンタインに対しても、抑止となる力を持っておけるはずだった。
そう考えたところで、壁際へ寄せた刀が目に入った。装飾のある柄と鞘が、血の広がった床の上に残っていた。ヒストリアも同じ方を見ていることに、ディエゴは、少し遅れて気づいた。
ヒストリアには、まだ伝えたいことが山ほどあった。守ってくれた礼も、これから話したいと思った気持ちも、胸の中へ残っていた。だが、それとは別に、父が持っていた刀が、妙に目と心から離れなかった。
「ディエゴ……あの刀って、父さんの……遺品だよね?」
「まあ……そうだが」
答えた時、ディエゴの中へ、新しい疑問が浮かんだ。ロッド・レイスを、ただのスタンド使いと考えてよかったのだろうか。ヒストリアの話に出てきた、ヴァレンタインと一緒にいた男には、力を持つ者らしい振る舞いがなかった。
隠していたのか、あとから手に入れたのかと、ディエゴは考えた。この世界に遺体があるという話は知らず、悪魔の手のひらが存在するとも思えなかった。もしロッド自身が能力へ目覚めたのでないなら、あの身体を動かしていたものは、どこにいたのだろうか。
犬のような顔が浮かんでいたのは、刀のすぐ横だった。胴を貫き、右腕を落としても、刀そのものには傷一つつけていなかった。最後に別の調子で家族の名を呼んだ声を思い出し、ディエゴの頭の中で、ばらばらだったものがつながりかけた。
(わかりかけてきた…なんとなくだが…)
考えを巡らせたのは、ほんの数瞬だった。その間に、ヒストリアは、抱かれていた肩をそっと抜き、刀へ近づいていた。涙の残る目が、鞘に収まったそれへ吸い寄せられている。
「何か……この刀、すごく美しい……」
ヒストリアは、足元の血を避けることも忘れていた。父の遺品だから手元へ置きたいのか、それとも、ただ刀を見たいのか、自分でも考えがまとまらなかった。目を離したくないという思いだけが、ほかの気持ちより強くなっていた。
「抜いてみようかな……」
ヒストリアの手が柄を包んだのを見て、ディエゴは顔を上げた。つながりかけていた考えが、一つの答えへ変わった。彼が動こうとした時には、もう鞘の口から、わずかに刃が覗いていた。
「ヒストリア! その刀に、触るんじゃ……!」
甲高い音を響かせ、ヒストリアが鞘から刀を抜き放った。ヒストリアの目が白く染まり、柄を握った指へ、急に力が入った。ディエゴは、伸ばしかけた手を止め、目の前の変化を見た。
「ば、馬鹿なッ……ヒストリアッ!」
白くなった目へ、再び黒い瞳が戻った。だが、こちらを捉えたその目には、助けを求めた時の怯えも、父を失って泣いた時の悲しみも残っていなかった。口元が、ヒストリアの顔に似合わない笑みへ歪んだ。
「クックック……」
ディエゴへ向けられた殺意を感じ、彼の頬へ冷たい汗が流れた。刀を持ったヒストリアの姿に、さっきまでロッドの身体へ現れていたものが重なった。本体を倒したつもりで、何も終わらせていなかったのだと、その時、ようやく理解した。
「そうか…そういう…。本体はここにあったのだ。刀自体がスタンド。そういう奴か、お前は」
「そうともッ!」
ヒストリアの口から、愉快そうな声が出た。刀が持ち上がり、こちらへ向けて、その切っ先が据えられた。ロッドの身体で最後に言った言葉を、今度は、彼女の声が引き継いだ。
「この俺、アヌビス神の本体は500年前の刀鍛冶『キャラバン・サライ』。本体はとっくの昔に死んでいるがそのスタンド自体が生きている。そして、一度戦った相手には……もう絶っ」
アヌビスはヒストリアの目を閉じ、言い切る前に、たっぷりと息を溜めた。
「~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~」
柄を握る両手だけが位置を変え、ディエゴを斬るための構えを、迷いなく作っていった。再び開いた目が、こちらを見据えた。
「っ対に負けんのだァァァァァーッ!」
ヒストリアの身体が踏み込み、刀が、ディエゴへ向かって振り抜かれた。父の身体で戦った相手へ、今度は娘の身体が、同じ殺意を向けていた。