ヒストリアの振るう刃を、ディエゴは身を引いてかわした。さっきまで自分へ縋りついていた手が、今は迷いなく、こちらの首を狙っていた。刀の向こうに浮かぶ犬のような顔を見ながら、ディエゴは横へ足を運んだ。
ヒストリアと戦うことなど、考えたこともなかった。だが、アヌビスは、相手の身体を気遣いながら倒せるほど、甘い敵ではない。最悪、彼女を殺さなければ、自分が死ぬことになると分かっていた。
ディエゴは目と脚へ再び恐竜の力を行き渡らせ、太い柱の陰を目指した。その途中、装備から取り出した小さなものを、床の暗がりへ滑り落とした。アヌビスは足を止めず、楽しげに距離を詰めてきた。
「貴様は今、こう考えているな。このヒストリアとかいう女を殺さずに、どうやって、このアヌビスに勝つか」
「喋る剣は初めて見たが、思ったよりやかましいな。作った奴がお喋りなクソ野郎だったのか?」
ディエゴは柱を挟み、相手の姿が見えなくなる位置へ入った。回り込んでくるなら、左右のどちらかしかない。鼻と耳でその動きを捉えれば、正面から斬り合うよりは、こちらの手を作れるはずだった。
「それは甘い考えだ。実に、甘い甘い考えだ」
声は、柱の向こう側から動かなかった。次の瞬間、ディエゴの動体視力が、石の表面に現れた銀色の光を捉えた。柱を砕く音も立てず、刀身そのものが、内側からすり抜けてきていた。
「うおおおおッ!?」
ディエゴは肩を捻り、反射的に身体を逃がした。刃が皮膚を掠めたが、深く入る前に、その軌道を外れていた。柱の横へ飛び出すと、ヒストリアの顔に、驚きと愉悦が混じった笑みが浮かんだ。
「何という身体能力と動体視力だ。あのスタープラチナに匹敵するかもしれんな」
「物体をすり抜ける力まであるのか……これでは隠れられないか」
ディエゴは舌打ちし、背後の柱へ一度だけ目をやった。刃が通ったところには、斬られた跡すらなかった。障害物を盾にすれば、こちらだけが相手の動きを見失うことになる。
「だが……今ので覚えた」
アヌビスの笑みが消え、その目がディエゴの足元へ向いた。次には、今の回避を見越した速さで踏み込んでくる。ディエゴは間合いを取り直すために床を蹴り、一度の跳躍で、頭上の岩肌へ達した。
爪を掛け、身体を返しかけたところへ、下から声が迫った。見れば、ヒストリアの身体も、装置を使わずに跳び上がっていた。たった一度床を蹴っただけで、ディエゴのいる高さへ届こうとしていた。
「ウッシャアアアアッ!」
「ま、まずいッ!」
ディエゴは天井を蹴り、横の壁へ逃げた。アヌビスも岩肌へ足をつき、ほとんど同じ軌道を追ってきた。床へ下りようとすれば先回りされ、方向を変えても、その先へ刀が伸びた。
ヒストリアの身体が、鍾乳洞の壁と天井を蹴って移動していた。立体機動装置もワイヤーもないのに、人が立つ場所ではないところまで、足場として使っている。ディエゴは同じように跳び回りながら、追いつかれるまでの時間が、急に縮まっていくのを感じていた。
「馬鹿めッ! てめーの動きは覚えたと言ったろうがァーッ!」
ディエゴは天井に近い岩の突起を蹴り、手元の操作具を引いた。鉤が離れた柱へ刺さり、ワイヤーが張った。前の戦いで使った時と同じように、身体が空中で軌道を変えた。
「今だッ」
だが、アヌビスの踏み込みも、そこで伸びた。ワイヤーがディエゴを引く速さを見越し、それより先へ身体を放り込んできた。今度は、刃をかわしたはずのところへ、相手の方が追いついていた。
「てめー話を聞いてなかったのかァーッ! そういうのも覚えたんだよ、このヌケサクがァーッ!」
アヌビスはヒストリアの両腕で刀を振り上げた。天井すれすれを移動しているディエゴへ、これまでで最も速く、重い一撃を叩き込もうとしていた。ワイヤーに引かれた身体は、もう横へ逃がせなかった。
「もらったァァァーッ!」
「確かに凄まじいスピードとパワーだ。オレのスタンドでは、もはや手も足も出ないな」
ディエゴの声だけは、落ち着いていた。アヌビスが刀を振り下ろすより早く、その腰の後ろで、別のものが伸びた。人間の輪郭へ戻していた身体から、恐竜の尾が跳ね上がっていた。
「ブへあッ!」
太い尾が、ヒストリアの顔を横から打った。狙っていた視線と身体の向きがずれ、刀の軌道が崩れた。ディエゴは、その隙を使って、岩肌へ片足を戻した。
「フン……手も足も出ないから出してやったというところか。そして、次の一手でお前の負けが確定する」
「ほ、ほざけェーッ!」
アヌビスは体勢を崩したまま、突きを放った。ディエゴはその刃を避けず、片方の肩を差し出した。刀身が肉へ入る痛みに声が漏れたが、その手は、すでに刃を押さえていた。
「うぐッ……!」
「やった! このまま、腕を切断して――」
「うおおおおッ!」
ディエゴは刀を振り抜かせず、ヒストリアの手首も掴んだ。ワイヤーを解放すると、天井へ掛けていた脚で、下へ向かって強く蹴り出した。二人の身体が一つになり、床へ向かって落下し始めた。
「な、何ィッ!? 正気か、てめェーッ!」
アヌビスには、迫ってくる床が見えていた。この高さから、この勢いで落ちれば、恐竜の身体を持つディエゴはともかく、ヒストリアは助からない。自分の身を守るためにも、肩へ刺さった刀を抜いて、離れなければならなかった。
「け、剣を抜かなくてはッ!」
「おいおい、刺してきたのは、お前だろうが」
ディエゴは掴んだ腕を放さず、ヒストリアを自分の方へ引き寄せた。
ズギュウゥゥン!!
彼女に口づけ、スタンドの力を流し込んだ。アヌビスは、その意味を考えるよりも、すぐそこへ迫る床に気を取られていた。
「こ、こんな時に何をしてやがるッ! ま、間に合わねえッ!」
床へ激突するはずの身体を、大きな影が受け止めた。硬い石とは違う感触が背へ伝わり、落下の勢いが、別の身体の沈み込みへ変わった。ディエゴはその上で身を返し、ヒストリアを抱えたまま、姿勢を保った。
床に伏せていた恐竜が、二人を受け止めていた。低く身を沈めて衝撃を逃がすと、その前肢と脚が、ヒストリアの腕を押さえた。アヌビスが自由な手を動かそうとしても、その先へ、すでに爪が回っていた。
「な、何だこの生物はッ!? 離しやがれ、このドグサレがァーッ!」
ディエゴは抵抗する身体を押さえ込み、その動きと呼吸を、口と腕で封じた。肩の中で刃が動いても、刀を握る腕から手を放すことはなかった。激しい抵抗が続いた末、ヒストリアの身体から力が抜け、アヌビスの声が掠れた。
「こ、呼吸…か……あ……」
ヒストリアは意識を失い、刀を握っていた指を開いた。ディエゴはすぐに身体を支え、床へ倒れないよう抱き直した。肩に残った刃を抜くと、息を詰めて痛みに耐え、柄には触れず、刀を脇へ弾いた。刃は、倒れたロッドの近くまで滑っていった。
「ぐッ……しかし、強敵だった。この世界では、間違いなく、一番苦労したな……」
ディエゴはヒストリアの顔を確かめ、呼吸が続いているのを見た。先ほどの短い接触で、彼女の内側へ流し込んだ力も、途切れずに残っていた。恐竜の姿へ変えることなく、その身体の中へ、自分の力を置くことができていた。
これで始祖の力を自由に動かす鍵を、自分の手へ引き寄せたのだと、ディエゴは考えた。ヒストリアを思い通りに扱える者が自分だけになるなら、エレンの力を手にする道も、自分だけのものにできる。その考えが、肩の痛みを押しのけて、口元へ笑みを浮かべさせた。
傍らの恐竜が形を崩し、元の小さなランプへ戻った。戦う前に床へ落としておいたものを拾い、ディエゴは装備の中へ収めた。念のため持ってきた一手が、最後に、この戦いを終わらせていた。
「アニ……お前は役に立ったぞ。このオレのためにな」
ディエゴはヒストリアを静かに横たえ、刀の方へ向き直った。肩から流れる血を押さえながら、今度こそ、本体をどう始末するか考えた。床の刃へ足を寄せると、その横に、犬のような顔が浮かび上がった。
「さて……このまま踏み砕くか、博物館に寄贈するか。いや、海か川にでも捨てるか」
「待った待った! 俺はもう戦えねえし、海や川へ入れられたら錆びちまう! しかも孤独だッ! 勘弁してくれェーッ!」
さっきまでの威勢は、どこにも残っていなかった。アヌビスの顔が、必死にディエゴの足を見上げていた。ディエゴはその変わり方に呆れたように眉を動かしたが、足を引くことはなかった。
「何か……ずいぶんと情けない感じになっちまったな。とはいえ、オレも死にかけたんだ。何もしないってのは、ありえない世界だ」
アヌビスは、犬のような顔を引きつらせた。ディエゴが刀身へ足を近づけるたび、その目が動いた。刃を振るう身体を失った今、口でこちらを止めるほかには、何もできないようだった。
「そこはすまないと思ってる! その通りだと思うッ! だから話すよ! ロッド・レイスと、エレン、ヒストリアの記憶に、巨人の謎だ! 俺はロッドを通じて、全部見たんだッ!」
ディエゴは返事をせず、その顔を見た。命乞いのために、こちらが欲しがりそうなものを並べている可能性はあった。だが、エレンとヒストリアの記憶という言葉だけは、そのまま聞き流せなかった。
「本当だ! マジなんだッ! 疑うなら、あとでヒストリアに聞いてみりゃいい!」
「……なら、話してみろ。ただし、一つでもホラを吹いたなら、その時点でぶち砕いて川底へ沈めてやる」
「わ、分かった!」
アヌビスは、ロッドの中から見てきたものを話し始めた。真の王家がレイス家であることと、ヒストリアがその血を引いていることから、奪われた力の行方まで、一つずつ言葉にした。途中で口ごもるたび、ディエゴの足へ目をやり、急いで続きを話した。
グリシャがこの地下へ来て、フリーダから始祖の力を奪ったことも明かした。レイス家の人間が襲われ、ロッドだけが生き残ったことと、そのあと、父の力をエレンが受け継いだ経緯も続いた。エレンは巨人となり、グリシャを食らっていた。
巨人の力を持つ人間を食えば、その力が移ることも、ディエゴの推測どおりだった。だが、始祖を王家へ戻せば、それだけで望むまま使えるわけではなかった。王家の血を引いて継承した者へ、初代王の意志が及ぶことも、アヌビスは説明した。
ロッドが知っていた王家の内情と、エレンに触れて引き出された記憶が、ようやく一つの話としてつながっていった。ヒストリアとともに触れた時、何が見えたかを聞くと、アヌビスは、その時の光景まで語った。ディエゴは相槌を打たず、知っている事実と、まだ確かめる必要のある話とを、頭の中へ並べた。
「なるほど……態度にも、話にも嘘はなさそうだ」
アヌビスの顔が、目に見えて緩んだ。ようやく助かる道が見えたと思ったらしく、刀身のそばへ寄せられていた足から、少しだけ視線を外した。
「な、なら……」
「質問は、まだある。お前を送り込んだ奴は誰だ?」
送り主を問う言葉に、アヌビスの表情が凍りついた。口を開きかけたまま言葉が止まり、引きかけていた汗が、再び顔へ浮かんだ。ディエゴが黙って待っていても、答えは出てこなかった。
「はあーッ……はあーッ……」
実体のある身体でも持っているかのように、アヌビスは息を荒らした。踏み砕かれることを怖がっていた時とは、目の動きが違っていた。今ここにいない何かを思い浮かべ、その顔に、別の恐怖が広がっていた。
「お前を送り込んだのは、スタンド使い……それも、マーレの、とびきり強力な奴というわけか」
アヌビスは答えなかったが、否定する余裕も見せなかった。その反応を見て、ディエゴは自分の推測にさらに確信を深めた。目の前の刀を従わせるほどの力がまだ別にあると考えた。
「本体を知っているなら言え。それとも、バラバラになって、この鍾乳洞へぶちまかれたいか?」
ディエゴは足を振り上げ、刀の上へ影を落とした。アヌビスは、こちらとどこにも姿の見えない相手とを怖がるように顔を歪めた。最後には、今ここで砕かれる恐怖に押されたように声を上げた。
「あ、あのお方の正体は……!」
その時、頭上で、岩の擦れる音がした。ディエゴは顔を上げるより早く、ヒストリアへ手を伸ばした。身体を抱き上げ、そのまま横へ跳んだ直後、大きな影が、さっきまで立っていた場所へ落ちた。
轟音が地下を揺らし、砕けた石と砂が吹き上がった。ディエゴはヒストリアへ覆いかぶさるように身を低くし、飛んできた破片を背で受けた。土煙が広がり、アヌビスの声も、刀の姿も、その中へ消えた。
「……今の、は……?」
腕の中で、ヒストリアが目を開けた。音と衝撃に起こされても、すぐには、何が起きたか分からなかった。自分を抱いている顔へ目が合うと、ようやく、強張っていた指が動いた。
「ディエゴ……?」
ヒストリアは彼の服を掴み、傍にいることを確かめた。だが、安心しかけたところへ、目の前の光景が入ってきた。先ほどまで父が倒れていた場所を、巨大な岩が覆っていた。
「鍾乳石だな……それが落ちてきて、刀と、ロッド・レイスが潰れちまった」
ディエゴは、土煙の向こうを見据えたまま言った。岩の下から声は聞こえず、話の続きを問いただすこともできなかった。落ちた塊の周囲へ、天井から、さらに細かな石が降り始めていた。
ヒストリアは、横たわっていた父の姿を、もう一度見ることさえできなくなったと知った。そこへ、刀を抜いた時の感覚や、自分のものではない意志に身体を動かされていた記憶が、断片になって戻ってきた。何が自分のしたことで、どこからが違うのか、すぐには整理できなかった。
その中に、ディエゴと間近で目を合わせた瞬間もあった。短く触れた唇の記憶を思い出すと、状況を忘れたわけではないのに、頬が熱くなった。怖い時に呼べば来てくれて、守ると言った言葉を、また果たしてくれた男が、自分を抱いていた。
伝えたいことが、胸の中へ溢れていた。言葉にしなければ、このまま抱えてはいられない気がした。ヒストリアはディエゴを見上げ、震える息を整えてから、口を開こうとした。
その前に、足元から大きな揺れが伝わった。頭上でも音が響き、壁の一部から、石の欠片が剥がれ落ちた。ヒストリアは思わずディエゴの服へ縋り、天井を見上げた。
「鍾乳洞が崩れるな……逃げるぞ」
ディエゴは彼女を抱え直し、出口へ向かって走り出した。肩の傷が痛んでも、足を緩めなかった。ヒストリアは頷き、振り落とされないよう、その首へしっかりと腕を回した。
背後で、また大きなものが落ちる音がした。ディエゴは振り返らず、土煙の向こうに見える扉へ、真っすぐ駆けた。ヒストリアは腕の中で身を寄せ、今度こそ、その身体から離れまいと、強く手を組んだ。