上半身だけを形作った巨人の肋骨、その内側にはまだ焼けるような熱気と白い蒸気が残っていた。外では兵士たちが武器を構えたままこちらの様子を窺い、壁上の砲台ではすでに次弾の装填が始まっている。ひとまず榴弾は防いだものの、状況そのものは何一つ解決していなかった。
「それだけ材料があるなら、上官に口を利いてやるよ」
地下室について知っていることを話し終えたエレンへ、ディエゴは事もなげにそう告げた。
エレンは思わず訝しげな顔をする。
「口利きって……本当にそんなことできるのか?」
疑うのも無理はなかった。つい先ほどまでディエゴは軍の命令に従い、実際にミカサと刃を交えていたのである。突然こちらの味方をすると言われても、どこまで本気なのか判断できない。
ミカサも同じような疑問を抱いているらしく、黙ったままディエゴを見ていた。むしろ軍規という意味では、彼女の立場はエレンより悪い可能性すらある。
兵士たちからエレンを守るためだったとはいえ、正式な命令に逆らったうえ、上官の指示を受けて前へ出たディエゴへ自ら刃を振るった。先手を取らなければ確実に負けると判断したことも、エレンを殺されるかもしれない状況で冷静さを失っていたことも事実だが、軍規の上では言い訳にしかならない。
そんな二人の不安など気にした様子もなく、ディエゴは肋骨にもたれながら肩を竦めた。
「自分で言うのもなんだが、今日のオレは表彰されてもおかしくない働きをしてる」
「こんな時に自慢かよ」
エレンが呆れた顔をしたが、意外にもアルミンはすぐに否定した。
「いや、ディエゴの言ってることは間違ってない」
「アルミンまで?」
「さっき後衛部隊の隊長が言ってただろ。ディエゴを失った時の損失は、比べられるものが思いつかないって」
アルミンの表情から、先ほどまでの狼狽が少しずつ消えていた。代わりに現れ始めたのは、複雑に絡まった状況を一つずつ解きほぐそうとする時の集中だった。
「今日の戦闘でディエゴが何体もの巨人を倒したことは、駐屯兵団の兵士も避難民も見てる。後衛区域の避難が進んだのも、ディエゴとミカサが周囲の巨人を減らしたからだ。それに僕たちが補給本部へ突入できたのも、ディエゴが先に巨人を倒して道を開いてくれた影響が大きい」
アルミンはそこでエレンを見る。
「そこへ、エレンが自分の意思で巨人化できるっていう事実が加わった。巨人の力を人類のために使える可能性があるなら、今すぐ殺すより、まず調べるべきだって主張できる」
「でも、俺がまた暴れたらどうするんだって言われるだろ」
「そこでオレだろう」
ディエゴが当然のように割って入った。
「お前が暴走したらオレが止める。そう言えばいい」
「簡単に言うなよ」
ディエゴはエレンを上から下まで眺めると、少し馬鹿にするように鼻を鳴らした。
「今日、オレが巨人を何体始末したと思ってる? 後衛区域じゃ住民の避難路を確保するために何体も斬ったし、補給本部の周囲でもお前らが突入する前に数を減らした。しかも、その大半を複数の兵士が実際に見ている」
さらに、ディエゴには五年前の実績もある。
「それに、オレがまだガキだった頃、立体機動装置なしで巨人を殺した話も軍の記録には残ってる。今日の戦果まで加われば、『イェーガーが暴走したらブランドーが止める』という保証を、最初から笑い飛ばせる奴はいないだろう」
エレンは反論しかけたものの、結局口を閉じた。
何より、自分自身がディエゴの強さを知っている。五年前にも巨人を倒す姿を見たし、訓練兵時代にはミカサですら一度も勝てなかった。自分が完全な巨人になったとしても、本当にこの男なら止めるのではないかと思えてしまう。
「じゃあ、ミカサはどうする?」
エレンが隣を見る。
「ミカサは実際に兵士へ刃を向けたんだぞ」
「そこも話は作れる。というより、事実を都合よく並べればいい」
ディエゴは特に悩む様子もなかった。
「ミカサは後衛区域で避難民同士の揉め事を収めていたし、オレと一緒に巨人も狩った。あいつがいなければ避難が遅れて死んでいた住民もいるだろう。それだけ働いた兵士を、一度命令に逆らったという理由だけで今すぐ処刑するのは効率が悪い」
そこでミカサへ目を向ける。
「そのうえで、エレンが人類に利用できる可能性へ早い段階で気づき、保護しようとして冷静さを欠いた、と説明する。実際エレンは自分で巨人化能力を使いこなしたわけだからな…軍規違反そのものを消す必要はない。処罰より先に利用価値を調べた方が得だと思わせれば十分だ」
「……それで、なんとかなるの?」
ミカサが珍しく不安そうに尋ねる。
ディエゴは一度だけ外の兵士たちへ視線を向け、それから平然と答えた。
「普通はならないだろうな」
「ならないの?」
「ああ。オレ以外ならな。今の連中が必要としているのは理屈だけじゃない。エレンがまた巨人になった時、それを止められる人間が本当にいると思えるかどうかだ」
ディエゴは自分の胸を親指で指した。
「そこをオレが保証する。しかも今日の戦果が、その保証の担保になる」
あまりにも堂々とした物言いに、エレンは半ば呆れながら眉を寄せた。
「どんだけ自信あるんだよ」
「自信じゃあない。実績だ」
ディエゴは即座に訂正する。
「オレがここで『こいつらを生かせ』と言うだけなら、ただの身内贔屓だ。だが、今日一日で住民を守り、兵士を助け、巨人を何体も殺した人間が『危険になったら自分が始末するから、まず利用価値を調べろ』と言えば話は変わる」
そこで口元を少し吊り上げた。
「表彰や褒賞は…まあ勿体ないが、この際仕方がない。その代わりにエレンとミカサを即座に処刑するな、と要求する。少なくとも、話を聞かずに殺すよりは兵団にとって得な取引に見えるはずだ」
エレンはしばらく黙っていたが、やがて大きく息を吐いた。
「……分かった」
そして、アルミンを見る。
「でも説得の内容は、アルミン。お前に任せる」
「僕に?」
アルミンが目を見開いた。
「ああ。こういう状況じゃ、お前の判断が一番頼りになる」
「でも……」
「五年前だってそうだっただろ」
エレンの声が少し柔らかくなる。
「あの時、お前がハンネスさんを呼びに行ってくれたから、俺もミカサも助かった」
そこでディエゴへ視線を向けた。
「ついでに、すげえもんも見られたしな」
シガンシナ区で、まだ幼かったディエゴが立体機動装置すら使わず巨人を倒した光景を思い出しているのだろう。
「そりゃあよかったな」
当の本人は心底どうでもよさそうに返した。
エレンは「もう少し何か言えよ」とでも言いたそうな顔をしたものの、今はそんなやり取りを続けている余裕もなかった。
ディエゴは改めてアルミンへ顔を向ける。
「オレが一人で出て力を見せつけながら喋っても、あの連中には『強い兵士が自分の判断を押し通そうとしている』と取られる可能性がある。お前が事実と理屈を並べ、その後ろをオレの実績で支える方が通りはいい」
アルミンは黙って聞いている。
「エレンとミカサが助かるかどうかは、お前の説得にかかってるぞ」
その一言に、アルミンは僅かに息を呑んだ。
怖くないわけではない。外では、自分たちを殺すための準備が整っている。一歩間違えば、次の榴弾で全員が吹き飛ばされるかもしれない。
それでもエレンは自分を頼り、ディエゴまで自分の頭を使えと言っている。
ならば、やるしかなかった。
「分かった」
アルミンはしっかりと頷いた。
「行こう」
「せいぜい気張れよ」
ディエゴはそう言うと、まだ蒸気を上げている巨人の肋骨の隙間から外へ歩き出した。
アルミンも、その後に続いた。
◆
「そこで止まれ!」
巨人の身体から外へ出た瞬間、鋭い声が飛んできた。
ディエゴとアルミンは言われた通り足を止める。兵士たちは依然として銃やブレードを構え、壁上に据えられた砲口もこちらを向いたままだった。
「ブランドー! 貴様、何をしている!」
上官の声には、先ほどより強い苛立ちが混じっていた。
「話をしに来ました」
ディエゴは平然と答える。
「話だと?」
「はい。ただし最初の説明は、こいつから聞いた方がいいでしょう」
ディエゴが顎でアルミンを示した。
突然すべての視線を浴びる形になったアルミンだったが、もう俯かなかった。
「エレン・イェーガーは、人類の敵ではありません」
その言葉だけで周囲にざわめきが広がる。
「何を根拠に!」
「彼自身が、知り得た情報をすべて開示する意思を持っています。それに、彼が完全な人間なのか、それとも巨人なのかという議論だけで処刑を決める必要はありません。僕たちはすでに、それより重要な事実を見ています」
上官が険しい顔をする。
「事実だと?」
「はい。ここにいる多くの兵士が見たはずです。エレンの巨人は、他の巨人たちに襲われ、食われかけていました」
兵士たちの表情が変わる。
実際、その光景を見た者は少なくない。巨人たちはエレンの巨人体へ群がり、腕や肩へ噛みついていた。
「つまり、少なくとも通常の巨人はエレンを仲間として扱っていません。僕たち人間と同じように、攻撃し、捕食する対象として見ています。この事実だけは、エレンの正体が分からなくても変わりません」
アルミンの声は、言葉を重ねるほど安定していった。
「エレンが何者なのかは、まだ僕にも分かりません。でも、巨人の側にいる存在だと断定できる証拠もない。それどころか、目撃された行動だけを見れば逆です。彼は人間ではなく、巨人を攻撃しています」
上官はすぐには言葉を返せず、無意識のようにディエゴへ視線を向けた。
「どう思う、ブランドー」
「その点については、アルミンに同意します」
ディエゴは迷わなかった。
「オレも、あいつが他の巨人に襲われるところを見た。巨人はイェーガーの身体へ群がり、実際に食おうとしていた。一方でイェーガーは人間を狙わず、逆に何体もの巨人を殺している」
そこでディエゴは周囲の兵士たちを一度見回した。
「正体が何かという話はいったん横へ置けばいい。少なくとも今日あいつがやったことだけを見れば、人類より巨人へ大きな被害を与えています」
「だが、また巨人になり、今度は我々へ襲いかかったらどうする!」
上官が叫ぶ。
ディエゴは、むしろその質問を待っていたように口元を上げた。
「その時は、オレが殺します」
一瞬で周囲が静まり返った。
「……何?」
「聞こえなかったか? イェーガーが人類へ牙を剥いたら、オレがブッ殺してやると言ったんだ」
ディエゴは特別なことを宣言しているつもりなどないような口調で続けた。
「今日の後衛区域で、オレが巨人を何体倒したか正確に数えてる奴はいるか?」
誰も答えない。
ディエゴは後衛部隊の兵士へ視線を向けた。
「オレが巨人を倒して避難路を開いたのは見ていたな?」
「あ、ああ」
兵士の一人が頷いた。
「馬に乗ったまま何体も……正直、数までは覚えてない」
「補給本部へ向かう途中でも、先に巨人を処理した。だから訓練兵たちは窓まで辿り着けた。あれを見た奴もいるだろう」
別の兵士たちが顔を見合わせ、何人かが頷く。
「五年前にシガンシナ区で、立体機動装置なしに一体仕留めたことも記録に残っているはずだ。つまりオレが『巨人を殺せる』というのは期待でも自己申告でもない。すでに確認された事実です」
兵士たちの間に、先ほどとは違う種類のざわめきが生まれ始めた。
ディエゴはエレンのいる巨人の骨格へ一度だけ視線を向ける。
「だから保証してやる。イェーガーを監視下へ置き、利用価値を調べろ。暴走して人を襲ったら、その時点でオレが始末する」
上官の表情が険しくなる。
「貴様一人で、あの巨人を止められると言うのか」
「止められないと考える根拠があるなら、聞かせてもらいたいものですね」
ディエゴは薄く笑った。
「少なくとも、今日ここにいる人間の中でぶっちぎりで多く巨人を殺した人間が『止める』と言ってるんだ。試す前から殺すよりは、よほど合理的だと思いますが」
返答に詰まった上官を見て、ディエゴはさらに一歩踏み込んだ。
「それに、あいつの働きですでに助かった人間もいる。補給本部の外で巨人を引きつけていたおかげで、こちらへ向かう巨人は減った。その間に兵士たちは補給を済ませ、生き延びた。役に立つかどうかを調べる価値くらいはあるでしょう」
周囲の空気が明らかに変わり始めた。
「確かに……」
「あの巨人、俺たちには襲いかからなかった」
「本部へ戻れた時も、外で他の巨人と戦ってたぞ」
「ブランドーが監視するなら……」
「あいつなら本当に止められるんじゃないか?」
ディエゴの言葉が重く受け取られているのは、首席だからでも、態度が堂々としているからでもなかった。
今日一日で、その発言を裏づけるだけのものを実際に見せていたからだ。
ディエゴ・ブランドーなら、本当に巨人を止められる。
そう思わせるだけの巨人の死体が、すでにトロスト区のあちこちに転がっている。
上官は苦々しい顔で周囲を見回した。自分の部下たちまで迷い始めていることが、気に入らないらしい。
「では、アッカーマンはどう説明する」
今度はミカサへ視線を向ける。
「あの女は命令に逆らい、兵士へ刃を向けた。これは明確な軍法違反ではないのか!」
「その点についても説明できます」
ディエゴは動じなかった。
「アッカーマンは後衛配置中、避難民の誘導と治安維持を担当していました。住民同士の混乱を何度も収め、オレと共同で周辺へ侵入した巨人の討伐も行っています」
後衛部隊を指揮していた隊長へ顔を向ける。
「間違ってますか?」
突然話を振られた隊長は、ディエゴと上官を交互に見た。だが、事実を曲げる理由はない。
「……いいえ。事実です」
「彼女がいなければ、避難がさらに遅れていた?」
「間違いありません。ブランドー訓練兵とアッカーマン訓練兵が巨人を食い止めたことで、かなりの民間人が避難できています」
「だそうですよ」
ディエゴは上官へ視線を戻した。
「アッカーマンが命令に逆らったことは否定しません。ただし理由は、イェーガーが人類に利用できる可能性へ気づき、それを保護しようとしたからだ。冷静さを欠いた判断ではあっても、巨人側へ寝返ったわけじゃあない」
さらにディエゴは、わざと周囲へ聞こえる声で続ける。
「今日、民間人を守り、巨人を討伐した次席訓練兵を、その日のうちに事情も十分調べず処刑する。そんな判断が本当に人類の利益になりますかね?」
再び兵士たちの間から小さな声が上がる。
「後衛で助かった住民、かなりいるらしいぞ」
「二人とも処刑する必要まであるのか……?」
「少なくとも事情を調べてからでも遅くないんじゃないか」
「ブランドーまで保証するなら……」
流れは確実に変わりつつあった。
アルミンはそれを肌で感じ、僅かな希望を抱いた。自分の理屈だけでは足りなかった部分を、ディエゴが今日積み上げた実績によって埋めている。
しかし、現場を指揮する上官だけは違った。
「黙れぇッ!」
怒声が周囲の囁きを吹き飛ばした。
その表情は、もはや冷静に判断を下そうとする指揮官のものではない。理解できない存在を前にして、恐怖を怒りで押し隠している人間の顔だった。
「相手は巨人だぞ! 人間の姿をしているからといって信用できるものか! 利用などと言って、もし壁の内側で暴れられたら誰が責任を取る!」
「だからオレが――」
「黙れ! 迎撃態勢を取れ!」
兵士たちが戸惑う。
それでも命令は命令だった。壁上の兵士が再び砲台へ取りつき、地上でも銃口が上がっていく。
「そんな……」
アルミンの顔から血の気が引いた。
「話を聞いてください! 今殺す必要はないんです!」
ディエゴはその隣で小さく息を吐いた。
「フン…まあ期待はしていなかったがな。カスどもが」
ある程度は予想していた。事実と損得を並べれば、多くの兵士は迷わせられる。しかし、恐怖によって思考そのものを止めている人間には、どれだけ合理的な材料を並べても届かないことがある。
次弾が飛んできた場合、自分一人なら逃げられる。脚を部分恐竜化させて一気に射線から外れれば、爆風まで避けることは難しくない。
エレン、ミカサ、アルミンまで同時に助けられるかは別の話だった。
ディエゴは冷めた目で三人を見る。
アルミンも振り返ったが、その目にはディエゴとは対照的な焦りと必死さが浮かんでいた。
エレンとミカサは逃げようとはしなかった。二人とも覚悟を決めたような表情で、アルミンを見ている。
その顔を見た瞬間、アルミンの中で最後の迷いが消えた。
もう、命乞いでは届かない。
自分が何を信じ、それにどこまで命を賭けられるのかを示すしかない。
アルミンは背筋を伸ばした。
「私は、とうに人類復興のためなら心臓を捧げると誓った兵士です!」
突然響いた声に、周囲の兵士たちがアルミンを見る。
「自分の信念に従った末に命が果てるのなら、本望です!」
ディエゴが僅かに眉を上げた。
「ほお?」
普段なら頼りなく見えることもある少年が、死を目の前にして逃げずに叫んでいる。その覚悟だけは、ディエゴも少しばかり評価した。
アルミンはさらに一歩前へ出る。
「イェーガー訓練兵の巨人化能力、ブランドー訓練兵の戦闘能力、そして残存する兵力! この三つを組み合わせれば、トロスト区を奪還できる可能性があります!」
上官の動きが止まった。
「何?」
「イェーガー訓練兵には戦術的価値があります! それを、これから自分が死ぬまでの間に説明します!」
アルミンは声を張り上げる。
「だから、せめて聞いてください!」
上官の顔に迷いが浮かんだ。
ほんの一瞬だけ、理性が恐怖を押し返す。
それでも男は最終的に歯を食いしばり、命令を下すため腕を振り上げようとした。
「撃――」
「まあ、待て」
別の声が響いた。
上官の腕が止まり、周囲の兵士たちも一斉に声の主へ顔を向ける。
「わしは、その者らの話をもう少し聞いた方がええ気がするのぅ」
そこに立っていたのは、禿げ上がった頭に立派な口髭を蓄えた老人だった。戦場の只中とは思えないほど落ち着いた顔をしているが、細い目の奥には周囲の状況を一度に見渡しているような鋭さがある。
南側領土を預かる駐屯兵団最高責任者、ドット・ピクシス司令だった。
「ピ、ピクシス司令!」
先ほどまで激昂していた上官が、一瞬で姿勢を正す。
ピクシスは騒ぎの中心にいるアルミンとディエゴを交互に眺め、どこか楽しそうに笑った。
「なかなか面白い話をしとったじゃあないか。どうせ撃つなら、聞き終わってからでも遅うはあるまい」
その一言で、少なくとも即座の処刑は止まった。
◆
しばらく後、エレンたちはトロスト区を見渡せる壁上へ移されていた。
眼下では、いまだ巨人たちが街中を徘徊している。破壊された門からは新たな巨人も侵入し続けており、このまま放置すればトロスト区を完全に放棄するしかなくなるだろう。
ピクシスは壁の縁に立ち、しばらく無言で街を眺めていた。その傍にはエレン、ミカサ、アルミン、ディエゴが並んでいる。
やがてピクシスは振り返り、最初にアルミンへ目を向けた。
「さて、アルミン訓練兵と言ったかの」
「はい!」
「さっき、おぬしはイェーガーの力を使えば、この区域を奪還できる可能性があると言ったな」
「はい」
「それは本気でそう考えたのか? それとも、死にたくない一心で口から出た命乞いか?」
アルミンは少し考えた後、誤魔化すことなく答えた。
「両方です」
ピクシスが楽しそうに目を細める。
「ほう」
「助かりたいという気持ちはありました。でも、作戦についても本当に可能性があると思っています」
「聞こうか」
アルミンは壁上から街を見下ろし、破壊された門から少し離れた場所にある巨大な岩を指差した。
「あの岩です。エレンが巨人になって持ち上げられるなら、あれを破壊された扉まで運んで穴を塞げるかもしれません」
エレンが目を見開いた。
「俺が、あれを?」
「今の大きさの巨人になれるなら、可能性はあると思う」
アルミンは続けてディエゴを見る。
「ただ、エレンが両手で岩を担いでいる間は、自分で巨人と戦えません。門までの経路を守る部隊が必要になります」
「そこでオレか」
ディエゴが言った。
「うん。普通の護衛部隊だけなら、エレンを守るためにかなりの兵力が必要になる。でもディエゴが中心に入れば、近づいてくる巨人を少ない人数で処理できる。そのぶん他の兵士を誘導や囮へ回せるし、作戦の成功率はかなり上がると思う」
そこまで話してから、アルミンは少しだけ苦笑した。
「もちろん、あの時は助かりたい一心でもありましたけど……」
「いや、悪くない」
ピクシスは顎へ手を当て、もう一度街へ目を向けた。巨大な岩と破壊された門、そこへエレンとディエゴという二つの異常な戦力を当てはめながら、頭の中で作戦を組み立てているらしい。
アルミンは必要な兵数や経路についてさらに説明しようとしたが、ピクシスは先にディエゴの隣へ歩み寄った。
「おぬしの噂も聞いとるぞ、ディエゴ・ブランドー」
「光栄です」
「訓練兵団の歴史を見ても、比較する相手がおらんほどの成績だったとか。今日も馬に乗って巨人を次々斬り捨て、後衛の避難路をほとんど一人で守ったそうじゃな」
「多少、大袈裟に伝わっている気もしますが」
「謙遜する顔には見えんのう」
「する必要がありませんから」
ピクシスが喉を鳴らして笑った。
「気に入った」
それから眼下の市街地を指差す。
「では聞こう。イェーガーがあの岩を運ぶとして、おぬしは補佐できるか?」
ディエゴも街へ目を向けた。
門までの道路幅、建物の配置、うろついている巨人の数、立体機動で使えそうな建築物を順番に確認する。シルバーバレットを使える地点もあるし、狭い場所なら馬を捨てて立体機動へ切り替えればいい。
その程度なら、答えを考える必要すらなかった。
「巨人をイェーガーへ近づかせない。それだけでいいのなら、何も問題はありません」
ピクシスが眉を上げる。
ディエゴは何でもないことを説明するように続けた。
「一体来ようが十体来ようが、近づいた順にばらばらにします。建物が邪魔なら屋根を使い、道が塞がれば巨人そのものを足場にすればいい。イェーガーが岩を運ぶことだけに集中できる状態を作れと言うなら、やってみせます」
そこで口元を吊り上げる。
「邪魔をする巨人は、死体にして順番に並べてこの区域の肥料にしてやります。結構栄養になるかも」
エレンが横で呆れたような顔をし、アルミンも「そこまで言い切るのか」という表情をしている。
しかし、ピクシスだけは愉快そうに笑った。
「よう言った!」
大きな手でディエゴの肩を一度叩く。
「わしは、おぬしみたいな男が好きじゃぞ」
「光栄です」
ディエゴは先ほどとまったく同じ調子で答えた。
ピクシスはさらに面白そうに笑った後、今度はエレンへ向き直る。
「では、イェーガー訓練兵」
「はい」
「あの穴を塞げるか?」
エレンはすぐには答えなかった。
壁上から巨大な岩を見下ろし、次に破壊された門へ視線を移す。自分が先ほど作り出した巨人の身体を思い出しても、あれほどの岩を本当に持ち上げられるかどうかなど分からない。
門まで運べるのか。
途中で力尽きないのか。
もう一度、思い通りに巨人になれるのか。
確証など一つもなかった。
それでも、ここで「できない」と答えれば何も変わらない。
エレンは拳を握った。
「やります」
ピクシスは黙ったまま続きを待つ。
「できるかどうかじゃない。何があっても、俺があの穴を塞ぎます」
一瞬の静寂の後、ピクシスの顔が大きく綻んだ。
「よく言った! ぬしは男じゃ!」
そのまま近くの兵士へ振り返る。
「参謀を呼べ! すぐに作戦を組むぞ!」
「はっ!」
あまりにも決断が早かったため、アルミンは思わず目を瞬かせた。
「えっ……もう?」
つい先ほどまで殺されかけていたというのに、その数分後にはトロスト区奪還作戦の中心へ据えられようとしている。
「司令、まだ成功する保証もありません。エレンが岩を持てるかどうかも――」
「保証ができるまで待っとったら、巨人が勝手に門を塞いでくれるんかの?」
ピクシスは笑いながら返した。
アルミンは言葉に詰まった。
そのやり取りを横で見ていたディエゴは、ピクシスへの評価を密かに修正していた。
最初に見た時は、少し変わった老人程度にしか思っていなかった。しかし、アルミンの案を聞いた瞬間に、その利用価値だけでなく時間的な意味まで理解している。
成功率が百ではないことなど、ピクシス自身が最もよく分かっているはずだ。
それでも、現状を維持すれば兵士の損耗が続き、巨人はさらに増え、いずれトロスト区を捨てるしかなくなる。その損失と比べれば、未知の力へ賭ける方がまだ利益があると即座に判断したのだろう。
何より、エレンという理解不能な存在を前にしても、恐怖だけで排除を選ばなかった。
「こいつ、なかなか切れるじゃあないか」
ディエゴは声には出さず、僅かに口元を上げた。
こういう相手は嫌いではない。
理解できないものを恐れて壊そうとする人間より、その価値を測り、使えるなら使おうとする人間の方が、話がずっと早い。
「でも、本当にいいのかな……」
アルミンはまだ困惑を隠せなかった。
「いくらなんでも、かなり皮算用だよ。エレンがあの岩を持てるかも分からないし、予定通り動ける保証もない。それなのに、もう作戦を始めるなんて……」
エレンは参謀たちへ次々と指示を飛ばしているピクシスを見ながら、静かに答えた。
「たぶん司令には分かってるんだよ」
「何が?」
「敵は巨人だけじゃないってことが」
アルミンがエレンを見る。
エレンは眼下にいる兵士たちへ視線を移した。
巨人への恐怖がある。
逃げたいという気持ちがある。
軍そのものも混乱し、兵士同士の間にまで不信が生まれ始めている。
それらはすべて、巨人に直接殺されなくても人類を内側から壊していく。
「このまま何もしなかったら、巨人に負ける前に俺たちの方がバラバラになる。だから成功するか分からなくても、『勝てるかもしれない』ってものを見せる必要があるんじゃないか」
「……エレン」
アルミンは改めてピクシスを見た。
その近くでは、ディエゴも同じ老人を見ていた。
ただし、その頭の中にあるものは少し違う。
エレンの巨人化。
門を塞ぐための巨大な岩。
トロスト区奪還作戦。
そして、その先に存在するシガンシナ区と地下室。
今まで別々に存在していた情報が、少しずつ一本の線として繋がり始めている。
ディエゴ・ブランドーにとって、それは人類の希望などという曖昧なものではなかった。
壁の外にある世界。
巨人の正体。
知性を持つ巨人たち。
マーレ。
そして、自分がまだ知らない力と秘密。
トロスト区を奪還することは、そのすべてへ近づくための次の一歩になる。
ならば、この作戦には十分に乗る価値がある。
ディエゴは眼下の巨人たちを眺めながら、楽しそうに目を細めた。