トレセン学園の職員、主にトレーナーは非常に多忙である。担当ウマ娘のトレーニングやマスコミへの対応、書類仕事などその業務は多岐にわたる。だが、そんなことは皆わかっている。わかったうえで覚悟してトレーナーというものになったのだ。かくいう自分もそのうちの1人である。
しかし、最近はどうもそういうわけでもなくなってしまった。昔は漠然とした渇き、渇望をただひたすらに血と汗で満たしてきた。しかし、その渇きは徐々に徐々に潤いへと変化していった。このトレセン学園も今や過渡期。刻一刻と変化するその状況に自分はついていけないのではないか?
そんな疑問が湧いてきた。そんな自分にもはやこの場所は似つかわしくない。故に、トレーナーは決意した。ここを辞めると。
もちろん、今すぐにというわけには行かない。どうせ退職届を出して2週間程度で退職は完了になる。3週間だ。3週間でここを去ろう。そう決意した。
その為にはまず退職届でも書こうと思い、紙とペンを用意しようとしたのだが…紙はあったもののペンがない。最近何かとペンがなくなってしまう。仕方がないのでペンを借りに行こうとトレーナー室の外に出ることにした。
「おや、トレーナー君じゃないか」
「ん?ああ、ルドルフか」
「最近は生徒会の仕事が忙しくて、中々君と会う機会がない。嘆かわしいことだよ。そんな状況の中で君に出会えるとは運がいい。今日はいい日になりそうだね」
「生徒会の仕事ならいつも手伝っているだろう。最後に会ったのは2日前だ。疲れてるんじゃないのか?」
「おや、そうだったかな。君といると時間が短く感じてしまうようだ。会えない時間はより長く感じてしまうのが厄介だね」
生徒会長であるシンボリルドルフもまた、多忙の身だ。かつて皇帝と言われそれに相違ない雰囲気を出していた彼女だが、今は少し雰囲気が柔らかくなったように感じる。
もちろん、彼女自身は元々柔和で温厚な性格だったが、周りからのイメージは厳格な皇帝、というものだった。しかし、今は多くの人から見てそのイメージは変わっている。これもまた、一種の変化なのだろう。やはり、時の流れとともに全ては変わるものなのだと改めて実感した。
「生徒会の業務にも少し余裕が出来たんだ。生徒会室で少し話さないか?トレーナー君」
「ああ、わかった」
今はそれほど急いでいるわけでもない。それに、生徒会室からならペンも借りられるかもしれない。そういうわけで、シンボリルドルフの提案を承諾し、生徒会室へと向かった。
「ゆっくりしてくれて構わないよ。コーヒーでもいかがかな?」
「ああ、そうだな…ありがたく貰おう」
差し出されたコーヒーを手に取りすする。このまま書類仕事を普段ならしていたのだが、今日は違う。手持ち無沙汰となってしまって少し落ち着かない。
「今少し落ち着いてきたが、やはり忙しいものだね。だからこそ、こうして君とゆっくりする時間は至福のひとときとも言える。君には感謝しなくてはならないな」
「仕事をしただけで感謝しては皇帝の威厳というのも損なわれる。感謝の安売りはするものじゃない」
「ふふ、君は相変わらず自分に厳しいようだ。君がわざわざ手伝う義務はなかっただろうに」
「俺がやらなくとも誰かがやることになる。それこそ、エアグルーヴなんかがそうだろう。生徒だけで完結してはトレーナーなど必要はない。手を貸すのは義務ではなく仕事だ」
「屁理屈にしか思えないが…まあそういうことにしておくよ」
少し不服そうに、ルドルフは頷いた。
「少し話は変わるが、君は何をしに外へ出ていたんだい?」
「何か用がなければ外へ出てはいけないのか」
「いや、そういわけではないんだがね。君はいつも何か用事がないとトレーナー室から出ないだろう?」
「冗談だ。なに、ペンでも買いに行こうと思ってな」
「ああ、ペンならそこにあるものを貸すよ。何か手続きが必要な書類でも書くのかい?」
「感謝する。手続きという面ではその通りだな」
「少し含みのある言い方だね。それはどんな書類かな?」
ううむ…長い付き合いだし、ルドルフにならばいいか。
「退職届だよ。ここを辞めようと思ってな」
「トレーナー君。滅多なことは言うものじゃない。そしてなにより、私はそういう冗談が好きじゃなくてね。わかるだろう?」
まさに皇帝というような、威圧感と重みのある顔でルドルフはこちらを見据えてきた。これが
「そんな冗談は言わん。こっちは本気だ」
「…申し開きがあるなら聞こう」
「罪を犯したわけでもないだろうに…ただ、昔見えていたものが今は見えなくなっただけだ。それ以上でもそれ以下でもない」
「それなら退職する必要はないだろう。気の迷いということもある。少し休みを取ってはどうだい?」
「俺の行動には常に一点の曇りもない」
自由意志に基づいて動く人間を止める権利は誰にもない。たとえシンボリルドルフといえども、俺は止められない。
「自分の考えは常に正しい。だからこそ迷う必要はない、だなんて傲慢な考えだとは思わないのかい?」
「それが今の俺を形作っている。それを変える必要があるのなら、それこそ俺にはもうこの職が合っていないことの証明だ」
「君は一人で何でも抱え込みすぎる。君が私を背負ったように、私にも君を背負わせてくれないなんて不公平だろう?」
「背負うべき人間が背負われてはそれこそ本末転倒だ。背負うべき人間は他にいる。先達を背負う時なんて一生来なくていい。それはただの足手まといにしかならない」
「ぐっ………」
背負う側の人間であるシンボリルドルフにこの考えがわからないわけでもないだろう。だからこそ、最も効果的なのだ。
「…人は理屈じゃない。君も、まさか私が人ではないとは言わないだろう?私自身が君を手放したくはない。私と責任を分け合う人間が。君がいなくては困るんだよ」
代わりなんてそこら辺にいる。と切ってしまうのは簡単だが、わざわざ自分自身が辿ってきた軌跡を否定するようなことはしない。なるほど、中々いい反論だ。
「だが、感情論や精神論を説得に使われるのは好きじゃない。交渉のテーブルにそれを持ってくるのはナンセンスだ」
「それ自体が君の感情に基づく理論だろう。感情の優位性を否定できる根拠にはならない」
なかなかどうして、弁が立つ。昔であれば感情論を持ち込むことがなかったが故にこうなることはなかったが、いったい誰の影響を受けたのか、面倒くさい。
「職業選択の自由は保障されている。続けるか続けないか、それを判断するのは俺だ。引き留めるお前が対等だと思うこと自体がそもそも間違っている」
「自分を交渉材料にしている時点で君の有用性は保証されているようなものだ。既に君の価値は示されているはずだが?」
形勢があちらに傾いてきたか?仕方ない、余り自分を必要以上に持ち上げることはしたくないんだが…
「価値あるものを常に置いておけるわけではない。むしろ、その現状維持の姿勢は組織を腐らせる。積み上げ続ければいつかは崩れる。だからこそ少しずつ積み上げたものを抜くんだ」
さてどう来るシンボリルドルフ。もうイタチごっこを続ける気はない。何が来ようと話は終わりだ。
「……だ」
「は?」
「やだやだやだ!トレーナーはずっとルナと一緒にいるもん!一緒にウマ娘達を幸せにするって約束したもん!」
「…………」
クソッ、やられた!
まさか皇帝がこんなにもプライドを捨てられるようなウマ娘だとは思っていなかった。
プライドを捨てられる為政者は優秀だが、こちらとしてはまったく面倒でしかない。
…はぁ、こうなっては議論もクソもない。温かかったコーヒーも、冷めきってしまっている。
「まったく、興ざめだ。はぁ、撤回する他ないか…」
「やったやった、ルナの勝ちー!……ふふ。君ならそう言ってくれると思っていたよ」
「お前はいつからそんな卑怯な手を使うようになった?」
「私としてもこんなことはしたくなかったが、手札というのは切れるからこその手札だよ。それに、私に論理を教えたのも勝負の覆し方を教えたのも君だ」
クソッ、だめだ。ムカつく…
「さっきまであんな醜態を晒していたやつにそんな決め台詞を言われても何も心に響かないが?」
「君であれば見せても問題はない、というだけさ」
「はぁ…本当に、つまらないオチだ。せめて理屈で負かしてくれれば俺もお前の成長を認められたんだが」
「終わりが来るまで君と共にある私にその必要はないからね」
…いっそ俺も学園長に泣きつくか?
いや、絶対にダメだ。そんなの俺のプライドが許さないし、なにより手本を示すトレーナーとして話にならない。
「悔しそうだね。やはり君も人間らしい所があるじゃないか」
「ただそれから派生するものが見えなくなっただけで、人間であるからにはそれがなくなることはありえない」
「自分の信念に基づくのは素晴らしいことだと思う。しかし、それで雁字搦めになっては意味がないと思うが?」
「だからといって感情に委ねるのは好きじゃない」
理性で縛っているだけで、本来感情とはそう簡単にコントロールできるものじゃない。そんな変数を話し合い、ましてや交渉に持ち込むのは取りたくはない選択肢だ。振り回されてるみたいで、気味が悪い。
いや、むしろそれを気にせず利用することこそが真に感情をコントロールするということなのかもしれない。これは一杯食わされたな。…だからといって、あれは見習いたくないが。
「尽くをなぎ倒し、あらゆる異議を唱えるものを結果で黙らせてきた。もはや、異論を唱えるものなどいない。座して待つというのは酷く退屈だ。挑戦者が現れても、自らそのフィールドに降り立つことすらできない。どこまでも上へ、まだ見ぬ空の頂へ。そんな思いも、いつしか枯れ果てた」
ウマ娘の幸福、それに対して努力を惜しんだことはない。だが、あの頃は確かにあった階段が、今はない。だからこそ、新しいアプローチを始めようと思ったのだがな。
「いつまでも挑戦者として生き続けたかったが、そう上手くはいかないな。まったく、嘆かわしい」
「君がそう思うのも無理はないさ。全ウマ娘の幸福というのが、どれだけ果てしない道のりかは理解している。それに付き合ってくれる君には、感謝しなければならないね。もし、本当に嫌になったならその時は辞めてくれてもいい。たかがペンと紙に、私たちは逆らうことができない」
「その時もまた、君は俺を止めるだろう?同じことだ」
「当然だとも。君は私の杖なのだから」