光があれば影が生まれる。それが自然の摂理であり、逆らいようのない運命だ。ならばせめて、影に覆われてしまわないように。自らが影になることを誓った。
しかし、それももはや終わりだ。君にはもう、それは必要ない。影を覆い尽くすその光で、多くの人々を照らしてきた。
その背中が、どうにも眩しくてかなわない。
少し怖がりな性格も、時々見せる日常の中での笑顔も。全部ひっくるめて、君だった。
成長する君を見届けられたことは幸運だった。小さく見える背中に確かにある勇気が、とても輝いて見えた。憧れを追い続ける、光を追う君が誰より輝いて見えた。なにより好きだった。
憧れを追い続ける君が。憧れに追いついた君は、本当に綺麗だった。これからも……そんな発想が湧いた時もあった。
しかし、強くなった君に、自分はもう必要ないはずだ。
他の担当、というのも考えられない。そんな自分に、ここは相応しくない。いたところで夢を追う人間の邪魔にしかならないだろう。夢を見せてくれてありがとう、君の夢を手伝わせてくれてありがとう。
ただ一人の担当である君に誓おう、シュヴァルグラン。自分は、ここを去ると。
退職届は既に提出してある。引き留められはしたが、決めたことを覆す気はない。辞めるならば、最後に関わってきた人たちに別れを告げる必要があるだろう。
そういうわけで、挨拶へと向かった。
「お前、本当に辞めんの?」
「ああ。退職届も提出してある」
「もったいねぇなぁ。ここからってもんだろうに」
「皆から言われたよ。だが、もう心は決めてある。トレーナーとしてこの身を捧げるのは人生でただ一人だってな」
「トレーナーに向いてんのか向いてねぇのかわかんねぇな」
軽薄な話し方だが、意外と他人やウマ娘たちのことを考えている。だからこそ、気の置けない仲間としてそれなりに関わってきた。俺の考えがわからないこともないだろう。
「もうシュヴァルには話したのか?」
「いや、これからだ」
「ほーん……お前がトレーナーを続けるに3万賭けておくぜ」
「人で賭け事をするな。それに、撤回なんて今更無理だろう。何をやったところでもう退職は決まってる。お前は賭け事に強いが、今回ばかりはハズレだな」
「それならそれでいいさ。新たな人生のスタートの祝い金にでもやるよ。ま、今度また飯行こうぜ」
仕事がある、と言って同僚はその場から去っていった。
シュヴァルと話しただけで名残惜しくて続ける、だなんてありえない話だ。シュヴァルは人の門出を祝える優しい子だ。そんな様子を見たところで、揺らぐどころか決意が固まるだけだ。
ただ一つの後悔は、もっと他に彼女に対して何かできたのではないか、ということだ。周りからいくら称賛されたところで意味はない。人生は相対評価ではなく絶対評価。彼女が望んだものだけでなく、より多くを与えてあげたかった。
ここを去ったとき、自分には何が残るだろうか。もちろんトレーナーとしての経験は残ったままだが、それが活かせる職業には就かないだろう。であれば、そうだな……野球をやってみたり、漁師なんかも面白そうだ。
よくシュヴァルと行った釣りは案外活かせるかもしれない。まあ、一本釣りは漁ではそう多くない割合だろうが。ここを辞めたところでシュヴァルとの関係が断たれるわけではない。
しかし、きっと今のシュヴァルにはたくさんの友達ができている。そしてこれから人生を歩んでいくなかで、いろんな出会いがあるだろう。手を貸すことは、やはり減るかもしれないな。
「ど、どうしたんですかトレーナーさん。急に用があるって…」
さて、そんなことを考えていたらシュヴァルが来たようだ。
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「やあ、シュヴァル。わざわざ呼び出してごめんね、忙しかったかな?」
「い、いえ。そんなことないです」
もう僕はトレーナーさんの担当ウマ娘じゃないのに、いつもわざわざ気にかけてくれる。でも、会って話したいことなんて今までなかったし。急に呼び出しなんてしてどうしたんだろう…
ま、まさかデートのお誘い……とか?いやいや、何を考えているんだ僕は。そんなはずないのに……今は話に集中しなくちゃ。
「実は、ここをやめることにしたんだ」
「え……?」
そう言われた瞬間頭が真っ白になったが、それでも思考を回し続けなければならないと、どうにか考えを巡らせる。
トレーナーさんが辞める…?もしかして、僕が嫌でトレーナーを続けるのがうんざりしちゃったのかな……
「ああごめん、話が急だったよね。別にこの仕事が嫌になったっていうわけじゃないんだ。でも、何か他のことをしてみたくなったんだ」
「そ、そうなんですか……」
僕のせいじゃないみたいでよかった、と思うと同時にトレーナーさんが新しいことを始めるなら応援しなくちゃいけない。でも、トレーナーさんがここを辞めると必然的に今より僕との関わりは薄くなる。だからこそ、応援できない自分がいた。
「シュヴァル以外の担当、っていうのもなんだかね。シュヴァルにはもうたくさん支えてくれる人間がいるでしょ?ヴィルシーナにヴィブロスはもちろん、キタサンやダイヤ、クラウンだって君の味方になってくれる。それに、君は随分強くなった。精神的な意味でね。だからこそ、君に俺はもう必要ない」
トレーナーさんが何を言っているのか一瞬わからなかった。確かに友達は増えたけど、だからといってトレーナーさんが不要になるはずがない。今でも僕にとってトレーナーさんは、誰より信頼できる人だ。
トレーナーさんが自分のために辞めるなら、僕は応援しなくちゃならないと思っていた。でも、トレーナーさんは僕にとって自分が不要だと思ったから辞める。それなら、僕は絶対にトレーナーさんを引き留めなくちゃならない。今まで伝えられなかった、ありがとうやごめんって言葉を。今、伝えなくちゃ。
「トレーナーさんはいつも僕より前を走って、そして導いてくれる。それが僕にとってどれだけ心強いかきっとあなたはわかってない」
「と、突然どうしたんだ」
「それでも、そういうところはすごく尊敬しています。でも、トレーナーさんが僕にとって不要だなんて勝手に決めつけるところは僕には理解できません。不要になるわけないじゃないですか。あなたは、僕に光を与えてくれた人だから」
「シュヴァル……」
顔が熱い。心臓の鼓動だって普通よりずっと早くなっている。それでも、ここだけは勇気を出さないといけないと直感的に、考えるまでもなく理解できた。
「ごめん、シュヴァル。君がそう思ってくれているなんて、思わなかったよ。すごく嬉しいな。君がまだ俺のことを必要としてくれているなんて」
「じゃ、じゃあ退職は撤回ですよね?」
「あはは、困ったことにもう退職届は提出しちゃったんだ」
「そ、そんな……」
「少し早まってしまったみたいだ、ごめんね。でも、別にここを辞めたってシュヴァルとの関係が終わりってわけでもないしさ」
ちがう、違うんですよトレーナーさん。それじゃあ、僕とあなたが会う頻度が減ってしまいます。そして、その間にあなたは僕以外の人と関わる。そしたら、もしかしたらトレーナーさんに彼女さんができちゃうかもしれない。
そんな不安を抱えていたものの、どうやったところでこれをトレーナーさんに伝える勇気はでなかった。
「な、なんとかならないんですか!?」
「うーん、書類で結ばれた契約を書類で解除するわけだし……」
「トレーナーさんが辞めちゃうなんて絶対に嫌です!」
「そ、そんなに?困ったなぁ……」
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困ったものだ。シュヴァルがそれを望まないとは全く思っていなかったし、行動は早いほうがいいと思って提出してしまった。
正直自分的にはいいと思うのだが、シュヴァルが嫌というのなら考える必要がある。
しかし、これに関してはどうしようもないかもしれない。
「きっと、最初に会ったときからそうだったと思う。君の風を切って駆け抜けていく姿に、どうしようもなく憧れていたんだ」
「えっ、あの……」
「ありがとう、シュヴァル。君と出会えたことは、俺にとってこの上ないほどに幸せだった。退職について少し、掛け合ってみるよ。でも、可能性は低いかもしれない」
「…………」
「諦めないことの大切さは、君に教えてもらったから。結果がどうであれ、次会うときは笑顔で会おう」
「ズルイですよ………」
シュヴァルに背を向け、理事長室へと向かった。
「退職を撤回するというわけにはいかないでしょうか?難しいことはわかっています。無責任で、本当に申し訳ないです。それでもやはり、諦めきれなくなってしまって」
「難題ッ!!一度受諾した事柄を撤回し、君の退職を取り消すのは実に難しいことだ。そのようなことが簡単にできてしまえば、これらは何の効力ももたないことになる」
「そう、ですか……やはり難しいですよね。すみません」
「しかし、それは君の退職を受理していた場合の話だ」
「え……?」
どういうことだ、まさか受理していなかったのか?いや、そんなはずはない。普通であれば退職後の手続きだってある。多忙な理事長がわざわざそんなことを後回しにするとは思えない。
「幸運ッ!!本来であれば君の退職は速やかに受理されるはずだった。私も悩みはしたが、君の覚悟に背くわけには行かない。しかし、君の同僚がわざわざここまで来て、2日間だけ猶予をやってほしい、と言ってきたのだ。君は彼に感謝しなければならないな。実に素晴らしい信頼関係だ」
「まさか、そんなことが……」
なるほど、賭けを仕掛けてきたのは単にシュヴァルの気持ちを見抜いたという話ではなかったわけだ。これはやられた。本当に狡猾で、気の利くやつだ。
「迅速ッ!!速やかに担当の元へ行ってやりなさい」
「ご迷惑をおかけしてしまい、すみませんでした。では!」
理事長室を軽やかな気持ちで出た。
「どうだ、賭けは俺の勝ちだろ?」
「そうだな、こればかりは認めるしかない」
「んじゃあ今度…いや、いつか飯奢れよな。シュヴァルグランと末永くお幸せに」
「いくらでも奢ってやるさ。感謝する」
俺は本当に良い同僚を持ったと思う。話したいことはもっとあるが、気持ちを抑え俺はシュヴァルの元へ走り出した。
「だ、大丈夫ですかトレーナーさん。息を切らして…」
「これくらい、なんてことはないさ」
「そ、そうですか。えっと……」
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どうしよう、どうしたらいいんだろう。あんなに安心できて、温かいトレーナーさんの言葉が。
今はどうしようもなく怖い。別れの言葉を聞くのが。
それを少しでも先延ばしにするために、言葉を紡いでいかなければいけないのに。言葉が浮かばない。出てくるのは、意味を持たない言葉とも言えない呟きだけ。
「えっと、退職の件なんだが」
「やめてください!え…あ、その……」
大声を出して、トレーナーさんの言葉を遮ってしまった。本当は分かってる。こんなことしても、意味がないって。どれだけ逃げ続けても現実はやってくる。
ならせめて、トレーナーさんが憧れてくれた僕に恥じないよう、動じないようにしなければ。
「ご、ごめんなさい。もう、大丈夫ですから……」
「本当に大丈夫?すごく顔色が悪いよ。具合が悪いなら別に今じゃなくても…」
「ほ、本当に大丈夫ですから。続きを…」
「そ、そう?じゃあ、言うね。実は俺、トレーナーを―――」
ああ、怖い。トレーナーさんとの別れが本当に怖い。でも、笑わなくちゃ。笑顔で見送るって、決めたから。
「続けることにしたんだ。実は受理されてなかったみたいで」
「え?いや、え……?」
「同僚が待つよう掛け合ってくれてたみたいでさ。いや、本当によかったよかった」
まだ動揺が収まらない。でも、本当に良かった。
「改めて君に誓うよ、シュヴァルグラン。俺たちは、これからもずっと一緒だ」
「ひゃ、ひゃいっ!」
トレーナーさんは、満面の笑みでそう言った。