エルフの集落のババア専 作:ジジイ
──口づけくらいは、できよう?
ヒルデガルトさんの目は逸らされなかった。俺の手を握る指にも、冗談にしては少々強すぎる力がこもっている。
本気なのか。それとも、からかわれているだけなのか。
確かめようとして彼女の顔を見るが、答えが書いてあるわけもない。ただ、淡い金の髪の下にある切れ長の目が、いつもの余裕とはどこか違う光をたたえて、真っ直ぐに俺を射抜いているばかり。
卓の上には、さっき閉じられた本と、冷めかけの茶が並ぶ。それだけの風景なのに妙に鮮明で、胸の奥が騒がしい。
おかしなもので、こういう時に限って余計なことを考えてしまうものだ。至近距離でヒルデガルトさんの顔を眺めていると……改めて、信じられない美貌だと思う。少し上向いた鼻梁も、薄い唇の輪郭も、切れ長の瞳の際まで、一つ一つが恐ろしいほど整っている。
この人が、とんでもない年数を生きてきた長老だなんて。見た目と中身のギャップが凄まじすぎて、たまに頭がバグりそうになる。
だが、今はそういう話ではない。
エルフリーデさんは言っていた。お主が他の者を口説こうとも、わしは構わぬ、と。若い者の行く先を縛りたくないのだと。そしてあの日、俺はエルフリーデさんと唇を重ねた。
それは嘘偽りなく幸せな瞬間で、今も鮮やかに覚えている。
ここでヒルデガルトさんと口づけをしたら、それは浮気のような何かになるのだろうか?
許されたからといって、何をしても心が痛まないわけではないだろう。
俺は──
「……」
黙ってしまった。
考えが纏まらない。纏めようとする頭と、目の前の人を悲しませたくないと叫ぶ胸とがまるで別の方角を向いているかのようだ。
その沈黙を、ヒルデガルトさんは見逃さなかったらしい。
「はぁぁ……」
芝居がかっていると言ってもいいほど、わざとらしい溜息だった。その一連の動作があまりにもゆっくりで、いっそ舞台の上の仕草のようですらある。
「やはりわしは……遊ばれていただけなのじゃな」
これはさっき俺がすぐに否定したことだ。遊んでなどいるわけがない。心の底から大好きだと、ついさっき伝えたばかりではないか。
だから、これはたぶん……試されている。
あるいは、からかわれているのかもしれない。あの会議の場でエルフリーデさんを煽っていた時のように、こちらの反応を楽しんでいるだけかもしれない。
しかし、わざとらしい言い方でも、わざとらしい溜息でも、そう言われると、胸の奥がぎゅっと掴まれるのだ。
遊ばれていたというその一言に、俺が想像するヒルデガルトさんの姿が重なる。一人で茶器を並べて、俺が来る前に本を脇へ置いて待っていてくれた人。それを、遊びだった、で済まされるのは嫌だ。
彼女に、そんな顔をさせたままにはしておきたくない。
例え、今のが演技だったとしても。
だから俺は。
「ヒルデガルトさん」
名前を呼んだ。すると彼女がこちらへ顔を向ける。伏せていた金の睫毛が上がりかけ、切れ長の目がゆっくりと俺を映す。
「……どうし──んぅ……」
その唇に、俺は自分の唇を重ねた。
触れた瞬間、ヒルデガルトさんの肩が微かに震える。驚いたのだと思った。あれだけ堂々と誘っておきながら、実際に来るとは思っていなかったのかもしれない。
だが、次の瞬間には、彼女の目は細くなった。薄く開かれた瞼の奥で、金色がかった瞳が、まるで長年待っていた獲物を捕らえたように光る。
そして……吸われた。
俺の唇を、ヒルデガルトさんが吸っていた。下唇を柔らかく挟み、引き寄せるように。軽い口づけのつもりが、あっという間にその形を失っていく。
気づいた時には、温かな舌が俺の口の中へ入り込んでいた。舌の先端が歯列をなぞり、俺の舌の裏側をくすぐるように這う。甘くはないのに甘いと感じてしまう不思議な感触で、頭の芯が溶けるような心地よさで一杯だ。
俺はいつの間にか自分からも舌を出していた。意識したわけではないと思う。彼女の舌に触れた瞬間、反射のように応えてしまったのだ。絡め取られ、こちらも絡め返し、互いの熱が混ざり合う。
さっきまで魔術の指導を受けていた部屋に、小さな水音が響き始めた。
「んむぅ……ぢゅるっ」
不作法な音だ。卓の上に並ぶ書物にも、水を受けた皿にも、到底似つかわしくない。なのに、ヒルデガルトさんはやめなかった。深く角度を変えて、もう一度。
繋いでいた手すらも、いつの間にか形を変えている。指と指が交互に噛み合い、隙間を埋めるように絡んでいたのだ。恋人繋ぎ、という言い方を前世では確かしていた。そんな知識が今さら浮かんでくるあたり、俺の頭はまだどこかで冷静なのかもしれない。
けれど身体は正直そのもので、空いた方の手がいつしか彼女の腰に回り、彼女もまた俺の襟元を指先で掴んでいる。互いの肩がぶつかるほど近づいた身体の境目が、もうほとんど分からない。
……濃い。
唇も、舌も、繋いだ指も、何もかもが生々しくて、それでいて、どうしようもなく心地いい。
時間の感覚が曖昧になる。
一分。いや、もっとだろうか。もっと短かったのかもしれない。テンプレ的なことを言い方をすれば、そうだな……ただ確かなのは、俺はその間ずっと、ヒルデガルトさんの温度の中にいたということだ。
──こん、こん。
「っ……!」
ヒルデガルトさんの肩が大仰に跳ねる。
繋がれた手も、唇も、その音を合図にして、ようやく離れた。
俺たちの口づけは、玄関の方から扉を叩く音が響くまで、ずっと続けられていたのだった。
本日は特別の2話投稿になります