エルフの集落のババア専 作:ジジイ
長い口づけの終わりは、玄関から響いた扉を叩く音がもたらした。
「……おる、おる。今、開ける」
唇が離れてからも、ヒルデガルトさんはすぐには俺から離れなかった。吐息の触れそうな距離で、わずかに伏せられた目がこちらを見ている。
しばらくして彼女は立ち上がると、俺に背を向けたまま言った。
「……言ったであろう。年寄りをその気にさせると、面倒じゃと」
「え……」
「今さら忘れたとは、言わせぬぞ」
俺が何かを返す前に、ヒルデガルトさんは部屋を出ていってしまう。足音が玄関へと遠ざかり、その姿が見えなくなってからも、俺はしばらく同じ方を見ていた。
長老会議の時にも、彼女は確かにそんなことを言っていた。あの時の俺は、てっきりエルフリーデさんに対する皮肉か何かだと思っていたのだ。若造に口説かれて取り乱す同輩を、面白がってからかっているのだと。
しかし、今の言い方は……
やばい、遅れて胸が騒ぎ始めてきた。
それに加えて、とんでもない口づけをしてしまった。あまりにも自然に始まって、夢中になっているうちに終わったものだから、その実感が追いついていない。今になって舌の奥に残る微かな違和感や、唇に残った熱ばかりが気にかかる。
茶でも飲んで落ち着こうとしたものの、取っ手へ伸ばした手は途中で止まった。
今は何を口にしても、先ほどの感触と比べてしまう気がする。
結局、俺は何も飲めないまま、玄関の方から聞こえる低い話し声に耳を傾けていた。
「入るぞ」
声がした直後、返事を待つ間もなく扉が開く。咄嗟にそちらを向くと、見覚えのあるエルフが立っていた。
「……ゲルトルートさん?」
そこにいたのは、顔の怖いエルフだった。もちろん、エルフという種族である以上、彼女も例に漏れずめちゃくちゃな美人。
だが、目つきがどうにもキリッとしすぎていて、本人は普通に見ているだけなのだろうが、視線を向けられた側は何か問い詰められているような気分になるのだ。加えて瞳の色が赤い。カラコンでも入れているのかと疑うレベルだが、彼女は正真正銘これが地色だ。
「……む。お前もいたのか」
「はい。お邪魔しています」
「そうか」
ゲルトルートさん。
以前、エルフリーデさんと話していた時にも名の出た剣聖である。長老ではないものの、彼女もまた凄まじい歳月を生きてきたハイエルフだ。つまり、こんな若々しい見た目をしていながらこの人もとんでもないおばあちゃんということになる。
「こやつには、魔術の特訓をつけておってな」
ゲルトルートさんの後ろから、ヒルデガルトさんも部屋へ戻ってくる。
聞かれる前に答える、というのは、聞かれたくないことがある時の反応ではないだろうか。
とはいえその声はもう普段と何も変わらない感じがする。先程まで俺と口づけを交わしていたとはとても思えない落ち着きぶりだ。
俺だけがまだ呆然としているようで、何だか悔しい。
「魔術か。お前が誰かに教えるとは珍しい」
「誰彼構わず教えておるわけではない」
ゲルトルートさんは頷き、ヒルデガルトさんへ顔を向けた。そこで、ふと眉を寄せる。
「……なんじゃ」
「……ヒルデガルト、お前からいつもより変わった匂いがする」
ヒルデガルトさんはその言葉に黙った。俺も黙ってしまう。ゲルトルートさんは無表情のまま俺の顔を一通り眺めると、赤い目をすっと細めた。
「……そういうことか」
何かに納得したらしい。
「やはり、私だけではなかったのだな」
「え?」
どういう意味だろう。尋ねようとしたところで、ヒルデガルトさんが一歩前へ出た。
「それで、ひとまず迎えはしたが……何をしに来た、ゲルトルート。まさか、わしの匂いを確かめるために訪ねてきたわけでもあるまい」
「ああ。そうだった」
ゲルトルートさんは、たった今思い出したように頷いた。
「あれは、はぐれ竜の討伐へ向かう前のことだ。今朝は最近気に入っているスープを食べようと思ったのだが、戸棚を開けると香草が切れていてな。別のもので済ませるか、採りに出るか迷っていたところへ討伐の知らせが来た。それで、帰りに採ればよいと思って──」
「……待て。お主は相変わらず話が長い。朝餉の献立はどうでもよい。ここへ来た用件だけを、簡潔に話せ」
「順を追わねば、分かりにくいだろう」
「その順を追っておったら、用件を聞く前に日が暮れるわ」
「……そうか」
ゲルトルートさんは難しい顔をした。
「……あーーーー。心の臓を……貫かれてしまってな。治してほしい」
えっ。
省きすぎじゃない?
「思ったよりもしぶとい奴だった。首を落とす前に一撃もらった」
「油断したか」
「否定はせん」
ヒルデガルトさんは、ゲルトルートさんの胸元を睨むように見つめた。つられて俺も見てみれば、衣服には特に目立った穴もなければ血の跡もない。顔色も悪くないし、立ち方にだって不自然なところはなかった。
「外傷はなし、か。表を抜けて内だけを穿つ類の攻撃じゃな?」
「その通りだ。防いだつもりだったが、芯まで殺しきれなかったらしい」
「お主ともあろう者が……珍しいのう」
「私としたことが、少々考え事をしてしまった」
そう言いながら、ゲルトルートさんは一瞬だけ俺を見た。目が合う。しかし彼女は何も言わず、すぐにヒルデガルトさんへ視線を戻した。今のは……
「竜を前にして考え事とは、随分と余裕があるではないか」
「返す言葉もない。ただ、塞いだままにしておくのも存外に疲れる。説教なら治した後にしてくれ」
「その状態で朝餉の話から始めた阿呆が、何を言うておる」
ヒルデガルトさんは小さく息をつくと、ゲルトルートさんの真正面に立った。
「動くでないぞ」
「ああ」
短いやり取りの後、ヒルデガルトさんが片手を上げる。次の瞬間、彼女の前方に巨大な光の円が現れた。
かなり大きい。人の背丈ほどもある光の円が幾重にも重なり、その内側を細かな紋様が埋め尽くしている。いわゆる幾何学的なやつ。
超かっこいい。
ていうか普通に無詠唱。
理解できる箇所を必死に追っているうちに、回る魔法陣は光の粒になって空気に溶け、いつの間にか消えていた。
「……お。治ったか」
ゲルトルートさんは胸へ手を当て、具合を確かめるように肩を回す。
「……見事に抜かれておったわ。あと少し深ければ、維持するのも難しかったぞ」
「そうか。次は気をつける」
「次があるような言い方をするでない」
長く生きていると、心臓を貫かれたくらいでは慌てなくなるのだろうか。
「しかし、他の者はおらなんだのか? ここへ来るまでに、治癒を扱える者の一人や二人はおったじゃろう」
「……いたことは、いた」
「ならば頼ればよかろう。わざわざ心の臓に穴を開けたまま歩いてくることもあるまい」
「私が急に訪ねれば、怖がらせてしまうだろう。怯えたまま術を使わせて、手元を狂わせては気の毒だ。お前ならばその心配もない」
「……気持ちは分かるがのう。そのくらいの時は、若い者にも頼っておけ。頼まれもせぬうちから遠慮されては、あやつらも腕を示せまい」
「別に腕を疑っているわけではない」
「ならば、それも口にしてやれ」
「……善処はする」
「何度目の善処じゃ、それは」
それにしても、怖がらせてしまう、か。立場だったり色々なことを気にして、わざわざ気の知れたヒルデガルトさんのところまで来たのだろう。心臓を貫かれた状態で。
そう思うと、つい口が動いた。
「俺なら怖がりませんよ、ゲルトルートさん。もし次があれば、どうか俺のところへもいらしてください。治癒はヒルデガルトさんほどにはできませんが、あなたのためなら温かいお茶くらいは……いつでもご用意します」
「茶で心の臓が塞がるものか」
即座にヒルデガルトさんからの指摘が飛んできた。さすがに今のは調子に乗りすぎたな。
ゲルトルートさんは何も言わなかったが、赤い瞳でじっと俺を見つめ、小さく息を吐く。
「……お前は、相変わらずだな」
怒っているのか、呆れているのか、それとも別の何かなのか。無表情なのでどうにも判別がつかない。
「では、私はさすがに疲れたので、これで失礼する」
用は済んだとばかりに、ゲルトルートさんが身を翻しかける。だが、一歩を踏み出す前に動きを止めた。
そうしてまた、俺を見る。
「……あー」
何か言いにくいことでもあるのか、言葉を探しているように見える。
「以前のことだが」
「はい」
「お前が、へそを出した格好を好むというのなら……また見に来るといい」
「えっ?」
「ではな」
それだけ言うと、今度こそゲルトルートさんは部屋を出ていった。
俺は閉じた扉を見つめる。その隣で、ヒルデガルトさんも同じ扉を見つめていた。やがて、ぎぎぎ、と音がしそうなほどゆっくり、彼女の顔がこちらを向いた。
「貴様……」
信じられないものを見る目、というやつだ。
「あやつに、何をした?」
「いや、その……」
「言え」
こうなっては、隠しても仕方がない。俺は以前ゲルトルートさんとの間にあった一件を、問われるまま素直に白状した。話を聞き終えたヒルデガルトさんは、こめかみを押さえ、深々と息を吐く。
「わしらのような老いぼれに……ああしておいてなんだが……やはり貴様の趣味嗜好は、まるで信じられぬな……」
「俺としては、皆さんがご自分たちを老いぼれだと思っていることの方が信じられませんけどね」
「そういうところじゃぞ」
睨まれてしまった。しかし、ヒルデガルトさんはそれきり黙り込むと、なぜか自分の腹の辺りへ視線を落とした。
「……へそ出し、か」
小さく呟き、衣服の上から腹部を撫でる。
「ヒルデガルトさん?」
「見るでない」
「まだ何も見えてませんよ」
「口答えをするな」
理不尽だ。
どうやら、ゲルトルートさんの来訪ですっかり流れが崩れてしまったらしい。あるいは、先ほどの口づけを思い出して、今さら気まずくなったのか。ヒルデガルトさんはしばらく落ち着かない様子で本の位置を直したり、とうに揃っている紙を揃え直したりしていたが、やがて観念したように口を開いた。
「……もう今日は、帰るとよい」
「そんな。俺はもう少し一緒にいてもいいと思うのですが……」
「むっ…………くくっ。どうやら、わしも少々取り乱しておったようじゃ。しばし落ち着く時間が欲しい、というわけじゃ。まさか、それすら断るまいな?」
「……そういうことなら」
残念ではあるが、無理に居座って嫌われてしまっては意味がない。
「分かりました。それも大事な時間ですからね」
「うむ。妙なところで聞き分けがよいのう、貴様は」
俺は大人しく立ち上がり、彼女に見送られて玄関へ向かった。扉の前で振り返ると、ヒルデガルトさんは腕を組んで立っていた。いつも通りの凛とした佇まい。
「本日もありがとうございました。教わったことは、しっかり復習しておきます」
「うむ」
「それと……今日のことも、しっかり覚えておきますね」
「……それは忘れてよい」
「無理です」
即答すると、ヒルデガルトさんは苦笑いしていた。
こうして俺は、素直に帰路についたのである。
──帰り際、組まれた腕からそっと彼女の手を取り、にぎにぎしたところ、馬鹿者、と額を小突かれたのは内緒である。耳が若干赤かったことも、まあ、内緒にしておこう。