エルフの集落のババア専 作:ジジイ
エルフリーデさんが俺の家に泊まるのが駄目なら、俺がエルフリーデさんの家に泊まればいいじゃない。
ふと、そんなことを思いついた。
あの日、泊まるのは駄目だと言われた理由は、嫌だからではなかった。若い男の家に長老が泊まっていたとなれば、何を言われるか分からない。それが困る、という話だったはずだ。ならば、訪ねる方と迎える方を入れ替えたらどうだろう。
まあそれで彼女が困らなくなるかどうかは、本人に聞いてみなければ分からない。妙案だと思っているのは俺だけで、何か見落としている可能性もある。
それでも、会いに行く理由が一つ増えたことは確かだ。
そういうわけで、俺はエルフリーデさんの家へ向かった。
長老たちの住まいは、集落の中でも分かりやすい。どの家も敷地に余裕があって、建物そのものも大きいのだ。木々の隙間にぽつぽつと屋根が見え、それぞれの家へ続く小道が大きな根を避けるように延びている。
そして俺の家から長老たちのいる辺りまでは、それなりに歩く必要がある。思えば、エルフリーデさんにはわざわざその距離を越えて来ていただいたのだ。帰りまで一人で歩かせてしまったことを思うと、今さらながら少し申し訳なくなった。
まあ、送ろうとはしたのだけれど。
二人並んでいるところを見られては意味がない、と言われてしまえば、こちらとしても引き下がるしかなかったのだ。
森の道を歩きながら、ふと見上げれば集落中央の大樹がそびえているのが見えた。集落の中心に立つこの木は、いつ見ても馬鹿みたいにでかい。幹の太さだけで何十人が手を繋いでも足りないだろうし、枝葉に至っては、見上げているうちに空との境目が分からなくなる。樹齢など、真面目に数え始めたらそれだけで一日が終わりそうだ
途中、それとは違ういつもの大樹の根元にも寄ってみた。エルフリーデさんの姿はない。いつも腰掛けている場所には、木漏れ日だけが落ちていた。
エルフリーデさんが我が家を訪れてから、まだ数日。
俺には、そろそろまた顔を見たいと思うだけの長さだ。しかし、彼女にしてみればついさっき帰ってきたくらいの感覚なのだろうか。何しろ、お年寄りほど次に会うまでの間隔が長い。先日、などと言いながら、平然と数ヶ月も前の話をされることだってある。
とはいえ、その感覚に合わせていては俺が先に干上がってしまう。会いたいものは、会いたいのだ。
あれこれ考えて歩いているうちに、見覚えのある家が木々の向こうに現れた。
俺は戸口へ上がり、扉を叩いた。少し待つと、家の奥から足音が近づいてくる。
そうして、扉が開いた。
「いったい誰じゃ、このような──……っ」
銀髪が揺れ、翠の瞳が俺を捉える。
エルフリーデさんだ。
自宅にいるからだろうか、いつもより少しだけ砕けた装いをしている。外で会う時の衣とは違った柔らかな色合いの普段着。髪はまとめずに流れるまま。あの耳飾りもつけていない。
そんな具合で現れたエルフリーデさんは、俺の顔を見るなり言葉を止めた。翠の瞳が一度大きくなり、ぎゅっと眉間に皺が寄る。
あれ。
何だか、むっとされた。
「こんにちは、エルフリーデさん」
「な、何じゃ、お主……今度はわしの家まで襲いに来たんか」
「違いますよ。あなたに会いたくて、我慢できなくなったんです」
「……っ。そうか」
エルフリーデさんの眉間の皺がわずかに緩む。けれど、すぐにそれも元に戻った。
「じゃが、わしがそちらへ行ってから、まだ幾日も経っておらぬぞ。何か、急ぎの用でも……」
「すみません。それでも、会いたかったんです。……駄目でしょうか」
「…………構わん」
お邪魔すること自体は許されたらしい。
とはいえ訪ねるには少し早かっただろうか。俺としては数日ぶりでも、彼女にとっては、余韻が落ち着く前にまた来たのかと思われている可能性もある。
まあ、追い返されなかったのなら十分だ。
「ありがとうございます。それと、今日は……できれば、泊めていただきたいと思って来ました」
「何っ」
今度は扉を握る手に力が入ったのが見えた。
「お主、泊まるのは駄目じゃと、あれほど……」
「はい。ですから、今日は俺の方から伺いました。こちらでも……ご迷惑でしょうか?」
「それは……じゃが、ここは……」
エルフリーデさんは俺の肩越しに、小道の方を見た。特に人影はない。
「……まあ、ここらを通る者は、そう多くもないしのう。わしがどこぞへ泊まりに出るのと、客を家へ置くのとでは、話も違う。部屋も、余っておることはおるが……」
何やら、一人で検討を始めた。これは思ったよりも望みがありそうだ。
そう期待しかけたところで、彼女は不意に口を閉じた。俯き、少し考えてから、胸の前で腕を組む。閉じかける扉を肘で押さえたまま、顔だけをこちらへ戻した。
その目が、また険しいもので。
「エルフリーデさん……?」
「……その前に、聞いておきたいことがある」
「はい」
「聞いたぞ」
それは低い声だった。
「お主が、ヒルデガルトと……口吸いを交わしたことじゃ」
瞬間、俺の背筋は自然と伸びた。
「……お聞きになったんですか」
「じゃから、聞いたと言うておるじゃろう」
片目を閉じ、ふん、と鼻を鳴らすエルフリーデさん。
顔を見た時から、どこか不機嫌そうだった理由が分かってしまった。
「確かに、他の者を口説いてもよいとは言った。わし一人のために、お主の心を縛るつもりもない。そこを今さら、なかったことにする気はないが……」
組んだ腕が少しだけ強く抱え込まれる。
「……それにしたところで、まるで昨日の今日ではないか」
「それは……」
「わしはまだ、あの日のことを……」
言いかけて、彼女は唇を結んだ。
先程、まだ数日しか経っていないと言われた時には、訪ねる間隔の話だとしか思っていなかった。だが、その同じ数日の間に、俺は別の人と口づけを交わしている。
エルフリーデさんが思い返してくれていた時間に、俺が何をしていたのか。そう考えると、許してもらっているから、などという言葉は、とても出てこなかった。
「……すみません。俺が、少し浮かれていました」
彼女はすぐには答えなかった。
俺の顔を見た後で足元へ視線を落とし、組んでいた腕も緩む。
「……じゃが。わしも、悪くなかったとは……思うておらぬ」
「エルフリーデさんも、ですか?」
「ああ」
エルフリーデさんは頷いてから、それきり黙ってしまう。待っていると、袖をつまんでいた指が布を少しずつ寄せ始めていた。
「わしは、その……あの日のことを、あやつに話してしもうた」
「……ああ」
ヒルデガルトさんも言っていた。エルフリーデさんから、俺とのことを聞いたのだと。
「ただ、話のついでに触れるだけのつもりじゃった。お主の家へ行ったので、どうしておったかと……そのくらいで、やめておけばよかったものを」
エルフリーデさんは顔を顰めている。かなり細かく思い出しているのか、言葉を継ぐたびに少しずつ耳が赤くなっていった。
「あやつが聞くので、つい、余計なことまで……お主が何を言ったとか、わしに、どう……接したか、とか」
「そうだったんですね」
「……じ、自慢を、したくなったのじゃ」
最後だけ、ひどく小さな声だった。
俺は何も言えなかった。あのエルフリーデさんが俺とのことを自慢したかったと言われて、嬉しくないはずがない。だが、今それを顔に出して良いのかどうかくらいはさすがの俺にも分かる。
「この歳になって、若い男にそのようにされたと、誰かに言いたくなってしもうた。……浅ましい話じゃ。長老が聞いて呆れる」
「俺は嬉しいです。あなたが誰かに話したくなるくらい、喜んでくださったのなら」
「……そういうことを、今、言うでない」
こちらを睨んだものの、その目には先程までの力はなくて。
エルフリーデさんは長く息を吐き、扉へ少し肩を預ける。
「……それに加えてじゃ。お主はヒルデガルトのやつのことも口説いておったじゃろう。あの長老会議の時から、いや、それ以前から」
「……はい」
「あやつも、悪い気はしておらなんだ。口では何を言うても、それくらいは分かる。お主が近づいても、離れぬ。手を取られても、振りほどかぬ。あれで本当に嫌がっておるなどと、わしが思うか」
言葉には、エルフリーデさんとヒルデガルトさんとの長い付き合いが滲んでいるように思えた。
「恐らく、受け入れても構わぬとは思うておったのじゃろうな。お主のような変わり者が訪ねてくるのを、あやつなりに楽しんでおったはずじゃ。ただ、わしとのこともあった故、どこかで控えておったのかもしれぬ。それを、わしの方から……」
エルフリーデさんが袖をつまむ手に、また力が籠っている。
「……自分だけ、よい思いをしたような顔で話して。あやつが何を思うかなど、考えもせなんだ」
「でも、それは、あなたが悪いという話では──」
「分かっておる。あやつとお主がしたことまで、わしが代わりに詫びるつもりはない」
そこはきっぱりしていた。
「じゃが、あやつだけを責めるのも違う。わしも、同じように浮かれておったのじゃからな。口吸いをしたと聞いた時は……ああ、余計なことをした、とも思うた。調子に乗って話したことが、こんなふうに返ってくるとはのう。……正直、それは。調子に乗ったわしの……自業自得に他ならぬ、と……思った」
「エルフリーデさん……」
「わしが黙っておれば、あやつはお主のことを、ただ懐かれておる若者としか見なかったやもしれぬ。それを、わしが余計なことを言うたばかりに……お主とあやつの間にある壁を、わしの方から取り払ってしまったようなものじゃ」
自分で言って、自分で苦い顔をしている。
「そして……あやつは、わしに謝ってきた。ヒルデガルトめ、律儀にな。あの女は昔から、妙なところで筋を通す」
少し間を置いてから、エルフリーデさんは続けた。
「故に、もうよいと言った。わしはお主の心を独り占めすると決めたわけではない。あやつにも、そう伝えてあった。それで、いざとなれば腹を立てて取り上げるなど……あまりに、勝手じゃろう」
「……それでも、嫌だったなら、俺には言ってください」
「……嫌だと思うことと、許さぬことは、同じではなかろう」
静かな声に、俺は口を閉じた。
「お主のように、何度も好いておると言われれば……悪い気はせぬものじゃ。もう誰からも、そのようには見られぬと思うておったところへ、綺麗だの、会いたいだのと……」
エルフリーデさんの視線が、俺の顔のすぐ横を通り過ぎる。
「本気にするなと言う方が、酷じゃろう。年甲斐もなく浮かれて、もう少し、と期待してしまうこともある。……わしのようにな」
最後の言葉に、胸が詰まった感覚がした。
自分が嬉しかったから、相手の気持ちも分かる。その分かった気持ちで、どうにか自分の不満を抑えようとしている。今のエルフリーデさんは、そんな風に見えた。
「じゃから、口吸いを交わしたことは……もうよい」
そう言って、彼女は一度、しっかりと頷いた。それはまるで自分にも言い聞かせるように。
しかし、次の瞬間。
「じゃがっ」
一際大きな声が飛んできたことで、俺は思わず再び背筋を伸ばした。エルフリーデさんは眉を吊り上げ、頬を赤くしていた。口を開きかけては閉じ、それでも言わずにはいられないという顔で、とうとう言い放つ。
「し、舌まで絡ませるなどっ……! そこまで進むのは、おかしいではないかっ!」
「……あ」
そこまで話したのか、ヒルデガルトさんは。
どうやら口づけを交わしたというだけの報告ではなかったようだ。あの後、エルフリーデさんへ謝りに行き、その時に詳しいことまで伝えたのだろうか。
どこを聞かれ、どう答えたのかは分からない。だが、かなり細かなところまで伝わっていることだけは間違いない。
「口吸いを許したとしてもじゃっ……あのような、深い、こ、濃い……っ、いかがわしい──わしには、あのように……少し、触れただけであったのに……あやつとは、そこまで……」
「そ、その……」
「……わしが、少しだけと言うたのは、覚えておる。それをお主が守ったのじゃから、責める筋ではないが……あやつの話を聞かされては、思うところも、ある」
俺にはどう答えればいいのか、すぐには分からなかった。許そうとしてくれているのは、本当なのだと思う。けれど、それとは別に、自分が知らない俺をヒルデガルトさんが知っていることがどうにも面白くないらしい。
もっと近づくことができたかもしれない。その場所に、他の人が先に行ってしまった。そういう悔しさまで、寛大な言葉と一緒に呑み込めるわけではないのだろう。
「……すみません」
「謝ってほしいのでは、ない」
返事は思ったより早かった。エルフリーデさん自身もそれに気づいたらしく、唇を結び直し、顔をいっそう横へ向けた。
では、どうしてほしいのか。その答えを探すように、彼女はしばらく黙っていた。
「……故に」
ようやく出てきた声は、先程よりずっと小さかった。
顔はやはり、こちらへ向くことはなく。横顔の頬も、髪の間から覗く耳も赤いのに、顎だけはほんの少し持ち上がっている。
「あやつにしたような……情熱の籠もった口吸いを、わしにも、してみせられるか。……お主には、それができるか?」
扉の前で、俺たちは向かい合っていた。
エルフリーデさんが組んでいた腕はとっくにほどけていて、片手が胸元の衣を握っていた。