エルフの集落のババア専 作:ジジイ
「エルフリーデさん。入りますね」
「……っ」
俺は返事を待たなかった。
待っていたら、きっと彼女は気を変える。もう駄目じゃ、やはりおかしい、わしは何を言うておるのか。そうやって自分を叱りながら扉を閉めてしまう。長い年月を生きてきた分だけ、ブレーキを踏むのも上手な人なのだ。
だから俺は、扉を押し開けてずかずかと中へ踏み込んだ。エルフリーデさんが一歩退いた分だけ、俺が一歩詰める。二歩目で彼女の手を取り、三歩目で廊下の壁へ背を預けさせた。
どんっ。
彼女の頭の横に、手をつく。
以前と同じだ。俺の家で、初めて口づけをした時と。あの時と同じように壁へ追い詰めて、同じように正面から見つめる。今日はその目を逸らさせるつもりはない。
「……お、お主……」
エルフリーデさんは自分から挑発しておきながら、目を見開いていた。翠の瞳を大きく揺らし、銀髪が壁に触れて広がっているのが視界の端に見える。胸元を握った指先など、見ているこちらが可哀想になるほどの震え方をしている。長い耳の先が真っ赤で、唇も半開き、呼吸さえ上手くできていない様子だった。
「お、お主、だから……待っ──」
俺は顔を近づける。
「待て……っ! 待て待て待て、やはりこのような……いかがわしいのは……っ」
彼女の唇が、最後の抵抗を並べようとする。
「駄目じゃ──んっっ!?」
重ねた。
触れた瞬間に分かったのは、彼女の唇が少し乾いていたことだ。緊張していたのだろうか。けれど俺の唇が触れた途端、その表面が柔らかくなって、ほんのわずかに開いた。
エルフリーデさんの目は閉じられていた。壁に背をつけたまま、身体中がブルブルと震えている。肩や膝、俺の胸元を掴んだ指先も。以前の口づけなら、ここで終わっていた。軽く触れて、少しだけ、と彼女が言ったところで離れて。
だが、今日は終わらせるつもりはない。
言い出したのは、エルフリーデさんの方なのだから。
ちゅっ……
まずは唇を押し付け合うだけ。角度を少しだけ変え、下唇を軽く挟んで、また合わせる。ちゅ、ちゅ、と小さな音が落ちた。
「んっ……ちゅっ……んちゅっ……んぅ……」
触れては離れ、離れてはまた触れる。俺だって、別に経験豊富なわけではないのだ。ヒルデガルトさんとした分と、エルフリーデさんの反応を見て手探りで学んだ分で、どうにか繋ぎ合わせている。
「んちゅっ……んぅ……」
唇の隙間から、エルフリーデさんの吐息が漏れ出した。鼻にかかった、甘い響きの息だ。俺の胸元を掴む指が、震えたまま引き寄せるように力を込める。それが何とも愛おしい。
だいたい二十秒、それくらい経った頃だろうか。さすがに呼吸が苦しくなり、俺は唇を離した。するとエルフリーデさんが即座に口を開いた。
「……ま、まずいぞ。こんなことは不道徳じゃ……あまりに……変態がすることじゃ、このような長い間、口と口を──んむっ!?」
彼女の抗議が最後まで形になる前に、もう一度唇を重ねた。しかも今度は、ただ触れるだけでは済まさずに。
唇を割るようにして、俺は舌先を差し入れた。奥にある柔らかなものを探る。
「んぅ……んちゅ…………っ!?」
驚いたのだろう。しかし、それは思ったよりずっと早かった。
俺の舌が彼女の口の中へ入り込んだ直後。ほんの一拍の間を置いて、向こうからも返ってきたのだ。おずおずと差し出された舌が、俺の舌先に触れる。驚くほど熱かった。柔らかく、おっかなびっくり動かすのに、俺の舌へきちんと絡んでくる。
「……………れぇ、れろ……んぅぅ……」
互いの舌が絡んだ。最初はぎこちなかった舌の動かし方も、力の加減も分からないままだが、ただ俺が動いた方へ遅れてついてくる。その不器用さが逆にたまらない。
「んぶちゅ、はむ……」
俺が舌を引けば追ってくる。押し込めば受け止めて、少しだけ噛むように挟んでくる。そのたびに口の中で粘膜と粘膜が擦れ合っているせいで、卑猥な水音を響かせてしまう。
俺は壁に手をついていない方の手で、彼女の手を取った。震える指を一本ずつ開かせ、自分の指を差し込んで絡める。恋人繋ぎ……そう呼ぶには少々生々しい握り方だったが、エルフリーデさんの指が俺の指をぎゅっと握り返してきた瞬間、もう離す気はなくなった。
「んれ……ちゅる……んんぅ……っ」
繋いだ手が熱い。
触れ合った唇の内側は、もっと熱い。
唾液が混ざっていた。どちらのものか分からない。俺の口の中にあるのが自分の唾なのか彼女のものなのか、もう区別がつかない。角度を変え、深さを変え、互いの輪郭を舐め取るように。唾液が自然と交換され、口の端から溢れそうになるのを、どちらかが啜って飲み下す。粘膜と粘膜が触れ合い、粘液が混ざり合う音が、玄関の静けさの中にやたらと響いた。
何かの交尾のようだ、と思った。二匹の生き物が口だけで繋がって、体液を交換して、まだ足りないとばかりに互いの中をまさぐっている。品のある行為ではない。だが、品などとうに関係のないところまで来ている。
「ぢゅるっ……んむぅ……ちゅぷ……んっ、ちゅっ……れろっ……んぅぅ……」
多分、5分は確実に続いていた。
それだけ長いのに、全然足りなかった。離せない。離してもすぐにまた塞がれる。キスという行為は色々な幸せホルモンが出ると聞いたことがあるが、それは本当なのだろう。ドーパミンやらで脳内麻薬中毒になりそうな感覚がある。
俺の手は壁から離れ、エルフリーデさんの腰を抱いていた。彼女の身体は壁と俺の間に挟まれ、背中が壁に押し付けられるたびに銀髪が擦れて乱れた。
そして気づけば、エルフリーデさんの腕は俺の首の後ろに回っていて。
……いつの間に。
壁ドンの体勢はとっくに崩れていて、俺は彼女を抱きしめ、彼女もまた俺にしがみつく格好になっていた。身体と身体が密着して、互いの衣越しに体温が伝わる。胸元が触れ、腹が触れ、太腿までが寄せ合わされる。
「んぅ……っ、ぢゅる、ちゅぷ……ん、んむぅ……っっ」
苦しい。酸素が足りない。舌を絡めたまま呼吸などできるわけもなく、唇を離しても次の瞬間にはどちらかの口が塞ぎにくる。仕方なく鼻で息を吸うのだが、それすらも互いの熱い吐息で奪い合うことになる。
はぁっ、はぁっ、と鼻から漏れる呼吸は、発情した動物の、交尾の寸前のような……そんな密度というか。お互いにただの雌雄のように荒い息を交わしている。
最後の方はもう、何が何だか分からなかった。舌と舌の境界が消え、ようやく、本当にようやく唇が離れた時。ありふれた言い方をすれば、本当に、互いの舌と舌の間に、唾液の橋がかかっていた。
細く透明に伸びて、途中でぷつりと切れて、どちらの顎にか落ちていく。普段なら汚いと思うほどの光景かもしれない。けれど俺たちにとって、それはもう些細な問題だ。
エルフリーデさんの腕は、ゆっくりと俺の首から解けた。背中が壁に預けられ、膝が少し折れる。俺が咄嗟に腰を支えていなければ、恐らくずり落ちていただろう。
翠の瞳は開いていた。……が、焦点が合っていない。
「……これは」
呆然とした声だった。
「これは、何じゃ……?」
「えっと……」
何と言われても。口づけですが、と答えかけて、俺は一度言葉を呑んだ。
エルフリーデさんの顔が真剣そのものだったからだ。長い長い年月を生きてきたハイエルフの長老だろうに、心の底から困惑した顔で、哲学的問いのようにそれを呟いている。
「何か、術を使うたか……?」
「使っていませんよ」
「では、わしは……自分で、あのように……」
エルフリーデさんの指が自分の唇へ触れた。濡れた感触を確かめてでもいるのか、指先が下唇をなぞっている。俺がその唇を蹂躙していたのだと思うと、多少なりとも興奮してしまう。
「……ものを考えるところが、途中から、留守になっておった」
「留守……?」
「何か考えようとはしたのじゃ。したはずなのじゃが……何を考えようとしたのか、もう分からぬ」
かなり困っているらしい。だが、それは俺にも覚えはあった。ヒルデガルトさんとの時には、その後で人が訪ねてくるまで、ろくに頭が働かなかったものだから。
「少し、座りましょうか」
「うむ……座る。そうじゃな。座るのは、よいことじゃ」
彼女は壁伝いにそのまま腰を落とした。腰を下ろしたエルフリーデさんは、しばらく膝の上の手を見つめていた。指を曲げ、伸ばし、握ってから俺を見る。
「お主は、平気なのか」
「……あまり、平気ではないです」
「……そうか。わしだけがおかしくなったのかと思うた」
「俺も、何を話せばいいのか分からなくなっています」
「それでよい」
「……いいんですか?」
「わしだけでは、困るからな」
何とも率直な言い方である。いつもならそこへもう少し年長者らしい理屈を重ねるはずなのに、それすら出てこない辺り、本人が言う通り、まだ考えるところが留守なのかもしれない。
俺が隣へ腰を下ろすと、彼女は自分の口元を片手で覆った。
「……しかし、おかしい」
「何がですか?」
「あのようなことが、あってよいのか。この世に。わしは、もっと……分別というものは、もう少し役に立つものじゃと……」
「まあ、実在する行為ですからね。可愛かったですよ」
「……忘れよ」
「それは……ちょっと難しいですね」
「では、覚えておってもよいが……わしの前で、言うでない」
「分かりました」
「他の者の前でもじゃぞ」
「ええ。二人だけのことですから」
「その言い方も、今は控えよ……」
どんどん注文が増えていく。俺はしばらく彼女が落ち着くのを待ち、どうにか言葉を選んだ。
「……とにかく。あなたのお気持ちには、応えられたでしょうか」
「う、うむ……?」
エルフリーデさんが顔を上げる。何の話だったか、と言いたげに眉を寄せ、少しして本題を思い出したらしい。
「ああ……わしが、できるかと……そう、言ったのじゃったな」
「はい」
「……確かに。お主は、やってくれた」
俺は少しほっとした。だが、彼女の顔にはまだ何か考えているような色が残っているのが気にかかる。
しばらくして、その眉間へ皺が寄った。
「……待て」
「はい?」
「ヒルデガルトのやつは……あのようなことをした後でわしに、あの顔で……」
何か思い当たったようだ。エルフリーデさんの肩が、また震え始めた。
「あれほど落ち着いておったのは……いや、あやつも家へ帰ってからは……?」
黙っている俺の隣で、エルフリーデさんはとうとう両手で頭を抱える。
「自身も枯れ枝がどうのと言っておったくせにっ……舌を絡ませるなど……! ヒ、ヒルデガルトのやつ……なんという、すけべな婆じゃ……!」
そう言い切ってから彼女ははっと顔を上げ、
「……わしも、か」
と、口元を歪めていた。そして、舌で唇をぺろりと一度だけ舐めるエルフリーデさんが、そこにはいた。
残り2話で最終回になります