エルフの集落のババア専 作:ジジイ
そうして、待ちに待った翌日。
普通に快眠だった。
もちろん楽しみではあったのだ。寝る前にも、明日はエルフリーデさんがこの家に来るんだなあ、と何度も考えたし。ただ、普段は見ないふりをしている場所まで掃除して、客用の茶器を引っ張り出し、椅子に積んであった荷物を片付けていたら思いのほか疲れたのである。横になった次の瞬間には朝だった。
おかげで体調はすこぶるいい。身支度もお茶の準備も済ませ、あとは彼女をお迎えするだけ。
そうして約束の時刻より少し早く、控えめな音が扉を叩いた。
「邪魔をするぞ」
そう言って玄関に立ったエルフリーデさんを見て、俺は用意していた挨拶を忘れた。
銀の髪が、いつもと違う形にまとめられているのだ。普段は肩などに自然に流している髪を、今日は両側とも後ろへ緩く寄せ、細い組紐で留めていた。その分だけ頬の横がすっきりして、長い耳の付け根までよく見える。淡い色の衣の襟元にも、見覚えのない繊細な刺繍があった。
別人のように着飾っている……というわけではないけれども。いつも見ている人だからこそ、その少しずつの違いに目を奪われる。
「……いつにも増して、お綺麗だ」
「世辞はよい」
「本当です。……困ったな。ようこそ、と申し上げるつもりだったのに、あなたのお顔を見たらそれどころではなくなってしまった」
エルフリーデさんは呆れたように俺を見上げた。その視線はすぐに俺の肩を越え、家の中へと向く。
「……戸口でいつまで喋らせるつもりじゃ」
「ああ、すみません。どうぞ。……それに今日は、耳もよく見えますね」
「……」
彼女の指が片方の耳のそばへ上がった。触れるかと思ったら、途中で止まる。結局、耳の前に残っていた細い髪を撫でただけでその手は下ろされた。
そして、髪の間で小さな光が揺れる。
耳飾りだ。銀の、葉をかたどった細工の下に、淡い緑の石が一粒。顔の向きが変わると光を透かし、白い肌の上へ仄かな色を落とす。
へえ。
エルフリーデさんが、アクセサリーを。
もっとよく見たいところだったが、いつまでも玄関に立たせておくわけにもいかない。俺は扉を大きく開け、彼女を中へ招き入れた。
家の中はそこそこ広い。一人で暮らすには持て余す部屋もあるくらいだが、荷物が増えた時には助かる。もっとも、空いているところへ置いていく癖がつき、その結果として昨夜の大掃除が必要になったわけだが。
今日はちゃんと片付いている。座ってもらう長椅子にも卓の上にも。余計な物は何一つない。
「こちらへ。日差しが強ければ、掛け布を下ろしますので」
「いや、このくらいでよい」
エルフリーデさんは椅子の前で一度足を止め、それから裾を整えて腰を下ろした。膝の上へ両手を重ねる仕草は、いつも通りに落ち着いているもの。
しかしその目は少し忙しかった。窓際の棚を見て、卓を見て、奥の部屋へ続く戸口を見る。俺と目が合うと、何でもないように正面へ戻した。
「……お主の家は、色々あるな」
「旅先で買ったものが、そのまま増えてしまいまして」
「なるほど。あれもか」
彼女が目を向けたのは、壁際に立て掛けてある剣だった。鞘に収めてはいるものの、柄の革には使い込んだ跡が残っている。すぐ横には旅用の外套と、今はほとんど出番のない背嚢。
「剣など、エルフの中では珍しい」
「ああ。しばらく、冒険者をしていたんです」
「ほう、冒険者か」
エルフリーデさんの目に、今度ははっきりと興味が浮かんだ。
「この森から出ておったとは。昔から好奇心旺盛なのじゃな」
「ええ。見たことのないものを見てみたくて。気になるものには昔から弱いんですよ」
「それは、今のお主を見ておれば分かる」
こちらを見る目がわずかに細くなる。俺は笑って、お茶を注いだ。
そう。実は俺は結構な期間、冒険者のようなことをしていたのだ。
魔術があって、見たことのない生き物がいて、そういうものと関わりながら暮らしていく職業まである。エルフに生まれたことにも大いに浮かれたが、森の外の話を聞けばそちらにも当然、興味が湧いた。
なので、集落を出た。あちらこちらを見て回り、色々経験してから、またここへ戻ってきたのである。
ちなみに、エルフリーデさんに一目惚れしたのは帰ってきてからのことだ。集落と言っても、端から端まで見渡せるような規模で済むはずもなく。住居は広い森の中に分かれて建っているし、俺が以前暮らしていた場所は、長老たちが普段いる辺りから離れていた。名前は知っていても、間近で顔を合わせたことはほとんどなかったのだ。
それが、帰ってきてみればあの大樹の下にこの人がいた。
あとはまあ、ご覧の通りである。
「知らぬ間に、色々と経験しておったのじゃな」
「お聞きになりたいことがあれば、何でも。少々格好のつかない話も混ざりますが」
「そちらのほうが面白そうじゃ」
「では、笑っていただける話から。あなたの笑顔が見られるなら、昔の俺の失敗も報われます」
彼女は小さく鼻を鳴らした。
俺はその隣へ腰を下ろす。向かいの椅子も空いていたが、折角家に来ていただいたのである。ここで距離を取る理由はない。
エルフリーデさんは俺が座るのを横目で見て、茶器へ息を吹きかけた。湯気の向こうで、また耳飾りが揺れる。
やっぱり綺麗だな本当に。少し顔を向けてくれるだけで見惚れてしまう。
「ところで、エルフリーデさん」
「何じゃ」
「そのイヤリング、とてもよくお似合いです。あなたの瞳の色に似ていて……顔を見るたび、どちらを眺めていればいいのか迷ってしまいますね」
「っ……気づいたか」
「もちろん。玄関でも見惚れていたんですが、ゆっくりお伝えしたくて」
彼女の指がそっと耳飾りに触れる。石の揺れを確かめるように、下から一度だけ支えた。
「……昔から持っておるものじゃ。大した品ではない」
「では、こんなに素敵なものを今まで隠していらしたんですね。今日見せていただけて光栄です」
そう言うと、エルフリーデさんの目元が緩んだ。ほんの少しだが、確かに緩んでいる。俺がその変化を見逃すはずもない。
そうして髪を耳の後ろへ撫でつけるものだから、もしかして、と思う。
「まさか……玄関でちゃんと褒めなかったので、少し気にしてくださっていました?」
「……そんなわけがなかろう」
また髪を撫でるエルフリーデさん。そこはもう最初から綺麗にまとまっているんだけどなぁ。
「ただ、久しく使っておらなんだから、妙ではないかと思っただけじゃ」
「妙どころか、あなたをお迎えする日が俺にとってますます特別になりました」
「大げさな……」
「でも嬉しいなあ。今日、それを選んでくださったのは少しくらい俺のためだと思っても?」
エルフリーデさんは答えずにお茶を一口飲んだ。ゆっくり飲み込んでから、茶器の縁へ目を落とす。
「ふん。都合のよい方にばかり捉えおって」
否定はされなかった。俺は今のところを、しっかり覚えておこうと思う。
実際、彼女がこうした飾りをつけているところは初めて見た。髪だって、いつもより丁寧にまとめられている。玄関では驚いてばかりいたが、もしかすると出掛ける前に鏡を見てあれこれ考えてくれたのかもしれない。
あのエルフリーデさんが。
俺の家に来るために。
……嬉しいなあ。
「それに……」
不意に彼女が呟いた。
「この歳にもなって、耳飾りなどこのようなことをするのは、少し……」
「少し?」
こちらを見た翠の瞳がすぐに逸れる。長い耳の下で、緑の石が小さく揺れた。
「……言わせるな」
静かな声だった。
俺は危うく、顔を緩めすぎるところだった。……いや、たぶんもう緩んでるなこれ。
普段ならこちらがいくら褒めても口ばかり達者な若造だと受け流す人なのに、今日は自分でつけてきた耳飾り一つに少し困っているようだ。
「では、代わりに俺が言います。今日のあなたに、また惚れ直しました」
「……何度惚れれば気が済むのじゃ」
「あなたが会ってくださる限り、何度でも」
エルフリーデさんは何か言おうとした。だが、結局は諦めたらしい。茶器を卓へ戻し、またもやゆっくりと息を吐いた。
その手が膝へ帰る前に、俺は下からそっと受け止める。
「……む」
一度、こちらを見る。手を引かれなかったので、そのまま両手で包ませてもらった。
今日はお茶の温もりが残っている。細い指を軽く握ると、彼女の指先も少し曲がり、俺の手のひらに収まった。
にぎにぎ。
ああ、落ち着く。落ち着くのに、嬉しくて、もっと近づきたくなる。
最近、このスキンシップがすっかり欠かせなくなっていた。もちろん、許してもらえる時だけだが。幸い、今のところ手を取り上げられることはあまりない。
「……相変わらず、美しい手だ」
「またそれか」
「ええ。何度見ても慣れないものですね。こうして握らせていただくたび、大事にしなくてはと思います」
長椅子の上で、少しだけ身体を寄せる。袖が触れると、彼女の肩がわずかに動いた。
けれど、離れてはしまわない。俺の手を見下ろしたまま、空いている方の手で衣の裾を整える。
「……そういう歳ではないと言っておるじゃろうが」
「本当のことを申し上げているだけですよ。お綺麗ですし、愛していますし」
「…………」
返事を途切れさせたエルフリーデさんが俺を見る。何か言いたげな顔でしばらく見つめた後、そっと目を伏せた。
空いている手が今度は前髪へ伸びる。指先で一筋すくい、横へ流す。流した髪が気に入らなかったのか、もう一度同じところを整えた。
別に乱れてはいない。さっきからずっと綺麗なのだが。
「……そういう言葉を、軽々しく……」
「あなたには黙っているほうが難しいんです。今だって、本当はもっと申し上げたいことがありますから」
「もうよい。……十分に聞いておる」
叱るつもりだったのだと思う。ただ、最後の方は声が小さくなり、俺の手に預けられた指も少しだけ握り返してきた。
十分、と言われても、まだ足りない気がしているのは俺だけなのだろうか。
顔を覗き込むと、彼女は目を逸らした。その際、袖だけではなく肩までそっと触れ合う。
「──これでは、睦み合いではないか……」
「はい?」
「何でもない」
聞き返した途端、エルフリーデさんは背筋までぴんと伸ばした。
本当に、全然聞こえなかったのだ。エルフは多少耳がいいとはいえ、さすがにここまで小さく呟かれると分からない。今なら難聴系主人公の気持ちも少し分かる。聞きたくないわけではないのである。むしろ、相手の言葉なら一つ残らず聞いておきたいくらいなのに。
もう一度尋ねようかとも思ったが、エルフリーデさんは、これ以上は聞くなと言いたげな顔をしていた。なので、そこは諦める。代わりに、握らせてもらっている手を、少しだけ持ち直した。
「……さて。今さらですが、ようこそ、エルフリーデさん」
「うむ……」
「あなたが座ってくださるだけで、見慣れた家がこんなに違って見えるんですね。今日はどうかゆっくりしていってください」
翠の瞳が俺へ戻ってくる。彼女は何かを言いかけ、ほんの少し唇を緩めた。
それを見たら、つい、嬉しくなってしまった。
「イチャラブお家デートですね!」
「イチャラブ……」
口の中で、確かめるように繰り返す。それからエルフリーデさんは、こほん、と小さく咳払いをした。俺に握られていない方の手を持ち上げ、またもや前髪を整える。
「……わしは、茶を飲みに来たのじゃが」
「ええ。ですから、こうしてお茶を飲みながら、あなたを口説かせていただこうかと」
「しょうのない……」
呆れたように言って、彼女は顔を背けた。
耳飾りが揺れる。よく見えるようにまとめられた髪のせいで、口元を隠すものは何もなかった。
少しだけ……笑っている。
俺がそれに見惚れていると、彼女は気づいたように唇を引き結んだ。そして、何も言わずに茶器へ手を伸ばす。
ただし、繋いでいた方の手はそのままだった。少し取りにくそうにしながらも、わざわざ遠いほうの手で茶器を持ち上げていた。