エルフの集落のババア専 作:ジジイ
俺は頷きを見た瞬間に、脳内麻薬がドバドバ出るのを自覚した。
何だこれは。
たった一度顎が小さく動いただけのささやかな動きなのに、胸の奥から湧いてくるものが止まらない。今なら窓から見える木の枝一本にまで、ありがとうと言えてしまいそうなほど。
エルフリーデさんが、頷いた。
俺のことが好きかと聞いて、頷いてくれたのである。
思わず跳び上がって喜びそうになるかと思いきや……妙に冷静になってきた。どうやら喜びが大きすぎると、逆にどう扱っていいか分からなくなるようだ。とりあえず、この手の中にある細い指を、間違っても強く握りすぎてはいけない。それだけは何とか理解できた。
「エルフリーデさん……嬉しいです。俺たち、両思いだったんですね」
「……」
返事は無かったが、繋いだ手に一度だけ、ぎゅっと力がこもる。
それだけでもう、十分すぎて。
俺は彼女の指を最後に軽く撫でて、手を離した。するとエルフリーデさんは、己のその手を胸元へ引き寄せる。もう片方の手で包み込んだかと思えば、ますますこちらから顔を背けてしまった。
おかげでもはやその頬すら見えない。肩も膝も向こうへ向け、俺の方に残っているのは、銀髪の流れる背中と赤い耳だけ。
「……エルフリーデさん?」
「…………」
少し、俯いているように見える。
そして、その肩が小さく震えた。笑っているのかと思ったが、どうも違うらしい。彼女は長い息を吐き、両手で顔を覆うような仕草をした。しばらく、そのまま。
俺も黙って待っていると、ようやく声が漏れた。
「……わしは、最低じゃ」
「最低、とは」
促してみても、すぐには返事がない。
先ほどまで、この世にこんな幸せがあっていいものかと思っていたのだが……隣ではどうやらかなり違う結論へ辿り着いているようだ。
とはいえ、ここで慌てて否定しても、何がどう最低なのか分からない。なので俺は、彼女が次の言葉を出すのを待つことにした。
ほどなくして、エルフリーデさんの手が顔から離れた。そのまま両耳の先を軽くつまみ、すぐに離す。熱を確かめたのかもしれない。続いて衣の襟元辺りを整え、髪を撫で、それからまた両手を膝があるであろう場所に揃えた。
ちなみに何一つ乱れてなどいなかった。何かを整えていないと落ち着かないのだろうか。
「……お主のような、若者に」
「はい」
「わしは……その、好意を……抱いてしまって……あまつさえ、それを、認めるなど……」
言葉は随分と途切れ途切れなものだった。
ただ……なんというか、申し訳ない。俺は今、エルフリーデさんが口にした好意を抱いてしまって、という部分ばかりを噛み締めている。
やっぱり、そうなんだ。頷きを見間違えたわけでも、都合よく解釈したわけでもなかったのだ。
やばいな。嬉しすぎる。
「いえ、俺はとても嬉しいですよ。できれば、そのお顔も見せていただきたいんですが。今のあなたを……きちんと覚えておきたくて」
「無理じゃ」
そこだけは結構早い返事だった。
「……なぜでしょうか」
「……不徳じゃ。分別もなく、年甲斐もなく……わしは本来、諭す側であって……このような、罪作りな……」
「はい……?」
ぼそぼそと小さな声が続く。まるで自分で自分を叱っているような調子だ。
「……わしは、老人なのじゃぞ。人の世ならば、とうに昔話の中に入っておるような……それほどの年月を、生きておるのじゃ」
「ええ」
「ええ、ではない。お主には、その意味が……」
そこでまた言葉が止まる。俺は背けられた顔を無理に覗き込まず、静かに返した。
「その長い年月を生きてきた、エルフリーデさんが好きなんです。昨日も今日も、俺がお会いしたかったのは、あなたですから」
「……っ」
偽りない本心からの言葉を伝えてみせると、エルフリーデさんの肩がぷるぷると震えた。そうして、またもや長い息。今度は片手で胸元を押さえるような動きをみせ、何かを鎮めるようにゆっくりと息を吐いている。
……今のも、良くなかったのだろうか。だが、他に言いようがない。俺が好きなのはこの人で、歳が若ければなお良かった、などと思ったことは一度もないのだから。
しばらくして、エルフリーデさんがぎこちない動作で少しずつこちらを向いた。先に肩が戻り、それから顔。その頬はやはりとても赤い。さっきより落ち着いているのは姿勢だけであり、耳の先まで染まっている。
一瞬、こちらと目が合う。しかし翠の瞳はすぐに伏せられ、それきり上がってこなくなった。
「わしは、わしは……」
「ゆっくりで大丈夫ですよ。あなたのお話なら、いつまでも聞いていたいので」
「そういう……ことを、今、言うでない……」
声がまた小さくなる。
俺は口を閉じた。今日に関しては黙って待つことも覚えた方が良さそうだ。
エルフリーデさんは膝の上で指を組み、一度解いた。そして意を決したように、背筋を伸ばす。
「……長老として、若い者の行く先を見守るべきわしが、お主のような者に、抱いてはならぬ感情を抱いてしまった」
「とても嬉しいです」
「よくない……!」
顔が勢いよく上がりかけ、途中で止まる。
「そう、嬉しい嬉しいと……少しは、困らぬか」
「そこはご期待に添えそうにありませんね」
微笑みながら答えると、彼女は唇を結んだ。何か言い返したかったらしいが、すぐには出てこない。その間にも、頬の赤みが薄れる様子はなかった。
「……わしは、申し訳ないのじゃ。お主に」
「俺に、ですか?」
「そうじゃ。お主には、まだ見ておらぬものも、出会っておらぬ者も、いくらでもある。これからいかようにも生きていける若者を……わしのような枯れ木の傍らへ、座らせておくなど……」
エルフリーデさんの膝の上の手が小さく握られる。
「わしが喜ぶというだけで、お主の時間を使わせるわけにはいかぬ」
ああ……そういうことなのか。
目の前の彼女は、頬を赤くして俯いている。それでも、長い間この森の者たちを見守ってきた長老でもあるのだ。自分が嬉しいからそれでいい、と簡単には済ませられないのだろう。
そして、今、喜ぶと言ってくれた。俺はそこもしっかり聞いている。
「でも、俺も喜んでいるんですよ。あなたに時間を割くことが、俺にとっても幸せなんです」
「じゃから、それを、今だけの気持ちで……」
「少なくとも今日、俺が一番過ごしたかった時間は、今この時間です。あなたがここにいてくださる。それ以上にしておきたいことは、ありません」
「こ、この……!」
何と言おうとしたのかは分からない。結局、その先は声にならず、エルフリーデさんはまた顔を伏せた。肩が少し震え、長い息が吐き出される。
今日だけで何度、この動きを見ただろうか。たぶん、自分を落ち着かせるためにはこれが一番いいのだろう。
もっとも、あまり落ち着けているようには見えないけれど。
ほどなくして、彼女は組んだ指をゆっくりと緩めた。
「……分かった」
「何を、でしょうか」
「お主が……そう言うのであれば、わしも、いつまでも……」
語尾が消えるが、今度はそのまま黙ってしまわなかった。膝の上へ視線を落とし、背筋を伸ばしたまま、彼女は小さく唇を動かす。
「わしは…………お主を、好いておる」
お。
……おお?
い、今のはちょっと、さすがに脳味噌が大変なことになったぞ。
落ち着いてくれ俺の報酬系。まだ彼女が何か言おうとしている。ここで喜びに浸りきって聞き逃すのだけは絶対に駄目だ。
「じゃが……!」
「はい」
エルフリーデさんがようやく顔を上げた。ただし、目が向いているのは俺の顎の辺り。頬は赤いままだが、何とか長老らしい顔を作ろうとしているように見える。
「これは……秘密にしておいたほうが、よいと思う」
「秘密、ですか」
「うむ。わしとお主が、その……互いに、想いを……」
そこで一度口元を手で覆うエルフリーデさん。好きだとは言えても、二人の関係を説明するのはまた別に恥ずかしいみたいだ。
「……通わせておると、知れるのは。さすがに、その……よくは、なかろう」
……まあそれは、正直、分かる。
俺の目には、エルフリーデさんはどうしようもなく綺麗な人だ。しかし集落の人たちから見れば、ずっと昔から長老を務めているおばあちゃんと、比較的若い男なのである。
先日の会議で、男性の長老から向けられたあの何とも言えない顔を思い出す。あれが、あちこちで再現されるわけだ。
エルフリーデさんとしても、長年顔を合わせてきた相手に、そしてその他の者たちにまで今さら何をしているんだと言われるのは、さぞ困るだろう。まして、それで俺まで妙な目を向けられることを気にしているらしかった。
「……故に。人前では、これまで通りにしておけ」
「分かりました。あなたが安心してくださる形で」
「誰彼構わず、浮かれて今日のことを話したりするでないぞ」
「ええ。大切にしまっておきます。……では、二人でいる時は?」
聞けば、エルフリーデさんの視線がすとんと落ちた。
少し、間が空く。そのせいか、窓の外で葉が擦れる音が妙によく聞こえた。
「………………構わぬ」
俺はたまらず笑ってしまった。
「嬉しいですね。あなたと二人になれる時間が、ますます待ち遠しくなりそうです」
「っ……だから、そう……すぐに……」
彼女は眉間をつまんで目を閉じ、ゆっくり息を吐く。
叱られているはずなのに、ちっとも嫌な気分にならない。むしろそんな顔まで見せてくれることが嬉しくて、どうにも困った。
「……まだ、話は終わっておらぬ」
「はい。お聞きします」
「それと、お主は……気持ちは、嬉しいが……やはり、わしだけに時間を割くべきではない」
今度は嬉しいと、はっきり言ってくれた。
俺がそこに反応する前に、エルフリーデさんは続ける。どうも、一度止まったらまた言えなくなると思っている感じがする。
「色々なものを見よ。経験を重ね、己が何を好み、どう生きたいのか、もっと知ってゆけばよい。わしの相手をするために、それらを諦めることはない」
「これでも結構、色々と経験してきたつもりではあるんですが」
「それでも、じゃ」
その一言だけは、長老の声だった。
「これで十分、などと決めるには、お主はまだ若い。わしがこれまで生きてきた時間を思えば……お主の前には、まだ、いくらでも道がある」
「……はい」
そこは素直に頷くほかなかった。彼女から見れば俺の旅など、ほんの短い散歩のようなものなのかもしれない。
エルフリーデさんは膝の上で指先を揃えた。次の言葉までには、それまでより少し長い間があった。
「故に、お主が……他の者を口説こうとも」
「え?」
「……わしは、構わぬ」
ああ、それまで。
俺が驚いていると、彼女はますます背筋を伸ばした。今度こそ長老として言い切ろうとするように、顎を少し上げる。
「わしには、長い年月を生きてきたという自負がある。若い者に分別を説いておきながら、いざ己に関わることとなれば、相手の心も時間も独り占めしたいなどと……それでは、示しがつかぬ」
「ですが……」
「一人の若者のこれからを、わしの都合だけで縛ってよいものではない。……そう、思うのじゃ」
最後だけ、声が少し柔らかくなった。
衣に置かれた指先が小さな皺をつまんでいる。顔はきちんと上げていたが、目は中々俺を見なかった。
俺は少し考えてから、口を開く。
「そう言っていただけるのは、ありがたいんですが……俺ばかり都合よく甘えているようで申し訳ない気もしますね」
「……わしを口説きつつ、他のハイエルフにも言い寄っておったではないか」
「そ、それは確かに」
正論すぎて返す言葉がない。
俺が若干動揺していると、エルフリーデさんは小さく鼻を鳴らした。
「今になって、殊勝な顔をするでない」
「すみません」
「……まったく。謝らせるために言うておるのではないわ」
呆れたような声だった。そこには少しだけ、いつもの余裕が戻っている。
けれど、それも長くは続かない。
エルフリーデさんの目が俺へ向く。顎は引いたまま、上目遣いにこちらを窺っていた。
「とにかくそれは……許す。故に……ゆ、ゆえに……」
「エルフリーデさん……?」
「……途中で、口を挟むでない」
「はい」
叱る声は小さかった。彼女はまた目を伏せ、何かを確かめるように、ゆっくりと息を吸う。
「人前では、その……節度を、守っておれば……」
そこで止まるエルフリーデさん。
俺は待った。今度はこちらから言葉を足さない。彼女が何を言おうとしているのか、最後まで聞きたかった。
エルフリーデさんが、もう一度だけ俺を見る。その目が合ったのは一瞬で、すぐに膝の上へ逃げてしまった。
「そして……ふ、二人の時は……その……」
耳飾りが揺れる。頬に差していた赤みがまた一段、濃くなった。
「え、遠慮せずとも………………よい」
言い終えた途端、彼女は顔を背けた。肩まで一緒に向こうを向いてしまい、銀髪の流れる背中が見える。
その背中は、少しだけ震えていた。
長老としての申し渡しはどうやら、そこまでだったらしい。膝の上で両手をきつく重ねるような動きを見せ、長い息を吐く彼女の耳は、今日一番と言ってもいいくらいに真っ赤だった。