エルフの集落のババア専 作:ジジイ
「……泊まるのは、駄目じゃ」
そう言われたのは、食事を終え、少し経ってからのことだった。
少し、時間を戻そう。
二人の時は遠慮しなくてもよい、と。あれほど可愛らしい許可をいただいた俺がそのまま大人しく座っていられるはずもなく。そっぽを向いてしまったエルフリーデさんを、後ろから抱きしめたのだ。
「ひゃっ……!」
肩が跳ねた。それはもう、見事なくらい。
長椅子に座ったままだったので、少々抱きしめにくくはあった。それでも、腕の中に収まってくれた銀髪の長老は逃げなかった。
「お、お主……言うたそばから……!」
「ええ。お言葉が嬉しくて、これ以上離れていられなくなりました」
「少しは、間というものを……わしにも、落ち着く暇を……」
そんな小言を言いながら、彼女は俺の腕に指を添えた。辞めさせる為かと思ったら、そこへ置くだけ。俺が少し抱き直すと、その動きに合わせて細い指もついてくる。耳はまだ、真っ赤だった。
「……こんな年寄りを抱いて、何が楽しい」
「あなたは俺にとっての幸せが、全部自分のことだと分かっていらっしゃらないんですね」
「……っ、そういう……!」
腕の中で、エルフリーデさんの肩がぷるぷると震える。
ここまで来ると、俺も少し黙っていたほうがいいのかもしれない。彼女が落ち着くまで、ただこうして──
ぐうっ。
「……」
「……」
俺の腹が鳴った。
何故だ。
そこはエルフリーデさんのお腹が鳴るところではないのか。照れた彼女が顔を伏せ、俺が優しく笑う。そういう流れになるはずだったのに、何をしているんだ俺の腹は。
「……くっ、ふふ」
エルフリーデさんは笑っていた。先程までとは違う震え方で肩を揺らし、片手を口元へ添えている。
「随分と正直な腹じゃな。主の口より、こちらのほうが信用できそうじゃ」
「あなたに夢中になっている間にも、腹は自分の仕事をしていたようです」
「口はまだそのようなことを言う余裕があるのか。ほれ、離せ。先に腹を満たしてこい」
そう言って、俺の腕を軽く叩く。こんなことが毎日あればいいのに、と思ったのは言わずにおいた。
仕方ない。恋も大事だが、食事も大事である。
それから、用意していた煮込みを温め直し、パンを切って少し遅い食事にした。エルフリーデさんは、食事まで馳走になるつもりではなかった、と一度は言ったものの、皿を出すと素直に受け取ってくれた。
「悪くない味じゃ。旅の間は自分で作ることもあったのか」
「ええ。誰かが作ってくれるとは限りませんからね」
「なるほど。口先ばかりではないらしい」
「あなたに召し上がっていただけるなら、もっと腕を磨きたくなります」
「……まず、自分の分を食べるがよい」
また小言をもらってしまった。ただ、差し出された皿にはおかわりを少しだけ、と言われたので俺としては大満足。
そこからは旅先の食べ物の話から集落で採れる香草の話へ。途中、俺の保存方法がよろしくないと指摘され、棚の中まで見てもらったりもした。
何だろうな。家の中にこの人がいて、そんな細かいことを教えてくれるのがやけに嬉しい。
そうして食器を片付け、一息ついた頃には窓から差し込む光も少し傾いていた。
帰ってほしくないなあ。そう思ったので、素直に聞いてみたのである。
今夜、このまま泊まっていきませんか、と。
そして、冒頭へ戻る。
「そうですか……それは、残念ですね」
「っ……! 別に、泊まりたくないわけではっ……!」
「それを聞けただけでも、今夜はいい夢が見られそうです」
「ぐっ……そうやって、都合のよいところばかりっ」
エルフリーデさんは窓際に立っていた。帰る前に外の様子を確かめようとしたのか、片手で窓枠に触れ、そこから俺へ顔を向けている。
「わしがここを訪れたことを、誰も知らぬとは限らぬ。そのうえ、明日の朝まで帰らなんだと知れれば……何を言われるか、分からぬじゃろうが」
「お茶と食事が美味しくて、つい長居をした、というのでは?」
「一晩かけて食べるほどの量は出ておらぬ」
もっともである。
「まったく……わしは、これでも長老なのじゃ。普段と違う場所におるだけでも、多少は目につく。お主の家で夜を過ごしたなどと知られれば、まして、若い男の家で……」
そこまで言って、彼女は俺を見た。俺がその若い男なのである。改めて考えると困るのか、折角薄れていた頬の赤みがまた戻ってきた。
「……とにかく、話がどう転がるかが分からぬ」
「なるほど……」
集落の長老といえばお偉いさんだ。本人が思っている以上に、人から見られていることもあるのだろう。
俺としてはエルフリーデさんと噂されるのも悪くないな、などと思ってしまうけれど。
「……少しくらい、噂されたい気もしますね。あなたの想い人だと思ってもらえるなら」
「つい先程、秘密にしておくと話したばかりではないか」
「そうでしたね」
「そうでしたね、ではない。わしより先に物忘れを始めるでないわ」
腰へ手を当て、小さく息を吐くエルフリーデさん。その仕草がまた様になっているので、俺は叱られながらも、綺麗だなと眺めていた。
「故に、今日はそろそろ帰る。暗くなってからでは、それはそれで目立つのでな」
「……分かりました」
残念だが、仕方あるまい。もちろん何とか引き止めたい気持ちはあった。それでも、帰る理由を一つずつ言わせた上でまだ泊まれとせがむのは違うだろう。
……が、このまま帰してしまうのはどうにも惜しい。
俺は窓際へ歩いていった。エルフリーデさんは近づいてくる俺を見て、少しだけ背筋を伸ばす。
「な、何じゃ。泊まらぬと言うたであろう」
「ええ。ですから、お帰りになる前に、もう少しだけ」
「わしは別に、調子に乗ってお主を困らせようと……」
言いかけた彼女の顔の横へ、手をついた。
どんっ。
思っていたより、音がした。
「っ……」
肩を跳ねさせるエルフリーデさん。
壁ドン。前世なら名前だけはよく聞いた行為だ。実際にやってみて分かったが、結構勇気が要る。
だけど、目の前の人がここまで近くにいてくれるならその甲斐は十分にあったと思えた。
そうして窓の隣の壁へ背を預けた彼女が、俺を見上げている。退路を塞ぐつもりはなかったが、驚かせてしまったことだけはその顔を見れば分かる。
空いた手の指を、そっと彼女の顎へ添えた。ほんの少し上向いた顔に、翠の瞳が見開かれる。唇が開き、閉じて、また開いた。
「お、お主……! 不遜な……!」
「すみません。今日はもう、あなたに見惚れるだけでは済みそうにないので」
彼女は何か言い返そうとして口を開いた。けれど、すぐには声にならない。俺の顔を見て、唇の辺りへ目を落とし、また慌てたように視線を戻した。その間に頬がみるみる赤くなっていく。
俺は少しだけ顔を近づけた。
「待て……! 待て、心の準備が……! 老人の心臓を、何だと思うて……」
そこで、止まる。顎に添えた指も離した。
「……はい。待ちます」
「そ、そのように……急に……」
「待ちますよ。あなたに待てと言われたら、そのくらいは」
「……こんな近くで待たれては、余計に落ち着かぬわっ」
それでも離れろとは言わなかったので、俺はその頬へ手を添えた。当たり前ではあるが、体温がある為に熱かった。指の腹へ与えられる吸い付くような感触は、一生触っていたいと思えるほどに心地よい。
「……お主は、こういう時ばかり、静かに……」
「見惚れていますので」
「だから、そのような……」
小言の残りは、近づいた吐息に紛れてしまった。
「……少し、だけじゃぞ」
俺は顔を傾け、彼女の唇へ、自分の唇を重ねた。
ちゅっ。
「んむっ……」
思っていたより、柔らかかった。軽く触れただけなのに、唇の真ん中がほんの少し沈み、温かさがこちらへ移ってくる。
あれほど気難しいことを言う人の、同じ唇なのだ。今はその口元が、俺を受け止めている。そんな風に近すぎる距離で、一瞬だけ目が合った。彼女は困ったように眉を寄せ、それからゆっくりと瞼を下ろす。半ば伏せられた目の下で、頬の赤みがいっそう濃くなった。
いつの間にか俺の胸元を摘んでいた指が、少し緩む。その代わり、身体の重みがわずかに俺の手へ預けられた。
離したくないな。正直、そう思った。
とはいえ、少しだけ、と言われている。俺はもう少し触れていたい気持ちを堪え、そっと口を離した。
するとエルフリーデさんの唇は薄く開いていた。小さな息が漏れ、何か言いたげに動く。それでも声にならず、彼女は俺を見上げたまましばらく動かなかった。
「……エルフリーデさん?」
呼びかけたところで、彼女の膝が折れた。へなへな、へなへな……と。壁へ背を預けたまま身体が下がりかけたので、俺は慌てて腰と背中を支える。
「大丈夫ですか?」
「…………」
返事の代わりに、両手が顔を覆った。隠しきれない耳の先は、やはり真っ赤なもので。
俺は近くの椅子を寄せ、彼女に腰を下ろしてもらった。膝へ手を置かせようとしたが、その手は頑なに顔から離れない。
「……最低じゃ」
「……え」
「最低じゃ……あまりに、分別が……この歳で、何をしておる……」
しまった。
やっぱり、いきなりすぎただろうか。
抱きしめることを許してもらったからといって、その日のうちにここまで進めてしまったのである。我慢の利かない男で申し訳ない。
俺が口を開こうとすると、指の隙間から、さらに小さな声がこぼれた。
「なぜ、わしは……このような若人と、口吸いなど……」
「……」
「もっと、若い者に……似合いの相手に、向けるべきものを……わしが……奪って……」
あ。
そっちなのか。
どうやらエルフリーデさんは、また自分を責めているらしかった。奪ったというなら、どちらかといえば俺の方だと思うのだが。
「俺があなたに触れたかったんです。できれば、そこは俺の願いが叶ったのだと思っていただけませんか」
「そういうことを申しておるのでは……」
「では、幸せになった男が一人いることだけ覚えておいていただければ」
「っ……もう、よい。少し、黙っておれ……」
顔を覆う指が、ますます深くなった。
彼女は小さく首を振り、長い息を吐く。そしてようやく片手を下ろした。もう片方の手は口元へ残ったままだけど。
「……わしは、止める側であろうに」
「……」
「それを……自分から、あのように……」
長老として若い者を見守ってきた時間は、きっと、俺が思うよりずっと長いのだろう。故に、この自責は一度や二度では無くならないと。自分が恋をして、その相手に触れたいと思うことをまだ上手く受け止められていないのだ。
俺の方は嬉しくて仕方がないんですけどね。
エルフリーデさんが、ちらりとこちらを見た。俺の顔の緩みを見つけたのだろう、たちまち眉が寄る。
「……何じゃ、その顔は」
「あなたが可愛らしくて」
「わしは、真面目に……!」
「はい。真面目にお悩みだと分かっているので、なおさら大切にしたくなります」
小言は途中で終わった。彼女は唇に添えた指を膝へ下ろし、深く俯いた。
♦
「……では、さらばじゃ」
玄関でそう言った頃にも、エルフリーデさんはまだ少し落ち着かなかった。
立ち上がる時にも、衣を整える時にも、一度動いては止まる。さっきから年甲斐もないだの、節操がないだのと小さく呟いていた。
「お送りしましょうか」
「……それで二人並んで歩いておるところを見られては、早く帰る意味がなかろう」
「確かに。では、せめてここでお見送りを」
「それでよい。……ついてくるでないぞ」
釘を刺されてしまった。
扉を開けてからも、彼女はすぐには外へ出なかった。敷居の前で髪を整え、耳飾りに触れ、最後に俺へ顔を向ける。
「……食事は、美味であった」
「ありがとうございます。また、お作りしても?」
「……機会があればな」
機会ならいくらでも作る。そう返したかったが、今日はそのくらいにしておいた。
「お気をつけて。次にお会いするまで、きっと今日のあなたを思い出してばかりいます」
「……お主は、本当に、最後まで……」
エルフリーデさんは顔を背けた。そのまま外へ一歩踏み出し、少しだけ足を止める。
「……他言無用じゃぞ」
「ええ。二人だけのことですから」
最後の最後で、また赤くなった。
エルフリーデさんは顔を背け、そのまま外へ出た。いつものゆったりした足取りより、少し頼りない。それでも道を進むにつれ、背筋は伸び、長老らしい歩調へ戻っていった。
曲がり角へ消える直前、耳へ手をやる仕草が見えた。髪で隠そうとしたのだろうか。俺はそこまで見送ってから、静かに扉を閉めた。
家の中が、急に広くなる。
物の配置は先程と何も変わっていないはずなのに、そこに彼女がいないだけで妙に落ち着かない。
……キスを、したんだな。
あのエルフリーデさんと。
いきなりすぎたかもしれない。もう少し、順序を踏めたかもしれない。
そう思っても、胸元を摘んでいた指の感触を思い出すと、どうしても顔が緩んでしまう。やはり俺は、我慢の利かない男らしかった。
そして、後日。
エルフリーデさんから、手紙が届いた。
封を開けると、やけに達筆な文字が行儀よく並んでいた。一文字ずつが美しく、行の間隔まできっちりしている。口を開くたびに言葉を詰まらせていた人が書いたとは思えないほど堂々とした筆跡である。
最初は、先日の食事への礼。続いて煮込みに使う香草の話や、朝夕の風が冷えるようになったという、何気ない近況が続いている。保存棚のことも、もう一度書かれていた。どうやら、あそこは余程気になったらしい。
俺は笑いながら読み進めた。
『それと、先日は少々取り乱した。見苦しいところを見せたことは詫びよう。ただし、お主にも、もう少し年寄りを労わる心を持ってもらいたい』
はい。
おっしゃる通りです。
心の中で頷いた、その次。
『もっとも、嫌であったという話ではない。そこをまた早合点するでないぞ。わしが何を恥じておったかは、何度も説明したはずじゃ。お主に触れられたことを、恥じておるのではない』
……おお。
わざわざ念を押してくださる。しかもその後が、随分と長かった。
『恥ずべきは、あの歳で、あのように喜んでしまったわしの方じゃ。自分で唇に触れてみては、お主はここへ触れたのかと、また同じことを考える。つくづく、分別のない話じゃ』
……そこまで、教えてくださるのか。
しかも、まだ終わらない。
便箋の下へ進むほど、一文字ずつが少し小さくなっていた。まだ書きたいことがあるのに、紙が足りなくなってきたのかもしれない。
『若いお主には、誰かに望まれることなどさして珍しくもないであろう。じゃが、長らく長老としか呼ばれなんだわしには、少々堪えた』
その次の行だけ、筆跡が少し濃かった。
『長老としてではなく、わしも一人の女であったことを思い出させてくれた。そのことには、感謝しておる』
続きには、次に顔を合わせた際、この一文をわざわざ口に出して確かめる必要はない、と念を押す言葉まで添えられていた。
声に出して言われたら、また顔を隠してしまうのだろうか。そんなことを考えながら、整った文字を指でなぞりかけ、墨を擦るのが惜しくてやめる。
あの人がこれを書いたのだ。俺のことを思い出しながら。
俺は手紙を顔へ寄せ、匂いを嗅いだ。
紙と墨の匂いしかしない。それでも微かに彼女の香りがする気がしてしまうのだから、もうどうしようもなかった。
流石にこの奇行だけは、本人に知られたくないな。
そう思いながら、俺はもう一度だけ確かめるように鼻を近づけた。
R18に関してですが、いずれ