エルフの集落のババア専 作:ジジイ
「無詠唱の方がカッコイイと思いませんか?」
卓の上に浮かべた水の球を眺めながら、俺はそう言った。指先で軽く示すだけで魔術が発動する。男として、こういうものに憧れるなというのが無理な話だ。
「気持ちは分からんでもないが、それは一人の時にしておけ。制御も不十分なまま格好をつけた挙げ句、他人の家を水浸しにされてはたまらぬ」
「では、いつか、あなたに安心して見ていただけるようになったら」
「まずはその歪みを直してから言え」
隣から伸びてきた指が水の球の下を示した。
丸く保っているつもりだったが、よく見れば下の方が少しだけ膨らんでいる。慌てて魔力を通す場所を変えると、今度は上の方が窪んだ。
「力で押さえ込むでない。貴様の魔術式の構築は悪くはない。じゃが、途中で別の処理を継ぎ足しておるせいで、そこだけ魔力の通りが鈍くなっておる。ほれ、この部分など」
今、何をしているかといえば、ヒルデガルトさんの家で魔術の指導を受けているのである。
これは、以前から割と頻繁にやっていることだった。
ヒルデガルトさんはかなり高位の魔術まで扱えるハイエルフだ。知識も膨大で、こちらが何か尋ねれば大抵はその場で答えが返ってくるレベル。しかも単に間違えた箇所だけでなく、どうして俺が間違えたのかまで見抜いてしまう。すごい。
まあ、最初からこんな風に親身に教えてもらえたわけではない。
もっと魔術を学びたい。
それはそれとして、あなたは今日もお美しい。
そんなことを懲りずに繰り返しながら通っていたら、ついには折れてくださったのだ。当初は、何なのだこいつは、と言いたげな目で見られたものである。学びたいのか、年寄りをからかいたいのか、どちらかにせい、と言われたこともあった。
俺としては当然の如くどちらも真剣そのもの。魔術を学ぶことも、ヒルデガルトさんを口説くことも。
「ここを繋ぎ直せば、後から無理に押さえる必要はなくなる。まず、元からある流れを見ろ。目についた不具合へ次々に手を出すものではない」
「……ああ。なるほど」
言われた通りに組み直せば、水の球は拍子抜けするほど素直に丸くなり、そのまま空中へ留まった。維持するために込めていた力も、さっきより少なくて済む。
「出来ました!」
「うむ。最初からそうすればよい」
「あなたの教え方が上手だからですよ。ずっとお隣で教わっていたくなります」
「覚えたことを自分で試す時間も要る。ずっと隣に座っておればよいというものではないぞ」
俺は水を受け皿へ戻し、それとなくヒルデガルトさんとの距離を詰める。結果として、互いの肩が触れ合う距離に。
「……近くないか?」
「駄目ですか?」
「肩が触れ合うほど寄る必要はなかろう」
「こちらの方が、色々とよく見えますので」
「わしの顔をずっと見られながら言われてもな」
隣にこんな美人がいると、意識がそちらへ向くこともあるわけで。俺が笑っていると、ヒルデガルトさんは小さく鼻を鳴らした。
「……まあ、構わぬ。じゃが、話を聞き逃すでないぞ。同じところを二度も三度も聞かれては、教える方も疲れる」
「はい。あなたのお声は一言も聞き逃したくありませんから」
「ならば、聞いた中身も叩き込め」
そう言って、説明の続きを始めるヒルデガルトさん。肩は触れたままだった。
為せば成る、である。
家へ上げてもらうだけで大変だった頃を思えば、本当に距離が縮まったものだ。今では、俺が来れば当たり前のように茶器が二つ出てくるし、以前の質問を覚えていて、関係する本を脇へ置いてくださっていることもある。それを指摘すると、いちいち探す手間を省いておるだけじゃ、と言われるのがまた可愛い感じ。
理由はどうあれ、俺のために用意してくれたものが嬉しくないはずがなかった。
そうしていくつかの術式を教わり、一息ついた頃。
ヒルデガルトさんは説明のために握っていた筆を卓の上に置いた。額へ落ちていた髪を、指先で軽くかき上げる。
「ところで」
「はい」
「エルフリーデの奴と、随分と懇ろにしておるようじゃな」
「えっ……」
俺は一瞬で固まった。
なんということだろう。秘密にしておくはずではなかったか。
あの日、家へ来るところを誰かに見られていたのだろうか。それとも、帰り際の様子が何かおかしかったのか。いや、玄関では普通に見送っただけだし──
「……何じゃ。その顔は」
ヒルデガルトさんが軽く目をしばたたかせた。俺の顔をしばらく眺め、ゆっくりと目を細める。
「ふむ。そうか」
「何が、でしょうか」
「いや。わしも、あれだけでは半信半疑であったのじゃがな」
「……あれ?」
どうやら、今の反応で何かが確定してしまったらしい。
ヒルデガルトさんは茶器を持ち上げ、少しだけ口をつけると、何でもないことのように言う。
「つい昨日のことじゃ。エルフリーデのやつがわしのところへ来ておってな。初めこそ、いつものように取り留めのない話をしておった」
「……はい」
「それが急に、妙なしみじみした顔をし始めたかと思えば──」
そこで一度言葉が切れ、ヒルデガルトさんの眉間に薄く皺が寄る。
「『長く生きておると、己の心など、とうに凪いだものと思うてしまうじゃろう。ところが、唇をほんのひととき重ねるだけで、それがまた、さざめくこともあるのじゃな』と」
「…………」
「『触れておったのは、わずかな間よ。じゃが、離れてからの方がかえって長く、その温もりを覚えておる。ああいうものは、年を経てからこそ身に染みるのかもしれぬ』とも言っておった」
……エルフリーデさん?
俺は何ともいえない気持ちで黙っていた。ヒルデガルトさんは、そんな俺を横目に見ながら続ける。
「しかも、『若い者にしてみれば、何ほどのこともなかろう。されど、受け取る側にとってはな……枯れ枝にも、まだ春を待つ心は残っておるものじゃ』などと、自分の口元へ触れながら言うてな」
「そう、ですか」
「その時のわしは茶葉の話をしておったのじゃぞ」
それは何というか……すみません。
俺が謝るのも違う気がするが、何だか申し訳なくなってきた。
「何かあったのかと聞けば、『誰の話とも言うておらぬ。ただ、そういうこともあるのであろうなと、思うただけじゃ』と。あの顔で、よくも言えたものじゃ」
呆れたように息を吐くヒルデガルトさん。
なるほど。どこから漏れたのかと思えば、まさかの本人。
自分から秘密にしておけと言っておきながら何してるんですかエルフリーデさん。
名前さえ出さなければよいと思ったのだろうか。あるいは、長い付き合いのヒルデガルトさんなら少しくらい話しても構わないと、気が緩んでしまったのだろうか。
ただ、その言い回しだとほとんど隠せていない。
というか、春を待つ枯れ枝って何だその言い回しは。あの手紙もそうだったけれど、一人で思い返していると色々とポエティックな言葉が浮かんでくるのだろうか。
「そんな話を聞かされれば、嫌でも察しがつく。あやつのような婆さんを捕まえて、そんなことをしようという物好きなど……」
ヒルデガルトさんの視線が俺へ向けられる。言葉の続きはなかった。必要もなかったのだろう。
「…………」
俺としても、何とも返しようがない。
ここで詳しく話してしまえば、いよいよ俺まで秘密を漏らすことになる。まあ、この沈黙もほとんど答えになっている気はするけども。
ヒルデガルトさんは俺を眺めたまま、指先で茶器の持ち手を撫でていた。
「……はぁ」
それは長い溜息だった。
「どうやらわしは、貴様に、遊ばれていたようじゃな」
「それは違いますよ」
俺は即答した。
あまりに答えるのが早かったからか、ヒルデガルトさんの目がこちらを向く。俺はその目を見返したまま、少しだけ身体の向きを変えた。
肩を抱く──のは、さすがに畏れ多い。今、そうやって勢いで近づくのは違う気もする。
だから、いつものように。卓の上に置かれていた、彼女の手へ触れた。
「ヒルデガルトさんは素敵なお方です。そんなあなたのお気持ちを弄んで、楽しむような真似をするつもりはありません」
「……ほう」
低い声が返ってくる。
そして、手は引かれなかった。けれど、さっきまでの教え子の不出来を指摘するような目とも少し違っているように見えて。
「わしのところでは、わしを褒める。エルフリーデのところでは、あやつを褒める。そうして、どちらにも同じような顔を見せておるのであろう」
「同じ言葉になってしまうことは、あるかもしれません。でも、あなたを見ている時は、あなたに心を奪われているんです」
「……よく回る口じゃ」
ヒルデガルトさんが鼻を鳴らす。
「年寄りで遊ぶのは、大概にせい。わしらが長く生きておるからとて、何を言われても、何をされても、平気でおれると思うでないぞ」
「……はい」
俺は握った手へ目を落とした。
そういうつもりは、本当にないのだ。
ただ、こちらにそのつもりがないからといって、相手にも伝わっているとは限らない。いつも落ち着いて受け止めてもらえるので、ついついその余裕へ甘えてしまうところは……あるのだろう。
俺はもう一度ヒルデガルトさんを見た。
「遊んでいるつもりはありません。心の底から、あなたが大好きです」
「……」
「こうして教えていただけるのも嬉しいですけど、魔術が上達すれば、それであなたに会いに来なくなるわけではありませんから」
「教わるものがなくなっても、通ってくるつもりか」
「ええ。今度は、あなたがお茶を飲む時間を俺に分けていただきに来ます」
「……年寄りの話し相手か」
「好きな女性に、会いに来るんです」
そこは訂正しておきたかった。
ヒルデガルトさんが黙る。俺はその手を握ったまま、言葉を続けた。
「あなたが何を考えているのか、何がお好きなのか、もっと知りたい。俺の知らない話を聞きたいですし、時々でいいので、笑ったお顔も見せていただきたいです」
「貴様は……」
「そういう相手なんです、俺にとって。あなたは」
少しの間、部屋の中が静かになる。窓の外で葉が擦れる音がして、ヒルデガルトさんは繋いだ手へ視線を下ろした。
その手を、俺の親指が軽く撫でる。ここでもやはり、拒まれることはなかった。
「……そうやって、言葉ばかり重ねおって」
「聞いていただけるなら、何度でも言いますよ。お望みなら、魔術の詠唱より真剣に」
「詠唱も……真剣にせい」
「もちろんです」
そこはすぐに訂正された。
だが、俺を見ている目はもう別の場所へ向こうとしない。ヒルデガルトさんは少しだけ眉を寄せ、思案するように俺の顔を見つめていた。
空いている方の手が動き、すぐ近くで開かれていた本も、静かに閉じられた。
「ならば──」
「はい」
握っていた手の中で、彼女の指が動く。
今度は彼女の方から俺の手を握り返し、解くことの許されない力強さで包み込んでくる。
そして、彼女は小さく息を吸い、凛とした声でこう告げたのだ。
「ならば……こちらにも、口づけくらいは……できよう?」
問いかける目は、逸らされなかった。
俺が返事をするより先に、ヒルデガルトさんの指がぎゅっと強く、俺の手を握っていた。